第15話:疫病のごとく
第15話:疫病のごとく
※ 『純白神殿』の大神官アルブスは神殿の議場に向かう。 議場に続く通路は長く、耳が痛くなるような静寂に包まれている。 そのせいか、祭服の擦れる音がアルブスには必要以上に大きく感じられた。 多少、神経質になっているのかも知れませんね、とアルブスは顎を撫でた。 ツルリとした感触が伝わる。 アルブスは四十歳になる。 大神官の中では最年少、『純白神殿』の中でもかなり若い方だ。 アルブスのような若輩者が大神官となるのは『純白神殿』の歴史の中でも異例のことだ。 アルブスは物心付いた時から権力を求めていた。 そのため、『神殿』のお偉方から嫌われた。 年寄りは若造の台頭を嫌うものだからだ。 だが、アルブスは欲求を抑えられなかった。 アルブスは『神殿』のお偉方ではなく、信徒の支持を得るために動いた。 数と金は分かり易い尺度だった。 『神殿』のお偉方も多くの信徒から支持され、多くの寄付金を集めてくるアルブスを無視できなかった。 アルブスは大神官となった今も信徒の支持を失わないように注意を払っている。 髭は親しみ易さをアピールするために剃っている。 普段から簡素な衣服を着用し、食事も粗食を心掛けている。 妻以外の女に手を出すなど以ての外だ。 だが、アルブスは今の生活に満足していた。 得も言われぬ興奮が権力を得たと実感するたびにアルブスの体を駆け巡る。 とは言え、権力に酔ってばかりはいられない。 敵がいるのだ。 アルブスを大神官の座から引きずり下ろそうとする抵抗勢力もその一つだ。 アルブスは抵抗勢力を侮っていなかったが、必要以上に警戒もしていなかった。 審問官の存在が抵抗勢力を牽制していた。 審問官は狂っている。 狂人の類だ。 そして、凡人は狂人の刃が自分や自分の家族に向けられるかも知れないと考えるだけで怖じ気づくものだ。 アルブスは狂人の刃に身を晒すことを躊躇ったりしないが、抵抗勢力の面々を批判しようと思わなかった。 抵抗勢力がその程度の覚悟しか持ち合わせていないから、大神官になれたのだ。 これから議場で会う四人はどれほどの覚悟を持ち合わせているのか、アルブスは未だに見極められずにいた。 五合会……これから議場で行われる会議はそう呼ばれている。 古くは六合会と呼ばれていたそうだが、『漆黒神殿』の大神官が参加しなくなってから、五合会と名を改めたという経緯がある。 五合会は各『神殿』の大神官が集い、『神殿』の垣根を越え、議論を交わすために開催されている。 少なくとも名目上は。 実際は主導権の奪い合いだ。 何かトラブルが起きれば、大神官は五合会で主導権を奪い合い、序列を決める。 現在は『純白神殿』が主導権を握っているが、五合会の進行役を務める程度の優位を保っているに過ぎない。 重厚な扉が開く。 大神官は既に集まっていた。 計算通りだ。 アルブスは主導権を握っていると示すために時間を調整したのだから。 アルブスは上座に腰を下ろし、四人の大神官を睥睨した。 四人の大神官は髭を蓄え、好々爺然とした笑みを浮かべている。 アルブスはそれが擬態に過ぎないと気付いている。 大神官どもが浮かべているのは蛇の笑みだ。 微笑みながら、こちらを丸呑みにする機会を窺っている。「……東西街道に盗賊が出たという話を聞いたんじゃが」 口火を切ったのは『黄土神殿』の大神官フラウムだった。 五合会は雑談じみた遣り取りから始まることが多い。 アルブスも東西街道に盗賊が出没している情報は聞いていた。 だが、被害額は微々たる額だ。 むしろ、買い占めや売り渋りによって生じた被害の方が大きい。 いずれは対応しなければならない問題だが、今はその時ではない。 やや熱を欠いた遣り取りの末、信徒達に流言飛語に惑わされないように伝えることになった。「イグニス将軍が交易を始めたという話も聞きますな。それも盗賊が現れた同じ時期に」「は、はあ」 『翠神殿』の大神官ウィリディスが揶揄するような口調で言うと、『真紅神殿』の大神官ルーフスはビクリと体を震わせた。 イグニスが将軍となって以来、ルーフスは序列の最下位に甘んじてきた。 それでも、ルーフスが『真紅神殿』で大神官の地位を維持しているのは誰も貧乏くじを引きたくないからだろう。「マグナス国王がケフェウス帝国に協力を要請したという話も耳にしましたが」「なんと、マグナス国王は国を売るつもりか!」「よりにもよって、あの背約者どもの国に頼るとは!」 アルブスが言うと、ウィリディスとフラウムは大げさに嘆いた。「我が国とケフェウス帝国は講和条約を結んでいます。マグナス国王が協力を要請しても不思議ではないでしょう」 アルブスは平坦な口調で言った。 敵対を宣言され、憤る気持ちはある。 だが、マグナス国王を賞賛したい気持ちもあった。 『神殿』は領主が通行税などで揉めた際、調停を務めることが多い。 いつか、頼るかも知れないと考えているからこそ、領主達は『神殿』に譲歩しているのだ。 新しい交易路はそのバランスを崩す恐れがある。 今にして思えば、このためにマグナス国王はイグニス将軍の異動に反対しなかったのかも知れない。「しかし、ケフェウス帝国が真意を隠している可能性は否定できません。我々は有事に備えなければなりません。そのために情報を集めなければ」「それならば、既に手を打っております」 アルブスが視線を向けると、『蒼神殿』の大神官レウムは得意げに鼻を膨らませた。 レウムは大神官の中で最も分かり易い男だ。 端的に言えば色を好む。 権力はレウムにとって女を抱く道具に過ぎないのだろう。「どのような手を打ったのですか?」「スパイを忍び込ませて」 レウムはニヤリと笑った。「報告によれば、ケフェウス帝国から派遣させてきた男はクロノと」 神祇官を殺した男か、とアルブスは舌打ちしそうになった。 あの時、アルブスは発言力を大きく削がれた。 警戒すべき相手だった。「クロノは配下の亜人に村を襲わせ、討伐するフリを繰り返し、最近は浮浪者に炊き出しを行っていると」「……」 アルブスは何も言えなかった。 クロノの意図が読めないのだ。 いや、イグニスの発言力を高めようとしているのは分かるのだが、そこから先が読めない。「いずれにせよ、警戒はすべきでしょう」「もちろん」 アルブスが言うと、レウムは頷いた。 もっとも、アルブスはレウムが黙って従うとは思っていなかったが。※ シオンさんはよく笑うようになったな~、とクロノはイグニスの屋敷……宛がわれた部屋から庭園を見下ろした。 シオンとアクアが庭園で談笑していた。 二人はいつから仲良くなったのだろうか、とクロノは壁に体重を預けながら、記憶を漁った。 クロノの記憶が確かならば、偽ナイトレンジャーの件以来だ。 あの時、クロノはシオンとアクアを宿に残した。 そこで何かがあったのだろう。「おや、盗み見かい?」「そんなんじゃないよ」 クロノは振り返り、顔を顰めた。 鈍痛が体に走ったのだ。 『刻印術』の反動だ。 壁を駆け上がったのがマズかったらしい。 リオはベッドに俯せになり、クロノを心配そうに見つめていた。「『刻印術』はあまり使わない方が良いね」「善処する」 『刻印術』を身に付けてから一年が経過しているが、クロノは『刻印術』を使いこなせていない。 体が『刻印術』を使った反動を受け止められないのだ。「そう言いながら、クロノは『刻印術』を使ってしまうんだろうけどね」「そんなことないよ」 ふ~ん、とリオは気のない返事をした。 疑っていると言うより嘘を吐いていると確信しているようだ。「あ~、最近、シオンさんはよく笑うようになったよね」 クロノが露骨に話題を逸らすと、リオは仕方がないと言うように苦笑した。「クロノは良いことだと思っていないんだね?」「分かる?」「そんな怖い顔をしていたら、誰だって分かるさ」 リオはベッドから降りると、クロノの対面に移動した。「どうして、クロノは怖い顔をしているんだい?」「……アクアさんは」 クロノは窓からアクアを見つめ、初めて会った時のことを思い出した。「アクアさんは『神殿』のスパイだと思う」「どうして、そう思うんだい?」 リオは面白がるように笑みを浮かべた。「初めて会った時、君に興味があるのとか言ってきたから」「……」 リオは笑みを浮かべたまま、動きを止めた。「何の下心もなく、僕に近づいてくる女性はいない」 クロノが断言すると、リオは可哀想な子を見るような目でクロノを見つめた。「クロノ、今日はもう休んだ方が良いよ」「だって、変だよ。アクアさんはイグニス将軍の腕を吹っ飛ばした僕に興味があるとか言うんだよ?」 ああ、とリオはようやく合点がいったとばかりに頷いた。 アクアはイグニスと旧知の間柄だ。 普通は知り合いの腕を奪った相手に友好的な態度で接したりしないだろう。「そういうこと。あとは消去法」「事実上の一択じゃ、消去法とは言わないよ」「仰る通りです」 リオの言う通りだった。 神聖アルゴ王国の派閥は国王派と『神殿』派の二つ。 イグニスがいるため、国王派はスパイを送り込む理由がない。 残る選択肢は一つしかない。「敵が『神殿』だけと考えるのは短絡的な気がするけれどね」「え~、でも、それを言い始めたら、何処のスパイなのか絞りきれないよ。可能性だけなら、実はイグニス将軍が嫌いって線もあるし」「絞る必要はないさ」 クロノは意味が分からず、首を傾げた。「ここは敵地なんだよ。誰でも敵になり得るし、誰でもスパイになり得るのさ。そういう意味で敵と仲良くなられるのは困るね」「それが分かってるなら」「嫌われると知りながら、忠告する趣味はないよ。ま、仲の良い相手なら一度くらい忠告するだろうけどね」 クロノはリオのドライさに呻いた。 だが、リオが酷いと言うのなら、最初から利用するつもりでシオンを連れてきたクロノはもっと酷い。 クロノが窓から離れると、リオは溜息を吐いた。「わざわざ嫌われに行くのかい?」「僕には責任があるんだよ」 シオンを神聖アルゴ王国に連れてきた責任、シオンが悩んでいると知りながら、自分で解決すべきだと放置した責任、アクアに対する警戒を怠った責任があるのだ。※ 飛び出してみたものの……アクアさんと一緒にいたら、警告できないよ、とクロノは木の影に身を隠し、出のタイミングを待った。 だが、シオンとアクアは楽しそうに会話を続けている。 それにしても、良い笑顔だな~、とクロノは思った。 クロノが知っているシオンの笑顔は控え目な微笑みだ。 今は違う。 シオンは周囲が明るくなったと感じさせる、そんな微笑みをアクアに向けている。「おい、何をしている」「……っ!」 クロノは反射的に振り返り、ホッと胸を撫で下ろした。 背後に立っていたのがイグニスだったからだ。「ああ、ちょっとね。イグニス将軍こそ、何をしてるの?」「王都に呼び出された」「は?」 クロノは驚きの余り、声を裏返らせた。「王都に呼び出されたって、国王の命令で作戦行動中なんでしょ?」「大神官どもの嫌がらせだ」 イグニスは吐き捨て、門に向かって歩き出した。 クロノは慌てて、イグニスを追う。 クロノが後を追っていることに気付いたのか、イグニスはすぐに歩調を緩めた。「思いの外、作戦が上手くいっているからな。連中はプレッシャーを掛けるつもりなんだろう」 イグニスは野太い笑みを浮かべて言った。 『神殿』の嫌がらせはイグニスにとって面白くないはずだが、一方で『神殿』に一泡吹かせたことに喜びを感じてもいるのだろう。「それって、サボる訳にはいかないの?」「無理だな。連中からの呼び出しであれば、俺も無視を決め込むが、王命の体裁を取っているからな。無視できん」 きな臭いことになってきたな、とクロノは顔を顰めた。 『神殿』がクロノの意図に気付いているかは分からないが、こちらの戦力を分断するのは悪い手ではない。 イグニスがいなければ、それだけで活動に支障を来すのだ。 全く、いつも、いつも、とクロノは歯軋りした。 作戦が順調に進んでいると、いつも邪魔が入るのだ。「心配するな。俺がいない時はアクアを頼れ」 そのアクアさんが信用できないから、悩んでるんですけどね! とクロノは喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。「アクアさんって、どんな人?」「……そうだな」 イグニスは立ち止まり、思案するように顎を撫でた。「アクアは尊敬に値する同僚だ。国の未来を憂い、志を同じくする同士でもある。あとは幼なじみだな」 クロノは頭を抱えたい気分だった。 アクアはスパイに向いていない。 初対面のクロノでもアクアに違和感を覚えたくらいなのだ。 イグニスの目は曇っているとしか言いようがなかった。 いや、もしかしたら、イグニスはアクアが『神殿』のスパイだと薄々気付いているのかも知れない。 だが、アクアに対する信頼がイグニスの判断力を鈍らせているのだ。 イグニスは再び歩き始めた。 箱馬車が門の前に止まっていた。 イグニスは箱馬車に乗り込むと、クロノを見つめた。「亜人を国外に追放する件だが、マグナス国王に進言しておく。これでババアも動きやすくなるはずだ」「……」 箱馬車が動き出す。 クロノはイグニスが乗った箱馬車を黙って見送るしかなかった。※ クロノが庭園に戻ると、アクアの姿はなかった。 視線を巡らせる。 シオンは庭園の片隅にある朽ちかけたベンチで本を読んでいた。 クロノはシオンに気付かれないように近づく。 パキッという乾いた音が響く。 落ちていた小枝を踏んでしまったのだ。 失敗した、とクロノは顔を顰めた。 シオンは顔を上げ、そんなクロノを不思議そうに見つめていた。「や、やあ、調子はどう?」「良いですけど」 それが何か? とでも言いたげな口調だ。 クロノはシオンの隣に座った。 ベンチがクロノに抗議するようにギシギシと軋んだ。 どう切り出すべきかな? とクロノはシオンを盗み見た。 シオンは本を閉じ、背筋を伸ばしている。「えっと、最近、シオンさんはアクアさんとよく話しているよね?」「あ、いえ、その、相談に乗って貰ってるだけです!」 シオンは慌てふためき、否定するように……と言うよりも、恥ずかしさを誤魔化すように手を左右に振った。 シオンはピタリと手を止め、先程までの自分を恥じ入るように俯いた。「本当に相談に乗って貰っているだけなんです」「僕も忙しくて、あまり相談に乗ってあげられなかったから。やっぱり、アクア将軍と話が合うのかな?」「あの、私が一方的に相談しているだけで……けど、アクア様は親身になって相談に乗って下さって! あ、すみません」 シオンは興奮したように身を乗り出し、すぐに恥ずかしそうに俯いた。 どうやら、アクアの株はシオンの中で急上昇のようだ。 意図的に株価を釣り上げるのは仕手って言うんだっけ? と乏しい金融知識がクロノの脳裏を過ぎった。「仲が良いのは、ね。良いことなんだけど、ここは敵地だし」「……?」 シオンは不思議そうに首を傾げた。 クロノは頭を抱えたい気分だった。 今日はこれで二度目だ。「ど、どちらかと言えば、あ、アクアさんは……神聖アルゴ王国寄りの人で」「クロノ様はアクア様が敵だと思っているんですか?」 シオンの目付きが一転して険しくなった。 二年前だって、こんな険しい目でシオンに睨まれなかった。「いや、そうじゃないんだけど、やっぱり、警戒はしておくべきなんじゃないかと」 思うんです、とクロノは最後まで言えなかった。シオンが無言で立ち上がったからだ。「……気分が悪いので、部屋で休ませて頂きます」「あ、そう? お、お大事に」 シオンは荒々しい足取りで屋敷の方に歩いていった。 クロノはベンチの背もたれに寄り掛かり、大きな溜息を吐いた。 こんな大きな溜息を吐くなんて、いつ以来だろう? と考え込んでしまうような盛大な溜息だ。「溜息を吐くと、幸せが逃げるわよ」「幸せが逃げたから、溜息を吐いたんだよ」 クロノが顔を上げると、エレインがベンチに座る所だった。 何故か、ベンチはエレインが座っても軋まなかった。「今日はドレスじゃないんだ?」「商談がないもの」 エレインはさも当然のように言った。 今日のエレインは地味な……接客する時に着ている事務員のような服装だった。 エレインのドレス姿はエロいが、今も十分にエロい。 引っ詰め髪にエロスを感じる。「見てた?」「ええ、楽しい見世物だったわ」 根性悪い、とクロノは顔を顰めた。「彼氏持ちの女に彼氏の悪口を言ったみたいな反応だったわね」「分かり易いんだか、分かりにくいんだか、分からない」 クロノは呻き、空を見上げた。「依存対象の悪口を言われて怒った。そう言った方が良かったかしら?」「依存対象?」 クロノは体を起こし、エレインを見つめた。「神官長様は色々あったみたいじゃない? その心の隙を突かれたのよ。ちょっと優しくしてくれた男に惚れちゃうようなものね」「その喩えは分かり易い」 クロノは項垂れた。「貴方が少し優しくしてあげれば、今頃、神官長様は貴方の何人目かの愛人になってたわよ?」「他人の弱みに付け込むのはどうも、ね」 ふ~ん、とエレインは面白がるような笑みを浮かべ、クロノを流し見た。 ゾクリとするような色っぽい仕草だ。「貴方って、割と他人の弱みに付け込んでるじゃない。今更、良心に目覚めたの?」「……そんなこと」 レイラの時とか、女将の時とか、エレナの時とか、よく考えてみればリオの時も……アリデッドとデネブも、フェイも、弱みに付け込んだと言われればそうかも知れない、とクロノは今度こそ頭を抱えた。「僕は酷いヤツなのかも知れない」「かも知れない、って」 エレインは理解しがたいものを見るような目でクロノを見た。「僕は、悪い男になる」 クロノは拳を握り締め、立ち上がった。「今、神官長様を抱こうとしたら、抵抗されるわよ。つまり、ただの強姦ね」「はい」 クロノはエレインに指摘され、ベンチに腰を下ろした。「どうすれば良いんだろう?」「神官長様が自分で決めたことなんだから、放っておけば良いじゃない」「そうもいかないよ」「面倒ね」 エレインは顔を顰めて言った。 どうやら、エレインは心の底から面倒臭いと思っているようだ。「まあ、どっちを選んでも、ろくな目に遭わないんだから、貴方のやりたいようにやれば良いわ」 丸く収まるのが理想だったんだけどな~、とクロノは立ち上がった。※「シオン殿なら、部屋で寝ているでありますよ?」「はい、終了」 クロノは覚悟を決めて屋敷に戻り、フェイの一言で撃墜された。 仮病なのか、不貞寝なのか分からないが、部屋に踏み込む訳にもいかない。「そう言えば、フェイはシオンさんと同室だっけ?」「そうであります」 フェイは頷いた。 部屋割りはクロノとリオ、フェイとシオンが二人部屋、レオンハルトとエレインは一人部屋である。 副官、シロ、ハイイロは客室ではなく、使用人用の大部屋を使っている。「最近、シオン殿はアクア殿の部屋に入り浸りで、部屋に戻ってくるのは寝る時くらいであります。むむ、忠告したのがマズかったでありますね」「あ、忠告したんだ」 クロノは思わず、失礼なことを言った。「シオン殿は弟子の世話をしてくれている人でありますからね。師匠として弟子に顔向けできなくなるようなマネはしたくないであります」「フェイ、成長したんだね」 クロノはしみじみと呟いた。「この後、フェイは何をするつもり?」「庭で素振りでもしようと思っていた所であります。クロノ様もどうでありますか?」「付き合うよ」※ 夕刻、クロノは体の痛みを堪えながら、食堂に向かった。 フェイは素振りでもと言っていたが、やはりと言うべきか、素振りだけでは済まなかった。 素振りが乱取り、乱取りが模擬戦闘に変わり……剣術の訓練が終わる頃、クロノは満身創痍だった。「今日もよく眠れそうであります」「フェイは、元気だな~」 フェイはクロノと違い、元気溌剌と言った風情である。 クロノもこれくらい疲れ切っていれば快眠できるだろう。 クロノが食堂に入ると、リオ、レオンハルト、シオン、アクアの四人はすでに席に着いていた。 パンとスープがテーブルに並べられている。 料理はイグニスの屋敷で働く使用人が作ったものだ。 イグニスはスキルを期待して使用人を雇っていないらしく、家庭料理と言うか、田舎料理と言うか、そんな感じの料理が並ぶ。「やあ、体調はどう?」「少し休んで楽になりました」 クロノが尋ねると、シオンは険のある声で答えた。 どうやら、シオンはまだ怒っているようだ。 フェイが気遣うようにクロノの肩を叩いた。 クロノは空いている席に座り、スプーンを手に取った。 まるで通夜のような静けさだった。 時折、食器の触れ合う音が響くだけだ。 クロノは機械的に手と口を動かし、料理を平らげた。「少し良いかしら?」 クロノがイスから腰を浮かせた時、アクアが口を開いた。 クロノはイスに座り直し、アクアを見つめた。「今後の予定だけれど、炊き出しに来てくれる人も増えたし、イグニスがいない間も私達で炊き出しを続けたいの」 アクアは反応を確かめるように視線を巡らせた。 シオンは目を輝かせているが、リオは嘲るような笑みを浮かべている。 レオンハルトは目を閉じている。 フェイはお代わりを貰っていた。「クロノ殿はどう考えているの?」 ここで僕に振るか、とクロノは顔を顰めた。 もちろん、答えは否に決まっている。 自分から敵の罠に嵌まるようなマネはできない。 それはアクアも分かってるだろう。「……僕は、反対」「クロノ様! どうしてですかっ?」 クロノの言葉に反応したのはシオンだった。「イグニス将軍がいないと意味がないからだよ。交易で周辺の領主を味方に付け、寸劇と炊き出しで民衆の支持を得る。僕達のためじゃない。イグニス将軍の発言力を高め、『神殿』と対抗できるようにするためだ。それが帝国の利益になる」 クロノは言葉を句切り、シオンを睨み付けた。嘘ではない。少なくとも、表向きはそうなっているし、そう見えるように動いている。「大切なことだから、もう一度言うよ。イグニス将軍がいないと意味がないんだ」「支持を取り付けるのはアクア様でも問題ないと思います」 問題だから、反対してるんだよ! とクロノは怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、辛うじて自制した。「良いかい? 今回の作戦には大金が動いているんだ。大金を使って、民衆の支持を得ようとしている。もし、民衆の支持がイグニス将軍とアクアさんに二分されたら、それだけ金が無駄になるんだ」 クロノが金の話をすると、シオンは反論しようと口を開きかけ、悔しそうに俯いた。 アクアが心配そうにシオンの肩に触れる。「そんなにお金が大事なんですか?」「大事だよ」 クロノは即答した。 シオンが何事かを呟いていたが、クロノは無視して席を立った。※ クロノは部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。 シオンとアクアに対する怒りがクロノの胸中に渦巻いている。 あんなに簡単に洗脳されるなんて、とクロノはシオンの態度を思い出し、舌打ちした。「おやおや、クロノはお怒りだね」「……軽口に付き合う気分じゃないんだけど」 クロノが体を起こすと、リオは肩を竦め、自分のベッドに腰を下ろした。「気分じゃないと言う割に付き合いが良いね」「そう?」 クロノはベッドに仰向けになり、天井を見上げた。「シオンさんは、何か言ってた?」「聞くつもりがなかったから、ボクはここにいるのさ」 リオは優雅に足を組み、太股に肘を乗せて頬杖を突いた。「リオは『翠にして流転を司る神』の教義に詳しい方?」「前も言ったと思うけれど、信仰心は篤い方じゃなくてね。いよいよ切り捨てるつもりかい?」「人聞きが悪いよ」 けど、とクロノは続けた。「このままだとそうするしかなくなるかな? 作戦だけならともかく、仲間の命も掛かっているからさ」「領地に戻ってから、刺されそうだね」 クロノはギョッとしてリオを見た。「どうして、そんな結論に?」「シオン殿は思い詰めるタイプだと思ったのさ。きっと、裏切られたと逆恨みして……グサッ、さ」 ありえそうだ、とクロノはシオンに刺される自分の姿を簡単に思い浮かべられた。 もっとも、クロノはシオンに刺される自分の姿よりもリオに殺されそうになっている自分の姿の方が簡単に思い浮かべられるのだが。「取り敢えず、今は作戦のことを」 考えよう、とクロノは最後まで口にすることができなかった。 リオが唇の近くで人差し指を立てたからだ。 しばらくすると、扉がノックされた。 クロノはリオに目で合図し、ゆっくりと扉に近づいた。 クロノが慎重に扉を開けると、アクアが廊下に立っていた。 クロノはリオがアクアの死角に移動したのを確認し、扉を開けた。「もう一度、話をしたいの」「話は終わってる。イグニス将軍がいない状態で寸劇と炊き出しをするつもりはない」「ええ、君が作戦を成功させるために動いているのは分かっているつもりよ。けれど、シオンさんのことも考えて欲しいの」 アクアはシオンを本気で気遣っているかのように語り始めた。 どれほど、シオンが慣れない異国の地で不安だったのか。 どれほど、シオンが何もできない状況に苦しみを抱いていたのか。 炊き出しが始まって、シオンがようやく心の平穏を取り戻したことも。 クロノはアクアの言葉に苛立ちを覚えた。 あからさまな論点のすり替えはクロノを怒らせたがっているようにしか見えなかった。「お金より大切なことがあるはずよ」 一瞬、頭の中が真っ白になった。 クロノは気が付くと、アクアの胸倉を掴んでいた。 クロノがアクアを罵倒しようと口を開いたその時、微かな音がクロノの耳に届いた。 クロノはアクアを押し退けて廊下を見たが、そこには誰もいなかった。 誰もいなかったが、誰がそこにいたのか、クロノには分かってしまった。 シオンだ。 クロノがリオを死角に潜ませているように、アクアもシオンを死角に潜ませていたのだ。「……話は終わったわ」 アクアは薄く微笑んだ。 それは策士の笑みだった。 クロノはアクアを殺すべきか悩んだが、すぐに殺せないことを理解する。 イグニスはアクアを信頼している。 もし、マグナス国王までもがアクアを信頼しているのだとすれば、クロノは殺人者として追われる羽目になる。 それだけではない。 講和条約が破棄されるかも知れない。 クロノは手を離し、悠然と去って行くアクアの後ろ姿を睨み付けた。 いや、睨み付けることしかできなかった。※ 翌日、『大将、大変でさ!』(ぶも~!)「……っ!」 クロノは副官の野太い声で目を覚ました。 屋敷全体を揺るがすような大声だ。 クロノが部屋から飛び出すと、副官は駆け寄ってきた。『大将、アクア将軍とシオン様がいないんでさ』(ぶも~)「リオ!」「わざわざ呼ばなくても起きているさ。あんな大声を聞いたら、死体だって目を覚ますんじゃないかな?」 リオは気怠そうに体を起こした。「そんなに心配することかい?」『シロとハイイロが車輪の音を聞いたんで』(ぶもぶも) どうして、止めなかった? とクロノは叫びそうになったが、自重した。 車輪の音だけで最悪の想像をできるはずがないし、今はやるべきことがある。「リオは皆を起こして、食堂で待機! ミノさんは……ミノさん達も食堂で待機! 僕は情報収集に行く」『情報収集は済ませてやす。使用人の方によれば、アクア将軍とシオン様はカリナの街で炊き出しをするために出て行ったそうなんで』(ぶもぶも)「急いで追い掛けないと!」 カリナの街まで馬車で六時間……アクアとシオンが今、何処を進んでいるのか考えるだけでも絶望的な気分になる。 アクアが本当にカリナの街まで行くのかという問題もある。 だが、クロノは何もしない訳にはいかないのだ。「とにかく、馬だ! 馬で追う! エレインさ~ん! 馬、馬を用立てて下さい!」 クロノは叫んだ。※「駄馬だ!」 クロノは庭園に集められた馬を見て、悲鳴を上げた。 庭園に集められた馬は四頭……いずれも痩せた老馬だ。 アクアとシオンに追いつくどころか、人を乗せて全力疾走しただけで死にかねない。「こんなので、どうやって追いつけば」「失礼ね。これが一番まともな馬だったのよ」 エレインはクロノの言葉に柳眉を逆立てた。「畜生、考えろ、考えろ、何か手はあるはずだ」「クロノ、考えている最中に悪いんだけれど」「何!」 クロノが怒鳴りつけても、リオは平然としている。「助けに行く必要があるのかい?」「そんなの、あるに決まって……」 クロノは平然としているレオンハルトに気付いた。「クロノが助けたいと思うのは彼女に思い入れがあるからさ。けれど、ボクとレオンハルト殿はそれほど思い入れがない。少なくとも、全員の命を危険に晒すほどの必要を感じないね」 クロノはリオに反論できなかった。 昨夜はクロノだって、アクアの罠に嵌まって全員の命を危険に晒せないと考えていたのだ。 それが揺らいでいる。「それでも、助けに行くのかい?」「……僕は」 クロノは昨日の出来事を思い出した。 シオンはクロノの忠告に耳を貸してくれず、アクアのことを盲信していた。「助けに行く」「どうしてだい?」「約束したからだよ。僕は約束を破るような男になりたくない」 なんて、自分勝手なんだろう、とクロノは呻いた。 個人の信条や信念で全体を危険に晒す輩は人の上に立つべきではない。 クロノはそれが分かっていても、知り合いを見捨てられない。「仕方がないね。クロノがそこまで言うのなら、付き合うさ。レオンハルト殿はどうするんだい?」「私にはクロノ殿の作戦を採用した責任があるのでね」 答えになっていないさ、とリオは苦笑した。 どうやら、レオンハルトも協力してくれるようだ。「けれど、どうやって追いつくんだい?」「それは……神威術で!」「『活性』を使えば、どんな馬でも軍馬並みに走らせられるけどね。カリナの街に到着する遙か手前でボクらは力尽きるよ」「クソッ、何かあるはずだ。何か手が」 クロノは爪を噛みながら、アクアとシオンに追いつく方法を考えた。※ アクア将軍が戻ってくるまでに準備を進めておかないと、とシオンは手際よく薪に火を点けた。 今、アクア将軍はシオンの隣にいない。 カリナの街を治める領主の所に行っているのだ。 シオンは昨夜の出来事を思い出し、唇を尖らせた。 クロノの態度はあんまりだ。 あれではアクア将軍の立つ瀬がない。 それだけではなく、クロノはアクア将軍に暴力を振るおうとしたのだ。 もし、自分があんな目に遭ったら、引き下がってしまうだろう。 けれど、アクア将軍は挫けなかった。 自分だけで炊き出しを行い、クロノに認めて貰うのだと真摯に語った。 シオンは協力を申し出た。 成功させる自信はある。 シオンがカリナの街で炊き出しを行うのは五度目なのだ。 最近は炊き出しに参加する人も増えたし、言葉を交わす機会も増えてきた。 クロノに認めて貰う。 言われてみれば、クロノは偽ナイトレンジャーが泊まる宿を襲撃する時、アクア将軍を宿に待機させていた。 クロノがアクア将軍を認めていないと考えればつじつまが合うような気がした。「待たせたわね」「……いえ」 シオンは顔を上げ、驚きに目を見開いた。 アクア将軍は二十人近い兵士を引き連れていたのだ。 領主も一緒だ。 何故か、領主は手を縄で縛られていた。 その縄は今にも抜け落ちてしまいそうなほど緩い。「あの、アクア将軍? その人達は?」「……まず、謝らなきゃいけないわね。ごめんなさい。私は『神殿』のスパイなの」 アクア将軍は心の底から申し訳ないと思っているような暗く沈んだ声音で言った。「嘘、ですよね? アクア将軍は相談に乗ってくれて」「残念だけど、私は本当にスパイなの。貴方に近づいたのは簡単に騙せそうだったから」 アクア将軍は辛そうに顔を歪めた。「何か、何か理由があるんですよね?」「理由はあるわ。けど、それだけよ。私のしたことは許されないし、これからすることも許されないわ」 シオンは呆然とアクア将軍を見つめた。 アクア将軍は何も変わっていなかった。 それが堪らなく悲しかった。「せめて、酷い目に遭わないように頼んでみるけど、期待しないで」 アクア将軍が目配せすると、兵士達が動いた。 シオンは一呼吸分遅れて、アクア将軍に背を向け、駆け出した。※ シオンはがむしゃらに足を動かした。 どうして、すぐに捕まらないのか考える余裕もなかった。 ただ、怖くて足を動かし続けた。 必死に足を動かしている。 そのはずだ。 けれど、走っている感覚がなかった。 ダメ、振り返っちゃダメ、とシオンは自分に言い聞かせた。 だが、不安は抑えようがなかった。 シオンは不安に負け、肩越しに後ろを見た。 すると、兵士達は二手に分かれる所だった。 アクア将軍は物憂げな表情を浮かべ、腕を組んでいた。 シオンは必死だったが、アクア将軍の表情を確認できる程度の距離しか走っていなかったのだ。 そう理解した瞬間、力がシオンの足から抜けた。 何処に逃げれば良いんでしょうか? また、楽な方に流されて、今度は帰る場所さえなくして、とシオンは大きく喘いだ。 眼球の奥が痺れ、視界が滲んだ。「……っ!」 シオンは喉の奥で悲鳴を炸裂させた。 横合いから伸びてきた幾つもの手がシオンを路地に引き摺り込んだのだ。 シオンはアクア将軍の言葉を思い出し、手足をばたつかせた。 路地は薄暗く、汗の臭いがした。「神官様、静かにして下せえ」「……?」 何処かで聞いたような声だった。 シオンが暴れるのを止めると、声の主は安心したように息を吐いた。「貴方は?」「この前、飯を恵んで頂いたもんでさ」 うへへ、と男は頭を掻いた。「どうして、私を?」「飯を恵んで貰った恩返しでさ。それに困っている神官様を見捨てたら、神罰を喰らっちまいます。俺達が安全な場所まで誘導するんで」 俺達……男が言う通り、数人の浮浪者が路地に潜んでいた。「早く、こっちで」 そう言って、男は走り始めた。 シオンは男達が自分を騙しているのではないかと思ったが、従うことにした。 半ば自棄になっていたのかも知れない。 結果から言えば、シオンの選択は間違っていなかった。 シオン達は何度も兵士に遭遇したが、男達は時に嘘を吐き、時に自らが囮となって兵士をシオンから遠ざけた。 シオンが街の外縁部に近づいた時、男は一人だけになっていた。「大丈夫、でしょうか?」「皆、この街を知り尽くしてるんで大丈夫でさ」 男は嬉しそうに笑った。 シオンは男が嬉しそうに笑う理由が分からずに首を傾げた。 シオンが路地を抜け、派手に転倒した。 突き飛ばされた、と理解するまでに数瞬が必要だった。 そして、その数瞬が全てだった。 男が大きく仰け反る。 それは自分の意志と言うよりも反射だった。 背後から刃で貫かれた、その反射だ。 男が倒れる。 兵士は乱暴に男から剣を引き抜くと、シオンに手を伸ばした。 シオンは身を強張らせた。 その時、手が兵士の背後から伸びた。 手は兵士の首を短剣で深々と切り裂いた。 血が兵士の首から噴き出す。 兵士が倒れる。 そこに立っていたのはクロノだった。「クロノ様?」「逃げるよ、シオンさん」 クロノは無造作にシオンの手首を掴んだ。「ま、待って下さい!」「彼は手遅れだよ」 シオンは男を見つめた。 男は動かない。 満足げな笑みを浮かべ、死んでいた。「シオンさん!」 クロノは叫ぶと、シオンの前に出た。 黒い光がクロノの体を彩る。 『刻印術』と呼ばれる蛮族の秘術だ。 シオンの視界が一瞬だけぶれる。 自分を取り巻く空気が変わったような感覚に襲われたのだ。 次の瞬間、高速で飛来した何かがシオンの耳元を掠めた。 シオンが反射的に振り返ると、壁が凍り付いていた。「仲が良さそうだったのに容赦ないね」「……来たのね」 シオンが視線を戻すと、アクア将軍が物憂げな表情で立っていた。 傍らには手を縛った領主がいる。「そこの人……どうして、縛られてるの?」「自分から縛ってくれと言ったのよ。イグニスにも、『神殿』にも敵対したと思われたくなかったんじゃないかしら?」 アクア将軍は手を掲げた。 空気が白く染まり、小さな氷の粒がアクア将軍の手から数センチ離れた所に生まれる。 小さな氷の粒は瞬く間に槍ほどの長さに成長した。 アクア将軍が氷の槍を放つより早く、クロノが動いた。 動いたと言っても、クロノはわずかに身動ぎした程度だ。 アクア将軍は油断などしていなかった。 クロノが指で弾いた透明な礫の正体を見極めようとした。 そして、閃光と轟音が炸裂した。 閃光と轟音がシオンの思考を停止させる。 それはアクア将軍達も同じだったはずだ。 クロノは一瞬の隙を突き、シオンを抱き上げた。 クロノのマントがふわりと膨らみ、氷の槍がその中心を貫く。「逃げるよ!」 そう言って、クロノは大地を蹴った。※ イグニスをやり込めた割に大したことないと思っていたけど、凄く手強いわね、とアクアはクロノを追う。 アクアとクロノの距離は十メートルと離れていない。 アクアならば容易に詰められるはずの距離だ。 実際、アクアは何度もクロノを追い詰めていた。 一度は指がクロノの服に触れさえした。 だが、クロノはそのたびにアクアから逃れた。 クロノはマジック・アイテムを使ってアクアの目を眩ませ、警戒しているアクアに石ころを投げてきたりした。 逃げの一手かと思えば一転して攻撃を仕掛けてくる。 アクアは腹部から這い上がる鈍痛に顔を顰めた。 クロノの足跡がくっきりとアクアの軍服に残っている。 クロノに蹴られたのだ。 もっとも、クロノはアクア以上……血が滴り落ちるほどの傷を負っているが。「神よ!」 アクアは左右の手に氷の槍を生み出し、クロノに向けて放つ。 氷の槍は吸い込まれるようにクロノの背中に突き進み、あと少しという所でアクアが思い描いていた軌道から逸れた。 氷の槍は地面に突き刺さり、その周辺を凍結させる。 多分、これは『刻印術』の力ね。 何かが私の攻撃を逸らしているみたいだけど、防御力は高くないようね、とアクアは目を細めた。「……試してみるか」 アクアは氷の槍ではなく、氷の矢を生み出した。 氷の矢は威力が氷の槍より低いが、より早く、より多く生み出せる。「行きなさい!」 アクアは氷の矢を放った。 目標はクロノではなく、クロノの頭上だ。 アクアが拳を握り締めると、氷の矢は雨のようにクロノに降り注いだ。 氷の矢が見えない何かに阻まれる。 アクアはそこに第二撃、第三撃を続けざまに放った。 第二撃、第三撃はクロノを守る何かを貫き、クロノの腕を、足を掠め、何本かはクロノの背中に突き刺さった。 アクアは自分の予想が当たっていたことに満足感を覚えた。 クロノを守る何かは威力よりも数に弱いようだ。 クロノが『刻印術』を使いこなしていないという可能性も考えられるが、とにかくクロノは数に弱い。「まだ、動けるのね」 アクアは逃げようとするクロノに氷の矢を撃ち込んだ。 クロノは地面に倒れ、今度こそ動きを止めた。「危うく、逃げられる所だったわ」 アクアは周囲を見渡し、溜息を吐いた。 そこは街の外だった。 アクアが『刻印術』の特性に気付くのが遅かったら、クロノはシオンと共に逃げ果せていたかも知れない。「アクア将軍!」「油断しちゃダメよ」 アクアはようやく追いついた九人の兵士に警告した。 まあ、先頭を進むのはアクアだったりするのだが。 アクアはクロノが動いたような気がして足を止めた。 クロノは動いていた。 シオンがクロノの下から這い出したせいだった。 シオンは血塗れだったが、傷一つない。 血は全てクロノのものだろう。 アクアはシオンを傷つけなかったことに安堵し、同時にシオンが守られていることを妬ましく感じた。 アクアはクロノとシオンに歩み寄る。 その時、違和感を覚えた。 アクアはクロノが『刻印術』を使えることを知らなかった。 イグニスは右腕を失った時、『刻印術』を使う男にやられたと言っただろうか。 イグニスが『刻印術』を使えるだけの男におくれを取った? そんなはずない。 だったら、どうやって? とアクアは自分でも知らない内に歩調を緩めていた。 その時、クロノが動いた。 アクアは身の危険を感じて、咄嗟に横に飛んだ。 漆黒の球体がアクアの真横を通過、背後にいた兵士に触れた。 次の瞬間、大きな穴が兵士の胸に空いた。 兵士の肉体が漆黒の球体と共に消滅したのだ。「避けなさい!」 アクアは叫んだが、ここは街の外だ。 遮蔽物はない。 アクアは視界の隅に漆黒の球体を捉え、地面に手を置いた。「神よ!」 水が地面から噴き出し、アクアを守る壁となる。 だが、漆黒の球体は水の壁など存在しないかのようにアクアに近づいてきた。「……神よっ!」 アクアは神に祈りを捧げた。 身を守る神威術を使うためではない。 クロノを攻撃する神威術を使うためだ。 アクアはギリギリまで漆黒の球体を引きつけ、体を捻りながら、地面に倒れる。 漆黒の球体が軍服に触れ消滅する。 穴が軍服に空くが、アクアは無傷だ。 アクアは氷の槍を放つ。 新たな漆黒の球体はアクアの遙か手前で消滅した。 アクアは体を起こし、胸を撫で下ろした。 氷の槍はクロノを貫いていた。※「クロノ様っ!」 シオンはクロノに這い寄った。 クロノはアクア将軍の放った氷の槍に貫かれていた。 氷の槍はクロノの脇腹を貫き、地面に縫い止めている。 シオンは氷の槍を引き抜こうと握り締め、あまりの痛みに手を離した。 シオンが手を見ると、水膨れが手の平にできていた。 こんなものに……っ! シオンは氷の槍が恐ろしい武器であることに気付き、再び氷の槍を握り締めた。 白煙が上がり、灼けるような痛みがシオンを襲った。「もう、良いよ」「嫌です! 私のせいで、私なんかのせいで!」 シオンは叫んだ。 だが、シオンが必死で力を込めても、氷の槍は動かなかった。 シオンは氷の槍を握り締めたまま、その場に座り込んだ。「はやく、逃げなよ。ここは僕が食い止めるからさ」「嫌です!」 シオンは泣きながら、頭を振った。「てん……か、ぐら」 クロノは何事かを呟くと、漆黒の球体が現れた。 漆黒の球体は氷の槍を分断した。 氷の槍が倒れ、シオンは氷の槍から手を離した。「……ぐ、ぎぃぃぃぃっ!」 シオンは凄惨な光景に息を呑んだ。 クロノは力ずくで氷の槍を引き剥がしたのだ。 何かが千切れるブチブチという音が響き、クロノの脇腹にぽっかりと空いた穴から血と肉が溢れた。「クロノ様!」 クロノは剣を支えに体を起こそうとしていた。 アクア将軍と八人の兵士が近づいてくる。「言わなきゃいけないことが、あったんだ」 クロノは剣を支えに跪く。 クロノは立ち上がることさえできないのだ。「人間はさ、不自由なんだよ」 シオンはクロノを見つめた。 不自由? クロノ様のような貴族が?「いつだって、選択肢は限られてる。未来は無限に広がってない」 クロノは首飾りを握り締め、目を閉じた。「それでも、きっと、価値はあるはずだ」 そんなものない。 神威術と共に失われてしまった。「嫌なこととか、苦しいこととか、あるだろうけど」 嫌なことばかりだった。 苦しいことばかりだった。「否定しちゃダメなんだ。出会わなかった方が良かったなんて、殺されたって言わない」 シオンはようやく気付く。 クロノはひどく不自由な人生を送った人々を知っていて、 その人達の人生を肯定したいのだと、 彼らの人生に意味があるのだと信じたいのだと。「……私、私は」 嬉しかったことは、楽しかったことはあった。 沢山あった。 それなのに、どうして、自分で否定してしまったのだろう。「……父さん」 父は恨み言を口にしていただろうか。 違う。 父の死に顔は穏やかだった。 父は不遇だった。 人生を野菜の品種改良に捧げ、報われずに逝った。 けれど、報われない人生だったとしても、 父は満足していた。 満足していたのだ。「てん……ら、てんすう、かぐ……天枢神楽」 漆黒の球体がクロノの周囲に浮かぶ。 その数は二十を超え、更に数を増やしている。 一体、どれほどの負荷が掛かっているのか、クロノは目と鼻から血を流していた。「……天枢神楽!」 漆黒の球体の数は四十を超え、アクア将軍に殺到した。 アクア将軍は氷の矢で漆黒の球体を迎え撃つ。 いや、違う。 アクア将軍の目的はクロノだ。 クロノが死ねば、漆黒の球体は消える。 アクア将軍は見事な体捌きで漆黒の球体を躱すが、漆黒の球体は進行方向を変え、何度もアクア将軍に襲い掛かった。 アクア将軍は一度のミスで致命傷を負う。 アクア将軍は一度もミスを犯さずにクロノを攻撃し続けなければならない。 氷の矢が飛来する。 アクア将軍が漆黒の球体を避けながら、攻撃をしているせいか、その多くはクロノを大きく外れた。 しかし、ある矢はクロノの皮膚を裂き、ある矢はクロノの肩に突き刺さった。 息を呑む攻防の末、勝利したのはアクア将軍だった。 クロノは氷の矢に胸を貫かれ、背中から地面に倒れた。「クロノ様!」「……シオンさん、まだ、逃げてなかったんだ」 シオンはクロノの手を握り締めた。「馬鹿な、人だな」「私、私は馬鹿なんです」 クロノが穏やかな笑みを浮かべたので、シオンも笑みを浮かべた。「ようやく終わったわね」「アクア将軍、クロノ様を」 アクア将軍はシオンが助けを求めるよりも早く頭を振った。「私は彼を捕虜ではなく、勇者として死なせてあげたいの。それに彼が死ねば、貴方を見逃しても言い訳が立つ」「ああ、だ、誰か! 誰か!」 シオンは必死に助けを求めた。 自分のことなんて、どうでも良かった。 ただ、クロノを助けたかった。 クロノに生きていて欲しかった。 クロノの手が一瞬、本当に一瞬だけ軽くなった。 死だ。 死がクロノを連れ去ろうとしている。「いやぁぁぁぁっ! 『……』様!」 シオンは口元を押さえた。 何かがシオンの意識に触れる。 懐かしい感覚だった。 『黄土にして豊穣を司る女神』と交感したのだ。 シオンは強く、深く『……』と繋がっていた。 だが、それはかつて感じていたような穏やかな交感ではなかった。 絶望だった。 シオンはかつてないほど強く、深く『……』と交感を果たし、『……』の正体を知ってしまった。 それは人智を超えた存在という意味で神だ。 だが、それだけだ。 無感情で、無機質なそれはシオンが思い描いた神ではなかった。 神はヒトを愛していない。 当然だ。 システムはヒトを愛せない。 その事実はシオンの心に深く刻み込まれた。 ああ、とシオンは喘ぐ。 絶望に押し潰されそうだった。 それでも、シオンは唇を噛み締め、絶望に耐えた。「神よ、癒やしの奇跡を!」 黄色の光がシオンとクロノを包んだ。 クロノの体に突き刺さっていた氷の矢が空気に溶けるように消え、クロノの傷が急速に癒えていく。「させないわ!」「『……』様!」 シオンが叫ぶと、アクア将軍は大きく後方に跳躍した。「そいつを捕まえろ!」「止まりなさい!」 兵士の一人がアクア将軍の制止も聞かずに近づいてきた。 兵士が倒れる。 兵士は体を起こし、自分の足を見つめ、悲鳴を上げた。 脚が半ばから途切れていた。 兵士は自分の足が腐り落ちたのだと気付けただろうか。 兵士はシオンの見ている前で黒ずみ、膨れ上がり、溶けて消えた。 残されたのは兵士の骨だけだった。 アクア将軍が目を細める。 シオンは兵士を殺したことで排除の対象として認識されたのだ。「神よ!」 アクア将軍が氷の槍を放つ。 シオンはクロノを抱き締めた。 だが、氷の槍はシオンに触れることさえなかった。 蒸発したのだ。 シオンの……『黄土にして豊穣を司る女神』の力ではなかった。 氷の槍を蒸発させた人物はシオンとアクア将軍の間に立っていた。 イグニス将軍は赤い光に包まれていた。 赤い光が兵士を白骨に変えた力を遮断しているらしく、イグニス将軍は平然と立っている。「イグニス、王都に行ったんじゃなかったの?」「ああ、協力者がいなければ王都に行っていただろうな」 イグニス将軍は協力者の部分を強調して言った。 縛られた領主の姿がシオンの脳裏を過ぎった。「アクア、俺と戦う気か?」「まさか、そんな気力はないわ」 アクア将軍はその場に座り込んだ。※ クロノは目を覚まし、「やっぱり、地獄に落ちた!」「ワシの顔を見るなり、地獄とか失礼じゃのうっ!」 神官さんに突っ込みを入れられた。「地獄じゃないなら、ここは?」「イグニスの屋敷じゃ」「まあ、確かに」 見知った天井だ、とクロノは体を起こした。 それだけで激痛が走り、ブチブチという音が体の内側から聞こえてきた。「どうして、神官さんが?」「うむ、亜人を引き連れて戻ってきたら……イグニスのヤツにお主らを屋敷に運ぶように頼まれた。それにしても、ワシは驚いたぞ。何せ、お主の仲間が行き倒れとるんじゃからな。一体、何をしたんじゃ?」「多段ロケット?」 クロノは首を傾げた。 クロノはカリナの街に行くためにリオ、レオンハルト、フェイの順番で馬に神威術を使わせたのだ。 一人なら途中で力尽きるが、一人ずつ使えばカリナの街まで行けるかも、と思ったのだ。 まあ、結果は当たらずとも遠からず。 三人とも力尽き、馬が四頭死に、クロノも酷いことになっているが、何とか間に合った。「イグニス将軍は?」「イグニスは王都で、アクアはふん縛って屋敷の地下に転がしとる。シオンはそこじゃ」 神官さんは下を指差した。 クロノが下を見ると、そこにシオンがいた。 シオンはベッドに寄り掛かって眠っている。「そう言えば、傷は?」「ワシは何もしとらん」 シオンさんかな? とクロノはシオンの前髪に触れた。 すると、シオンの睫が微かに揺れた。 シオンは薄く目を開き、ガバッと体を起こした。「クロノ様!」 シオンはクロノを見つめた。 大粒の涙がシオンの目から零れ落ちる。「良かった。生きててくれた」「むふ、ここは若い者に任せるとしようかの」 どっこらせ、と神官さんは部屋から出て行った。 部屋を出る直前に卑猥なジェスチャーをしていったので、色々と台無しだった。「シオンさん、神様と仲直りできた?」「えっと、その、多分、できたと思います」 シオンは困ったように笑った。「そっか」 クロノは相槌を打ったが、シオンの悩みは尽きないようだ。 うん、まあ、クロノもシオンに聞きたいことがある。「シオンさん?」「何ですか?」「シオンさんが傷を治してくれた、と神官さんから聞いたんだけど」 はい、とシオンは真面目な顔で頷いた。「当然、脇腹を貫かれたからには腸の内容物が出たと思うんだ」 はぁ、とシオンは分かっていないようだ。「その内容物はどうなったの? いや、理屈を求める方がおかしいと思うんだけど、どうなの?」 そんなことを言われても、とシオンは泣きそうな顔で俯いた。 泣きたいのはクロノの方だ。「後遺症が出なければ良いな~」 クロノは天井を見上げた。※「報告は以上です」「うむ、休んで良いぞ」 レイラが報告を終えると、ティリア皇女は鷹揚に頷いた。 レイラとティリア皇女は侯爵邸の……クロノの執務室にいる。 ティリア皇女はレイラが想像していたよりも遙かに有能だった。 庶民の生活や作物などの相場にも明るい。 フットワークも軽く、精力的に視察もこなしている。 レイラが把握している限り、評判も上々のようだ。「どうした?」「いえ、何でもありません」 レイラは努めて冷静に答えた。「何でもないという顔をしていないぞ。怒らないから、言え」「ティリア皇女は想像していたよりも有能だ、と考えていました」「失礼だぞ、ハーフエルフ!」 ティリア皇女は柳眉を逆立て、バンッと机を叩いた。 これまで何度か繰り返されたやりとりである。 レイラが黙っていれば、ティリア皇女はそれはそれで怒るのだ。 しかし、とレイラは思う。 ティリア皇女はその気になれば皇位を取り戻せるはずだ。 完全に無能ならまだしも、領主代行を苦もなくこなせる能力があるのだ。 奪われたものを取り戻したいと考えても不思議ではない。「ティリア皇女は皇位に未練がないのですか?」「ないぞ」 ティリア皇女はきっぱりと言い切った。「何故ですか?」「クロノと敵対したくないからだ」 レイラが黙っていると、ティリア皇女は腕を組み、溜息を吐いた。「酷い言い様だが、クロノは疫病みたいな男だ。念のために言っておくが、あくまで比喩だぞ? クロノがそういう性質を持っているという意味の」 ティリア皇女は頬杖を突いた。 ティリア皇女に似つかわしくない物憂げな表情だった。「レイラ、お前達が望む通りにクロノは帝国を滅ぼすぞ?」※ 数日後、ある版画がカリナの街に撒かれた。 版画は『神殿』を批判するものだった。 平時であれば版画は効果を発揮しなかったかも知れない。 だが、カリナの街では神官を助けようとした浮浪者が殺されたばかりだった。 何故、浮浪者が殺されたのか。 何故、神官は追われていたのか。 住民達はその答えを追われていた神官の言葉に見出した。 『黄土にして豊穣を司る女神』は大地の恵みを分かち合うことを望んでいる。 住民達の知る『神殿』とは祭祀を司る存在だ。 寄付をすれば、神官は神の力……神威術で恵みを与えてくれるが、人々のために行動しない。 神官は神に仕えるもので、人に仕えるものではないからだ。 住民達は釈然としないものを感じながら、それぞれの日常を過ごした。 囁きが日常に紛れ込んでいるとも知らずに。 『神殿』は神の言葉を正しく伝えていないのではないか? その囁きは人々の心に刻み込まれた。 住民達は日常のふとした瞬間に、自警団として活動する『神殿』の有志……ナイトレンジャーの噂を聞くたびに囁きを思い出した。 元々、住民達は『神殿』に不満を抱いていた。 囁きは住民達を後押ししただけだ。 神殿に対する疑念がゆっくりと広がっていく。 浮浪者に、貧困層に、平民に、新しい交易路を得た貴族に、そして、街から街へ。 もし、その流れを俯瞰することができたのならば、こんな感想を抱くかも知れない。 まるで疫病のようだ、と。