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Morning Grey

Lover, Tailor, Soldier, Spy — www.pixiv.net · All chapters

Morning Grey

こちらの続きです。

※登場キャラ;マッツ・ヨハンセン(ギャラリーオーナー/ 外見はMッツ・Mケルセン Zニア、Caンパリのイメージ)

ヒュー・ダンズフォード(美術品鑑定士/ 外見イメージはヒュー・Dンシー Dウントン・アビーなど)

トム・アッシュフォード(悪の組織Jaguarエージェント/ 外見イメージはトMヒ、JaguarのCMなど)

まどろみとはどうしてこんなにも甘美なのだろうか。

リヒトは柔らかな枕に顔を押し付けたまま、まだ目覚めたくないと思ってしまう。触り心地のいい超長綿のシーツ、ふっくらとした羽毛の感触に手を沈み込ませ、ううんと唸る。身体を受け止めるスプリングが固すぎず柔らかすぎず、最高級のホテルにいるみたい、と思いふと我に返る。

ここはどこだっけ?温かいアンバーの香りは養父ハリー・ハートのそれとはまた別の物。では誰の?エグジーはもっと刺激の強い香水だし、自分はラストノートがこんなに香る物は付けない。ハリーと似て非なる大人の男だ……と思い至ったところで、昨晩のことをようやく思い出す。

顔に浴びたトマトの感触、優しく部屋まで誘った男の手──

「マァス、さま……」

ベッドの中でキスを交わす前に繰り返した発音。未だに上手く言えているのかわからないが、一度口に乗せれば頬がカァッと熱くなる。初めて会ったその日にキスをして、ベッドまで……しかも、しかも……

「ぼ、僕、寝落ち、した……?う、わ……」

独り満足して寝落ちなんて、最低だろ、と頭を抱える。いくら疲れていたとて、それはない、最悪最低、相手が年上だからといって許されることではない。リヒトは酷い自己嫌悪に陥り、シーツをかぶる。

「ハッ!え?!今何時?!」

そこで思い至る。本日は平日。労働者は朝から勤務なのである。

パシリと頬を叩いて己をベッドの住民から、サヴィル・ロウの勤め人に引き戻す。

自分はキングスマンのテイラー。昨日はギャラリーのオーナーに助けられて、ついでにやや過剰に介抱されてしまったが、社会人としてこれ以上落ちぶれるわけにはいかない。

礼儀正しくお礼を言って、無礼を謝罪して……可能なら後日、お詫びをしよう。それがいい。寝起きの頭でそこまで考えると、リヒトは勢いよくベッドから飛び降り、リビングに出た。

「お、おはようございますっ!Sir!」

「……やぁ、おはよう」

「……へ」

紅茶の香りが満ちたリビングにいたのは、巻き毛の美しい、スリーピースを完璧に着こなす男であった。整った甘い造作を隠すように無精髭を生やした男は、紅茶のカップを片手に持ち、青の瞳でリヒトの姿を一瞥する。

「……いいパジャマだ」

「え、あ、はっ!ええ?!」

言われて自分の着ている物を見下ろす。控えめな光沢のシルクのパジャマ──ただし、トップスだけ。濃紺のそれは、リヒトの体躯には大分大きく、肩は落ち、腿の付け根下まで裾が下りている。

恐らく──いいや絶対に、マッツの物だ。しかも上半身だけ。ズボンも穿かせてくれれば良かったのに!と昨晩の寝落ちの所業を棚上げしながら、リヒトは裸の足を隠すようにその場にしゃがみこむ。

「……ご無礼を……Sir……もうしわけ、ありません」

「マッツ、君の可愛い小鳥が泣きそうだ。助けたらどうだい?」

「こ、ことりって……」

「昨晩はさぞ、可愛くさえずったんだろう?おっと下品だったかな」

男はせせら笑いを浮かべながら、キッチンに立つ家主を呼んだ。

マッツは顔を覗かせると、おやと眉を上げる。

「ローブを置いておいたんだが、気がつかなかった?」

「すみません……」

マッツは寝室へローブを取りに行くと、大きな歩幅でリビングへ戻り、しゃがみこむ哀れな青年に着せかけた。

「シャワーを浴びておいで。着替えもおいてある」

「……何からなにまで、ありがとうございます」

「気にしないで──気にするならお礼のキスでも貰おうかな?」

「きす、ですか……?」

冗談めかした言葉に、リヒトは一瞬目を瞬く。そして、ソファに腰掛ける見知らぬ男を気にした後、意を決した顔でマッツの肩にそっと手を乗せた。

やわらかな瑞々しい唇がマッツの唇の側に触れてすぐに離れる。

まさか本当にキスをするとは思わなくて、男は目を瞠る。リヒトはその顔を覗き込み、ほんの少し照れて頬を赤らめた。しかし、その表情はただ挨拶をしただけと言わんばかりだ。

「あの、ありがとうございます……シャワーお借りします」

「……へぇ」

”来訪者”はリヒトがキスをする横顔と、つま先立ちをした裸足を目でなぞり、愉悦を含んだ溜息を漏らした。それから、先程までソファに深く腰掛けていた身体をゆっくりと起き上がらせ、バスルームへ向かう細い背中を鑑賞する。太腿をもっとよく見ておけばよかった、なんて残念に思う。

「ヒュー……」

「まだ何も言ってない」

「君の目が、語っているんだよ」

マッツはふーと溜息をつくが、頬に触れたリヒトの唇の感触を思い出すと口元が緩んでしまう。ヒューと呼ばれた四十路男はひょいと眉を上げて、含み笑いをしながら言った。

「君がそんなだらしない顔をするなんて珍しい。面白い物を見せてもらったよ」

紅茶を飲み干すと、男はおもむろに立ち上がった。

「お邪魔したね。甘い朝を過ごす予定だったんだろう?」

「……無事、届けてくれてありがとう」

「フッ、鑑定人をデリバリー業者扱い出来る美術商も、なかなかいまい」

マッツがリビングの壁──運ばれてきたばかりで梱包されたままの絵画をみやれば、ヒューは皮肉たっぷりに笑う。

男は名前をヒュー・ダンズフォード、王室にも出入りする美術鑑定士だ。マッツとは彼がギャラリーを開く前からの付き合いである。今日は大事な絵画を一幅、彼手ずから運んできたところだった。

じゃあこれで、とヒューが玄関へ向かおうとした瞬間、場違いな甲高い着信音が部屋に響いた。男たちはお互いに目配せするが、どちらの携帯端末でもない。肩を竦めるヒューは、廊下の端──シャワールームから慌てて飛び出してきた青年を認めた。

青年はマッツのものであろうオーバーサイズのオフホワイトのシャツとニット、そして同じく裾をまくり上げたブラウンのコットンパンツを身に着けていた。ウェストは可哀想なくらいに余っていて、ベルトで辛うじて支えているのがわかる。シャワーを浴び、上気した首元が、大きく開いた襟ぐりから覗いていた。

「す、すみません、僕の携帯です……!あ、え、トム様?!こんな朝早く、どうして?!」

オットマンに置いてあったワンショルダーのバッグからスマートフォンを取り出すと、リヒトは慌てて通話ボタンをスライドする。

待て、と伸ばしかけたマッツの手がリヒトに届く前に会話が始まる。

「お待たせいたしました。おはようございます、トム様。何か御用事でも……」

リヒトの声色は朝一番の電話だというのに、迷惑というよりもどこか嬉しげだ。マッツは僅かに眉を寄せた。

「……トム」

「”様”、ということは仕事上の相手かな。マッツ、彼は勤め先は?」

「……」

「わかった。自分で調べるよ」

剣呑な空気を纏い始めた男に軽く肩を竦めると、ヒューはリヒトの様子を見やった。リヒトは困惑しながら通話を続けている。

電話の相手は顧客兼友人のトム・アッシュフォードであった。いつも軽快に高級車を乗り回している細面で、グリーンの瞳が印象的な男だ。

トムはいつもよりも静かな、リヒトに言い聞かせるような声音で語りかける。

『今、ベランダに出られるかな……』

「え……?いま、ですか?ベランダに?あの、すみません僕、今、家にいなくて」

自宅は不在にしている。どうしようと思っていると、冷ややかな声が答える。

『知っているよ。フィッツロヴィアの赤い煉瓦のフラットだろう?』

現在地を迷うことなく言い当てられて、リヒトはぞくりと背筋を粟立たせる。

だが、彼の所属する組織はKingsmanと同じく諜報機関──何らかの利のために動く組織なのだと思い出す。一介のテイラーの居場所など、お見通しなのだろう。

「マッツさん、ベランダに出られますか?通りが見えるような……」

控えめにマッツに尋ねれば、男はやや強ばった顔に鷹揚な笑みを浮かべた。そして、リヒトをキッチンから見えるベランダへと案内する。

リヒトは屋外へ繋がるフランス窓を開けると、そこから通りを見下ろした。視線の先では電話の相手が、よく磨かれた愛車に身をもたれかけ此方を仰ぎ見ている。

「トム様!?」

「やあ、リヒト。職場まで送ろう。おりておいで」

リヒトが驚きの声をあげるのと、トムがゆっくり頷くのが同時だった。

穏やかな口調で迎えに来たことを告げるが、そのエメラルド色の瞳は、建物の影でぎらりと光る。いつになく緊迫した様子の男に、リヒトは何か重大なことがあったのだろうかと焦りつつ、帰り支度を整えた。

「あの、マッツさん、僕のスーツは……」

「朝一番に、世話になっているクリーニング店に預けたよ」

「そんな……っ、すみません!」

「仕上がりは早くとも今日の夕方か、明日の朝だろうね。預かっておくよ」

「わかりました。あの、ギャラリーにご連絡します。この服もお返ししないといけないし」

「ああ。下まで送ろう」

マッツはヒューを残したまま、リヒトの背中に触れて玄関へ促した。

鑑定士は好奇心をそそられて、先程リヒトが身を乗り出した窓辺まで顔を覗かせる。

ヒューの気配を感じたトムが、鋭い視線を送ってきた。上質なスーツと磨かれた革靴を皮膚のように纏っている。一目で上流階級の者だとわかるが、その目は猛獣のようで、今にも此方を射殺さんばかりだ。ヒューは小さく肩を竦める。

「おやおや……中々手強そうだぞ、彼は」

クスリと微笑むと、友人と小さな小鳥の様子を階上から見守ることにする。いつだって、鑑定人は冷静な目をもっていなくてはならない。ヒューは口角を上げるのだった。

フィッツロヴィアの通りでは、柔らかなニットを着たリヒトが再度マッツへ礼を言うところだった。

「あの、この度は本当に、お世話になりました……あ、そうだ、これ」

「なんだい?」

リヒトは使い込まれた財布を取り出すと紙幣をあるだけ取り出し、男に差し出した。

「60ポンドしかありませんが、昨晩のお礼です」

「……」

まさか一晩の出来事を金で精算されるとは思ってもいなくて、男は言葉を失った。

「足りないのはわかってます。でも僕の手持ちの精一杯で……お、お給料が入ったらクリーニング代、も……あ、これ僕の勤め先です。ショップカードですけど」

「テイラー。なるほど、いい職人の手だ。今度、君の仕事ぶりを──」

マッツがリヒトの手をとったところで、二人の間にリヒト、と柔らかく呼ぶ声が降ってきた。

次いでリヒトの背中を包む温かな手の感触がある。鼻孔を擽るサンダルウッドの香り……トムだ。

「トム様……」

「おはよう、リヒト」

男はマッツの手からリヒトを奪うようにして、ぐいと後ろへ引く。リヒトが後ずさり、蹈鞴を踏むのを危なげなく支えてやると、トムはマッツを静かに牽制した。

「やぁ、私の大事な友人が随分と世話になったようだね」

「いいや。此方も、年若い友が新しく出来て、嬉しく思っていたところだよ」

マッツはリヒトから渡された紙幣をポケットにしまうと、穏やかな口調で男と言葉を交わす。その実、瞳は笑っていないが、リヒトはそれに気付かず慌てて二人の間に立った。

「マッツさん、こちらはトム様。トム様、こちら……」

「トム”様”?友人に様付けはなしだと言ったろう?」

からかうように頬を撫でられて、リヒトははっとする。以前、一晩だけベッドを共にしたときに、『トム』と呼ばなければ甘いお仕置きが待っていたことを思い出してしまった。熱くなる頬を押さえつつ、リヒトは紹介を続けた。

「ト、トム。マッツさんはソーホーでギャラリーを開いていらっしゃるんです。昨日、僕がトラブルに遭って……」

「トラブル?どんな?」

「街でトマト缶をぶつけられてしまって……そこを助けて頂いて、そのままお世話に」

「トマト缶?それは大変だったね、リヒト。次は迷わず、僕を頼って欲しいな」

歯切れの悪い青年の言葉と気怠げな雰囲気、マッツの態度から、一晩の出来事をトムは察する。そして、微笑んだまま胸の奥が冷え固まるのを感じた。

自分だけでなく、この男ともベッドを共にしたのか、と思うとはらわたが煮え返りそうだ。独占出来る立場ではない、とわかってはいるが、こうして目の前で肌を合わせた痕跡を見せつけられると気分が悪い。

「行こうか、リヒト。それじゃ、ここで」

「ああ。気をつけて、リヒト」

「はい、お世話になりました。ありがとうございました」

ぺこりと頭を下げるリヒトの肩をマッツは軽く撫でてやってから、手を放した。

リヒトは自らトムの車に乗り込み、小さく目礼をしてマッツに別れを告げる。

トムはステアリングを握り、ゆっくりと発進した。バックミラー越しに此方を見つめる男を眺めつつ、リヒトに問いかける。

「最後に、何か渡していたね。何を?」

「あ……あれは……その、60ポンドを。昨日はとても、お世話になったので」

「金を……彼に?」

「ぜんぜん、足りませんよね。わかってます。わかってるんですけど……!少しでもクリーニング代の足しになればと思って……あー……うー……」

お金持ちに対して僅かなポンド紙幣を渡すのは少々無礼だっただろうか、少々どころかとんでもなく無礼だったかも、と今更になって考えて頭を抱える。

その横で、トムは一瞬ぽかんとしたあと、弾けるように笑い出した。

「ふ……ははははは!!」

「う、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……僕の手持ち精一杯だったんですよ?」

「ち、ちがうよ、リヒト、そうじゃない、ふふ、ふふふ」

ステアリングを片手で繰りつつ、男は口元を手で覆いながら爆笑する。

「一晩、世話になった礼に、金をねぇ……ふふ、君も面白いことをするじゃないか」

「やっぱり少なすぎますよね?どうしよう……」

金額の問題ではないのだが、リヒトは全くわからないようだ。

一夜の出来事──恐らくは男にとってなかなか良い夜になっただろう事を、金で支払うような青年の所業に、トムは笑いを禁じ得なかった。マッツの心持ちを想像し同情すると同時に、その不憫さを喜ぶ気持ちが湧く。

「ふ、ふふ、君は最高だな」

「からかわないでくださいよ!あーあ……これでも色々と、反省しているんです」

シートベルトに柔らかな頬を押し付けて、眉を寄せるリヒト。トムはそれを横目で眺め車を走らせた。暫くいったところで、路肩に寄せる。

リヒトの勤めるKingsmanまで、あとツーブロック。歩けない距離ではないが、どうしたんだろうか、と思い運転席を見れば、男はステアリングに腕をもたれかけ、その上に頬を置いてリヒトをじっと見つめていた。

「……トム、さま?」

「ほら、また”様”をつけた……」

「あ、”様”を取るのは……”あの時”だけかなって……」

車内に親密な空気が満ちる。男の手がリヒトの髪を優しく梳き、後ろに撫でつける。

「敬称はつけないで……トムと呼んでほしいな」

「……トム?」

「ああ……」

男はリヒトに呼ばれた名前を味わうように嘆息すると、身体を起こし、その顔を覗き込む。

「君のことを、ずっと守れたら良いのに」

「ふふ、お優しいんですね。ありがとうございます。そのお気持ちが、とても嬉しいです」

昨日のトラブルのことを指したのだろうと思い、リヒトは嬉しげに微笑む。その純粋な受け取り方に、これだから様々な男を引き寄せるのだな、と男は思う。

「着替えはあるかい?さすがにその服じゃ仕事をしづらいだろう?」

「はい、お店に替えがあります」

「そうか」

こっくり頷くリヒトにトムはひとつ呼吸をした。他の男の服を纏っているのは今だけだ、と己に言い聞かせる。次に、彼の身体から立ち上る嗅ぎ慣れぬ香水の匂いに、眉を顰めた。

重く、男らしいアンバーとスパイス。リヒトには似合っていない。服にこびりついているだろう、あのギャラリー・オーナーの香り。その嫌悪感に、男の喉が不愉快そうにぐるりと鳴る。

「朝食は?どうする?どこかで食べようか?」

「あ、お店に何かあると思うので」

スコーンかパンの切れ端でも摘まもうかと、と言えばトムは目を細めた。そしてダッシュボードからひとつの小瓶を取り出す。

「じゃあ、これを。新作の香水だ。試してもいいかい?」

「え?ええ……」

こっくり頷いて瓶を受け取ろうとしたところで、トムがリヒトの目の前で己の手首にそれを付けた。

「え……?」

「今日は一日、この香りでおいで」

「あ……」

男は優しく耳元で囁きながら、香水をつけた手首でリヒトの首筋から耳の後ろまでそっと撫で上げた。

始めに香り高くアイリス、次に色気のあるベチバーが追いかける。爽やかで、それでいて印象深く辺りに漂う香りだ。

耳の裏、耳朶の付け根の柔らかな部分をきゅ、と人差し指で押し込まれて、リヒトは小さく震える。思わず官能的な声が小さく漏れる。

「あ……トム、さま」

「ふ、また様をつけたね」

ちょんと鼻先を摘ままれて、リヒトは言い訳をする。

「……癖がついてしまったんです」

「わかっているとも」

癖、といいながら、彼が仕事以外で『様』と敬称をつけるのは”屈服している時”なのだとトムは知っていた。まるで野生の動物が相手に降参とでもいうように腹を見せる行為──あれと同じだ。その証拠に今の彼の瞳は、甘く蕩けかけている。

今朝の男のことも、この瞳で見つめ、支配欲をそそるその音で、呼んだのだろうか?

トムは心中が嫉妬で暗く陰るのを感じ、きつく目を瞑った。そして、次に目蓋を上げると朝日をいっぱいにその美しい瞳に入れて、目の前の愛らしい青年へ優しく語りかける。

「さぁ、仕事にいっておいで。僕の大事なテイラー。また食事をしよう」

言いながら、男はリヒトの手に小さな瓶を渡した。柔らかなブラウンのそれをリヒトは嬉しげに受け取る。

「はい、ありがとうございます。いってきます」

ちゅ、と男が軽く頬にキスをしてやれば、リヒトは頬を緩めてキスを返した。そして弾むような足取りで車から離れると、トムに向かって小さく手を振り、通りを曲がる。

トムはリヒトの姿が完全に見えなくなるまで見送ると、ポケットから端末を取り出して調べ物を始めた。

ソーホーのギャラリー、オーナーの名前はマッツ……マッツ・ヨハンセン──経歴、プロフィール、現在手がけている仕事、取引相手──裏の仕事はしているのだろうか。ざっと調べたところでは怪しいものは出てこない。

そして、もう一人──窓から覗いていた男。

「英国王室御用達の鑑定士が、何故あそこに……?」

自らの組織にファイリングされた鑑定人のデータを呼び出す。王家とも繋がりのある由緒正しい血筋の男──ヒュー・ダンズフォード……そのコネクションを活かし、様々な美術館に出入りし、会員制オークションでの鑑定人も請け負う。そして、その裏で、きな臭い出自の美術品の取り扱いも行っていた。

「彼の友人ということは……曰く付きやグレーな品の取引、かな」

組織の情報部に資料の依頼をかけ、自分でも調べることにする。

冷えたエンジンを暖めて、男はアクセルを踏んだ。先程よりも運転が荒いのは、助手席に人がいないからだ。リヒトの首筋の感触を手首の内側で思い出し、僅かに微笑む。

動き出した街の喧騒の中へ、カルパチアン・グレーの車体が溶け込んでいく。重厚な車とは裏腹な柔らかなアイリスの香りが、男の周りをゆったりと漂うのだった。