カフェにて、スパイと
カフェにて、スパイと
熱いコーヒーにスチームミルクを注いだそれをキャンパスに見立て、顔見知りの店員は美しい模様や花を描いてくれる。
ロンドンの街で美味しいエスプレッソとラテを入れてくれるカフェを見つけたリヒトは、近頃暇さえあればそこに入り浸るようになっていた。
「ここ、相席、いいかな?」
「どうぞ」
ブランチの時間帯、店も混んできたのだろう。
メモ帳にせっせと書物をしていたリヒトは顔も上げずに同席を許可した。
久しぶりのオフ日、保護者(お目付け役)であるハリー・ハートは任務についているし今日はのびのび羽を伸ばせる。ハリーのことは恩人であるし、大好きだが、やれ勉強は済ませたのかとか、決まった時間に起きろだとか煩く感じることもあるのだ。
たまには好きな時間に起きて、のんびりカフェに入り浸るのも心の栄養になる。こんなふうに相席から始まる新しい友人だってありかもーと思い顔を上げたところで、リヒトは顔を強ばらせた。
たしかに声をかけてきたのは女性ではなかった、だからといって色男がいるとは誰も想像しないだろう。
「?どこかでー会ったかな?」
ええ、先日、ナショナル・ギャラリーで、あなたも覚えてるんじゃないですか?とは言えず、視線を伏せる。
ダブルオーセブン、と呼ばれていた男―ジェームズ・ボンドだ。
実に気まずい。メモ帳には落書きが増えていく。
「何を書いているんだ?」
男にメモ帳を覗き込まれて、ぐと詰まる。普通相席すると人の距離って遠くなるもんじゃないっけ。ロンドンっこはこんなに気さくだっけ。そんなことを考えながらメモ帳をそっとしまった。落書きしていたのは少し変わったデザインのスーツだった。他人に見られると少し、恥ずかしい。
「すまない、見られたくなかった?」
「いいえ気にしないで」
「ゴージラインが高い―イタリア風か、そういうのが好きなのか?」
「い、いつか作りたいなって」
ボンドは、不思議と質問に答えたくなるような声音をしている。優しい問いかけ。ああ、ハニートラップってこういうところから始まるのかも、と思う。
「僕はブリティッシュ・スーツも好きだが、イタリアで仕立てたスーツも好きだな」
「でも、生地がクタクタしすぎるでしょう?フィット感が好きって人も多いけど」
気候の違いか、気質の違いか、イタリアのスーツ地はイギリスのものより柔らかなものが多い。体のラインを出してセクシーさを強調させる。それが着やすい反面、形が決まりにくく職人の腕と着用者の体型が問われる仕立てになっている。きっと目の前の男なら、さぞや色気のあるスーツ姿になることだろう。
テーブルから顔をあげて、彼をまっすぐに捉えた。
決して大きいわけではないのに、吸い込まれそうになる薄青の瞳。美しくて、人形めいているのに、顔に刻まれる皺のせいか、温かみを感じる不思議な瞳だ。
「いいね、貴方みたいな色男なら、どんなスーツも似合いそう」
「口説いてる?」
「あは、まっさか!」
からりと笑っていると、ボンドの注文した珈琲が運ばれてきた。リヒトがブラックを注文するといつも小さなお菓子がついてくるが、ボンドのソーサーには何も乗っていない。
「あれ、お菓子がない」
「菓子?」
「そう、いつもつけてくれるんだけど――常連だけのサービスなのかな?」
でも常連になる前にもついていた気がするな、と記憶を探っているとボンドはちらりとウェイターの様子を見て何か納得した様子で頷いた。
「君、鈍いっていわれないか?」
「そんなことないけど」
「例えば彼―今、テラス客に話しかけてるウェイターだ。見える?」
声を潜めたボンドは、そっとリヒトに顔を近づける。リヒトも自然と彼に寄り添い、目線の先を追いかける。あっという間にパーソナルスペースが狭くなったが、その事にリヒトは気づかない。リヒトの警戒心が薄れていくことを感じ、ボンドは目を細めた。
「うん。彼、ラテアートが得意なんだよ」
「さっきこっちを睨みつけてた」
「なんで?色男を羨ましがる視線?でも彼の方が若いし背が高い」
「一言二言余計だ。それに、彼の視線は、生憎とそういうものではなかった」
「じゃあ何?」
「君はロンドンにはヘテロしかいないと思っているのか?」
「ひょっとして――彼は貴方が好き?」
「―――わざとかい?」
「何が」
額に手をやり、大袈裟にため息をつくボンド。
リヒトはさっぱりわからない、という顔をしてラテをすする。
「君は少しまわりをみるべきだ」
「あ、それはハリーにもいわれた」
「ハリー?」
「僕の父親替わりみたいな人」
「養父か」
「そんな感じかな?」
肩をすくめたリヒトは口の端をあげて笑って見せた。
カップに入ったラテが冷めてしまっている。もうそろそろ退席の頃合だろう。
「じゃあ、楽しい時間をありがとう、えーっと」
「ボンド。ジェームズ・ボンド。君は?」
「僕はリヒト。またどこかであったらよろしく、ミスタ・ボンド」
ダブルオーセブン、と呼びたくなるのをこらえて教えて貰った名前を口にする。
差し出された手を握る。乾いた掌は分厚く、雄々しい。なるほどこの手と指を使って女性たちを翻弄しているのか、と心の中で少し下世話なことを考えて手を離そうとした。
「えっと」
戸惑うリヒトに、ボンドはその手を離さぬままにっこりと笑いかける。
「ああ、すまない。随分と細い手だと思って」
「これから骨太になる予定」
「そうか。リヒト、虫除け、いるかい?」
「え?」
ぱちり、と目を瞬いたその瞬間、唇に暖かな感触。ついで、額にも。
「珈琲代は僕が払おう。また今度、リヒト」
「あ、うん」
とん、と肩をおされてふらふらとした足取りのままカフェを出た。何故彼が自分にキスをしたのか、そして『虫除け』とは何のことだったのか、考えているとカフェの厨房で何かが割れる音が響いた。一瞬顔をそちらへ向けるが、さして興味をひかれなかったリヒトは再び歩き出す。
まさかリヒトに密かに恋慕を抱いていたウェイターが、先ほどのボンドとリヒトのキスシーンにショックを受けて、カップとソーサーを落とし、割ってしまった音だとは露とも考えまい。
数十メートル歩くと、曲がり角に任務中でロンドンにはいないはずのハリー・ハートが立っていた。
いつものごとく、隙のないスーツ姿で、傘を手にした彼はいつもより冷たい笑みを浮かべていた。
「リヒト、さっき、君がカフェで一緒にいた男性は、どこのどなたかな?」
「えっと」
「彼とキスをしていたね。私は君が男のパートナーを選ぶことを反対はしないが――誰彼構わず遊んでいるのだったらそれ相応の対応にでなくては」
「いやそのそういうんじゃなくって」
どっちでもないんだけど、という言葉は続けることができない。優しい笑みを見せてはいるが、怒っている様子のハリーを前に、どのように説明をするべきかと頭を悩ませるのだった。