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第19話 コラテラル・ダメージ

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第19話 コラテラル・ダメージ

オフィスの扉が小気味良くノックされ、レインは「Come in」とつい英語で答えてしまい急いで「どうぞ」と言い直す。帰国して数ヶ月では、まだ昔のように日本語を第一言語として話せないのがもどかしい。ドアを開けたのは隣のラボの院生、ショウだった。ノックの後の返事を待ってからドアを開ける数少ない学生の一人だ。彼は医師免許取得後そのまま医科学研究科の博士課程に残った学生で、大学のことを知り尽くしており、ラボ主宰の教授からも一目置かれる優秀さだ。さほど歳の変わらない新任の准教授であるレインには礼儀正しく、常に自分を下手に置いている。世渡り上手で、どこか飄々とした男だ。そして、レインの見た限りでは、ルカとはステージを観に行く”程度”の仲らしい。「Dr.ファンダール、お忙しいところすみません」ショウの丁寧な口調に、レインは私情を消した。「いや……構わないよ」「先日お願いした件で」「うん。ざっと読ませてもらった。よく考察されている。畑違いの俺でもよければ、喜んでカバーレターを書かせてもらう」ショウの頬にさっと血色が浮く。「いいんですか!助かります。うちの教授、ドクターが来てからというもの研究に掛かりきりで、ぼくら学生の相手が手薄になっちゃって」ショウがレインを『ドクター』と呼ぶのは、まだこの大学への赴任が正式に決定する前からの習慣だった。オランダの大学に所属している頃に2度ほど来日した際に、留学生たちがDr.ファンダールと呼んでいるのを聞いた日本人学生が真似たのだが、結局短縮され『ドクター』だけがニックネームとして残った。そのため、ラボ以外の日本人学生からは通常通り『先生』と呼ばれている。「いや、こっちは助かる。なんせ新任だからな。覚えることが多い」「僕にできることがあれば手伝います。雑用でもなんでも押し付けてください」「それこそ俺がやるべきだろう。だが、ありがとう。カバーレターは2,3日中にメールで送る。届かなかったら督促してくれ」「そのへんは信頼してます。ああ、手伝うと言えば……ルカ、今日来てます?」思いがけない名の登場に、レインは一瞬だけ眉をひそめた。いや、ショウを見た時から、頭の片隅に浮かんでいた名を言い当てられたせいで焦った——のほうが正しい。クリスの店で見た風景がありありと蘇る。隣のラボにルカを連れて行ったのは自分だ。その時に、こちらの実験助手だと紹介してあるため、レインにルカの所在を聞くのはごく自然なことに思う。その実験が大学の外で行われていたなど、誰も知る由もないのだから。それでも、聞かずにいられなかった。「……なぜ?」「来ているなら食堂に誘おうかと。このあいだ、行きたそうにしてたんで」「いつ?」レインは声に怪訝さが混ざらないようことさら注意を払った。ルカとショウに、どんな接点があるというのだ。確かに、構内を案内した際に日本の大学の食堂に興味があるようだったが。「先週ですね」そう答えたショウの声に、若干戸惑いの色が混ざったのをレインは聞き逃さなかった。先週であれば、クリスのバーで話題に上ったのかもしれない。そもそも、なぜショウがあそこへ行くことになったのかは疑問に残る。ルカに誘われたのではなく、単なる偶然もありえなくもないが、あの店を単独で訪れる日本人は——非常に稀なはずだ。というのも、クリスの店は外国人の同性愛者をメインターゲットとしているからだ。本来はオーセンティックなブリティッシュパブとして開店したらしいが、オーナーのクリスが ”そう” であり、従業員も皆同じくであることから、在日外国人のコミュニティで自然と口コミが広がり、現在の客層になったと聞く。レインはショウの戸惑いを、そちらの意味で受け取った。あの場に自分が居合わせたことを告げるのが憚られるのは、そういう理由だ。知人に最も会いたくない場所ベスト3には列挙できるだろうから。しかもそれが同じ職場であればなおさらだ。レイン自身は、男女共に関係を持つことができていたから、ぼんやりながらバイセクシャルなのだろうと自認している。ただ、性的指向というよりかは、性別よりも人間性や相性で付き合う相手を決める、というだけだった。これは幼馴染のヒューゴとの共通点でもあり、だからこそ、国を離れても二人の絆が続いたのだとレインは思っている。見境無く関係を持てる——全人類が恋人——などと言われることもあるが、実際はその逆なのだ。人間性に魅力を感じて始めて、次の段階に興味が生じる。他人の性的傾向に興味も全く無い。ただ——ルカとの関わりが——妙に引っかかる。だが、これ以上質問を続けると、まるで捕虜を尋問しているかのような冷酷な雰囲気になりかねない。レインは一度深呼吸をし、軌道を修正する。「そうか。彼なら——居ない」低くそう告げ、レインはチェアを回転させてパソコンのディスプレイに向いた。「そうですか。……連絡してみようかな」ぽそりと呟かれた後半の言葉は独白だったのだろう。しかし、レインの胸をざらつかせるのに十分だった。「この時間は仕事中だ」「そうらしいですね。でも、たまに平日が休みになるみたいで。この間なんか午前中からハムスターを見に来てましたよ」「……ルカが?」突然振り向いたレインに、ぎょっとしたようにショウが双眸を見開く。「え、ええ。あの、てっきりドクターの手伝いで来たものと思って聞いたら、ただハムスターを見に来ただけだって」「もう一度聞く。ルカが、そっちのラボに行ったのか?」ショウは首をかしげたが、答えははっきりとした口調で告げられた。「毎週来ていますよ。ドクターの手伝いのついでだとばかり……」無言のレインに不穏を感じたのか、ショウは気まずそうに束の間目線を逸らす。「内緒だったのかな。だとしたら、ルカに悪いことしたかも。いやでも、ハムスターを見に来るくらい、誰にも隠す必要ないですよね。部外者というわけでもないし……あ、もしかして機密保持に関わりますか?」「そっちのラボで、彼は何をしている?」「……何も。ただジャンガリアンハムスター達におやつをあげて、しばらく眺めているだけですね。特に実験機材を触ることも、研究に関する質問することもないです。なので問題はないかと」レインはようやく彼の懸念を察して否定する。「セキュリティ上の問題はない」「でも、その様子だと……ドクターはルカがうちのラボによく来ていることをご存知無かったんですね。どうして隠してるんだろ。しょっちゅうハムたちを見に行くのが知られると恥ずかしい、とかですかね」「しょっちゅう?……意味がわからん」「あ、『頻繁に、何度も』って意味です」レインの疑問はそこではなかったが、ショウが言葉の説明をする。親切な気質をみせてくれたが、レインはそれを気遣う余裕が無かった。「これだけ話せるんだ。それくらい知っている」「ですよね、失礼しました」「いや……」レインの脳裏で、あのメッセージが激しく点滅した。こっちに顔を出さずに、わざわざ隣のラボだけに通うのは——『会いたくないのだ、俺に』などショウに言えるわけも、言う必要もなく、ただ何も知らないふりをする。しかし、会いたくないのであれば大学に来る理由は——あの愛くるしいハムスターたちだけだ。そうでなくてはならない。でなければ——眼の前でショウが所在なげに佇んでいる。「では、カバーレターが書けたら送る」レインは再びパソコンに向き直った。「本当に助かります。ラボに居ますので、ご質問などあれば……。あのぅ、ルカが来たら知らせましょうか?」元からそういう顔なのか、愛想なのか、ショウは僅かに微笑んでいる。それが、まるで勝ち誇ったように見えてしまい——レインの身体を激しい所有欲が稲妻のように駆け抜ける。作り笑いを浮かべるのが精一杯だった。「いいや、不要だ」オフィスの扉が閉まった瞬間、レインはキーボードにおいてあった両手で頭を抱えた。ルカの行動が、よく理解できない。あれほど嬉々としてヒューゴの話題ばかり話していたかと思えば、レインに隠れてショウと会っているなど。そしてレインには——キスを許し——————そうか。ルカの行動パターンを振り返ってみれば、すべてが一つの仮説でつながるのかもしれない。まず、ルカのような才のあるミュージシャン——表舞台に立つ人間——には、他人を自然と引きつける独特のサブスタンスがある。カリスマ性とでも呼ぶべきものだ。それは一方通行ではなく、相互に作用する性質を持つ。つまり、魅了する側も、魅了される側からの反応に影響を受け、関係が深まる。ルカがヒューゴの話題を頻繁に持ち出すのは、ルカ自身の好奇心や人に対する興味から生まれる自然な行動なのかもしれない。いま長い片思いを実らせようとしているヒューゴが、ルカが求めている情熱的な生き方の投影であれば、自分にはないものを他者を通じて満たす “代理満足” だろう。ショウへの内緒の訪問も、これを裏付ける。年齢の近い知的な相手に会うのは、ルカの知的好奇心だけでなく、自己成長の渇望を示す。だが、これをレインに内緒にするのは、新しい人物との交流の失敗や、拒絶のリスクを最小限に抑えたい “防衛機制” だ。ルカの関心は特定の個人に偏っているわけではなく、広く人々に向けられているのではないか——さまざまな魅力や個性を味わうことで自己を刺激しているのかもしれない。それが結果的に、他人との関係を流動的に保つ傾向に顕れている。通常、そのような傾向には、根深い原因があると考えられている。何か——たとえば幼少期の経験により——人間関係の安定性を信じにくくなった結果、深く結びつくのを避け、代わりに複数の浅い接続を好むといった具合にだ。一人の人に依存せず、ネットワークを広げることで心理的な安全網を築いている。無意識の “分散戦略” 。そう考えれば、ヒューゴが、ルカとレインの実験について把握しているのも辻褄が合う。ルカはヒューゴとの会話で、共通の人脈内にいるレインについて、様々な話を無意識に共有している可能性が高い。レインには、ヒューゴの話を聞かせているように。そして、あのキスは——ルカの脆弱性の一瞬の露呈。または、一時的な親密さの象徴。ルカのような、自身の魅力に疎い人物には、しばしば、このような距離感の認識ミスが起こりやすい。この仮説が正しければ、ルカの心は予想以上に自由で、複雑だ。そして根源に、孤独への恐怖がある。深い孤独を回避するために、浅い接続のみを張り巡らせる。その一方で、特にレインのような研究職に身を置く者は、ルカの対極に位置する存在だ。論理的で内省的な思考型で、裏方であり、観察者だ。それゆえに、個性や魅力といった輝くサブスタンスに翻弄されやすい。特に、ルカのそれは、異様なまでにレインの精神に作用している。理由は分からない。精神に傷があるからなのか、相性なのか。他に同じ作用をレインに起こした事例がないため、分析できるほどのデータが無い。唯一わかっているのは——ルカは劇薬だということだ。だが、そんなことは彼の責任ではない。ルカは、自分自身が強烈なサブスタンスを持ち、操っている自覚が極度に薄いのかもしれない。己の深層の孤独に、気がついているのかさえ怪しい。レインはそう結論づけ、静かに息を吐いた。その息は微かに震えを帯び、指先から温度が逃げてゆく。であれば——ルカを突き放したのは、とんでもない間違いだったのではないか。◆ ◆ ◆ルカがラボを訪れたのは、正午を過ぎた頃だった。いつもは呼び鈴を押すとすぐに解錠されるロックが、その日は無反応だった。数秒待って再び鳴らすも、変わらない。初めての事態にルカは肩透かしを食らったように感じたが、そもそもこれまでアポイント無しでやって来ても問題なかったのは、ショウがラボの住人だからだ。少し待っていればすぐに戻ってくるだろう。ルカはそう踏んで、廊下の左右を見渡した。ラボの前の廊下は、昼でも妙に静かだ。消毒液の匂いが薄く漂い、蛍光灯の白が冷たい。ショウを待つとしても、廊下で立ちっぱなしはまずい。いつ、レインが通り掛かるか分からないからだ。それは避けたい。理由は明確に言語化できないが、胸の奥がわずかに硬くなる。「そりゃ……会いたいけどさ」とルカは小さく呟いた。だから大学に足を運んでいるのだ。数十メートルの範囲に、彼の影を感じたくて。しかし、相手がこちらを避けている以上、不用意な遭遇は——踵を返そうとした、そのとき。「ルカ」背後から、低くやや掠れた声。ぞわりと首筋が粟立ち、背筋にこそばゆい電流が流れる。ルカの口から、思わず喘ぎのような呻きが漏れ、身体が硬直する。振り向く前に、誰か分かる。鼓動が乱れる。レインが立っている。講義帰りなのか、シャツの袖をまくったまま。視線は真っ直ぐで、温度が読めない。数秒の沈黙。レインは距離を保ったまま、状況を眺めるようにルカを見る。ルカは廊下の空気が薄くなったような気がして、視線を逸らした。『ハムスターを見に来ただけ』と言い切るには、間が長すぎた。レインの目がわずかに細まる。「ショウを待っているのか」問いではない。確認でもない。ただ、選択肢を並べただけの声。ルカが首を振る。レインの視線が、わずかに下がる。「そうか」短い沈黙が流れる。そして、レインはルカの横を静かに通り過ぎた。わずかに体温が触れる距離でのすれ違いに、ルカは目眩を覚えて足を踏ん張った。廊下は静まり返っている。レインに遭遇することなど、何度も想像していた。なんて言おうか、どう笑いかけようか。何パターンも考えては、再開に胸を踊らせ——最後にはあの拒絶のメッセージで、妄想は幕を閉じる。何を期待していたんだろう。——帰れば済む話だ。ラボは閉まっている。それだけだ。だが、背中に残る声が消えない。自分の名を呼ぶ低い声。その奥に何も見えなかったことが、逆に不安を煽る。胸の奥がざわつく。あのキスのあと、距離を置かれたのは確かだ。理由は聞かなかった。聞けば、何かが壊れる気がしたからだ。レインの目は、何も語らなかった。いまオフィスを訪ねたら——ショウがいないから、仕方なく来たと受け取られるかもしれない。それは、事実ではない。ルカは敢えてしっかりした足取りで、レインのオフィスの前に立った。彼の気配が、扉の向こうにある。鼓動が速い。誰を待っていたと思われているのか。説明すべきか。説明する義務はあるのか。——ただ会いたいだけなのに。扉の前で手を上げ——止まる。そして、下ろす。再び、レインに拒まれるかもしれない。逃げるなら、今だ。でも——ルカは、意を決しドアをノックした。一度目は、ただの沈黙。二度目に、「Come in」と低く、わずかに早い返答。扉の前で、ルカは息を吸った。分かっている。逃げ道を自分で塞いだのだ。ノブが回る音が、やけに大きく響いた。ドアを後ろ手に閉めた瞬間、外界の音が断たれる。一か月。長くも短くもない。レインはデスクの向こうにいる。背筋は伸びているが、その静けさは以前より硬い。「……座ったら?」声は低く抑えられ、視線は落とされている。ルカの胸が痛むほど高鳴る。あのメッセージで、自分の存在を拒まれたわけじゃない。だが遠ざけられた。その証拠に、ようやく見ることができたレインの目の奥に、警戒がある。「久しぶり」ルカの声はわずかに震えた。沈黙が落ちる。パソコンの画面から目を離さないレインを、ルカはじっと見つめた。頬が少し削れている。指先が落ち着かない。夜をいくつもやり過ごした顔。眠れていないに違いなかった。僕を——僕の歌を遠ざけたせいだ。その言葉を飲み込んで、代わりに、静かに言う。「実験、いつ再開する?」レインが顔を上げ、その瞳が明らかに揺れるのをルカは見逃さなかった。実験。便利な言葉だ。感情を包んでくれる。レインはキーボードから手を下ろし、チェアを引いてデスクからやや離れた。じっとルカを見据える。「……いちごの実は、出てきている」事実を盾にしたレインに、ルカが微かに頷いた。すっと立ち上がり、ゆっくりとした足取りでデスクを回り込む。レインは動かなかった。ルカの一挙一動を見守るその目は、観察者の冷たさとは全く異なっていた。「で、僕の役割は?」息が触れそうな距離でルカが囁く。「……何も変わらない」吐息のような呟きは、少し掠れている。「僕が……、実験が、怖いの?」それは、確信にも似た思いつきだった。ルカはレインの胸元に触れた。シャツ越しの熱は、ルカの指先なのかレインの皮膚なのかわからない。鼓動を確かめようと滑らせると——レインの手が、反射的にルカの手首を掴んだ。「制御できないものは、好まない」「僕のこと?」レインの瞳が深くなる。「……俺だ」次の瞬間、ルカはレインに口付けた。静かにふれるだけのつもりで。だが、抑えていた時間が長すぎた。レインの手が背に回り、強く引き寄せられる。深くなるキスに、呼吸が乱れ、机の端を掴む指先が白くなる。抑制を溶かす、長い口吻。遅れてきた理性が崩れ始めた時、レインはルカの下唇を軽く噛んでから唇を離した。お互いの額を合わせ、乱れた息を整える。「……もう二度と出来ないかと思ってた」ルカは小さく笑ってそう言うと、レインの胸に顔を寄せた。レインの腕が、今度は迷いなく抱き締める。「……キスでも……眠れるのだろうか」唐突に呟かれた正直な声に、ルカは笑い声を上げた。「これも、実験?」「実験かどうかは、後で決めればいい。……もう一度」レインは、ルカと鼻先を合わせて顔を上げさせる。指先で細い下顎を包みこみ、唇を僅かに開かせる。「レイン……」喉だけで発せられたルカの滑らかな声は、レインの理性を奪うのに十分だった。ここが職場だということすら、もうどうでもよくなるほどに。