アールグレイと甘やかな誘い
アールグレイと甘やかな誘い
「はぁ、ついてない」
スウェット姿でカフェの軒先に立ち、ため息をつく青年がひとり。
突然降り出した雨に、スウェットは濡れて体に張り付いている。
もぞりと居心地悪そうに動かすのは、今、彼が下着をつけていないせいだ。
先日、スポーツジムのシャワールームで、洋服を一枚の下着と入れ替えられた。
その時は幸いボンドがその下着の送り主から服を取り返してくれたが、再び送られたセクシー下着―今回はTバックだった―に、青くなりバスタオル一枚で受付のスウェットを購入し、急いで着替えてジムを出てきた。
そして、この雨だ。
走って帰ろうと思ったが足を滑らせてひねってしまった。
裸の尻に湿ったスウェットが張り付く感覚がして気持ちが悪い。
前の形まで顕になってしまいそうで、思わず前かがみの姿勢になる。
雨が止むまでどれほどかかるだろう、と天を仰いでいると声をかけられた。
「ランニングですか?ずぶ濡れだ。傘、はいっていきます?」
「……ありがとう」
顔を上げたリヒトの前に立つのは、細身のなで肩に、くしゃくしゃの髪の毛、大きな眼鏡―MI6・Q課の若き課長である。
知人の登場に思わず情けなく眉を寄せてしまった。
ひねった足が思い出したかのように、じくじくと痛みを訴える。膝小僧からは血が出ていて、新品のスウェットも雨と血でぐちゃぐちゃだ。
「ひどい顔だ。恋人にでも振られました?」
「だったら素敵なストーリーになるね」
あまりに情けない顔をしていたのだろう。
Qは何も言わずに、よかったらうちに来てください、と言って歩き出した。
「課長さんの家ってこんなに質素なの」
「ほとんど寝に戻るだけですから。ボンドの家もこんなふうですよ」
「Qはミスタ・ボンドの家に行ったことがあるの?」
「いいえ。想像を述べただけです」
「なんだ」
Qの家に着き、一心地ついたリヒトは冗談をいう余裕も出てきた。リヒトはシンプルなリビングにあるソファに腰を下ろし、穏やかに笑う。
回復した様子のリヒトを見て、Qも胸を撫で下ろした。
「どうしたんですか、今日は……僕にシャワーや下着を借りる人間はなかなかいません」
ケトルで沸かしたお湯でアールグレイを入れた。Q気に入りの茶葉だ。
カップをテーブルに置いただけで鼻先まで香る紅茶に癒される。
リヒトはくすんと鼻を鳴らして口を開いた。
「服を、盗まれて」
「盗まれた?追い剥ぎにあったんですか?」
「そうじゃない……もう、あそこのスポーツジムは退会するよ…」
足も怪我をしてしまったし、いい機会なのだろう。
吐き出すように事の次第を話せば、Qは目を丸くしてこちらを見てきた。
「じゃあ、さっきまで下着を着けていなかったんですか?」
「そうだよ――何、笑うなよくそっ」
「いいえ、勿体無いことをしたなと思って。よく見ておくんでした」
「Q――今そういう冗談聞くのほんっとキツイんだって。黙って」
大きなため息をついてソファに寄りかかるリヒトを見て、Qはうっそり笑った。
なるほど彼はQが全くヘテロであるか、もしくは己へそういった視線を向けるわけがないと思っているわけだ。
普段から、あまり男臭くない見目をしているせいか、職種のせいか、こと性欲に関して興味が薄いと思われがちなQである。とかく男性職員からは『女役を好むゲイ』なのではないかと思われている節があった。しかし彼も別段他人と変わりはない――動物で言えばただの『雄』である。ただし、好みが偏っていることは自分自身自覚していた。食指が動く範囲が狭いのだ。―どこかのエース・エージェントと違って、と心の中で付け足して、行動に移す。
「冗談ではないと言ったら?」
「へ?」
「雨ざらしになった貴方の身体を、これ以上他人に見せたくなくて、小さなフラットへ招き、あわよくばベッドに連れ込むつもりだ、と言ったら、あなたはどうします?」
「――顧客と関係を持つのは、禁止だ」
「ボンドとは寝たのに?」
「ッ!どうして、それを―」
「おや、そうなんですね。知らなかった」
「あっ」
カマをかけられたと理解したところで、言葉は取り戻せない。
リヒトは悔しげに眉間にシワを寄せて、Qに噛み付いた。
「からかってるだけだろ、よせよ」
先ほどよりも低い声。まるで野生動物が唸り声を上げ始める時のようだ。
Qはそれをなだめるように、ぽつりぽつりと掠れた声で言葉を繋げる。
「貴方は辱めを受けてこたえている。誰かのぬくもりが欲しいんじゃないですか?」
心が弱っているところにつけこむのは簡単だ。
みるみるうちに彼が傾いてくるのが手に取るようにしてわかる。
そして、彼が甘やかされる環境にあったことも察することが出来た。
若年のテイラーは随分と可愛がられているようだ。
甘やかして欲しい、構って欲しい、と彼が無意識に醸し出す空気にクラクラと酔いそうになる。
いつも使っているQのシャンプーや石鹸の香りがついていることもそれを後押しした。同じソープの匂いがすると、まるで自分の所有物のように感じてしまうのだ。
「貴方が着た僕の服を、脱がせたいと思っています。いいですか?」
「……MI6はベッドへの誘い文句の訓練でもしているの?」
小さな皮肉をイエスと受け取って、Qは彼に口づけた。まだ少し冷たい唇が、Qのそれと合わさって熱を持つ。久方ぶりの快感の気配に、Qは熱い溜息をつくのだった。
おまけ
「Qって、ブリーフ派っぽいよね」
「あれ?前に貸した…というか差し上げたでしょう、僕の下着。いつもあれと同じ形ですよ」
「いや、そうなんだけど!こないだ新品のボクサー貰ったけど!でもなんか、ブリーフはいてそう、っていうかさ!」
「ああ、イメージの問題ですか」
「そうそう」
「じゃあ、貴方は紐パンかな」
「えっ、僕ってそんなイメージなの…」
「そのウェストコートと揃いのトラウザーズの下に、紐ですぐに解ける下着を身につけていたら、色々な方にモテそうだなと思っただけだよ」
「や、やだなぁ、Qくんってば妄想力たくましい…」
「もしかして今も、そんな下着を着けて興奮してるんじゃないのかな、とか」
「そ、んなわけ、ないだろ」
「おや?強く否定をしない、となると、もしかして図星?」
「ひ、ひもじゃないもん…」
「まさか、また、下着なし、ですか?」
「ま、またっていうな!はいてるよ!」
「では、紐よりもっと過激な下着ですか?揃いのランジェリーとか?」
ちらりとQの視線が胸部へ向けられる。
服の下を探るあからさまな視線に、青年は顔を赤く染め上げる。
「ちっちがう!あんな窮屈なのつけてない!」
「経験があるんですね、今度僕の前でもつけてみてください。きっと似合うでしょう。かわいいやつを用意しますから。あとベビードールでもいいかもなぁ」
「話を聞いてよQ!」