The Other Side of Rain
The Other Side of Rain
※冒頭、モブおじさんから、夢主がいやなことされた描写があります。お気をつけて。
※登場キャラ: ヒュー・ジャクソン(48):グレショ、Brioniのヒュー・Jャックマンイメージ。バー経営。
夢主:Kingsmanで働くテイラー。ノット諜報員。
その日、ロンドンの雨は叩きつけるような激しさだった。
リヒトは乱れたシャツと髪の毛のまま、絢爛豪華なリッツを飛び出した。
どうしようもなくムシャクシャしていた。
手首の内側、へその下、柔らかなところを、湿った手で擦られた感触がまだ残っている。そこから皮膚が腐っていくような気持ちになる。強引にベッドに引きずり込まれそうになった所を、どうにか逃げ出してきたところだった。雨からカバンの中身だけは守ろうと、上着の中に抱き抱え、ロンドンの街を走る。
「ハァ、ハァ」
リヒトは上得意客にどうしても、と言われて、新たな客の採寸をしに客室を訪問したところだった。
まさか、あんなに無礼な客が待っているとは想像していなかった。
思えばバスローブ姿で出迎えられた時に、帰ってしまえば良かったのだ。後から対応を思いつき、気持ちは更に沈む。
びしょ濡れになり、街に立ち尽くす。雨足は弱まっていたが、ロンドンっこもさすがに傘をさすくらいの雨量だ。このまま傘を買って、帰ろうか、でも、この気持ちを引きずったまま帰りたくない。
打ち付ける雨の間に、ポン、とひとつピアノの音が聞こえた。
雨粒が落ちる中、真っ直ぐに届いたそれ。懐かしいミュージカルナンバーだ。お芝居の稽古場があっただろうか。賑やかな街の喧騒から少しだけ離れた、シェパーズマーケット裏路地。リヒトは音に惹かれるように、ふらふらと歩く。
音に導かれた先は、蔦の這う古めかしい小さなビルディングだった。
「The Interval」──旧い木製の扉に、赤銅色のプレートが下がり、小さな文字か刻印されている。リヒトは今の自分に丁度いい名前、と思いながらその文字を濡れた手でなぞった。ピアノはこの中から聞こえていた。中を伺おうにも、窓も何もない。ここは何なんだろう。お店だろうか。一見しては、わからない。中を覗いて尋ねようか、どうしようかと思っていると、重厚な扉が開かれた。中から現れたのは髭を蓄えた粗野で魅力的な長身の男だ。
男は一瞬、目を大きく開き、それから低く響きのいい声で紡ぐ。
「……おや、濡れネズミか」
「あ……」
上等な生地で作られたスーツが濡れそぼっているのを見やると、軽く一歩退き室内を示す。
「ここは酒と軽い食事を出す店だ。ああ、それから屋根がある。寄ってくか?」
「は、はい……」
深く魅力的な声だ。リヒトは思わず頷いていた。
それから、おずおずと、扉を開いてくれる男の腕の下をくぐる。
中に入ると、暖かな空気が冷えた身体を包み込む。目の前には広い天井と剥き出しの梁、それから煉瓦作りの壁が広がっていた。やわらかな橙色の照明の下には、ソファとローテーブル。二人がけの小さなテーブルと椅子。入って左手にキッチン兼カウンター席があり、右手壁際にはアップライトピアノが設えてある。客はまだいない。
「あ……」
「おっと、そこで動くなよ」
ほっとして肩の力を抜き、リヒトが動こうとしたところで声がかかる。思わずビクリと身を固くすると男が笑いを含んだ声で、大きな足取りでリヒトの元までやってきた。
「ほらタオルだ」
「すみません……」
大きなバスタオルを肩からかぶせられる。それから、頭の上にもかけられる。ごわごわとした使い古しのタオルだったが、酷く安心した。リヒトは鞄を抱えたまま、片手で髪の毛をぬぐい、深く息をつく。
「ジャケットはそこへ。鞄も適当に。好きなところに座って」
「……」
コートかけに水で重くなった上着をかけて、ゆっくりと歩く。革靴がグチョリといやな音を立てた。
恐る恐る歩きながら、男がテキパキと何かを準備するカウンターの近くに寄る。スツールに腰掛け、ハ、と声を漏らしながら壁を照らす間接照明を眺める。
少し警戒した様子で辺りを見回す様子に、男は吐息しながら笑う。まるでそう……初めての家を観察する猫のようだ、と思う。濡れそぼった金の髪が、灯りの下で僅かに輝く。
「それで、傘も差さず探検か?子猫さん」
「子猫……ぼく、昇格しました?」
「……ああ、食物連鎖のひとつ上へようこそ」
肩を竦めた男に、ふ、と笑う。目の前に差し出されたのはシナモンが香るアップルティーだった。湯気がゆったりと空間にたゆたう。
「これ……」
「サービスだよ、子猫さん」
「……リヒト」
「うん?」
「リヒトです。マスター、ありがとう」
そっと手にとり、ふうと息をふきかけて一口すする。なんてことはないどこにでもあるフレーバーティー。けれどこの時のリヒトにはとても効く薬となった。
途端、ぼろりと涙が零れた。
先程の恐怖とそれから対処出来なかった自分への情けなさが一気に押し寄せて、後から後から涙が溢れてくる。慌てて下を向いて、借りたタオルで顔を覆う。息が上がりそうになり、静かに息を吐き出す。
だめだ、初対面の人の前で泣くなんて。こんなに親切にして貰っているのに、突然泣くなんて相手が気を遣うに決まってる。
数呼吸肩で息をすると、リヒトはぐい、と涙を拭い顔を上げた。貼り付けるのは笑顔。Kingsmanで叩き込まれた御客に向けるためのそれ。しかし小さく頬が震えるのはまだ未熟者という印だろうか。
「紅茶、ありがとうございます。おいしいです」
そう言って、また一口、二口と紅茶を喉に流し込む。胃の腑まで流れ込むそれが、身体をじわりと温めた。このまま柔らかなぬくもりに身体を委ねてしまいたい。そう思っていると、男が何か思案するように首を傾ける。
「……ヒューだ」
「ヒュー、さん?」
「ああ。リヒト。よろしく」
大きな手を差し出される。慈愛深い瞳でじっと此方を眺め、粗野な笑みを向ける男にぎこちなく手を握り返せば、乾いた分厚い手でぎゅっと握られる。
「Crikey!とんでもなく冷たいな!」
「あ、すみませ……っ」
聞き慣れぬ言葉に一瞬理解が遅れる。Crikey...?と小首を傾げるが、男は何も返さずカウンター越しにリヒトの両肩に手を据えゴシゴシと擦る。
突然の予測せぬ接触に、リヒトはビクリと身体を跳ねさせた。数十分前の事が頭をよぎる。
「おっと、悪い。ほら、毛布をやろう。何か食べるか?」
「あの、メニューは」
「ない。今日のおすすめはバゲットを沈めたオニオンスープ」
「ふ、ふふ。じゃあそれで」
酒と食事を今日するお店じゃなかったんだろうか、と思いながらなぜだか男の偉そうなメニュー紹介がおかしくて、笑いが零れる。
「ちょっと待ってろ」
小鍋を取り出し調理を始める男。自然鼻歌がもれるようで、その声も心地良い。
リヒトはそれを子守歌のように聞き、男の背を眺めながらまどろんだ。
カウンターに頬杖をつき、目をつむる。誰かが料理する音ってこんなに心地いいっけ、と思いながら、鼻をくすぐる香りに頬を緩める。
どのくらいそうしていただろうか。5分か10分……いやそれ以上かもしれない。リヒトは少しだけ眠っていたようだ。少しだけ頭の中がすっきりとしていた。
「出来たぞ」
「……あ」
チーズを乗せ、軽くオーブンで炙ったオニオンスープが目の前に置かれる。
鼻腔を刺激する香しいタマネギとチーズ。思わず口の中に唾液が溢れて、小さく唾をのむ。
「いただきます」
スプーンを持ち一口すする。ブイヨンと野菜の香りが口いっぱいに広がった。
「……おいしい」
ぽつりと出た声にヒューが満足そうに鼻をならす。
「なら、よかった」
静かな店内には外で降りしきる雨が、バックミュージックのように聞こえた。
リヒトはまた一口スープを口に入れる。
身体の奥にじわりと温かさが戻ってくるようだった。
半分ほどに減ったスープを見て、それから男を見やればパチリと目が合って、驚く。
男はリヒトが食事する様子を、シンクにもたれながら見ていたらしい。手には琥珀色の液体をいれたグラスが握られている。
「……ああ顔色がよくなった」
「ありがとうございます。あの、バゲット、もう一つ頂いていいですか?」
「ベーコンとポテトもあるぞ?……飲める年齢か?」
「飲めます。じゃあ……あまり強くないものおすすめありますか。それとベーコンとポテトを」
肩に載せていたタオルを取り払い、簡単に畳んでテーブルに載せる。
男は腕まくりをし、リヒトのためにグラスに酒を注いだ後、フライパンを握る。今度は歌付きだ。
「子猫がいっぴきおりました。雨でずぶぬれしとしとで」
「なんですか、それ」
クスクスと肩を揺らして笑う。大分乾いた髪の毛の隙間から男を見れば、ドキリとするようなまっすぐな視線とぶつかった。ヘーゼルの瞳が思いのほか近く感じられる。不思議と、目を反らせず小さく息を呑む。
「即興で歌うのが得意なんだ」
「歌声は素敵ですけど、作詞のセンスはあんまりなさそう」
「アウチ。やられたな」
額を手の平で打ち、豪快に笑う男。リヒトもつられて笑みを零す。
ガーリックの香りに、口の中で転がる芳醇なホット・ベルモット。
もう少し、ここで雨宿りをしていくのもいいかなと思った。