第22話 ログは語る
第22話 ログは語る
異常は、最初からそこにあった。ただ、誰もその “意味” を考えようとしなかっただけだ。「再現しない」ダニエルの声は低かった。培養細胞の増殖率が揺れている。無論、条件は固定してある。手技も安定している。それを証明するのに十分なログも揃っている。レインはディスプレイに並ぶ数字を眺めていた。ダニエルの申告通り、実験は昼間にしか行われていない。「では、あれから一度も細胞分裂に乱れがないんだな?」「その通りです。これでは、僕のやり方に問題があったとしか……」レインは一刻黙り込んだ。いくら手慣れた作業であってもミスは起こる。しかし、何度確かめてもダニエルの手技にそれは見当たらなかった。「録画をいくつか見比べたが、寸分違わなかった。他のラボの稼働ログは集まってるか」「アリサが上手くやってくれてます。……やはり、こういうのは女性の方が」「まあな」レインはダニエルの肩をポンと叩き、研究室を出た。そして向かいにある自分のオフィスで、ホワイトボードの前に立つ。再生芽の異常な反応。視神経の余分な分岐。ハムスターの不規則な行動。電磁装置の稼働ログ。学生たちのデータの状況と、使用された装置を隣同士に、その他は不規則に点在させる。そのほか、いま把握しているすべての要素を書き出しておいて一旦思考を止め、授業の準備へと切り替えた。真夜中に少し前、レインは電磁波曝露の再現実験をしているスタンリーを訪ねた。「いつもこの時間なのか」「ええ」スタンリーの返答は短い。「言ってくれれば交渉できたはずだ」「いえ、夜中に独りでやってるほうが好きなんで」「君がそれでいいなら。さすがに真夜中はショウも居ないか」「……居ないほうが、やりやすいですね」レインの片眉が軽く上がる。「何かあったの?」「いや、大したことじゃないんで。失言でした」「話してよ。まだここの人間関係に疎くてね」スタンリーがくいと眼鏡のズレを直す。「少し前に、電磁波装置が初期化されていなかったことがありました」レインは黙って待つ。「共有装置のルール違反です。学部でちょっとした問題になりましたが、犯人探しはされませんでした。今後気をつければよいというだけで済みましたが」「稼働ログから最終使用者が判明したからだろ」「その通りです。教授から呼び出されて、私がログ上での最終使用者になっていると言われました」「……君が?」「しかし私は初期化をするどころか、その日に実験をしていなかった。研究室に入ってからすぐに、忘れ物に気付いて家に帰りました。教授にもそう説明しましたが、入退出のログと装置の稼働ログの時間が揃っている以上、反論は難しいと言われました。それに、隣とは揉めたくないようでした」「ああ、なるほどな」電磁波装置を正式に保有しているのは、医学部附属の先端電磁応用研究センターだ。ショウはそこの生体電磁環境制御部門所属となる。レインたちが生体相手の基礎医学系なのに対し、あちらはやや工学寄り。産学連携の研究が多く、外部資金が入りやすい。ようは、金回りが良い部門とはできるだけ仲良くしておきたい、ということだ。「そのログを学部長に提出したのが、ショウなのか」「教授は、ログの出力権限を持っているのは彼だけだと呟いただけです。……私はフェアじゃないことが嫌いです。でも、教授に迷惑はかけられない。博士号を取るまでの我慢です」スタンリーの言い方には諦めがにじみ出ていた。残念なことに、研究資金は最も強い武器だ。それを振り回され、事実を曲げられたことはさぞ腹立たしかっただろうとレインは同情する。「うちの研究室に電磁波装置を買う金が無いのがなにより悪い」軽い口調のレインに、スタンリーは口角を上げる。「あんな大げさな機械、2個も必要ありませんよ」「まあな」レインは深夜の研究室を改めて見回す。この時間に立ち入ったのは初めてだった。電磁波装置が出すブーンという機械音は耳障りではあるが、さほど大きくはない。慣れてしまえば無音も同然となるだろう。実験に使用されているハムスターたちも同じだとよいが、とレインは放射線状に伸びた金属の柄の先を見やる。「ルカ君には見せられませんね」スタンリーからそうなにげなく発せられ、一瞬レインは目を見開く。「知ってたのか、彼がここに通ってること」「みんな知ってますよ。彼、目立つでしょう」「……ああ」「ジャンガリアンハムスターの使い道を知ったらなんて言うかな」スタンリーは微かに笑顔を見せた。「では、俺は帰るが……本当に、この時間帯の実験に不満はないんだね?」「無いです。むしろありがたい」「分かった。あまり無理するなよ」レインは電磁応用研究室を出ると、まっすぐに職員用の駐車場へ向かった。バイクのキーにつけてあるカラビナに指先を通し、クルリと回す。愛車のヴァルカンが、月の光を反射してその位置を知らせている。まるで早く乗れと催促しているかのようだ。この時間にバイクを走らせるのも、シラフなのも、稀なことだった。革のジャケットの襟元を撫でる夜風がさらりと涼しく、どこかに寄り道でもしたい気分にさせる。ヒューゴの店が頭によぎるが、すぐに打ち消す。真夜中を過ぎた今は、終業して休息を取っている頃だろう。少し気の向くままに走り酒でも買って帰るか。そう決めて、住宅街を避け街道へと出る。バイクを走らせながら、頭の中ではスタンリーとの会話が軋んでいた。(ログの改ざん、か…)引っ掛かる要素はいくつか挙げられる。スタンリーは事なかれ主義ではない。静かに怒りを蓄えるタイプだ。そしてその放出のタイミングも心得ているようだ。レインの頭にある仮説が、徐々に形を整えていく。だが、全ての手札が揃う前に、結論へ飛躍するのは危険だ。最低でも、研究棟すべてのラボから各種装置のログを入手しなければならない。無駄足に終わるかもしれないが、そこに1ミリでも可能性があれば意義はある。研究者は、理屈っぽい現実主義者と思われがちだが、世間の持つイメージよりもはるかに想像や勘を大切にする。それらの見えない何かを仮説にし、立証するのが生きがいなのだ。電磁応用研究室の主宰曰く、あの装置の使用については全く把握していないとのことだった。なんとも頼り甲斐のないことだが、それには事情があった。電磁応用研究室は医用生体工学講座に属する。件の高周波暴露装置は、先端電磁応用研究センターが協賛企業から購入したものだ。それを共同研究という名目を用意し、講座のラボに”置いてもらっている”とのことだ。共同研究ならば、講座に資金が入る。そして大層な装置のお守りは、研究センターからきたポスドクが全てやってくれる。金が入ってくるだけの楽な仕組みの代わりに、口出しも出来ないのだ。レインは思考の行き先に息苦しさを感じ、スピードを上げた。整備された道路には街路樹が並び、ショッピングモールなどの大型建造物が点在している。子供の頃の記憶では、この辺りは企業の大規模工場がいくつかあったはずだ。それを取り囲むように工場や倉庫が並び、殺伐とした雰囲気だったのを覚えている。今では、そんな準工業地区の面影は一切ない。手前には一際目立つタワーマンション。共有部の電灯が規則的な点状に並び、マトリックスを形作る。何百とある蜂の巣のようなマス状の家。その一つ一つに誰かの生活があり、人生がある。想像すると、頭の裏側が真っ暗になるような気がしてくる。環境の無機質さと、そこにある生命の数がまるで一致しないのだ。一種の恐怖だ。いつの間にかバイクは準工業地帯を抜け、視界の明度がワントーン落ちる。海が近い。左手にある駐車場に入り、浜に最も近い場所でエンジンを止めた。まるで最初から目的地が分かっていたかのような、迷いのない走行だった。ヘルメットを脱ぎ潮風を肺に入れ、サイドスタンドを立ててバイクから下りる。顔に湖風が当たると気分がずいぶん良くなった。ああ、ここは——初夏にルカと来た場所だった。細い月の鋭角な光が、尖った波の先を照らす。無意識に目を凝らしていた。しかし、そこに無いものは無い。さざ波の音にまぎれる、明るいはしゃいだ笑い声も無い。だが、あの夜に感じた美しい感情は、胸に残っている。なにもかも洗い流され、まるで生まれ変わったかのような——束の間の幸福。ただそこに在ることが許されるような——そんな錯覚。あのまま時が止まればいいと本気で思った——しかし当然ながら、自然の摂理には誰も逆らえない。ふ、とレインは、微かに自嘲した。止まらなかったからこそ、ルカの唇の甘さを知ることができたのだ。レインは少しの間その身を潮風に晒した。そしてエンジンを掛け直し、家路へと再び走り出す。通って来た道を逆走する。少なくとも、そのはずだった。気づけば、腕は異なる道へとハンドルを切り続けている。見覚えのある通り。低層のマンションが並ぶ、静かな住宅街だ。エンジンを切ると、自分の鼓動が妙に耳につく。ガス灯を模したポールライトが、手入れの行き届いた外構を照らしている。一瞬の迷い。なぜこんな所にという疑問と、当然だろうという認識。ふと見上げると、ルカの部屋の窓からひらりとはためくカーテン。部屋は暗い。不用心だが、気持ちは分かる。それにこの辺りで男の一人暮らしなら、窓を開けて寝ていても大丈夫だろう。——それとも、まだ起きているのだろうか。そうだとしても、深夜に誰かを尋ねるような無礼な習慣はない。それに手ぶらだ。花束も、ワインも、チョコレートも無い。——花だって?「俺は何を考えているんだ」ヘルメットの中で独り言がくぐもる。男友達を尋ねるのに花を持っていくやつなどいない。レインは大きくため息をついて、イグニッションに手をかける。その時、エントランスの自動扉が開いた。ヘルメットのスモークシールド越しに、長身の男性が駆け出してくるのが分かる。まさか。レインの胸がどくりと跳ねる。シールドを上げると、ばちりと目が合う。「レイン!やっぱり!」抑えられてはいるが、声が弾けている。レインはヘルメットを脱ぎ、バイクから下りた。エンジンの熱が足元に纏わりつく。ルカはその傍らに立ち、肩で息をしながら少し笑った。夜風がオーバーサイズのTシャツを揺らし、薄い身体を際立たせる。襟ぐりは広く、鎖骨が露出している。「どうしてここに?」「……通りがかったから」「どこか行ってたの?」「仕事の帰りで……少し走らせていたんだ。良い夜だから」「そっか。遅くまで大変だね。せっかくだし、寄って行かない?コーヒでも?」いつも通りの軽い調子だった。間合いを詰めすぎない誘い方。「遠慮しておく」「金曜のライブの後だって、全然話せなかったし……そうだ。僕の歌、聞いてくれたよね……ちゃんと眠れた?」「ああ」「あの曲、夏に海でひらめいたメロディーが軸になってるんだ」レインの脳裏に歌詞の一節が蘇る。「だから……名前を歌詞にいれた。書けば雨だけど歌えばレインだろ。まさか本人が居るなんて思わなくて、ボーカルに渡さず自分で歌った」聞き間違いではなかった。「少し悲しげな歌詞だった」レインがぼそりと言う。「たぶん……その雨のせいかな。さっきね、アレンジを考えているところだったんだ。だからバイクの音がした時……まさかと思った」「煩かったか」「そうじゃないよ。通じたのかなって……」レインはここに来る前に自分がどこへ行っていたのかを口にしなかった。「ね、実験はまだ再開しない?」「まだだ」レインの即答に、空気が僅かに冷えた。しかしルカは笑った。困ったような、諦めたような微笑。「いつ?」レインは答えなかった。代わりに、ルカの手首を掴んで身体を引き寄せる。「あ……」「どうしてバイクの音で俺だと分かった?」耳朶にかかる息にルカは身震いする。「理由なんて、ないよ……」レインはルカの手首を解放する。「明日、仕事が終わったら俺のオフィスに来てくれ」「え、あ、うん」「頼みたいことがある」「……それを言いに来ただけ?」俯いたルカの小さな呟きに、胸の奥が軋む。一拍置いて、レインは口を開いた。「今夜……きみのことを考えていた。すまなかった、遅くに」それだけ告げ、レインはヘルメットを被った。いま自分がどんな顔をしているのか知りたくもない。再びバイクに跨り、エンジンをかける。アクセルが開き、音が夜をゆっくりと裂いてゆく。レインのオフィスに小気味よいノック音が響いたのは、14時を少し過ぎた頃だった。「どうぞ」と日本語で応えながら立ち上がり、ドアを開く。誰かの来訪を知っている場合の丁寧な対応だが、待ちかねていた場合とも言える。昨晩に続き、ルカは肩で息をしている。急いで会いに来てくれたことを語るように、上下に大きく揺れている。レインはオフィスの片隅にある冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しルカに渡した。ソファに座ったルカがひと心地付くまで待ってから尋ねる。「走って来たのか」「うん。バス停からだけど」「何時でも良かったんだが、伝えてなかったな。すまなかった」「僕が早く来たかっただけ。あ、これ、ランチまだなら……」ルカはバックパックからガサガサと紙袋を取り出し、コーヒーテーブルに置く。「ありがとう。きみは?」「僕もまだなんだ。ここで食べて良い?」「なら……学食に行くか?これは夜食にとっておいて」「え、い、行く!あ、でも夜って……」笑顔と不思議そうな顔と、表情をくるくると変えるルカに、レインは微笑んだ。「予定がなければ、深夜にも手伝ってもらいたいことがあってね」「もちろんだよ!平日の夜はだいたい空いてる。ずっと練習ってわけにもいかないし」「よかった。それじゃ……」大学には医学部により近い食堂と、中央食堂の2つがある。ルカの希望と時間的な面を考慮して、最も品数の多い中央食堂へと向かった。医学部の食堂をカフェとして利用した経験しかないレインにとっても初めてのことだ。「どういうシステム?」と英語で尋ねてくるルカに「知らない」と即答しておき食堂内を見渡す。どこかに説明書きがあるはずだ。多くのメニューには英語も併記されている。すると、眼の前にいた学生がくるりと振り返り、丁寧な英語で助けを差し伸べる。「この列は、トレイに好きなものを乗せて、最後に精算します。あとセットメニューもここです。丼物や麺類は、あっちの列」「なるほど。ありがとう」レインは英語で礼を言い、ルカの顔を覗き込む。「食堂でこんなことを言うのも妙な感じだが……なんでも好きなもの頼んで。もちろん俺の奢り」「やった。じゃ、カレーとカツ丼とラーメン」「……そんなに食えるのか?」「たぶん」レインは先を見越して自分はサラダだけを注文した。結果、その予測は的中し、半量はレインの胃袋に収まる。「言っただろ」「これは胃がいつの間にか日本サイズになってただけで……ごめん」意地を張るルカにレインは目尻を下げる。「で、どう?感想は」「うーん。普通かな」「ま、普段ヒューゴの作るメシ食ってんなら、何食べてもな」ルカは大きく頷いた。「ったく、その通りだよ。ただのタッカーに物足りねぇなんて文句言うようになったら終わりだよ。食い物にうるさいやつになりたくねー」レインは目を見開いた。ルカがレインに対してオーストラリア訛りを出したのが初めてだからだ。「タッカー?」「ああ、普段の食事。日本語なら、メシ?かな」「メシ、ね。ちなみに、旨いものに味蕾が甘やかされることを日本では『舌が肥える』って言う」「みらいって?未来?」「違う。taste buds」「ああ。どんな字書くの?」レインはスマートフォンを取り出し、変換してルカに見せた。手書きでは到底書けない。「漢字では味の蕾と書く」「へぇ。英語でも日本語でも、ぴったり一致してるんだ。言葉って不思議だ。でも未来と同じ読み方なの、どうにかしてほしいよ。こういうの、多くて困る」「味蕾の方は使う機会ないだろ」「そうだけどさ」「それより。俺の前でもオーストラリア訛りを出すことにしたの?」「してない」「出てたよ。タッカーなんて単語初めて聞いたが」「ちょっと油断した。お腹が苦しくて余裕がなかったのかも。嫌だった?」「別に……ただ、雰囲気が変わる」「どんなふうに?」ルカは小首を傾げる。レインは目を逸らし、軽く俯いた。「そうだな……上手く言えないが……友人と知人の違いのような」ふふ、とルカから微かな笑いが漏れる。「友人と知人かあ。どっちにしろ、僕はまたこうしてレインと話せるようになったのが嬉しい。今日のレインは、食堂には学生と行けなんて言わなかった。昨夜会えたのも偶然じゃないはず」すっかり訛りの消えた英語でルカが言う。どちらも自然だが、レインとしては、あまりに訛りがきついと聞き取れないためホッとする。それに、自分に合わせてくれているのだというルカの思いやりが、自尊心だか、所有欲だか、よく理解できていないレインの心をくすぐるのだ。「まあ……ね」「行こ。僕に何か手伝えることがあるんでしょ?」ルカはそういうと、グラスの水を飲み干して席を立った。食堂からオフィスにコーヒーを持ち帰り、ソファに向かい合って座る。コーヒーテーブルの上は整理されているが、そこにはレインの足がどかりと乗せられている。「今日ルカに来てもらったのは、きみにしかできないことがあるんじゃないかという仮説のためだ」「説明が回りくどい」ぐ、とレインが喉を鳴らす。こんな直接的な言い方は同僚や上司でさえしない。しかも、一言目で。なのにルカ相手だと、楽しくて仕方がないのだ。「うるさい。俺のやり方ってものがあるんだ。聞いてろ」「はいはい、教授」「准教授だ」軽口をたたきながらも、ルカは背筋を伸ばす。足を組み、コーヒーのカップは手にしたままでも聞く姿勢はできている。「うちのラボで、原因不明のトラブルが出ている。博士課程の学生が3名いるんだが、それぞれの実験データにおかしな挙動が観察されている」ルカは軽く頷き、説明を促した。「それについての原因調査を今行っているところなんだが、判断材料となるデータに不透明性があることがわかった。本来、データは事実でなければならないが、目に見えるデータを信用すべきでないのかもしれない」「ん、分かった。その調査を僕に手伝えってことでいい?目に見えるもの以外で……そうか!音、でしょ」レインは深く頷いた。「勘がいい——。集めているデータはログだ。この建物内にある装置全てのログをあたっている最中だが、裏付けのためで、本星じゃない。俺が疑っているのは、高周波暴露装置のログ」「……なにそれ」「知らなかったんだな。それでいい。では質問だ。きみは俺に内緒で、ハムスターたちを見に来ていたようだが」途端に、ルカの眉が下がる。「別に内緒にしてたわけじゃない。だって……僕を避けてただろ?」ルカの声に弱々しさが混ざる。「……その話は後だ。あのラボに円形の大きな装置があるだろう。あれが高周波暴露装置。で、きみがハムスターを見に来た時間に、あの部屋で独りだったことは?」「ない。中から開けてもらわないと入れないし、ハムスター部屋の外にはいつもショウがいたはず」「では、あの装置が稼働していたことは?」ルカはしばし考え込んだ。「分からない。正確に言えば、稼働しているいないの区別ができない。大げさに動いていれば見て分かるかもしれないけど」「良い回答だ。これできみに先入観が無いことが分かった。では、これから、隣のラボでハムスターを見て来てくれ。不自然にならない程度の時間……いつもどれくらい居るんだ?」「長くて1時間くらい……」「よく飽きな……っ、おい」レインの顔に、ルカが投げたクッションが当たった。「行ってくる」「おい」「短い日もある。15分で帰ってくる」「ルカ」レインの呼びかけに反応せず、ルカは部屋を出てラボに向かった。そもそも、ルカが1時間もハムスターを見ることになったのは、レインに会いたい気持ちからだ。自分を遠ざけておいた相手に、会いたくて、それでも叶わなくて、できるだけ長く近くにいたかったせいだ。ずかずかと大股で廊下を進み、慣れた手つきでラボの呼び鈴を鳴らす。間髪入れずに、中からロックが解除された。ショウが居る証拠だ。「ルカ!久しぶりだね?」「うん。いいかな、見せてもらって」ショウが快諾し、ハムスターの飼育部屋へ連れ立って入る。また子供が生まれたケージがいくつかあり、増え続ける一方だとショウが呆れ顔をする。「しばらく見ていない間にさ」「そう言えば居なかったよね」「2週間くらいかな。スポンサーの研究室に行ってた。インターンみたいなものだけど」「すごいなあ。学生なのにもう企業が付いてるなんて。そこに就職するの?」「ん〜」とショウは間延びした声を出した。「まだ分からない。実家は病院だけど兄貴が継ぐだろうし。かといって大学に残ってずっとハムスターの面倒見るわけにもいかないしなぁ」冗談めかしたショウに、ルカは笑顔を返した。自分と全く異なる世界の住人と接点を持っていることが面白い。ルカは当然のように音楽の道へ進んだ。他に興味が持てなかったのも確かだが、選択肢という考えそのものが無かった。しかしショウや、レインのラボにいる学生しかり、優秀な人達にはたくさんの選択肢がある。企業にも行ける、研究者にもなれる、医者にも、または全く異なる職業にだって学歴が優位に働くだろう。ふと、ルカは疑問を持った。レインには、なにか目標があるのだろうか。あるとしたら、たくさんの選択肢から、彼は何を選んだのだろう。聞いたところで素直に答えてくれるとは思えないが、反応を見るだけでも価値がありそうだ。「今日は、ドクターに会ったんだよね」ショウは、眼の前にあるケージをちょいちょいと突きながら尋ねた。ちょうどレインのことを考えていたのが見透かされたようで、ルカは少し赤面する。「あ、うん。どうして知ってる?」「噂になってる。中央の食堂で “あのドクターファンダールが楽しげに” 留学生と食事してたって」「そ、っか。留学生じゃないんだけどな」今日のレインは、確かに機嫌が良さそうではある。よく話すし、まるで距離を置いていたことを忘れるくらいに自然と会話ができる。しかし楽しげかと言われると、ルカは首を捻った。皆でBBQした日や、あの初夏の海ではしゃいだ夜。本当に楽しいであろう時にレインが見せる、あの恐ろしいほどに魅力的な笑顔。思い出すだけで、ルカは胸の奥に疼きを感じる。ここの人たちは、だれもそれを知らないのだ。ルカはひまわりの種を指先で半分に割り、ケージに差し入れる。ジャンガリアンハムスターの大きな瞳が、にんまりと微笑んだように見えてなんとも愛らしい。「そろそろ行くよ」ルカはハムスター達に微笑みを返してから、ショウに暇を告げた。つい先ほど名前知ったばかりの装置を通り過ぎ、ドアを開けようとしたその時、ショウに肩を掴まれる。ドキリと心臓が鳴る。何かヘマをしたのではないか。レインの指示で来たことがバレたとしたら----?振り向くとすぐに手は離れた。「今週もステージあるよね?」「ああ、今週は店が休みなんだ。さっき連絡があった」「なーんだ」とショウは落胆の表情を見せ、ルカは「またね」と去った。少し素っ気なかったかもしれないが、何かボロが出ては困る。先週のイベントのせいで、クリスや従業員たちは疲労で立てないほどだと聞く。それに、ああいった大規模なイベントの翌週は集客が見込めないらしい。ならいっそ店を閉めて、連休にしてしまおうということだった。研究等のひんやりとした廊下を、再びレインのオフィスを目指す。今日は何かとショウが話しかけてくれて、宣言した15分より長くなった。レインの目的を完全に理解したわけじゃないが、指示通りにできたはずだ。ノックをすると直後に「Come in」と返答がある。ルカと分かってのことなのか、日本語が面倒だったのか。「行ってきたよ」デスクでパソコンに向かっていたレインの目線が、スッとルカに移る。鋭いが、どこか優しい。さっき追い払った胸の疼きが再びルカを襲う。「えっと、何を報告したらいいのかな」「いらない。きみにスパイ行為をさせたいわけじゃない。ただ、もし何か普段と異なることや——気がついたことがあれば、教えてほしい」「わかった。今のところ無いよ。ショウが居て、ちょっと話した。いつも通り」「いつも彼とどんな話をするんだ」つい口を出た問い。「あれ、報告は不要なんじゃ?」レインは黙った。個人的な興味からの質問であるため、先ほどの自分の発言の範疇ではないはずだが、そんなものルカには区別がつかなくて当然だ。ソファにどっかりと沈んでいるルカは、少しだけ頬を膨らませて不満気に見える。なんとなく感じ取ってはいたが、どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。「後は夜まで待つのみだが、一旦帰るのなら送っていく。22時頃に迎えに……」拘束時間は短い方が良いだろうと思っての申し出だったが、ルカは否定する。「ここに居る」「……退屈じゃないか?」「全然。それとも、邪魔?」「……いや」今日の必須タスクは既に処理してあるし、会議の予定もない。ルカのための時間は用意できている。それに、多忙だったとしても、ここに彼が居ることが障害になるわけがない。目線を上げると、ふわりと微笑み返してくれる。何か問いかけると、くるくると表情を変えながら答えてくれる。ルカの存在は、心と——思考の栄養剤のようだ。それがレインに効きすぎるのが厄介なのだが----レインはデスクを離れると、ルカが持ってきた紙袋から中身を取り出した。アルミフォイルに包まれた、ずっしりと重い円柱形はブリトーだろうか。そして袋だけを手にすると、反対の手に持っていた小型のアーミーナイフをヒップポケットに忍ばせる。「少し外へ行こうか」オフィスの扉を開け、「ん」と素直に立ち上がったルカを通す。「どこ行くの?紙袋なんて持って」「ついておいで」短く言って、レインは歩き出す。「ったく、子供扱いして」背後でルカが不満げな声を上げる。足音が少しだけ早い。追いつこうとしている証拠だ。レインは数歩進んで、ふと立ち止まる。振り返った視線だけが、まっすぐルカを射抜く。「……子供扱いはしていない」廊下に、静かに響く低い声。言い返そうとルカが口を開きかけたその一瞬を、レインは逃さない。「子供相手にキスなんてしない」「なっ……!」ルカの目が、信じられないものを見たように見開かれる。レインはそれにわずかに口元を歪めてみせた。笑ったとも、嘲ったともつかない、ごく浅い動き。「来い」再び前を向いて歩み始めるが、速度は落とす。背後では一瞬だけ乱れる足音。しかしすぐに整い、レインの横に並ぶ。ふ、と前を向いたままのレインから静かな笑いが漏れ、ルカは「こっち見んなよ」と再び悪態をついた。そう言われると見たいもので。レインはルカの顔を大げさに覗きこみ——束の間、固まった。無機質な廊下にそぐわない、ぽってりと赤くなった頬。そんなうぶな反応は——想像すらしていない。「なんだよ」ルカは唇を尖らせるようにして拗ねたように言う。レインは目を閉じて息を吐き、いま見たものが記憶に残らないことを願った。広く浅い交流を好むのではないのか。だが——こんな顔をしてみせるのは——レインは無意識に奥歯を噛みしめていた。顎のラインがくっきりと現れ、レインの気など知る由もないルカは、その強さに見惚れていた。「なんでもない」奇妙な沈黙を破り、レインは再び歩み始める。研究棟の通用口の鍵を開け外に出ると、硬い音を立ててドアは自動で施錠された。