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第15話 実験開始

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第15話 実験開始

大学では9月の授業が始まった。まず、レインは講義を自宅での実験中心に組み替えていたため、研究室に貼られた予定表を書き換えた。終日かかりそうな案件は月曜と金曜に寄せ、研究会・セミナーは午前中へ押し込む。遠征のフィールドワークは当面予定しない。その代わり、自宅庭での実験がフィールドワークと呼べるだろう。そして火~木曜日の14時半から16時は、「不在(機械刺激曝露実験)」とだけ入れる。誰にも意味は分からない。自分にだけ分かればいい。そして、「機械刺激の試験、15時」とだけ、ルカへメッセージを送る。実験日の打診のようなものだった。来られない日は返信一つで済む。とは言え、来るかどうかの不安はなかった。彼は来る。弾き、歌う。故郷を思わせてくれる植物たちのために。真夏の太陽は、9月から秋というイメージを一掃しようとやっきになっているかのように、家の青い壁を鮮やかに反射させる。ルカと会えない4日間を過ごした後の火曜日は、レインにとって特別な日だ。砂利が鳴り、細長いシルエットが現れる。陽に褪せたデニム、Tシャツ、肩からベースを担ぎ、手にはランチの入った紙袋。近頃では実験が連続する平日は、ベースを置いていく日もあるが、週末を跨ぐとそうはいかない。ストラップの汗染みがTシャツの色を変え、暑さと重さを訴える。「レイン!」いつも目が合う前に明るく呼ばれる。口を開く前に、胸が先に呼応する。レインにとってルカは、安らかで、優しくて、静かな時間を与えてくれる存在だ。「今日はケバブか」手渡された紙袋を開きながらレインが眉を上げる。好物だ。「そう!店のランチでラムの薄切り肉を使ったんだ。日本にもラム料理があるなんてしらなかったな。チンギス・ハーン」「ジンギスカンだろ」「それだ。でもさ、モンゴルの英雄が由来だなんて面白いよね。ラムを食べるだけであんな暴力王になったら困るよ」二人での昼食は、家のポーチで摂ることが日常化していた。木製のガーデンテーブルにチェア。座面にはオマがこしらえたクッションが敷かれている。レインは、香ばしく焼かれたラム肉を堪能しながら、向かいでソースの付いた指を舐めているルカをちらりと見やった。おもむろに席を立ち、室内から紙ナプキンを取ってきて渡す。そしてついでに空いたグラスにミネラルウォーターを注いだ。「ありがと」それに対して何か返事をすることはないが、レインは、こうして細々とルカの世話をするのを気に入っていた。眠りを与えてくれる礼という意識からではなく、単純に、目が離せないのだ。昼食を終えるとすぐに実験開始だ。「今日は、BPMを一定にしてくれ」「どれくらいがいい?」「——心拍に近い方がいい」「誰の?」レインは視線を逸らす。「君のだ」「ふふ。了解」ルカは笑って、自分の胸を軽く叩いた。「でも自分の心拍数なんて測ったことないよ」レインは、ベースのネックに絡まっているルカの左手首にそっと指を2本添えた。「深呼吸して」ふいに近づく体温と接触に、ルカは息を飲んだ。レインはそれを深呼吸と受け取り、頭の中で静かに脈をカウントする。「20代の男にしては脈が早いな。アルコールは飲んでいないよな」レイン宅での実験が始まってからは開始前にポーチで昼食を摂っている。いつもミネラルウォーターだけで、アルコールは摂取していない。ヒューゴの店で食べる分にはグラスワインやビールも飲めるが、テイクアウトしてまで飲むほどではないからだ。「早いかな?なんでだろ……」ルカはその心当たりを隠し、右手の指先でピックを弄んだ。「まあいい。だいたい60が平均だろうから、それで行こう」「……OK」二人は庭の端にある細長い温室の前に並んだ。骨は安物のスチール、皮はビニール。だが、中は驚くほど整っている。四季成りのイチゴ。鉢の底には薄い金属板――小型トランスデューサ。配線は土の間を這い、据え付けの小型アンプに集約される。ガーデンテーブルの上には、ノートとクリップボード、赤外温度計と簡易糖度計。ラベルに走り書き――Brix/LeafTemp/Time/BPM/Voice?。実験中は教会の門扉は閉じられ、チャイムは切ってある。「段取りを言う。3ブロック、15分×3。BPMは60で固定。最初と最後に短いハミングを入れる。——喉を壊さないように。無理なら止めろ」「了解。イチゴは空気で?それとも、鉢に直で震わせる?」「どちらも」ルカは笑って了解のジェスチャーをとり、アンプの位置を微調整した。トランスデューサのコードに指を這わせ、鉢の縁を軽く叩く。「じゃ、始めるね」ルカはベースを構え、左手で弦を押さえる。その手の甲に、筋と血管が浮き出す。第一音は低いE。40ヘルツ台の波が、鉢の金属を通して土と根を振動させる。同じくレインの身体も。胸膜の内側、腹の底。レイン体内を駆け巡る心地よい振動を感じながら、時刻、BPM、葉面温、気温、湿度をノートに書き留めた。「……声、入れて」予定より早く、言葉が出た。ルカが目だけで頷く。ベースのビートにハミングが重なる。角砂糖がゆっくり溶けていくみたいな柔らかな低音。レインは測定の手を止めて静かに目を閉じた。今夜の子守唄をしっかりと脳に吸収させる。このままここで眠れたら——そんな自分勝手な欲望が、まして昼下中に叶うわけがないことは百も承知だ。「ストップ。ここで測る」屈折計の蓋を開け、水で流し、イチゴの果汁を一滴垂らして蓋を閉じる。青と白の境がくっきり動く。「8.6」事務的に読み上げて、ノートに記す。「もう一度。同じ曲で、同じ条件で」「厳密だね」「再現性は必須だ」2ブロック目。今度は空気伝播だ。言わなくても短いハミングが入った。低い潮が満ちて引くような静かな抑揚が心地よい。「休憩。ほら、水」ルカに水を渡し、同じボトルを自分も口に当てる。喉に冷たさが落ち、彼の声の残響だけが粘る。「ねぇ、これ、どれくらいの期間やるの?」「当分」即答だった。ルカが笑う。「ずいぶんざっくりした計画だね」「植物の生理は季節に引きずられる。冬越しも見たい」「冬も?」「そのための温室だ」彼は頷き、庭を見回す。「いい場所だね。静かで、地面が柔らかい」「気に入ったか?」その一言に、ルカの視線が短く揺れた。何かを読み取ろうとする目。レインは先に視線を逸らして、屈折計のプリズムを布で磨き始めた。必要のない丁寧さで。3ブロック目。ルカはベースを置いた。「最後は歌だけでもいい?」「喉は?」「大丈夫」そう頷くと、ルカは温室の入口に立った。最初の声は、ささやきよりも低い。音として出る限界の手前。胸郭で鳴らして、唇だけで輪郭を作る。レインの額の汗が、時間の感覚を削ぐ。音は近い。彼の喉元に指を置けば、その震えが骨から掌に移るだろう。溺れそうなほど全神経をもっていかれているのに、レインは表情を動かさない。歌が終わり、ルカの肩がゆっくりと上下し、細く息が吐き出される。レインは屈折計に新たな果汁を垂らす。滴の重さが、やけに大きい。「9.1」糖度が上がっている。数字は些末だが、実験を続ける理由として十分だった。「今日はここまでだ」「了解」ルカはベースを拭い、弦の油を軽く落とす。その一連を見ながら、レインは実験ノートに『 Voice: あり』と強い筆跡で記す。そして、レインは英語でいくつか項目を記しておいたメモをルカに渡した。「曝露ログだ。日付、曲、BPM、歌の有無、体調。他には、喉の感じ、睡眠、気分などなんでも良い。書いてくれ」「僕の……?」「ああ。データは多い方がいい」レインは研究者の顔をして言った。嘘ではない。だが彼の生活の輪郭を、自分の紙の上に写しておきたい気持ちは否定できない。「分かった」ルカは差し出されたペンを受け取り、笑った。「それにしても意外だな。紙にペンなんて」「そうでもないよ。フィールドワークにPCは不向きだ。いつでも土や水が入る」「確かに」短い会話の合間を、若干の湿度を落とした風が通る。ルカはメモに記された項目すべてを埋めて、丁寧にレインに返した。「明日も来るように」つい、講師としての癖で命令口調になってしまう。ルカは何も気にしていないように少しだけ笑って、頷いた。「当然。火曜日から金曜日の15時、ね」「ん?金曜は……」「ヒューゴから、シフトを増やせるかって聞かれてさ。こうしてレインの教会で ”公認” 練習ができるようになったんだから、ちょうどいいなと思ったんだ」「しかし、毎週ではないが俺の方が金曜は詰まっている。そうだな……一通りの操作方法を教えておこう。この後、時間は?」「いつも通り。練習以外に何の予定もありません」「では」レインは糖度測定の方法をルカに手ほどきをし、実験ノートに書くべき項目を丁寧に教えた。演奏し、測定し、それを3度繰り返すのはなかなか忙しなく、手間だ。レインは真剣にメモを取っているルカの顔を覗き込んだ。「無理にやらなくてもいいんだよ」目が合うとルカは少し慌てた様子で「で、できるよ!」と唇をやや尖らせる。「そういう意味じゃあない。こういった実験はペアでやるものなんだ。だから単独ではなかなか面倒だろ?」「ほらみて!」ルカはおもむろにベースを手にし、低音から高音まで一気に弾き鳴らした。「僕の手、器用でしょ?屈折計の操作ならすぐに慣れるよ」レインは含み笑いをこらえきれなかった。「そうだな。うちの学生よりずっと見込みがありそうだ。しかしね、俺が不要になるほど何でも独りでできるようにならないでくれ。眠りが遠のくだけじゃない。うまい昼飯にもありつけなくなる」「確かに!」ルカは明るく笑い飛ばして、ベースを置いた。それが今日の実験を終える合図となった。レインは教会の門までルカを見送り、早足で自宅前に停めたバイクに向かう。大学では学期開始後の雑務が待ち受けているはずだ。短くなりつつある日中の時間が、すでに夕日を呼んでいる。ゆっくりと家路に向かっていたルカは、バイクの音に反射的に振り向いた。期待していたことだった。彼の広い背が遠くなるのを見て、「また明日」と小さく呟いて、今度は足を早める。振り返らない。それがいい。深夜、帰宅したレインはまっすぐに裏庭に向かった。柔らかい地面に立ち、気の早い秋の虫が懸命に羽を鳴らしているのに耳を傾ける。ーールカの声が、ここで響いた。手の届く距離で。意味もなく屈折計を拭い、布を丁寧に畳む。猛烈な所有欲に、レインの手の震えはまだ止まらない。夜は短くなる。彼の声があるかぎり。「また明日」低く独り言ちて、温室のファスナーを下ろす。透明な膜の向こうで、イチゴの葉が、わずかに震えた。◆ ◆ ◆教会の前に広がる公園のイチョウが黄色く色づく頃、レインは庭に小ぶりの鉢を運び込んだ。いつもの午後3時。ルカが目ざとくそれを見つける。「小さい実がいくつもついてる。これ、食べられる?」「もちろんだ。主に皮を食べるんだ。英語ではカムクウォット、原産である中国語に近い音だな。日本ではキンカン。寒さに強く、喉や咳止めの民間薬としての利用も歴史が長い。この通り見た目も良いから観賞用にもなる」「うん、かわいい実だね」ルカは指先で小さな実をそっと摘んで、その質感を確かめるように撫でた。「おいしいの?」「オマ曰く、ジャムや砂糖漬けにするといいらしい。俺は薬効のほうが気になる。喉に良いというなら君に飲んでもらって、粘膜の状態を診るのも面白そうだ」「助手から実験動物へ降格?」「さすがにハムスターじゃ無理だろ」「こちらも同じ計測だ。低音でストレスをかけて、糖の乗りを——」「糖度、ね」ルカが笑う。「ほんとに甘いのが好きなんだ?」「俺が?」「でしょ。甘くする手法を探ってるんじゃないの?」「……いや。どちらかと言えば酸味のある果物の方が好みだ」「そうだったの?」ルカは目を丸くする。「糖度はただの成果指標だ」「成果、か……。ねえレイン」ふいの呼びかけに、片眉を上げて答える。「この後さ……冬になって、春が来て……そうしたら季節が1周するよね。実験は、長くても1年ってことなのかな」「……だろうな」そう返しながら、レインの視線は宙を泳いだ。ルカの言い方からは、彼が何を意図しているのか探れなかった。ポジティブとネガティブの温度感さえ。そよ風が、レインの顔にかかる後れ毛をついでのように揺らす。暑くも寒くもないそれに自分の温度を重ねる。いつまで続けるのか——続けて良いのかは、まだ分からない。ルカがここに来る限りは続くのかもしれない。いずれにせよ、自分はここにいることに変わりはない。だから、先のことを考えたり、答えを出すのは今ではない。「僕は、次のイチゴはもっと甘くなって欲しいな」「甘いのが好き?なら——演奏時間を、長くしてみるのも手かもしれない。音が糖度に与える影響が『ある』と仮定したらばの話だが」「効果がなかったらどうしよう」「言っただろ。酸っぱい果物の方が好きだって。俺が全部食べるよ」「僕だって嫌いじゃない。日本にはコンデンスミルクをかける習慣があるってオマに聞いたんだから、それなら酸っぱい方が合うかもしれないよ?」「言えてる」素直に納得したレインに、ふふ、とルカは軽く笑った。最近、よく見せる仕草だ。「やっぱりジャムにしよう。そんで、朝のパンに塗って一緒に食べようよ。平等にさ」「……ここで?」レインの問は、ルカを一瞬たじろがせた。「その、つもりだけど……週末ならレインも家にいるでしょ?」「ああ、そういう……意味か」「ジャムにできるほど実がなるよう、がんばって演奏するよ」レインは今しがた置き据えた鉢に目線をやり、「そうだな」と微笑んだ。