第16話 再起動, サイドエフェクト
第16話 再起動, サイドエフェクト
秋の光が薄く伸び、湿度を控えた風が温室のビニールをはためかせる。その中で、イチゴの白い花も小さく揺れていた。今日は通常の音響実験ではなく、受粉作業のために二人は温室に入っていた。レインは医療現場で使用する柄の長い綿棒を一本取り、ルカの指に挟ませる。細くしなやかな指先で、白い綿の先が、やけに無垢に見える。「まず、雄しべ。花粉を拭う」レインはルカの手をそっと包み込むようにして手本を見せる。教師としての一面を装い黄色い粉が綿に移るのをきちんと確認しながら、個人の神経は散乱していた。鉢に当たる葉のささめき、ルカの呼吸——それらが妙に近い。「次に柱頭。ここが受け入れる側だ。……強く擦ると傷む。優しく撫でるように」「その言い方だとまるで……」ルカが笑って誤魔化す。だが声が少しだけ裏返る。「植物の話だ」レインは素っ気なく返す。言いながら、ルカの手首に指を添えて角度を正した。その触れ方が、必要以上に丁寧で、必要以上に近い。「……濡れてる花を選べ」「植物でもそうなの?」「俺は植物の話しかしていない。……乾いてると花粉を弾く。湿ってると素直に届く」レインは一拍置いて付け足す。「しかし濡れていても ”窓” は短い。受け入れる準備が整った瞬間だけだ。逃すな」低い声の指示に、ルカは喉の奥が熱くなるのを感じた。ひりつき、息が苦しい。この男は、いつもこんな風に講義をしているのだろうか。際どい言葉で、濡れた声で。「ね、レイン」ようやく、ルカの喉が動いた。視線は、レインの手の甲に落としたまま上げることができなかった。「……人間にもその “窓” ってあるの?」言ってしまった。言葉が自分の舌から滑り落ちた感じがする。レインの手が一瞬止まる。ルカの手を離れ、糖度計のキャップをつかみかけた指先が、わずかに迷う。それでも教師としての顔は崩さず、淡々と答える。「ある」ルカの心臓が跳ね、反動で胸が痛い。レインのような男に、これまでも——現在も——その窓を開けた相手がいないはずがない。それが分かるから余計に苦しい。「……経験豊富そうだね」何がとは言わなかったが、伝わったはずだ。「どうだか。知識と……事実は乖離しているかもしれない」「レインって、いつも “事実” で逃げるよね」レインは視線だけ寄越した。(逃げる?)とでも言いたげに。その目が、温室の湿った光を吸って、ひどく深く見える。ルカは、レインの男性がPTSDにより機能しないことを知らないはずだが、それを見透かされた気がした。「独りでやってみる。見てて」ルカは綿棒の柄を指先で器用にくるりと回してみせた。そろりと、綿棒の先で花の中心を触る。たったそれだけで、妙に呼吸が乱れる。「……こう?」「力が入っている」レインはルカの指先の関節に触れた。「力を抜け。——相手に委ねるつもりで」相手。ルカの脳が、それを勝手に人間へと置き換える。もしその相手が目の前のイチゴの花ではなく、自分だったら?レインの角ばった指が、手じゃなく、もっと逃げ場のない場所を正したら?この低く落ち着いた声に逃げ道を塞がれたら?想像が走った瞬間、ルカの指が弛緩し綿棒が抜け落ちる。しかし、床に落ちる前にレインがつかみ取った。軍人の反射神経だ。そのまま、再びルカの指の間へ戻すとき、レインの指がルカの掌をかすめた。「……ルカ」名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。「な、なに?」「落ち着け」「落ち着いてる」レインは目だけ細める。笑ってはいない。それが、ぞっとするほど色っぽく、ルカを戦慄させる。「……前に店で聞いた時にも思った。レインって、この手の説明、得意だよね」言ってしまってから、遅れて羞恥が追いつく。レインは綿棒を受け取り、別の花にそっと触れた。軽く口角が上がる。「得意じゃないと授業で困るだろ」それだけ言って、綿棒をルカに戻す。「植物も人間も原理は同じだ。観察し同期を取る。無駄に急ぐと、いいタイミングを逃す」同期。レインの口から出る言葉が、ルカの頭の中で勝手に形を変える。二人の呼吸が揃う画。声が近づいて、体温が重なって、逃げられなくなる画。まだ何も起きていないのに、独りで勝手な想像してしまう自分が情けない。「……顔、赤くなってる」レインに静かに指摘され、ルカは自分の頬に熱を自覚した。綿棒を握り直し、花に触れてみるが、花が震えて花粉が落ちる。——自分が一番震えている。レインは実験ノートに目を落とし、低く言った。「今日はそれで十分。……上手だったよ」褒め言葉のはずなのに、胸の奥が刺される。「褒め方、ずるい」「何が」「……変なこと、想像する」言い切った瞬間、ルカは自分が耳まで熱くなるのを感じた。一瞬だけぎゅっと目を閉じ、身体を強張らせた。レインは、返事をしなかった。否定もしない。笑いもしない。ただ糖度計をしまい、ノートを閉じ、ペンを胸ポケットに挿す。いつもならそこで区切りが付く。だが、今日は何かが違っていた。ルカの指先にはまだ綿棒の白が残っている。花粉の黄色い粉が、まだ微かに光っている。——いや、違う。そんな事実ではない。分かっている。声が、体温が——今日は、なにもかもが近すぎた。「レイン」不意に名前を呼ばれた准教授は、振り向いて目線だけで返事をする。「……さっき、僕に落ち着けって言った」ルカは喉仏を小さく動かす。いつもなら笑って、冗談めかして誤魔化すところだが、今日はそうしたくなかった。「顔が赤くなったのも、すぐにばれたよね」レインの反応はすぐに得られなかった。ゆっくりとしたため息のあと、ようやく口を開く。「観察していれば分かることだ」言った瞬間、言い方が失敗だと分かった。理由。口実の言葉。ルカの口角が少しだけ上がる。「僕を?」「……それより。まず、君が “変なこと” を考える根本的理由はない」「理由なら、あるよ」「ない」「ある」ルカは一歩だけ近づいた。温室の膜の内側で、その一歩がやけに大きい。「僕のこと、観察してたんでしょ」レインの肩が微かに強張った。誂われるか、笑われるか。どちらでもいい。こんな会話はすぐにでも終わらせてしまいたかった。「僕の反応もデータ化するの?ここの野菜たちと同じように」ルカは笑わず、か細い声でそう呟いた。レインは目を細めた。「君は……」続けようとした言葉が途切れる。自分でも知らない苛立ちが、喉に引っかかったからだ。「今日も歌おうか?データがほしいのなら、今、ここで」突然ルカが顔を上げ、場違いな明るさで言った。「今日は……実験の予定がない」「作ればいい」ルカは肩をすくめて続ける。「野菜たちとは別の実験に。“声が人間に与える影響” のデータ、なんてどう?」レインの口元が、ほんの僅かに歪んだ。笑いではない。敗北の形だ。データなどなくても結果はとっくにわかっている。ルカの歌を聴いた日だけ、確実に眠ることができる。ルカが微かに唇を開く。返事は無くとも、このとても学者には見えない巨躯の男が自分の歌声を必要としていることはとっくに理解している。そして、彼がそれを ”自分以外への” 実験という形でしかルカに望んでこないことも。「……レイン」メロディでも歌詞でもない。自分の名を呼ばれて、レインの胸の奥が嫌なほど素直に反応する。「僕は……ずっとレインの声で乱されてた。今さら、僕だけ正気でいられない」正気。その言葉は、レインの脳から理性を根こそぎ引き抜いた。夕焼けのような金色の瞳を覗き込むと、ルカは瞼を伏せてレインの胸元へ視線を落とし、ゆっくり瞬きをする。まるで合図みたいに。——受け入れる準備が整った瞬間だけ——自分が言った言葉が、刃になって戻ってくる。レインは短く息を吐き、ルカの顎先に指を添えた。そっと角度を変える。「しかし……君は、ヒューゴを……」ルカの瞳が揺れる。それは信じられないようなものを見たときの驚きにも見えた。同時に、嘘がバレたときの気まずさの揺れにも。ルカが唇を薄く開き、小さく息を飲んだ。しかし声が発するより先に——レインは唇でそれを塞いだ。乱暴ではない。だが逃げ場のない確かさがある。熱が移り、呼吸が絡み、ルカの指先がレインのシャツを掴む。レインはその掌を包むように取って、静かに力をかける。逃げないように。反論か、肯定か、誤魔化しか。ルカが何を言いかけたとしてもどうでもよかった。ルカの全身からレインを欲する合図を確かに感じ取ったからだ。それが今この場限りの欲であろうが——もしくはヒューゴの代わりとして選ばれたのだとしても、関係なかった。「ん、ぅ……」短く漏れるルカの喘ぎが脳を直撃する。レインは唇を離し、額を寄せた。「……歌って」声が震えているのが自分でも分かる。最悪で、最高だ。ルカは息の隙間に、短い旋律を落とす。囁きに近い、低い声。その声にレインの肩から力が落ち、手がルカの背を引き寄せる。温室の膜が、外の秋を薄く切り離していた。残るのは、ふたりの呼吸と、ルカが落とした短い旋律の余韻だけ。レインはルカを引き寄せたまま、何度も唇を離しては戻り、乱れた呼吸を整えようとしたが無駄だった。声が近すぎる。体温が近すぎる。ルカが身をよじり、腰が触れる。そのほんの擦過——下腹の奥を針で刺されるような痛みが走り、レインは息を止めた。痛みの正体が、遅れて理解に追いつく。反応だ。それも、とっくに失ったはずの。薬でも動かなかったものが、たった今、ルカの体温と声で——「……っ」喉の奥で潰れた音が漏れる。恥ではない。恐怖が混じっている。何より、数年ぶりに “生きている” 部分が自分に帰ってきた事実に、脳と体がついていかない。その硬い熱に気がついたルカが、細い息を吐いて、目を揺らした。頬が赤い。瞳が、睫毛までもがしっとりと濡れている。——それが、レインの最後の抵抗を焼いた。細い腰を咄嗟に抱きしめ直した。隠すためじゃない。知らしめるためだ。腕の中の背骨が、息のたびに柔らかく動く。浅い吐息が骨伝導みたいにレインの胸へ入ってくる。「……ルカ」その囁きは、祈りに近かった。ルカは頷いた。頷きながら、苦しいくらい熱い息を吐いている。このまま続ければ、たぶん止まらない。肉体の衝動だけであればいくらでも自制できるはずだが、今は冷静に自分を見られない。正気が、保てていない。そもそも正気であれば口づけなどするはずが……レインは一歩身体を引き、ルカの額に自分の額を一瞬だけ寄せた。「……仕事に戻る」鋭く言い残した自分の声が、ひどく他人事に聞こえる。温室を出る直前に後ろをやや振り返る。ルカは微動だにしていなかった。息を整えるように唇を噛んでいる。濡れた瞳が、言葉の代わりにレインを刺し続けている。——この場から去らなければ。バイクへまっすぐに向かう自分の足音が乱れている。鼓動のせいだ。胸がうるさい。耳がうるさい。頭がうるさい。レインは歩きながら、腹の奥を睨むように意識する。無遠慮な主張が身体の変化を嫌でも自覚させる。あり得ない——肉体と精神の回復。もしこれが『治癒』ではなく、『一時的な脳の気まぐれ』なら。それを引き起こしたのが、ルカの存在なのだとしたら——依存だ。症状の転移。置き換え。ただでさえすでに麻薬中毒者の禁断症状みたいに、ルカの歌声がない日の夜はまた暗闇に戻る。いや、もっと悪い。睡眠を知った分、落差は酷い。それが生殖器にも宿るとしたら——地獄が待っているだけだ。レインは苦虫を噛み潰すようにして息を吐いた。ポケットの中で、バイクのキーを握る手が冷たく固まる。刺激→報酬→渇望→行動。最もシンプルで、最も壊滅的な回路だ。それに自分が片足を突っ込んでいることはとっくに気がついていたはずなのに。目を閉じると、瞼の裏にルカの上向きの口角が浮かぶ。歌う時の喉の動きが浮かぶ。そして、自分の身体が思い出した反応が、また疼く。低い舌打ちは誰に向けた否定でもない。ルカは、眠りだけじゃなく、欲まで戻してしまうというのか。だとしても、もはやそれが “自分のもの” なのか、“ルカという薬” の副作用なのか、区別がつかないのが恐ろしかった。それなのに——口づけは甘くて。切なくて。もっと欲しくて。畏怖の正体が少しだけ輪郭を持ち始めるのを横目で見ながら、レインは愛車のイグニッションを回した。意識はすでに、目を通さなければならない論文へ向かっている。いつだって、仕事は最も合理的に逃げ場を与えてくれる。その夜。レインはルカに短いメッセージを打った。スクリーンを迷いながら滑る指に、合理の仮面を被せる。『しばらく、データと環境条件を整理する』送信。チリリと痛む胸の奥に、言い訳の軟膏を塗り重ねる。糖度データのばらつきの分析と仮説。条件統制の見直し。なにより、ルカの声の有無が変数として強すぎる。——妥当でない変数なら、切るのが妥当だ。返信はすぐにあった。『どういうこと?』当然だった。わざと要点を避けたのだから。『明日から、来なくていい』