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第18話 So Far So Fake

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第18話 So Far So Fake

ルカは、時間を見つけては大学を訪れていた。ショウとの会話は他愛の無いものばかりで、ルカにはそれが気安かった。もう少しすれば、音楽や仕事での関わりではない、純粋な友人と呼べそうだ。彼は自他ともに認めるラボの住人だそうで、言われてみれば確かに、いつルカが訪れてもラボに入れてくれるのは彼だ。アルバイトのない月曜、午前中にラボを訪れると、ショウが意外な顔をルカに向けた。「あれ?Dr.ファンダールの講義は?」「いや……、どうして?」「授業の手伝いなんかもやってんのかなって思ってたから。聴講もしない?ふーん、彼の授業、かなり面白いよ。座席が限られてるから、おれら上級生は遠慮しなきゃいけないほど」「そっか……講義のスケジュール、分かる?」ルカの問いを『受講するため』と受け取ったショウは端末を操作し、生物学の授業一覧を表示させた。「全部午前中に固まってるね。あとは、ラボの予定なら……ん?」ショウがマウスを操作する指を止める。「火から木曜日の14時半から16時の時間帯が埋まってる。機械刺激曝露実験……なんだそれ」ルカは言葉に詰まった。聞き慣れないし理解も出来ない言葉だが、その時間で実験と言えばレインの庭での——「ま、彼くらい優秀で多忙な人がどんな実験をしているかなんて、おれらにはわからなくて当然か。羨ましいやら悔しいやら。そんなに歳は変わらないはずなんだけどさ」「そうなの?ショウ、何歳?」「27。博士論文が遅々として進まず現在に至る。Dr. ファンダールは外国人だしあの体格だから年上に見えるんだけど、まだ30とかでしょ。ルカは?」「僕は24。一番年下だ」「ルカも凄いよ。その若さで独りで海外に来て、なんのツテも無いのに音楽やっててさ。おれには到底想像できない。海外の大学にポジションがあったとしても、自分から応募できないだろうなあ」ショウは座っていたチェアの座面を左右にゆらゆらと回転させる。所在なげな表情とその仕草は、実際の年齢より幼く見せる。「僕なんか、音楽がなければビーチでフラフラしてるだけだと思う。深く考えたり、辛抱強く勉強してるショウの方がずっと偉い。僕もレインが何の研究をしているのか理解できていないけれど、情熱を注いでいるのは分かるよ。彼の場合、医者をやめて研究に進む理由があったんだろう。——そうだな。目的が——その道しかないっていう理由があれば、なりふりかまってられないのかも」「まあ、ね。それが見つからないから、こうしてだらだらと仕上がらない論文を書いてる羽目になってんだよなあ」「やりたいこと、ないの?」「ない」即答の後、ショウが続ける。「なかった、と言う方が正しいかも。実は最近ちょっと、就職に興味が出てきた。これまで考えもしなかったのに。別に焦ってるわけじゃないんだけど」「何?心境の変化ってやつ?」「たぶん。……これは例えばの話なんだけど、大学に残って研究を続けていたら、家庭を築いたり、誰かの支えになるのが難しいだろうなって」「そう?僕は音大だったけど、院生は普通にお給料貰っていたし家族もいたよ」「あのね、日本の大学は博士課程の学生に給与を出さないの。支援はあることはあるけど、狭き門。勝ち取れるのはほんの一握り」「ええっ、それじゃ暮らしていけないじゃないか」「だから実家が太い——お金持ちだね——学生しか学問を続けられない。なかなかの差別構造だろ。Dr. ファンダールだって、オランダの大学に居たほうが給与はずっと良いんじゃないかな。倍くらい差があると思う」「お金にはこだわらないのかも」「さっき言ってたけど、医者だったの?聞いてないんだけど」ルカは内心、しまったと青ざめた。レインに口止めされているわけではなかったが、学生に自分の履歴をオープンにしているとも聞いていない。「医学博士って聞いてたから、勝手にそう思っただけ」「なあんだ。医師免許があってもいわゆる医者として働かない人も多いからな。ところで、レインってDr.ファンダールの名前でしょ。講師リストにはReinって書いてあるけど、雨のレインの綴じゃないよね?万が一、誤記ってこともあるから、一応」「ああ。英語の読み方は雨のレインと同じ。でもオランダやドイツじゃラインなんだって。あんまり聞かない名前だから、短縮形なのかもしれない」「へぇ。本当は、レインなんとか、って長い名前だってことか。でも、友達でも本名を知らないんだねえ」「……うん、まあ。それに、彼は僕の苗字すら知らないんじゃないかな」「そうなの!?じゃ、おれに教えてくれる?」椅子から立ち上がらんばかりのショウを、ルカが制す。「そんな大げさなことじゃないよ。僕の苗字はホロウェイ。綴はHolloway。母は日系人だけど父がアイルランド系で、そっち使ってる」「由来とか、意味はある?」「直訳すればHoly wayで聖なる道。教会の近くに家があったんじゃない?父方は18世紀にオーストラリアに入植してることまでしか分からないや。ショウは?名前に意味あるの」「そこまで遡って分かるのが凄い。おれのは……」ショウが手元にあった付箋に『翔』と漢字で書く。「空高く飛び回るって意味。名前にはよく使われる」「ぴったりだね」「なにが?」「だってほら、自由にラボを飛び回って……のびのびと、目的地も無く」アハハハとショウが声を上げて笑った。「なかなか厳しいね、ルカ。きみのそういうところ好きだな。目的地はそのうち見つかるよ。そこに留まらせてくれるかどうかはまだ分からないけどさ」「さっきの就職の話?」「ちょっと違う。でも関係はしてる。じゃ、適当に見てって。ハムたちがかわいいからって、オヤツやりすぎんなよ」「ん、ありがと」飼育室の扉が閉じると、ルカはレインの講義が午前中に固められていることをしっかり記憶した。講義中なら、まず鉢合わせせずに済む。しかし、ショウから聴講に誘われる可能性もある。そうなったら部外者だからと遠慮するしかないだろう。ルカは少し大きめのため息をついておいて、仕切り直すように顔を上げた。いくつものかわいらしいつぶらな瞳が、ルカの小脇にある小袋に注がれている。ヒマワリの種だ。ルカは指先を差し入れ、殻を取り除いてある種を爪先で半分に割っては、飼育容器に指を持って行く。「ちょっとだけだよ」きっと、自分は寂しいのだとルカは思った。この愛らしい小動物たちとの触れ合いであったり、ショウとの他愛のない会話であったりが、言いようのない空虚感を幾分マシにしてくれる。接客の会話でも、演奏仲間との会話とも違う、極個人的でもあり、何の目的もない会話。それでも。寂しさの原因は、火を見るより明らかだ。一日中険しい顔をしたレインが、時折見せてくれる笑顔。低く少しかすれた声で名前を呼ばれる度に、胸が高鳴る。実験中の難しい説明も、レインが語ればまるで詩のようにロマンティックに耳朶に染み込む。長い手足にシャープに切れる筋肉を纏い、そばにいると極厚のブランケットに包み込まれたような安心感をくれる。そんな彼が、少し困ったような顔で、『きみの歌で眠れるんだ』と言ってくれる。——もっと言ってほしい。レインに必要とされたい。こうして、こっそりと職場まで押しかけてくるほどに——ルカは自分の行動の愚かさに呆れ、両肩を落とした。そんな一方で、何をうだうだと悩んでいるんだと、自分を叱咤する自分もいる。ヒューゴからも、気にするなと言われたばかりじゃないか。——しかし、個人的に避けられているという考えは拭えない。レインが避けているのなら、その意思を尊重したいと思う。でも会いたい。しかし会ったところで何を話す?……謝る?謝って、『あれは事故だった、無かったことにしよう』と笑い、『二度とそのことには触れない』と約束を交わす?あのキスは、確かに場違いだったかもしれない。独りで突っ走り、レインを挑発し……。胸がきつく締め付けられる。無理だ。これまで経験したどんなキスよりも、優しく、温かく、幸せな気持ちが体中を駆け巡った。忘れろと言われても、忘れられるわけがない。長い溜息をつき、両手で髪の毛をかき回す。考えたところで、答えはない。実験が中断したという事実しか与えられていないのだから。突然、ガチャリと飼育室の扉が開かれ、ルカは椅子から身体が浮くほどに驚いた。「あ、ごめんごめん。あまりに出てこないから、寝てんじゃないかと」ショウが頭だけをドアの隙間から覗かせていた。反射的に時計を見ると、小一時間ほど経っている。「起きてるよ」「昼メシ行くけど一緒にどう?」「どこに?」「構内のカフェ。パンしかないけど。腹減ってない?行こうよ」ルカは再び時計を見た。13時30分。レインとの昼食が無くなってからは、彼がどうしているのか知らない。ヒューゴの店に顔を出すこともなければ、テイクアウトの形跡もない。元から、あまり食べないとは聞いていたが、あの体躯を維持し、多忙なスケジュールをやりこなすにはきちんとした食事が必要だろうに——「ルカ?」ショウからの呼びかけでハッとし、慌てて返す。「うん、行く」言ってしまってから、微かな後悔が過ぎる。考えなしに返事をしてしまったのではないか。もしレインに遭遇でもしたら——ルカは頭を振り、両手で頬を軽く叩いた。——これではまるで、僕が彼を避けているみたいじゃないか。金属の重い扉を開けるショウに続いてラボを出る。微かな薬品臭の漂う廊下を歩いてカフェを目指す。以前、レインに構内案内をしてもらった時と逆の道のりだ。ショウは日本人にしては長身の部類だった。薬品の染みが残る白衣をひらりとはためかせ、堂々とした足取りでルカの横に並ぶ。それは知識への自信かもしれないし、長く大学にいる慣れかもしれない。両方の可能性もある。カフェの前にさしかかると、控えめなざわめきが流れてくる。ルカはショウの背後から、室内をさりげなく覗き込んだ。半数ほどの席が埋まっているが、レインの姿はない。しかし、長居は無用だ。その辺りはショウも同じ考えらしく、コーヒーとパンを数個買い求めただけで、すぐにカフェを後にする。ラボの住人という風体そのままに、食事も学問も全てそこで済ますのだろう。来た道を戻りながら、ショウの肩がルカに触れる。「この後は?Dr.ファンダールの仕事?」「いや、ないよ」「先に終わらせて来たのか」ルカはショウの問に束の間首をかしげた。何か、齟齬があるらしい。「今日は何もない」ショウはその場に立ち止まった。「ってことは、ハムスターを見るためだけに来たの?」「そう。どうして?変かな」「変ってことはないけど、いつも、仕事のついでに寄ってるんだと思ってたから」ルカはショウの戸惑いの意図に納得し、小さく微笑んだ。しかし、その誤解を、わざわざ自分の都合の悪い方へ修正する必要は感じられなかった。大学でやるべきことなど何もない。ただ微かなレインの気配を享受し、愛らしいジャンガリアンハムスターの仕草に癒やされに来ているだけだ。なんて正直に言ったところで——これも、意味が無い。「バイトも休みでさ、暇だったから」「それなら学食に誘えばよかったな」「また今度誘ってよ」「うん、そうする。ってことは、今日はドクターとは会う予定がない?」今日どころか、もう1ヶ月も会えていない。ルカは喉元まで出かかった言葉をぐいと飲み込む。そのせいで、ショウへの返答がそっけなくなる。「ない」「そっか。おれも今日は会ってないな。ま、ラボが違うから普段から会う事なんてないんだけどね。今書いてる論文をドイツの雑誌に投稿する予定なんだけど、最終調整をうちの教授に聞いたら、Dr.ファンダールに聞けって追い返されちゃって。んで、この後、オフィスに行ってみようかと」「レインに見てもらうの?」「ネイティブチェックの当てがないかと、カバーレターを書いてもらいたくて。共同執筆でもないのに書いてくれるかどうか」「そういうものなんだ。じゃあそろそろ、僕は帰るよ」「一緒にどう?ルカがいる方が、頼みやすいかなあ、と……」「……でも、」何の予定もないと言ってしまったことを後悔しながら、ルカが口ごもる。「あのさ、始めてラボにハムスターを見に来た日、おれ、正直驚いたんだよね。あんなに上機嫌なドクター、始めて見たから。ちょっと怖えじゃん?授業は面白いし頼りになるんだけど、なんか厳しいっていうか」「ん、まあ、厳しいのはなんとなく分かるけど……。レインは誰にでも親切だよ」「そっか。ルカが言うなら、大丈夫かな。わかった、行ってくるよ。じゃ、また……ラボで」「うん、たぶん」「会えなくても、金曜は必ず見に行くよ。聴きに行く、の方がいいか」「あはは、どっちでも同じだよ」ルカは少しだけ歩みを早めて、研究棟の正面玄関に向かった。ここに来る時に、レインのバイクが停めてあるのを目にしているから、おそらく自分のオフィスに在室しているだろう。ショウの付き添いで尋ねて行くというのは、大義名分、正当な理由に思えた。ハムスターを見に来たついでに遭遇する、なんて馬鹿げたきっかけよりずっと真っ当だ。しかしやはり、会うのは気が引けた。自動ドアが開き、真っ先に駐輪場に目が吸い寄せられる。そこにはレインのバイクが、来たときと同じように停められいる。胸に疼痛が走り、束の間立ち止まった。『来なくていい』というメッセージが棘のように突き刺さったまま、そこでじくじくと化膿していくような感覚だった。いけない、と呟いてシャツを掴む。この感情を、暗い気持ちだと認識してはいけない。辛いのは、レインなのだ。やっと得た眠りを遠ざけるほどに、彼の中で何かが起こったのだ。◆ ◆ ◆庭の実験は、黙々と続いた。ただし音のないままで。イチゴの花はとっくに落ち、爪の先ほどもない小さな黄緑色した実が浮き出しつつある。鉢の列。温湿度計。照度。土壌水分。記録用のノート。数値の変化は小さい。そしてレインの胸の奥も、ほとんど動いていなかった。スマートフォンに残る、あの夜に送った短いメッセージと同様に。冷たい言葉と、熱い記憶。あの日の距離、体温、甘い唇。思い出す度に胸に痛みが刺すのは、咄嗟に逃げた自分のせいだ。しかし、“効きすぎる” 薬に依存してはいけない。これが正しい痛みなら、耐えられる。ほとぼりが冷めたら、また再開すればいい。距離を守り、二度とあのことは口にしない。そう言い聞かせて、幾度目かの眠れない夜を越すためにベッドに横になる。開け放した窓からは虫の声に微かな土の匂いが流れ込む。庭のランタンが揺れ、葉の陰が地面に落ちる。イチゴの実が大きくなれば——糖度の実験は再開できるだろう。記憶の蓋が閉じられる日を待つだけだ。ただし以前みたいに、絶望の底へ沈む感じは薄い。彼は何と呼んだか。ああ、そうだ、音楽カウンセラー。それが希望なのか、薬なのかは、考えないことにした。考えたところで、どこか頭の片隅に、彼の声が残っていないかと掘り返してみるのと同じくらいに、無益な行為だ。分かっていたことだが、やはり眠りは訪れてくれない。レインは諦めるようにため息を吐き、ベッドから這い出して手近な服を纏った。念の為、幼馴染に短いメッセージを送ると、すぐに着信があった。ワンコールだけ鳴らして切られる。それは昔からの習慣で、『OK』や『了解』の合図だった。遅い時間だが、ヒューゴの店はまだ営業中のようだ。旨いツマミで軽く飲むと、少し思考が弛緩する。ヒューゴは落ち着いた声で囁くように、自然な思いやりの言葉をくれる。気持ちを安定させてくれる友人だ。こっちは、確実に効能が認められている ”薬” だ。治癒の効き目と、副作用のバランスが整っていて、治癒効果が高い。副作用があるとすれば、それはヒューゴの好奇心に応える手間くらいだ。しかし適度に踏み込んでくるが、ボーダーラインは越えない。その信頼関係が、なによりも心地が良い。コロン、と小気味よいベルが鳴らずに、店に冷気がサッと抜ける。レインは、店のドアに取り付けられた鐘を揺らさずに入店する唯一の人間だ。どうやっているのか聞いても「普通に開けてるだけだ」とそっけない。ヒューゴは目線だけで挨拶をし、窓際の二人掛けのテーブル席を指した。店が混雑している場合など、静かに飲みたいレインのために「ちょっと離れてろ」という彼の気遣いだ。テーブルに肘を付き、窓から外を眺める。今しがた横断してきた公園の木々が、秋風に葉をそよがせている。何を頼もうかと考えるまでもなく、ヒューゴが熱いおしぼりとスウェーデンのビールを持ってやってくる。「久しぶり」「そうか?」「1ヶ月くらい顔を見せなかっただろ」「……かもな」「まあいい。後で話がある」とヒューゴが低く落とす。「なんだよ」「もう30分もすれば閉店だ。それまで待って」レインは微かに頷いただけで、ボトルを手にする。「酔わない方がいいやつ?」「酔ってくれた方がいいかな」「分かった。じゃ、この後はしばらくウォッカで」「Wilco」とヒューゴはおどけて軍隊式に了解し、トレイを小脇に軽快にカウンターへと戻った。レインの予想よりも少し早く、賑わいの中心に居たグループ客が帰り、それに引き摺られるようにして単体客が続く。深夜少し前に、ヒューゴはギャルソンエプロンを脱いでカウンターの椅子にバサリと投げかけた。そして両手を上げ長身を更に伸ばすようにストレッチしてから、テーブル席のレインを振り向く。「出るぞ」秋の夜長に、公園をそぞろ歩きながらの酒も良いだろうとレインは席を立つ。しかし続いたヒューゴの言葉は予想外だった。「クリスがお前に頼みたいことがあるらしい」「あのイギリス人か。急だな」「お前が今夜も出て来なければ、家まで迎えに行くつもりだったんだ。いいだろ、あそこは酒だけは旨い。クリスが奢らないなら俺がいくらでも飲ませてやる」「わかったよ。ずいぶん大層な言い方なのが気になるが……」店を施錠し、ヒューゴは愛車のSAABに乗り込んだ。レインは久しぶりにふれる助手席の革張りのシートに、意図せず郷愁を感じる。「まだ動くのが信じられねぇ」「日本に持ってきて正解だったのかもしれない。部品の持ちがいいような気がしてる。次壊れたら、もう交換部品が見つかるかどうか。お前だって、ヴァルカンはともかく、車の方は同じようなもんだろ」「まあね。だがこっちは少なくともメーカーが存続している」ぐ、とヒューゴはやり込められて息を呑んだ。車は静まり返る深夜の住宅街を抜けて、街道を駅方面へと進む。ネオンが増え、夜の街の湿った空気が窓から入り込む。「……また、眠れていないのか」「ああ」「……再開すれば?実験」レインは短い唸り声だけを返した。「僕が口を挟むことじゃないか」「お前の方はどうなんだよ。あの初恋の日本人とは付き合ってんのか」「いや、まだそういう関係では……ただ、週末は僕と過ごしてくれるって約束してくれたんだ。もちろん、プラトニックなお泊まりで」「真剣なんだな」「そりゃあね。全ての情熱を捧げてる」「周りには目を向けられないのか。例えば、すぐ近くにお前に思いを寄せる人間がいたとしても」「……レイン、もしかして、僕を口説こうとしてる?」「……その冗談には暴力で抵抗するぞ。痛みの無いやり方とあるやり方、どっちがいい?」「アハハ、やっとお前らしくなったな。無論、痛みの無い方を選ぶよ。そうだなあ、今のところ、僕に好意を寄せてくれている人は居ないんじゃないかな。鈍くなってるだけかもしれないけど、正直、分からないな」レインは無言で、前を向いたまま微かに首を傾げた。ルカは、アルバイト中にどんな態度をとっているのだろうか。ヒューゴに興味があるのなら、アピールくらいしていそうなものだ。そして、あの日のキスは……ヒューゴの身代わりでも良いとさえ思えた、あの瞬間。車がコインパーキングに停められ、長身の二人は闇に紛れるように建つレンガ造りのビルの背面へ回り込んだ。ヒューゴが、Privateと札が貼られたドアを開けた瞬間、レインは息を飲んだ。予想は——できたはずだった。ルカのベースが、フロアを撫でるように響いている。身体に力を入れ、意識を音楽から引き剥がしながら、カウンターの端に滑り込む。裏口に最も近く、ステージからは死角となる位置なのが幸いだ。クリスが曲に合わせて軽快にレインの前に立ち、開口一番、「来てくれてありがとう」と丁寧に礼を述べた。ベリーショートの銀髪にたくさんのボディピアスという出で立ちからは想像がつかない、洗練された言葉遣いだった。「レインだ。よろしく」「ヒューゴから少しは聞いてる。ね、ドクって呼んでも?」「……ああ」「ありがと。今日は何でも飲んで」クリスは軽く咳払いをして続ける。頼み事の声は、少し硬い。「来週、ライブのイベントがあるんだ。それで、ダメ元でロンドンのバンドを呼んでみたら、スケジュールが合ってさ。インディーロックの、人気のバンド。都市部からも客が来る」「そうかよ。繁盛してなにより」レインは出されたウォッカを一気に流し込み、喉の心地よい刺激に低く唸った。「売上はいいとして、心配なのが治安よ。基地からも来るだろうし」「だろうな」「で、ヒューゴに相談したの。マッチョな知り合い居ないかって」レインは無言で、次の言葉を待つ。予想はついている。「バウンサーのヘルプ、頼めないかな」「……俺は生物学者だぞ」「こっちはひ弱なバーテンダーよ。ドク、あなたのその素晴らしい身体も険しい顔つきも、どのバウンサーより迫力があるわ。来週はきっと色んな人が押し寄せるから……泥酔、ドラッグ、売春、喧嘩。想像できるでしょ?流血沙汰もありえる。救急も警察も呼びたくない。日本の客も巻き込みたくない。だから……」レインは短く息を吐いた。眠れない夜の穴埋めに、暴力の匂いを嗅ぎに来いというのであれば。「分かった」最初から断るつもりはない。幼馴染で親友であるヒューゴの頼みであれば、無条件で受け入れるつもりだった。それに自分の外見は重々承知している。身体に残る傷跡、死線の空気が染み付いた眼球は隠せない。軍医を辞めて研究者となった今、少しは和らいだと思いたいが。クリスは満面の笑みで何度も礼を言うと、レインには聞き取れないほどのロンドン訛りでカウンターの客たちと話し始めた。見事な切替だが、その声と言葉の選び方にレインは覚えがあった。オックスフォードかケンブリッジ出身者によくある丁寧さと古風な言い回し。どちらがクリスの本性かは分かる。レインにそれを隠さなかったのは、好感が持てた。2杯目のウォッカを煽った拍子に、視線が、自然とステージ横に引き寄せられる。演奏が終わり、フロアの熱がまだ下がりきらないうちに、バンドはステージを降りているところだった。ルカは、汗に濡れ、額に張り付く髪をかき上げている。一瞬、こちらにやってくるのかと淡い期待を抱き、それをすぐに自覚して己で『期待ではない』と却下し、なにをやっているのかと更に自問自答する。ルカはこちらに来る様子どころか気付いてもいなさそうで、それはレインたちがステージから死角であると再認識させると同時に、失望もさせる。ルカは、ステージ横で汗を拭いながら、誰かと会話をしていた。——あれは、ショウだ。隣のラボの学生。先日、オフィスに論文を持ってきたはずだ。主宰の教授からの評判も悪くはないと聞いている。少し要領のいいタイプの院生。なぜ、ここで、彼がルカと向かい合っている?二人の距離が、無視できない程に近い。騒音のせいだろう、互いの口元がほとんど触れそうな位置で言葉を交わしている。ショウが何かを言うと、ルカは短く笑い、ベースのネックを抱え直した。その仕草が、やけに無防備に見えた。——音楽が好きで、演者に近づきたがる。珍しくもない行動。レインはそう自分を納得させ、軽く首を振り、手にしたグラスでカウンターをコツンと小さく叩いた。すぐに次のウォッカが注がれ、ヒューゴが隣で「僕にも」と小さく呟くのが分かった。ショウの視線は露骨だった。おそらく演奏の感想だろう。何かを熱く語りながら、テーブルの横に立つルカの顔を見上げる。ルカはそれを避けない。むしろ、相手の言葉を丁寧に拾うように、身体をかがめ、何度も頷いている。肩が触れている。レインの胸の奥で、なにかが硬くなった気がしたが、それはすぐに否定された。注意を払う必要はない。ルカが誰と親しくしようと、関係ない。ただ、観察癖が出ただけだ。それでも、目が離れない。ショウが笑い、ルカがそれに応じて声を低くして何か返す。その声は聞こえないが、音楽の後に残る余韻のように、妙に生々しい。レインは無意識に、グラスを持つ手に力を込めていた。――勘違いだ。胸中で、短く切り捨てる。わずかに奥歯を噛みしめていることに気がついた。そんな感情を抱く理由が、そもそも存在しない。ルカは研究の助手であり——友人であったかもしれないが、所詮は、音楽で眠りを取り戻させただけの存在だ。グラスを空け無言で立ち上がると、裏口へと向かった。重い扉のノブに手をかける。背後でヒューゴも席を立つ気配がし、少しの負い目を感じて振り向きざまに「帰る」とだけ呟いた。