Twilight in Red
Twilight in Red
※登場キャラ
マッツ・ヨハンセン:イメージはZニアのアンバサダー、CンパリのCMのマッツ。
ギャラリー・オーナー。
ロンドンの秋の夕暮れはまだもう少し家に帰りたくないような、人々の間に漂っていたいような気持ちにさせられる。ソーホーをぶらついていたのは、そんな季節であったことと、青年が昼間に受けたストレスを何かで紛らわせたいためだった。
サヴィル・ロウの老舗テーラーKingsmanで働く彼は、数時間前顧客から理不尽な罵声を浴びせられたところだった。高級洋装店の客はほとんどが上品な人々で、怒りを露わにするにしても上品で英国流な嫌味を浴びせることが常なのだが、今日の客は違った。詳細な控えもある注文だというのに、全て間違っていると詰ったのだ。おまけにリヒトを見下ろして、こんな情けない枯れ木のような若者を雇うと質が落ちるとまくしたてた。
完全にお門違いな叱責だが、真正面からの罵声にリヒトは驚き萎縮してしまった。堂々としていればいいのに、逃げ出したい気持ちになってしまった。怒声に驚いた年長のテイラーが眉間に皺を寄せ、リヒトの前に庇うように立ってくれたが、対処出来なかった自分が酷く情けない。
こんな時にはビールを浴びるほど飲めばいいのかもしれない。けれどそんな元気も出なくて、フラフラとソーホーを彷徨う。
「ていうか、枯れ木って……」
大きな窓硝子に映る己の姿を見やる。たしかに恰幅が良い方ではないし、筋肉だってあまりついていない。けれど平均くらいだろうに、と思っているとぼんやりと映る己の姿の向こうに抽象画が飾られているのを認めた。
「わ……」
青と緑のランダムな筆致。何が描かれているのかはわからないが静かな印象のキャンバスはこちらを包み込んでくれるような優しさを持っている。少し顔の角度を変えて店の中を覗けば白い壁に数枚の絵が飾られていた。それ以外はだだっ広く空間を贅沢に使っている。こんなところにギャラリーなんてあったんだ、と思いながらリヒトはそっと扉に手をかけた。
「……こんにちは」
そろりと首だけ覗かせるがギャラリーには誰もいない。働いている人は奥に行ってしまっているんだろうか。ト、ト、とコンクリートの床面にオックスフォードの靴底が鳴るのを感じながらリヒトは部屋の中央まで歩いて行く。
「わぁ……」
店の外から惹かれた絵画は、間近で見るとますます魅力的であった。
たっぷりとした油絵の具がキャンバスに乗り、近づいてみるとその力強さを感じる。けれどそれは、疲れているリヒトが圧倒される類いのものではない。その場で輝きを放っている絵画は、堂々としていて青年は思わず目を細めた。
「ああ……」
「やぁ、こんばんは」
思わず呟いてしまったところで、店のオーナーらしき男が現れた。
一目で仕立てがいいとわかる上等なスーツ姿にリヒトは息を呑む。
ブラックのシャツに墨色の細番手の糸で織られたスーツが六フィートはある男の体躯を包んでいる。ノーネクタイで首元を少し開けたスタイルは、なるほどギャラリーのオーナーらしいといったところか。
幅広のラペル、力強いショルダーライン──たしかイタリアのブランドのものだ、と心の中で呟いて、静かに嘆息する。男の体躯はやや細身であるが肩から腰のラインが綺麗な逆三角形になっており、特徴的なシルエットを身に纏う風格がある。こんな風にスーツを着こなせるなんて憧れちゃうな、と心中で呟く。
男は眼窩(がんか)の窪みが特徴的な瞳をきゅ、と細くしてリヒトに薄く笑いかけた。青年は慌てて口を開く。
「あ、あの、こんにちは、その──あの、えっと、見るだけでもいいですか?」
「もちろん。彼らは見られるためにここに存在するからね」
「……ありがとう、ございます」
買い求める財力がないと暗に込めたつもりだったが、男は鷹揚に頷いてよかったらと薄くクッションのついたベンチを指し示した。
「もうすぐ閉める時間だけど、ゆっくりしていって」
「ありがとう……」
「その絵が気に入った?」
「はい、ええ……優しくて堂々とそこにあって、すごく惹かれます。でも買えるお金も飾る部屋もないんですけど」
最後は早口になって笑みを交えると、男は静かに視線を向ける。
「それは若い作家のものだよ、君とそう年も変わらないんじゃないかな」
「そう、なんですね」
新緑と青空、そこを吹き抜ける風。油絵の具の中にそれらを感じて、ほぅと息をつく。見ていると、一日の疲れが溶けていくような感覚を味わう。
男は青年が解説に耳を傾けていないとわかると、静かに微笑んでその場から離れた。ちら、と振り返り、年若い青年が口を少しだけ開き、陶然とした表情で絵画を眺める姿をどこか艶めかしい、と思うのだった。
*****
「あの、ありがとうございました」
「もういいのかい?」
「はい。長居をしてしまってすみません」
腕時計をみればもう数十分は経っていた。時刻は七時半を過ぎている。カウンター側にあった名刺には、店の営業時間は七時までと書いてあった。少し申し訳ない気持ちになる。
「……人が絵を買う理由が、少し解った気がします」
「そう。それは嬉しいね」
気付けば、リヒトの身体にのしかかっていた疲れが和らいでいた。癒やしの力があるのだな、と思い、ふわりと頬を緩めれば、男は歓迎するように頷いた。
店の入り口まで青年を誘うと、男はその場に止まって青年自身が扉を開くのを待つ。
「ありがとうございます」
「どうぞ気をつけて帰って」
微笑み、心地の良い声で送り出されたリヒトは名残惜しくギャラリーを振り返りながら一歩、通りへ出た。
その瞬間、頭部が鈍く激しい衝撃に襲われる。
額を正面から殴られたような痛み。チカチカと目の前で星が弾ける。
次いで、頭からどろりとした何かが滴り落ちた。
呆然としながら拭った手のひらには、赤々とした液体が溢れる。僅かな粘性のある赤とやわらかな果肉……酸味のある香り。それは血ではなく、缶入りのトマト・ピューレだった。
「地球のことを考えろ!アートに使う金を環境活動に使え!!」
「環境破壊反対!!地球を守れ!!!」
「……っは……?」
「君!大丈夫か?!」
リヒトの目の前で大きな声でがなりたてる若者二人。思わず視線をあげるが、彼らはバタバタと足音を立て遠ざかっていった。
ソーホーを歩く人々はこの騒動に注目したが、あまりの出来事に遠巻きに見るだけだ。
慌ててギャラリーから出てきたのは、先程までリヒトが話していた男であった。彼は自らの服が汚れるのも構わず、リヒトの顔や頭部に手を当てる。
「見せてご覧」
「あ、あの、だめです……!あなたまで汚れちゃう」
「いいから。怪我は?額を切ったか?」
大きく筋の張った手が労るようにリヒトの頭を撫でる。
「トマトの、汚れは取りにくい、ので……」
「Shhhh……黙って、見せてくれ」
顔をそらして男から逃れようとするが、男はそれを許さないとばかりにリヒトの顔を両手で捉えた。突然の辱めを受けたリヒトは、戸惑いと混乱で、じわりと涙が浮かぶまま男を見つめた。後から羞恥も追いかけてきて、頬が熱くなる。
正面から青年の顔見た男は息を呑みかけた。青年の表情が、まるで男だけが頼りと訴えるように見えたからだ。
「とにかく中に入ろう。額は冷やした方がいいね」
「ありがとうございます……オーナーの……」
「マッツ。君は?」
「マッツ、さん……リヒト、リヒト・ハートです……あの、でもお店が汚れてしまうから、僕はこのまま帰ります」
リヒトは美しいギャラリーの入口をこれ以上トマトで汚さぬようにと後ずさる。
けれどしかし、それは男の力強い手が阻んだ。
「まさか、このまま君を帰させる?そんなことが出来るとでも?」
「あっ……!」
ぐ、と男がリヒトの腕を掴んだと思うと、素晴らしい仕立てのスーツに青年の頭を引き寄せる。滑らかな生地が頬に当たり、若いテーラーは血の気が引いた。美しい墨色のスーツにトマト・ピューレがじわりと染み込んでいく。
「あなた、なにを……!」
「おや、これで僕のスーツも汚れたね。どうだろう、ギャラリーが汚れると気遣ってくれるなら、このまま二人でトマトの匂いをさせて、僕の家に来るのは?歩いて五分もかからないよ」
悪戯っぽく微笑むと、マッツはリヒトの頬に付いたトマト・ピューレを親指で拭い、ペロリと舐めた。
あ、とリヒト か細い声が漏れる。まるで彼自身の指が舐められたかのような声音だな、と思いながら男は心中で笑んだ。
「んん、少し塩気が欲しいかな」
「ふ、あ、はは……なん、なんて人だろ……!」
男の行動は、リヒトの遠慮と緊張を解くためなのだろうが、あまりに大胆だ。青年は彼の度を超えた親切さに思わず笑ってしまう。初対面の人間相手に、こんなに心を砕いてくれる人なんているだろうか? 突然の暴力に強ばっていた気持ちがすぅと和らぐ。
「今日の食事はトマトスープにしようか?」
「ふ、ふふ、もうやめて……っ」
肩を丸めて笑い出すリヒトの手を取って、男はフィッツロヴィアの自宅まで案内するのだった。
※ラストに性的関係を示す文章があります。描写は純文学程度です。苦手な方はバックバック。
男の住まいはヴィクトリアン・フラットで、2階に位置していた。19世紀後半に建築されたであろう赤煉瓦の美しい佇まいは、男によく似合っている。
「素敵なおうちですね……」
「ああ、僕も気に入ってるんだ。靴を脱いで貰ってもいいかな。スリッパを出すから」
「あの、その前にバケツか、袋を貸して頂けませんか?」
玄関の大理石を越えた先の床は絨毯張りで、男はその場で靴を脱ぎスリッパに履き替える。リヒトは靴を脱ぎかけて、髪の毛から香るトマトに己の惨状を思い出す。
「ああ、いいとも」
男は一瞬考えるように首を傾げるがすぐに部屋の奥へ入っていった。そして紙袋をひとつ取って戻ってくると、そこには下着のTシャツとトラウザーズという無防備な姿になった青年がいて目を瞠る。
青年の姿はギャラリーに来た時よりもぐんと幼く、男の庇護欲と仄かな支配欲がかき立てられた。真っ白な二の腕には赤いキスマークが映えるだろうと思ってしまう。
男はそれを顔には出さず、眉をあげながら紙袋を差し出した。
「……寒くはない?」
「あ、ありがとうございます」
「ジャケットを脱ぐだけかと思ったが」
「シャツにも結構ついちゃってて」
トマトの汚れが室内に落ちぬよう、ジャケットとシャツの表を内側に畳んだリヒトが苦笑する。白いインナーシャツにもうっすらとトマトのシミがついていた。相当派手に缶をぶつけられたのだと改めてわかり、マッツは眉を顰める。
次いで、視線が向かうのはTシャツから伸びた青年の腕だ。二の腕の半ばから露わになるそれは細いが筋肉がついていてきめ細やかな肌が目に眩しい。
年少の青年を愛でる嗜好は持ち合わせていないが、なかなかどうして惹かれてしまう。
「えっと……」
「ああ、預かろう」
「いえ、軽く洗おうかと……」
「シャワーを浴びてからでもいいんじゃないかな」
「だめです、もう大分しみてしまったし。貴方のスーツも!クリーニングに出す前にタオルを当てて汚れを移さないと……!」
未だスーツを着たままだったマッツの胸元に近づくリヒト。思わず触れそうになったところで、やりすぎた、と思い一歩下がった。
「……すみません」
「いいや。気遣いをありがとう……もしかして、衣料品関係の仕事を?」
「テイラーに勤めています」
「なるほど。スーツが汚れて、顔を青くしたわけだ」
「だって、貴方のスーツ、僕のものの何倍だと……!それを、あんな風に!」
文句を言われそうになり、マッツはおどけたように手を広げ、そして冷え始めた青年の肩に触れた。
「とにかく、シャワーを浴びておいで。服は貸してあげるから」
「すみません、何からなにまでありがとうございます」
ぎこちなくスリッパを履きながら廊下を歩くリヒトの背を押し、浴室に押し込むとマッツは軽くウィンクをした。
「ごゆっくり。ああバスタオルだけで出てきてくれてもいいよ。こっちは一人暮らしだからね」
「……ずっとシャワー室にこもっていましょうか」
「ふふ、少し大きいだろうけどスウェットを貸そう」
あまりに恐縮すると冗談を言ってこちらを緩ませてくる彼の気遣いに気がついて、リヒトは微笑んだ。その後くしゃみをひとつして、慌ててバスルームに入るのだった。
「……あの、シャワーありがとうございました」
シャワーを浴び、借りたタオルでトマトの汚れもある程度取り終えたリヒトは、マッツの服を着てリビングへ足を踏み入れた。彼の前に足を踏み出すのをやや躊躇してしまうのは、借りた服があまりにサイズが大きかったからだ。子供が大人の服を借りているような気持ちになって、少々気恥ずかしい。
男も着替えており、柔らかなニットと品の良いコットンパンツという出で立ちだった。フォグ・ブルーの淡く落ち着いたカシミヤ・セーターは、男の肩のラインと胸の筋肉に沿って彼の肉体の魅力を優しく主張する。
それを見てリヒトは男の体格の美しさを改めて感じ、ほうと息をついた。
スーツの時にも思ったが、彼は細身ながら均整の取れた体つきだ。
マグカップを持ってきた男が穏やかに尋ねる。
「あたたまったかい?着心地はどうかな?」
「ありがとうございます。この服も……やわらかいし、素晴らしいです。オーガニックコットンを売りにするブランドですよね」
柔らかい生地は肌触りもよく、軽く、空気をはらんで温かい。ルームウェアだというのに、たしか200ポンドはしたはずだ、と記憶を探りリヒトはこくりと唾を飲み込んだ。
「友人が勤める会社でね。気に入ってるんだ」
「……そうですか」
さすがソーホーにギャラリーを持つ男だ。普段着も相応のものを揃えているようだ。
自分の姿を見せるのも得意なようだし、もしかするとファッション関係の仕事──モデルをしているのかもしれないな、とも思う。フラッシュを浴びて写真を撮られる男の姿を思い描き、ぴったりだ、と感じる。
男はカップをローテーブルに置きながら、ソファをすすめた。
「ハーブティーでいいかな。今日は色々あっただろう?落ち着くかと思ってね」
「ありがとうございます……」
廊下と同様に絨毯張りのリビングルームはマントルピースを正面にして深いグリーンのソファが置いてあり、ソファの前にはローテーブルがある。肘掛けの側のサイドテーブルには、雑誌と本が数冊重なっていた。スタンドランプは読書の時に使うのだろうか。無造作に置かれた細身の眼鏡が、男の年を感じさせた。
「読書、お好きなんですか?」
「ああ……手慰みに」
「趣味、って言わないんですか?」
「どうだろう」
リヒトはまだ少し緊張した様子でソファに浅く腰掛けて、ハーブティーをすする。
カモミールの豊かな香りがゆったりとリヒトの身体を包み込む。優しい味わいにほぅ、と思わず息をつき肩の力を抜くと、隣から小さな笑い声が聞こえた。
「……何か、顔についていますか?」
「いいや……ただ、よかったと思ったんだ。本当に怪我はしていない?」
ギャラリーでざっと見たときには気付かなかった傷があるかもしれない。男が額に手を伸ばすと、リヒトは逃げることはせずじっと彼を見返し、微笑んだ。
額をくすぐられるのを自然に受け入れる青年に、マッツは眉を上げる。
「お優しいですね。ありがとうございます。痛いところもありませんよ」
「けれど、こぶが出来ているね。冷やした方が良い。うしろに寄りかかりなさい」
男は席を立つと、手早く氷嚢を作って戻ってきた。やわらかな布巾に包まれた冷たい感触に、リヒトは目を瞑る。促され、ソファに深く座り直して身体を埋める。
「……なんだか、子供の頃に戻ったみたいですね」
「たんこぶをつくるのが?」
「こうして……手当をされるのが」
大分リラックスしたのだろうリヒトは身体の力を抜いて、男を仰ぐように見上げた。
喉元を晒し、うっすら目蓋を上げた姿は敵に腹を見せた草食動物にも似て、酷く無防備だった。まるで、どうぞいつでも食べて、と言われているような気になり、マッツは小さく唾を飲み込む。
「そういえば、そのお名前……北欧のご出身ですか?」
今にも眠りそうになりながら、リヒトは尋ねる。
マッツ、という響きはこの辺りでは珍しい。プライバシーに踏み込むのは失礼だろうか、と思いつつも彼の出自に興味があり質問してみた。
「ああ、出身はデンマークだよ」
「故郷では違う発音ですか?えっと、綴りはMatsでしょうか?」
「いいや。M-A-D-Sだよ」
「デンマーク語は、dが無音になるから、マス?メス?でしょうか?」
天井を見ながら、ゆっくり慎重に発音を試す姿に、男は目を細める。
「勉強熱心だね。こっちを見て、『Mæs』だ」
「マ……ん、メァ、ス……?」
男の口元をじっくりと観察し、なぞるように声を出す。
仰向けになったまま首を傾け、喘ぐように男の名を呼ぶ姿は酷く官能的だが、当人にはその自覚はない。
「ふふ、悪くないね」
「う、お名前だけでも近づけたいと思うんですけど、生意気、でしたでしょうか……」
「その気持ちと君の努力は伝わっているよ。ありがとう……もう一度だけ、呼んでみてくれないかな」
「でも……」
起き上がったリヒトの手からそっと氷嚢を取り上げて、男は顔を近づけた。リヒトは驚き、瞬きをする。
「さぁ、もう一度。語尾のsは舌をどこにも付けずに、溜息をつくように」
やわらかな吐息が鼻先を擽る。ハーブティーの奥にほんのりとした煙草が香る。あと少し顔を傾ければキスが出来そうな距離感に、リヒトはカッと頬を赤くする。後ずさろうにも後ろには背もたれがあり、先程と同じようにやわらかなクッションに身体を埋めるだけになる。
「……メ、メァス?」
「上出来だ」
吐息混じりに名を呼ぶリヒトの顎をそっと持ち上げ、マッツはご褒美と言わんばかりに優しく微笑んで口付けを贈った。
柔らかく触れるだけの口付けをすると、今度は悪戯っぽく微笑んで吐息を飲み込むような深い口付けへと変えていく。
リヒトは唇を食まれ、ぞくぞくと背筋に快感が走る。初めて会った相手だというのに、嫌悪感は微塵も湧かず、それどころか口付けを深くされるたび心地良さを覚える。柔らかな男の体臭とコロン、ハーブティー、それから僅かに香る柔軟剤。それらが鼻腔から脳内をとろかせていく。
「ん、あ……ふ、マ、ス、さん……ぁあ」
抗わなければ、と思うのに身体は言うことを聞いてくれなくて、男の肩に縋るだけになる。
舌を吸われ、ぬとりと舐められ、リヒトは身体を震わせながらそれに応えた。目を瞑って口付けの気持ちよさにひたっていると、ちゅ、とリップ音を立てて唇が離れた。
男の薄い唇と深いアンバーの瞳が愉しげに歪む。
「もう少し、温かいところにいこうか」
「……あ」
軽々抱き上げられたリヒトは、思わず男の首にすがりつく。
その拍子にパンツが見えるほどズボンがずり下がり、ひやりとした空気が興奮した肌に触れた。
「ひ」
「おや」
男はリヒトを抱き上げたまま、器用にスウェットパンツを引き上げた。
「ベッドルームからの方が玄関が近い。君はいつでも引き返せるよ」
歌うように言いながら、廊下を歩み寝室へ入る。セントラルヒーティングが備わるフラットは、誰もいない寝室も温かかった。
ちゅ、と優しく額にキスをして、少しだけひんやりとしたベッドにリヒトを横たわらせ、視線を合わせる。
「シーツはまだ暖まっていない。さてどうしようか」
「あ……」
ぎ、とベッドにのしかかり、男は長い両腕を檻のようにしてリヒトを囲う。
こちらを見下ろしながら選択を委ねさせる言葉を紡ぐ。しかし男の瞳は欲望を孕み、獲物を前にした獣の色を宿していた。
「みっつ数えたら、もう一度キスをしようかな」
「マッツ、さん……」
「もうデンマーク語呼びは試してくれない?」
「あ……」
「ひとつ」
カウントが始まった。リヒトは喉をコクリと鳴らす。
拒否するなら、三つ数え終わる前に、動かなくてはいけない。だが心がすでに求めているのか、ピクリとも身体が動かなくて、言い訳の言葉すらも思いつかない。リヒトは頬を染めたまま、胸を大きく上下させ呼吸を繰り返す。
「ふたつ……目が潤んでるね、こわいかな?」
「こわくは、ない……です」
「そう……みっつ」
言いながら男はリヒトに覆い被さり、唇を合わせた。触れ合わせるだけの、柔らかなプレッシャーキス。そっと確かめるようにリヒトの瞳を覗き込んで、目尻からこぼれ落ちた涙を指先で拭う。
「カモミールの味がするね」
「あ……」
それだけ言うと、男は再び唇を塞ぎ、官能をすり込むようにリヒトの肌を撫で上げた。 熱い男の身体をその細い身で受け止めて、リヒトは甘く高く喘ぐ。
「マ、メァ……ス、さん……っ、んんっ、気持ちいい……です……」
必死になって男の名を呼ぼうとする姿に、男は胸が熱くなる。
「リヒト……ッ」
「ん……あ、ごめんなさ……ねむ、くて……」
顧みれば、今日は客からの理不尽な叱責、他人からトマト缶を投げつけられるなど心身をすり減らすことが続いた。加えて男から大きな快楽を与えられ、疲れ果てた身体はすぐにでも夢の世界に落ちていきそうだった。多幸感を覚えながら、リヒトはゆっくりと男の胸元をなぞる。
「マァスさま、ん……あったかい……です」
つい仕事の時に使う敬称を用いてしまったがリヒトは気付かない。
目蓋を閉じ、すうすうと規則正しく寝息を立て始めたリヒトに、男は一瞬面食らい、そして苦笑した。
「ハハ、これは、敵わないな……」
無防備な寝顔を見下ろすと、男は身体を離した。そして、まだ大人になりきれていない柔らかな頬をなぞる。
「おやすみ、リヒト」
ちゅ、と優しく触れるだけのキスを落とし、汗ばんだ額に張り付く髪をそっとどけてやる。そして、後片付けをするためにまだ熱の残る身体をベッドから離すのだった。
※本文に出てきたデンマーク語の発音に関しては、インターネット検索と創作で出来ています。ご容赦下さい。