第12:和解
第12:和解
※ 獣の夢を見る。 闇の中でセシリーは獣に貪られていた。 闇の中でもそうと判る漆黒の毛に覆われた獣だ。 頭部の形状は狼に、体は人に似ている。 強いて言えば人狼に近い。 だが、その瞳を輝かせるのは欲望だ。 故に獣とセシリーは認識する。 獣はナイフのように鋭い爪の生えた手でセシリーの乳房を握り締める。 鋭い爪が無様に拉げた乳房に食い込み、血が流れる。 すると、獣は手を離し、音を立てて血を舐める。 当然と言うべきか、獣はそれで満足しない。 乳房に牙を突き立てる。 腹を引き裂いて内臓を蹂躙する。 貪られる。 貪られる。 ただ、貪られる。 そこまでしても獣は満足しない。 血を啜り、肉を喰らっても、獣は満たされないのだ。 獣と目が合う。 その瞬間、セシリーは悲鳴を上げた。 獣が何を求めているかを理解してしまったが故に。 悲鳴を上げてセシリーは血溜まりを這う。 だが、獣は逃すまいとセシリーの首筋に牙を突き立て、再び乳房を鷲掴みにする。 血溜まりに獣の顔が映し出される。 獣は兄だった。 獣はフェイだった。 獣はピスケ伯爵だった。 獣はガウルであり、クロノでもあった。 獣はセシリー自身だった。 目を背け続けた 事実 ( コンプレックス ) は今、獣となってセシリーを蹂躙する。 逃げられない。 獣はセシリー自身でもあるのだから。 そして、セシリーは目を覚ました。 夢でしたのね、とセシリーはベッドの上で安堵した。 寝間着が汗で肌に張り付いて気持ちが悪い。 ここがハマル子爵領であれば使用人に命じて湯浴みの準備をさせるのだが、今いるのはエラキス侯爵領だ。 エラキス侯爵領でのセシリーは前ハマル子爵の息女ではない。 名目上は行儀見習い、実際はメイドだ。 レディーズメイド、パーラーメイド、コックメイドに、ハウスメイド……メイドの役割は数あれど、新参者のセシリーはあちこちに呼び出されて雑務をこなす下っ端メイド、メイドオールワークスである。 下っ端メイドであるセシリーには朝の湯浴みなど望むべくもない贅沢である。 行儀見習いであると声高に叫んでも意味はない。 贅沢を望むのならば出世するしかないだろう。 上級メイドに出世して朝の湯浴みを許されるかは分からないが、少なくとも望みはある。 セシリーはベッドから下りて背伸びをした。「……ここまで露骨だといっそのこと清々しいですわね」 部屋は二人部屋だが、あの陰気な地下室ではない。 メイド研修が終了した後で部屋が変わったのだ。 カーテンの隙間からは陽光が差し込んでいる。 家具はベッド、机、イス、服を入れるためのチェストだ。 それらはシンプルな作りながら使い勝手が良い。 セシリーは寝間着を脱ぎ、ぶるりと体を震わせた。 支給された下着は肌触りが悪く、シンプル過ぎて見窄らしい。 セシリーは胸を見下ろし、左右から持ち上げてみる。 ティリア皇女には及ばないがそれなりに重量感があり、騎士として体を鍛えていたお陰で垂れてもいない。 男性から下卑た視線を向けられた経験から察するに自分の体は性的な欲求を刺激するだけの魅力がある、はずである。「……駄乳、ではありませんわよね?」 セシリーは胸を持ち上げたまま自問する。 ティリア皇女曰く、駄乳とは無駄に栄養を胸に蓄え、無駄にデカい胸のことらしい。 ミルクを出すだけ牛の方がマシだとも。 女の胸とは赤ん坊に母乳を与える神聖な器官である。 その機能を果たしていない現状では駄乳と評されても仕方がないかも知れない。 とすればティリア皇女の絶叫は何だったのか。 頑張った。 ティリア皇女は何を頑張ったのか。 母乳が出るように頑張ったのか。 それ以前にあの成り上がり者の息子はティリア皇女に何をして欲しいと頼んだのか。 あの成り上がり者の息子が母乳を飲ませて欲しいと頼み、そのためにティリア皇女は努力をしたが、ダメだった。 こう考えると、筋が通るような気がしないでもない。「……考えても仕方ありませんわね。私には関係のないことですし」 セシリーはエプロンドレスを着る。 支給された櫛で髪を梳き、ヘッドドレスを身につければ準備完了だ。 未だに起きない相方に目をやり、セシリーは深々と溜息を吐いた。「ヴェルナさん、朝ですわよ。早く起きないと、朝食に間に合いませんわよ?」「……もうちょい寝かせてくれよ」 肩を掴んで揺らすと、ヴェルナは鬱陶しそうに振り払う。 メイド研修中であれば叩き起こすのだが、今課せられるペナルティーは朝食を抜かれるくらいのものだ。「じゃあ、私は先に行きますわ」 考えた末、セシリーはヴェルナの意思を尊重することにした。 自分達の部屋を出て、使用人用の食堂に向かう。 途中で壁にガッツンガッツン頭をぶつける経理担当を追い抜く。 美味しそうな匂いですわね、とセシリーが鼻をひくつかせたその時、バタバタと後ろから誰かが走ってきた。「どーして、起こしてくれないんだよ!」「きちんと起こしましたわ」 セシリーは歩調を緩め、ヴェルナと肩を並べて歩く。「起きるまで起こすのが礼儀だろ?」「私はヴェルナさんの意思を尊重しただけですわ」 あ゛~、とヴェルナは髪を掻き毟った。「ヴェルナさん、服装が乱れてますわよ」「仕方ねーじゃん、起きたばっかりなんだから」 セシリーは立ち止まり、ヴェルナの服装の乱れを正した。「服装の乱れは心の乱れですわ。大体、寝坊すること自体がメイドとしての自覚が足りない証拠でなくて?」「……」「何ですの、その目は?」 ヴェルナに呆れたような視線を向けられ、セシリーは尋ねた。「……メイドに染まりきってね?」「何を言うかと思えば」 ハッ、とセシリーはヴェルナを嘲笑した。「私はメイドですわ。貴族、貴族と喚いてみても、メイドとして扱われることには変わりませんもの。犬を猫と言い張っても、にゃ~と犬は鳴きませんのよ?」「言葉の意味はよく分からねーが、とにかくメイドとして生きる決心をしたんだな」「どう足掻いてもメイドとして扱われるのならばメイドとして存在価値を示すしかないじゃありませんの」 逃げるという選択肢を失ってしまったんですもの、とセシリーは嘆息した。 あの男の言葉は呪いだ。 言葉にされれば意識するしかない。※ 使用人用の食堂に入り、セシリーとヴェルナは配膳台でパンとスープ、焼き魚を受け取る。 セシリーとヴェルナが座る席は長テーブルの端だ。 セシリーは溜息を吐き、スプーンでシチューを掻き混ぜる。「食欲がないんだったらくれよ」「ヴェルナさん、みっともないですわよ」 音を立ててヴェルナはスープを啜り、パンを口に頬張る。 その豪快な食べっぷりにセシリーはげんなりする。「よくも、まあ、それだけ朝から食べられますわね」「食べねーと、力が出ねーじゃん」「太りますわよ?」 セシリーはパンを小さく千切って口に運ぶ。「まな板と呼ばれたことを気にしてますの?」「 違 ( ちげ ) ーよ!」 図星だったのか、ヴェルナは身を乗り出して叫んだ。「……でも、少しは期待してる」「大きくした所で見せる相手もいないでしょうに」 セシリーが指摘すると、ヴェルナは歯を剥き出して笑った。「まさか、あの男のお手付きに」「なってねーよ。けど、可能性はあるんじゃね?」「根拠のない自信を抱いていると、後が辛いですわよ?」「根拠はあるぜ。うん、あたしはクロノ様に何度も話し掛けて貰ってるし、飴玉とか貰ってるぜ」 自慢げに言うヴェルナの姿にセシリーは溜息を吐いた。「飴玉ごときで安い女ですわね」「安くねーよ」「良いこと、ヴェルナさん?」 セシリーは優雅に足を組み、スプーンの先をヴェルナに向ける。「男というものは女が差し出したものを感謝もせずに貪ってしまう生き物ですのよ。しかも、次も同じだけ差し出してくれると考える救いがたい一面を持ってますの。与える分量をコントロールしなければ骨までしゃぶられますわよ」「お前、男と付き合ったことあるの?」「ありませんわ」 セシリーが言い切ると、ヴェルナは呆れたような表情を浮かべた。「すげーな」「当然ですわ」 セシリーは胸を張った。 メイドに身を窶しているとは言え、セシリーは歴とした貴族なのだ。 男女の駆け引きくらい心得ている。「いや、誉めてねーよ。男と付き合ったこともないのにそんだけ悪し様に罵れるもんだって呆れてんだよ」「飴玉一つで籠絡される女に言われたくありませんわ」「あ゛?」「受けて立ちますわよ?」 ヴェルナが身を乗り出したので、セシリーは腕まくりして応えた。「は~い、喧嘩は止めなよ」 パンパンと隣に座っていたエルフが手を叩いた。 年齢は二十歳前後だろうか。 金色の髪を肩の辺りで切り揃えている。 目鼻立ちは整っているが、美人と言うよりも愛嬌がある感じだ。 左目を黒い眼帯で覆っているので、セシリーは彼女をアイパッチと呼ぶことにした。「アンタもあたしがクロノ様に好かれてると思うよな?」「気持ちは分かるけど、クロノ様って基本的に誰にでも優しいから。飴玉だって、材料の砂糖なんて山ほどあるし」 アイパッチは腕を組み、難しそうに眉根を寄せた。「砂糖が山ほど? どういうことですの?」「ハシェルの近くで栽培したビートから砂糖が取れるとか何とか……あ、続けて栽培すると、問題があるみたいで、売るのを辞めたとか何とか」 アイパッチは詳細を知らないようだが、セシリーにしてみれば驚愕の事実だ。 砂糖はサトウキビという植物の汁から精製される。 帝国にはサトウキビの栽培に適した土地がないため輸入に頼っているのだが、サトウキビ以外から砂糖を精製できるのならば話は変わってくる。 いや、栽培方法を独占すれば巨万の富を得られる。「ま、何を言いたいかと言えば勘違いするなってこと」「そっか~。けど、あれだけ普段から優しいんなら良い職場だよな」「そういうこと」 あの男が優しい? とセシリーは横目でヴェルナとアイパッチを見た。「何か言いたいことでもあるのかよ?」「あの男が優しいなんて正気ですの?」 セシリーが問い返すと、ヴェルナはムッとしたように口を結んだ。「質問を質問で返すなよ。ああ、そう言えばセシリーってクロノ様に話し掛けられてねーよな」「話し掛けられるどころか、下らないものでも見るような視線を向けられてますわ」 道端に転がる石を見ている時の方がまだしも感情的だろう。「お前、何したの?」「何もしていませんわ」「ホントかよ」 ヴェルナは胡散臭そうにセシリーを見た。「この前もクロノ様を殴ってたし」「あれは! あの男が破廉恥な言葉を耳元で囁いたからですわ!」 セシリーは吐き捨てた。 あの男が自分に対してどんな欲求を抱いているか。 思い出しただけでもおぞましい。「クロノ様を殴ったのって、ティリア皇女くらいじゃない」「へ~、仲が良さそうに見えるけど」「仲は……まあ、良いんじゃない? ティリア皇女ってクロノ様と寝るのを楽しみにしてる感じだし」 セシリーは溜息を吐いた。仮にも一国の皇女があんな成り上がり者の息子に喜んで股を開くなど信じたくない。「スゲーな。つーことはクロノ様って上手いのか?」「すごく強いって話」 盛り上がるヴェルナとアイパッチを無視してセシリーは食事を続けた。※ 真面目で、お人好し、誰に対しても優しく、かなりの性豪というのがクロノに対する使用人達の評価だ。 だが、セシリーから見れば違う。 真面目で、お人好し、優しいかも知れないが、それだけではない。 ふと思い出すのは神聖アルゴ帝国の丘陵地帯に転がっていた敵兵の死体だ。 目を背けたくなるほど激しく損傷した敵兵の死体を見れば、あの男が何をしたか明白だ。 あれは悪魔の所行だ。 その悪魔の執務室をセシリーはヴェルナと協力して掃除している。 分担はセシリーは床の掃き掃除、ヴェルナは家具や調度品の拭き掃除だ。「何か文句でもありますの?」「……いや、別に」 セシリーが振り返って言うと、あの男……クロノは不愉快そうに顔を顰めて答えた。「執務室を掃除して貰えてありがたいね」 ありがたい、と欠片も感じていないような口調だった。 クロノの態度にセシリーは苛々する。「お~い、サボってないで手を動かせよ。この後、浴室の掃除をしなきゃならねーんだぞ」 チッと舌打ちをしてセシリーは掃き掃除を再開した。 肩越しに後ろを見ると、クロノは優しそうな表情でヴェルナを見ていた。 それもセシリーが見ていると気づくまでだ。 セシリーが見ているのに気づくと、クロノは明らかに不愉快そうにするのだ。 それだけではない。 ヴェルナに声を掛ける時、クロノの声は優しい。 セシリーの時は低く、突き放したような物言いなのに。 せめて、仕事に慣れてきたことを認めても良いんじゃありませんの? とセシリーはクロノに背を向けたまま歯軋りする。 セシリーは自分が長足の進歩を遂げたと自負している。 効率的に仕事をできるようになったし、一人で洗濯もできるようになった。 メイド長のアリッサも誉めてくれるし、コックメイドの女将も感心したように息を漏らすほどだ。 それなのにクロノだけが認めない。 嫌われている自覚はある。 出会った時から互いの印象は最悪だったはずだ。 そもそも価値観が違うのだ。 クロノは名誉を嘲り、戦場の理を踏み躙り、死者を冒涜する。 何度、死んで欲しいと思ったか分からない。 セシリーの願いも虚しく、クロノは生還を果たしている。 一度目は神聖アルゴ王国で、二度目は南辺境で。「……どうして」 小さく呟く。 二度もクロノは絶望的な死地から生還を果たした。 いや、クロノが侯爵となる切っ掛けとなった神聖アルゴ王国の侵攻でも絶望的な戦力差を覆して防ぎきったと聞く。 三度の絶望を乗り越え、気が付けば南辺境の新貴族……成り上がり者の息子はセシリーをメイドとして扱き使う立場にいる。「こっちは終わったけど、そっちはどうだ?」 ヴェルナの言葉によってセシリーは現実に引き戻された。「ええ、こちらはあらかた終わってますわ」「だったら、良いんだけどよ。じゃ、あたしらは次の所に行くから」「頑張ってね」 クロノに声を掛けられ、ヴェルナは照れ臭そうに頬を掻いた。 廊下に出ると、ヴェルナは何か言いたそうな目でセシリーを見た。 視線を無視してセシリーは次の仕事場……風呂に向かう。「お~い、あれはねーんじゃね?」「……仕方ないじゃありませんの」「嫌がらせとかされてる訳じゃーないんだからさ。大人だろ? 少しは堪えろよ」 ぐぬ、とセシリーは言葉に詰まった。「ヴェルナさんだって、私に喧嘩を売るでしょう?」「今のセシリーとあたしは同格だろ? そうじゃなくて、クロノ様とセシリーは立場が違うってことだよ」「理屈では分かってますわ」 ヴェルナは呆れたように溜息を吐いた。「理屈で分かっても、行動に移せないんじゃ意味ねーじゃん」「それも分かってますわ」 分かっているのだ。 自分の立場も、いきなり友好的な関係じゃないことも、感情を切り離し、メイドとして働くべきだとも分かっている。 けれど、感情的に納得できないのだ。※ 風呂の掃除を無難にこなし、厨房の掃除をこれまた無難にこなし、事務室から出た書き損じた書類を侯爵邸の庭にある紙工房に移す。 理由は定かではないのだが、書き損じた書類はセシリーとヴェルナが回収した時点で紙片となっている。 セシリーとヴェルナは大量の紙片をズタ袋に詰め、紙工房に設けられた専用の容器に沈める。 沈めるという表現を使ったのは容器の内部が水で満たされているからだ。 早く沈めるために棒で攪拌することも忘れてはならない。 その後、紙片はインク抜きの処置を行われた後、紙工房で再生される。 再生された紙は品質が劣化しているので、事務でちょっとしたことを書き留めるのに使われたり、士官教育を施されているというクロノの部下に支給されたりするのである。「……残り半分だな」「その半分は地獄の水運びですけれど」 使用人用の食堂……端の席に座り、セシリーは深々と溜息を吐いた。 水運びは最も人気のない仕事だ。 井戸から二階と三階の浴室に桶で水を運び続けるのだ。 ただでさえキツい仕事なのに二カ所も水を運ばなければならないのだからうんざりする。 自分達で水を運んでもセシリーとヴェルナが湯浴みをできるのは最後の方だ。 遅番の担当者は仕事を終えるとすぐに湯浴みをできるらしいので、少しだけ遅番のシフトが待ち遠しい。 まあ、遅番のシフトでも地獄の水運びを担当するのはセシリーとヴェルナになりそうなので、手放しでは喜べないのだが。「……ここって扱い良いよな~」「貴方、どんな生活してましたの?」「そこら辺の店の手伝いをしたり、ゴミを拾って売ったり、財布をスッたり?」「貴方が犯罪者ということはよく分かりましたわ」 そーかよ、とヴェルナはふて腐れたようにそっぽを向いた。「もうちょい慣れたら、文字を覚えてーな」「それは殊勝な心掛けですわね。文学は心を豊かにしてくれますわ」「単に損したくないだけで、文学なんて興味ねーよ」 ヴェルナは何度も煮え湯を飲まされてきたのだろう。 クロノに対する妙な義理堅さは過去の出来事が影響しているのかも知れない。 ちょっとくらい協力してやっても良いような気がした。「残念だけど、ワイズマン先生の授業は予約が埋まってるよ」 横から声を掛けたのはアイパッチだ。「マジかよ?」「超マジ」 ヴェルナが尋ねると、アイパッチは軽い口調で答えた。「今は古参兵、次は新兵……ヴェルナの番はその次って感じだね」「まあ、 無料 ( ただ ) だもんな~。仕方ねーよな」 ヴェルナは頭の後ろで腕を組み、自分に言い聞かせるように呟いた。「ヴェルナさん、文字を教えてあげても宜しくてよ?」「そう言えばセシリーって貴族だったよな」「今も貴族ですわ!」 う~ん、とヴェルナは考え込むように唸った。「……止めとく。気持ちは嬉しいけど」「何故ですの?」「セシリーって教えるの下手そうじゃん。それに抜け駆けするのも性に合わねーしさ」 どちらが本心か迷う所だが、ヴェルナは周囲との摩擦を避けようとしている、とセシリーは思うことにした。「あたしらは抜け駆けとか気にしないけど?」「気にはするだろ? 新参者なんだから、最初の内は歩調を合わさないと」 図太そうに見えるが、ヴェルナはヴェルナなりに色々と考えているらしい。「ホントに気にしないんだけど、それもありかもね。あたしも同じ立場なら少しは空気を読むだろうし」「きちんと給料を貰えるのが良いよな」「そうだね。ケガした時はどうなるかと思ったけど」 ヴェルナが腕を組んで満足そうに頷くと、アイパッチは少しだけ低い声音で呟いた。「そう言えば、あんたらって元兵士なんだよな」「まーね。あたしは弓兵だったけど、失明して距離感が掴めなくなって退役」 アイパッチは眼帯を撫でる。「ひどい戦いだったよ。ひどくない戦いなんてないんだろうけど、とにかくひどい戦いだった」 感情を抑えようとした結果なのか、アイパッチの口調は不自然なほど穏やかだった。「何とか生き延びて、治療も受けたけど……余裕が出てくると、身の振り方とか考えなきゃならなくてね。あの時間が一番キツかったかな」 アイパッチは頬杖を突き、物憂げな表情を浮かべた。「パッと見、ケガしてるヤツらは多くないみたいだけど?」「そりゃあ、 外見上 ( みてくれ ) は、ね。実際は一年以上経つのに傷が治りきってなかったり、未だに悪夢に魘されたりするからね。今もこうなんだから、あの時の絶望感はなかったよ。ああ、もうダメなんだな、って自覚できちゃうくらい体の機能とか、 心 ( なかみ ) はガタガタで……だから、メイドとして雇ってくれるって聞いた時は安心したな~」「そもそも、あの男がケガの原因を作ったのではなくて?」 アイパッチの顔から表情が消えるが、それも一瞬の出来事だ。「クロノ様の命令に従った結果ってのは否定しないけど、それとこれとは別の問題だと考えるようにしてる」「ちょっとだけ安心するな、それ」 ん? と不思議そうにアイパッチは首を傾げた。「どうして、貴方が安心しますの?」「あたしはクロノ様のメイドだからな」「答えになってませんわ」 セシリーは納得できず、唇を尖らせた。※ 夕刻、セシリーは井筒に腰を下ろし、視線を傾けた。 そこにはぐったりとした様子のヴェルナがいる。「ヴェルナさん、もう少し体力を付けた方が宜しいんじゃなくて?」「軍にいたヤツと比べるなよ」 確かに私や元兵士と比べては気の毒ですわね。ここはメイド長に相談するのが筋なんでしょうけれど……、とセシリーは腕を組んだ。 ヴェルナの体力を考えれば水運び以外の仕事を割り当てて貰うのが最善だ。 だが、ヴェルナの性格を考えると、最善の選択とは言えない。「……ヴェルナさんの分まで私が頑張るしかありませんわね」「頼んでねーよ」 セシリーが溜息混じりに呟くと、ヴェルナは吐き捨てるように言った。「私が勝手にやることですもの。気に病む必要はありませんわ」「 悪 ( わり ) ぃ」 セシリーは目を閉じ、小さく頷いた。 カン、カンという音が聞こえたのはそんな時だった。 工房のドワーフが鎚を打つ音ではない。 剣を打ち合わせる音に似ている。 しばらくして木剣を打ち合わせる音だと気づいた。「おい、何処に行くんだよ」「……」 セシリーは剣戟の音を頼りにその場所を目指した。 とは言え、侯爵邸の敷地は限られている。 迷うことなく、セシリーはその場に辿り着き、クロノとフェイが木剣を打ち合わせる場面に遭遇した。 その光景にセシリーは絶望する。 フェイは美しかった。 木剣の切っ先を華麗なステップで躱す姿も、力任せの一撃をいなす姿さえ美しい。 セシリーはフェイの実力を知っている。 いや、知っていると錯覚していた。 あれが剣の極みなのだと思い知らされたつもりだった。 だが、あの頃よりもフェイの体捌きは流麗さを増し、木剣が描く軌跡はより鋭くなっていた。 フェイに比べればクロノの剣術など児戯にも劣る。 その証拠にクロノの剣はフェイに触れることさえ出来ない。 クロノはフェイが散発的に繰り出す攻撃を転げるように躱し、即座に立ち上がって追撃を逃れる。 実力差は明らかだ。 それでも、フェイはクロノを真剣に見つめている。 自分よりも遙かに劣る者を対等以上の存在として認め、その一挙手一投足に注意を払っている。 その理由はすぐに分かった。 クロノが隠し持っていた木剣を投げたのだ。 フェイは予測していたように木剣を打ち落とし、クロノの体当たりじみた突きを躱す。 渾身の一撃を躱され、クロノはフェイに対して無防備な姿を晒した。 これで詰みだ。 少なくともセシリーはそう判断した。 だが、クロノとフェイにはその先があった。 漆黒の輝きが蛮族の戦化粧のようにクロノの体を彩る。 それは『刻印術』……アレオス山地の蛮族に伝わる秘術だ。 クロノが渾身の一撃を放ち終えた状態から肘打ちを繰り出す。 有り得ない一撃だ。 普通ならば肘打ちを叩き込まれていただろう。 しかし、フェイは違った。 木剣の腹でクロノの肘打ちを受け止めたのだ。 クロノとフェイは弾けるように離れる。 やはりと言うべきか、フェイの方が体勢を立て直すのが早い。 フェイは神威術『神衣』を纏い、間合いを詰めるべく地面を蹴る。 ガクンとフェイの体が沈み込む。 足首に絡み付いた影がフェイの動きを封じたのだ。 フェイが踏み出すと、影はあっさりと千切れた。 あっさりと影が千切れたことでフェイは体勢を崩す。 爆発的な加速を封じた影が容易く千切れるなど有り得ないという思い込みを突いた策だ。 策としてはせこく、あまりにも情けない。 だが、その策が瞬き二回分ほどの時間を稼いだのも事実だ。 漆黒の輝きが空間を切り裂く。 クロノは『刻印術』の力を借りて目にも止まらぬスピードでフェイとの距離を詰める。 次の瞬間、クロノは宙を舞っていた。 足下に飛び込んだフェイに躓いたのだ。 空中で数えるのも馬鹿らしくなるくらい回転したクロノは地面に叩きつけられ、動かなくなった。 漆黒の輝きが不規則に明滅し、完全に消え去る。 あんまりな決着だった。 無様と評しても良いだろう。「……降参するでありますか?」「今日は勝てると思ったんだけど」 クロノは億劫そうに体を起こし、その場に座り込んだ。「経験の差であります」「『我が全身全霊敗れたりであります』だっけ?」「クロノ様は意地悪であります」 フェイは恥ずかしそうに頬を朱に染めた。 クロノは立ち上がり、侯爵邸に向かって歩き出す。 セシリーの前で足を止め、クロノは気怠そうに首筋に手を当てる。「楽しかった?」「ええ、心躍る見せ物でしたわ」「もう少し楽しんで貰えるように次も頑張るよ」 それで会話は終わった。 セシリーはクロノを視線のみで追い掛ける。 すぐに追い掛けるのを止めたが、遠ざかる気配、扉が閉まる音を強烈に意識する。「どうして、喧嘩を売ってんだよ?」「喧嘩なんて売っていませんわ」 何故か、胸がムカムカした。 何故か、苛々する。 目の前で繰り広げられた光景はクロノが小細工を弄しながら敗北したというそれだけのはずなのに。「もう少し手心を……ヒィィ!」「それが喧嘩を売ってるってんだよ」 フェイに声を掛けようとすると、ヴェルナがセシリーの脇腹を摘んだ。 と言うか、鷲掴みした。「な、何をなさいますの?」「見たまんまだよ」 コホンとセシリーは気持ちを切り替えるために咳払いをする。 ポカンとした表情をフェイが浮かべていたことは意識の外に追い出す。「あれでは稽古にならないのではなくて?」「クロノ様との稽古は勉強になるであります」 きっぱりとフェイはセシリーの言葉を否定する。 もちろん、セシリーにだってフェイが真剣に稽古を付けていたのは分かっている。 そうでなければあれほど注意を払わないだろう。「あの勝利への貪欲さは学ぶべき所であります」「ただの小細工ですわ」「エラキス侯爵領に来る前の私と今のクロノ様が戦っていれば結果は逆だったかも知れないでありますね」 剣は、とフェイは腰から提げた剣を撫でる。「絶対的な力じゃないであります。神威術の力を上乗せしても、地の利、策、経験、簡単な小細工で無力化されてしまう程度のものであります。だから、いつかクロノ様の努力は実を結ぶかも知れないでありますね」 セシリーは言葉を失う。 絶望的な隔たりがあると感じていたそれが自分で思うほどに大きな差ではなかったと知ってしまったが故に。 セシリーは胸のムカつきと苛立ちの正体にようやく気づく。 フェイはセシリーを見ていない。 フェイがセシリーを見るのは自分の知り合いに危害が及びそうになった時か、自分の知り合いを侮蔑された時だけだ。 クロノはセシリーと同じ凡人でありながら、フェイに対等以上の存在として認識されていた。 今にしてセシリーは思う。 今まで自分が諦め、不要と切り捨て、背を向けたものにはどれほどの可能性が宿っていたのかと。※ セシリーはベッドの上で溜息を吐いた。 一日の仕事を終え、食事も取った。 湯浴みもしたし、あとは寝るばかりという状況だ。 溜息を吐く。 セシリーの胸中を締めるのは逃げ出したことへの後悔であり、今まで捨ててきたもの……剣や立場、所属していた大隊への未練だった。 セシリーはクロノを見ていている内に未練を抱いた。 凡人であるクロノが天才であるフェイに対等以上の存在として認識されるようになった。 自分だって諦めなければ天才の領域に到達できたのではないかと。 ……未練ですわね、とセシリーは溜息を吐いた。 時は戻らない。 セシリーが軍に復帰することを望んでも兄は許さないはずだ。 兄は極めて穏和な性格だが、領地とセシリーのどちらを優先させるかと言えば領地を優先させるだろう。 もう一度、セシリーは溜息を吐いた。 聞いてみたいと思ったのだ。 クロノが何を大切に想い、何のために諦観を乗り越えたのか。 だが、尋ねようにも自分はクロノに嫌われているのだ。 今更、どんな顔をして会いに行けば良いのか分からないのだ。「溜息ばかり吐いて、どうしたんだよ?」「……少し考え事をしてましたの」 はぁ~、とセシリーは俯せになって何度目になるか分からない溜息を吐いた。「さてはクロノ様のことだな?」「そんなに勝ち誇った顔をなさらなくても分かるでしょうに」「今までクロノ様に反抗的な態度を取っていたのは好意の裏返しと見た」「ヴェルナさんの目は節穴ですわね」「……そんな目で見るなよ」 どんな目で見ているのか、セシリーには確かめようもないのだが、とても辛そうにヴェルナは呟いた。「溜息なんて吐いてないで謝りに行きゃ良いじゃん」「そんな簡単に済むなら、悩んでいませんわ」「セシリーが難しくしてるんだろ。つか、あたしは何もしてないのにセシリーのせいで酷い目に遭ってるんだから、さっさと謝って来いよ~。もうギスギスした雰囲気で仕事をしたくねーし」 ヴェルナは右、左、右とベッドの上で転がりながら言った。 まあ、確かにヴェルナさんには私達のことで迷惑を掛けていますわね、とセシリーは少しだけ反省する。「分かりましたわ。これ以上、ヴェルナさんに迷惑を掛けられませんものね。仕方がありませんわ。嫌ですけれど、あの男に謝って来ますわ」「そこまで謝って欲しい訳じゃねーんだけど?」 ヴェルナが何かを言っているようだったが、セシリーは無視してベッドから立ち上がった。 明日着るために用意していたエプロンドレスに腕を通し、乱れた髪を手櫛で撫でつける。「……ヴェルナさん、一緒に来て下さらない?」「うぇ~、一人で謝って来いよ~」 ヴェルナはこれ以上ないくらい嫌そうに言った。「ヴェルナさんが謝って来いと言ったんじゃありませんの!」「原因を作ったの、セシリーじゃん!」「別に私は謝りたくありませんわ。ヴェルナさんが仰るから、仕方がなく……そう仕方がなく謝りに行くだけですわ」「うぜぇ」 と言いつつ、ヴェルナは面倒臭そうにベッドから下りた。 チラリと明日着るためのエプロンドレスに視線を向けるが、ヴェルナは寝間着姿でも構わないと判断したらしく欠伸を噛み殺しつつ扉に向かう。「ほら、さっさと謝りに行こうぜ」「そこまでヴェルナさんが仰るなら仕方がありませんわね」「……超うぜぇ」 ヴェルナに先導され、セシリーはクロノの部屋に向かう。 廊下の空気は鳥肌が立つほど冷たい。「ど忘れしてたことがあるんだけどさ」「何ですの?」 セシリーは首を傾げながら尋ねた。 詫びの品ならば必要ないだろうし、明日の準備はきちんと整えている。「夜伽の最中だったら、どうするよ?」「終わるまで待つべきではなくて?」「廊下で?」「廊下で待つべきだと思いますけれど?」 ヴェルナは微妙な表情を浮かべた。「いや、あたしも興味がない訳じゃないんだけど、マズくねーかな?」「これ以上、不興を買うのは避けたい所ですわね」「まあ、そーなんだけど……こんな夜遅くに男の部屋を訪ねることに危機感を覚えるんだよな」 やはり、ヴェルナは乗り気じゃなさそうである。 セシリーも夜更けに男の部屋を訪れるべきではないと思うが、善は急げと言うではないか。「……誰でありますか?」 階段の踊り場で声を掛けられ、セシリーとヴェルナは足を止めた。 視線を上げると、寝間着姿のフェイが立っていた。 寝間着姿なのに腰から剣を提げている所がフェイらしいと言えばフェイらしい。「二人とも何のようでありますか?」「いや、ちょっと……」「クロノ様に会いに来ただけですわ」 ヴェルナが口籠もったので、セシリーは一歩踏み出して答えた。「貴方こそ、何の用ですの?」「何の用って、アレしかないじゃん」 フェイは気まずそうにセシリーとヴェルナから視線を逸らし、蚊の鳴くような声で何事かを口にした。「聞こえませんわ」「だから……ぎでありますよ」 フェイは腕を組んで俯いた。 まるで顔を合わせないようにしているかのようだった。「もう少し大きい声で言って下さらない?」「……夜伽、であります」 沈黙が舞い降りる。 その沈黙に耐えきれなかったのか、フェイは今にも崩れ落ちそうな感じで体を傾けていた。「……終わるまで待った方が宜しいかしら?」「ま、待たなくて良いであります! 早く用事を済ませて、用事が済んだら、出来るだけ早くクロノ様の部屋から離れて欲しいであります!」 フェイは捲し立てるように言って、セシリーとヴェルナに道を譲った。 壁を向いて目を合わせないようにしている。 セシリーはヴェルナを従えてクロノの部屋を目指す。 クロノの部屋の前で立ち止まり、大きく深呼吸を繰り返した。「ヴェルナさん、ノックは何回が適当だと思います?」「もう何回でもノックしろよ」 三度、セシリーは扉を叩いた。 返事がなかったので、了承していると解釈して扉を開けると、マジック・アイテムの白い光が目を刺激した。 クロノは机に向かって何かをしていた。 クロノは手を休め、ゆっくりとセシリーとヴェルナに向き直る。 クロノは驚いたように目を見開き、すぐにいつもの下らない物を見るような目になる。「……何の用?」 セシリーは後悔した。 こんな視線を向けられるくらいなら話してみたいとか、ヴェルナのために謝ろうと考えるんじゃなかった。 おい、謝るんだろ? とヴェルナが肘でセシリーの背中を突く。 クロノは不機嫌そうに頬杖を突いている。「……貴方は」 セシリーは声を絞り出した。 足が震えた。 また、何かを見透かされるのではないかという恐怖が湧き上がる。 怖がりすぎだ、と頭を振る。 この男は自身の経験と洞察力でセシリーが劣等感を抱えていると看破したのだ。 そこまで人間離れしているはずがない。「どうして、剣を握ることができますの? どれほど努力しても高みに届かないと理解しているのでしょう? 策を巡らせて、小細工を弄して、それでも、天才が努力をすれば何の意味もないじゃありませんの」 セシリーは言い終えてから、気づいた。 諦めなければ自分でも天才の領域に到達できたかも知れない。 そんなことをセシリーは信じていないのだ。 ただの願望だ。 祈りのようなものだ。 クロノは静かに右目を撫でる。 何かを考えているようにも見えるし、タイミングを見計らっているようにも見える。「……分かってるんだよ、どんなに努力を重ねたって天才に届かないなんてことは。無駄な努力をしてると思うこともある。けれど、何もしないで後悔するよりは良い」 クロノは溜息を吐くように言った。「何のために剣を握りますの?」「部下の、僕が好きだと感じている人のために。それと僕自身のため。自分から最低のクズにはなりたくない」 今度こそ、セシリーは打ちのめされた。 クロノは価値があると信じるもののために努力を続けている。 逃げ出せば最低のクズになってしまうから、彼は踏み留まるのだ。 セシリーは低く評価される前に、劣等感と向き合うことを恐れて逃げ出した。 最後に貴族であることに縋った。 けれど、逃げて、逃げて、逃げて、最後に縋り付いたものをどうして誇れるだろう。 一人でも多くの部下を生還させるためにありとあらゆる努力を惜しまない。 そんな想いを彼が抱いているのならば、あの時の彼の台詞は正しかったのだ。「貴方は……卑しい傭兵の息子ではありませんわ」 うん? と怪訝そうにクロノは片眉を跳ね上げる。 無理もない反応だ。 こんな心変わりが起きるなんてセシリーだって信じられない。「貴方は誇り高い貴族ですわ。どうか、今までの無礼をお許し下さい」「気にしてないよ」 今度はセシリーが片眉を跳ね上げる番だった。 気にしていない人間があれほど執拗な嫌がらせをしますの? と小一時間ほど問い詰めてやりたい気分だったが、自分も悪かったのだ。 これで安眠できそうですわ、とセシリーは足取りも軽やかにクロノの部屋を後にした。※ クロノは邪悪な笑みを浮かべてセシリーを見下ろしていた。 セシリーは床に座り、クロノを見上げる。 精一杯の憎悪を視線に込めるが、その憎悪すら心地良いというようにクロノは目を細めた。 セシリーは自分の無力さを噛み締める。 今のセシリーには裸同然の格好で這い蹲ることしかできないのだ。 この駄乳め。 ブクブクと胸ばかり肥え太らせて、と蔑まれているような気がしてセシリーは俯いた。 誰が駄乳で、誰が駄乳でないのか、見当も付かないが、クロノが言うのだから、セシリーの胸は駄乳なのだ。「……あんまりですわ」 クロノが顎をしゃくる。 これは合図なのだ。 合図だと教えられた記憶はないのだが、セシリーは合図だと理解してクロノに背を向けた。 駄乳たるセシリーはベッドを使うことを許されていないのだ。 ああ、けれど、これで駄乳ではなくなりますわね、とセシリーは肩越しにクロノを見つめた。 邪悪な笑みが意味する所を悟り、セシリーは逃げだそうとした。 だが、クロノはセシリーを逃がしてくれない。 そこは違いますわ。 そこではいつまで経っても駄乳のままですわ、とセシリーは懇願し……、「ぎゃひぃぃぃぃっ!」 絶叫と共に目を覚ました。「ゆ、夢、夢ですわね?」 凄まじい悪夢ですわ、とセシリーはベッドの上で頭を抱えた。 きちんと謝ったのだ。 きちんと謝ったのだから、あのように非道なマネはされないはずである。 だが、数日前に耳元で囁かれた言葉が実現しないという保証はない。 罰的な意味合いで囁かれたのではなく、あれがクロノの本心だとしたら? とセシリーは動悸が早まるのを感じた。 ああいうことをされ、母乳をあげる神聖な器官として胸を利用されずに使われ続けるのだ。「……まだ、夜明け前だぜ?」「ええ、もう一眠りしますわ!」 結局、夜が白むまでセシリーは寝付けず、寝不足の状態で仕事をするはめになった。