第23話 輪の中の妖精
第23話 輪の中の妖精
「教えてよ、どこに行くの?」焦れたように問うルカに、レインは唇に指を当ててシッと細く息を吐いた。振り返り気味に短く答える。「キノコ狩り」「……ここで?」山林でもなんでもない大学構内だ。ルカの疑問はもっともだろう。「秘密の “狩場” がある」まるで秘宝の在り処でも伝えるような用心さに、ルカは笑い声を上げる。「どうして秘密なの?」「収穫量が減るからに決まってるだろう。……なぁルカ、キノコは好か?」「もちろん好き。特に、ヒューゴが作るマッシュルームのソース……あ、もしかして、あれってレインが採ってきてる?」ルカが言わんとしているのは、イェーガーシュニッツェルだ。キノコ類を使ったクリーミーなソースを掛けて食べる子牛のカツレツ。ドイツ周辺でもっともポピュラーな料理であり、ヒューゴの得意料理。時々店のランチで出るんだ、とルカが言う。「柵で覆われた大学の敷地内では、野生動物による被害がほとんどない。非常に状態が良いものが採れる。だから、くれぐれも秘密にしておくように。特にヨーロッパ圏の学生に見つかるとまずい」「わかった。僕も食べたいし。二人だけの秘密だね」「そういうこと」笑顔をみせたレインに、ルカはまた目を奪われる。少し垂れ目気味の目尻がさらに下がり、優しい光が目に宿る。まるで硬く閉ざした扉を、ほんの一瞬開いてくれたようなその表情は、ルカの胸をざわつかせる。普段のレインは、近寄らせない。視線も、言葉も、どこかで線を引いている。それは、意図的な距離だ。誰も入れないための。——でも、今は違う。もう少しだけでいいから、そのままでいてほしい。いつも笑っていてほしい、なんて綺麗な言葉じゃ足りない。触れたら壊れそうな笑顔だからこそ、大切にしたい。そしていつか——この手で、彼の苦痛を取り除いてあげたいと思ってしまう。でも今はとりあえず、この顔を、他の誰にも向けて欲しくない。レインの言う “狩場” は、研究棟の裏から校舎の裏へ、ひたすら藪を突き進んだところにあった。木が生い茂り、落ち葉が地面を覆い、朽ち木も倒れたままの姿だ。心配せずとも、構内のこんな僻地に来る学生はいないだろう。しかし、居心地は悪くない。ぐるりと頭を回し、ルカは大きく深呼吸をした。湿度をはらんだ土と木の匂いが胸いっぱいに広がる。ほんの少し薄暗く、地面は湿度がありながらも、風が抜ける。「これを」とレインはルカに小型のアーミーナイフを手渡す。「見つけたら呼べ。毒を持っているやつもあるから」「わかった。ナイフは使わなきゃだめ?」「だめ。抜くと来年の収穫が望めなくなる。根本1センチほど残して切るんだ」ルカは神妙に頷く。ほんの少し足元を見回しただけで、1つ目のキノコがすぐに見つかった。赤い傘に白い斑点。キノコといえばまず最初に思いつく、可愛らしい外見は、ベニテングダケだ。心は和むが、さすがにルカでも、これは毒だと知っている。次も、その次もと見つかり、並ぶと可愛らしさに拍車がかかる。どんどん見つけて周囲の落ち葉を取り除いてみると、見事な円を描いている。「レイン!!」ルカは思わず声を上げた。「妖精の輪だ!」「ああ、英語では妖精だったな。オランダでは魔女の輪だ。ヒューゴに言わせるとエルフの輪」「初めて見たよ。こんなに綺麗な輪になるんだ?」寒冷地に暮らしたレインにとっては馴染みがあるが、温かい海辺が出身のルカにとっては珍しいのだろう。「妖精と魔女とエルフか……名前が違うだけ?」ルカは輪の中心に立って尋ねた。夕日が、錆びた金髪を赤く輝かせる。光を受けた瞳が、一瞬だけ鋭くきらめいた。レインは目を細める。——妖精だと言われたら、俺はきっと疑わないだろう。そんな想像が脳裏をよぎって、自分でそれを否定する。いるはずがない。それでも。綺麗だと、また思う。レインは軽く咳払いをして、近くの木に背をもたせかけた。「三者とも、輪の中で踊るとされているが、人間への影響が微妙に違う。妖精だと……。この話、興味ある?」「ある。聞きたい」即答したルカは輪の中で座り込んだ。聞く態勢に、レインは満足気に頷く。「妖精たちの輪に入ると、踊りに引き込まれ、自分の意思では止められない。ただし妖精は気まぐれで、祝福も災いも両方あり得る」「祝福と災……どんな?」「まず災いから。踊りから解放され輪の外へ出られた時に、時間が大きく経っている。家族も土地も変わり、帰る場所がない。輪の外に出られない場合は、体力や生気を吸われ、急速に老いる、あるいはそのまま死ぬ。あとは、どちらも無かったとしても、妖精の世界を垣間見たことで、現実に適応できなくなる。ぼんやりし続けたり、あるいは妖精に対して異常な執着を持つ」「怖い……けど、なんとなく妖精らしさもあるね。じゃ、祝福は?」「富や贈り物を得る。輪の中で妖精に好かれた者が、金貨や宝石を与えられる話がある。ただし、後で枯れ葉や石に変わる場合もあるがな。次に、芸術的な才能の獲得。妖精の踊りや音楽に触れたことで、異常なまでの音楽や詩の才能を得ると言われている。いわば “異界のインスピレーション” 。どうだ、欲しいか?」尋ねるまでもなく、ルカはすでに目を輝かせている。「そりゃ欲しいさ。でも、妖精からの祝福って、チートになるのかな」ふ、とレインは笑いを漏らす。「きみには必要ないよ。妖精の輪は——危険だが、どこか幻想的で、美しさすらある。異界に触れてしまうタイプの話だな。一方、オランダやドイツの魔女の輪。ヘキセンリング。こちらは……もっと現実的で陰湿だ」レインは声のトーンを落とした。ルカがゴクリと息を飲む。「ヘキセンリングは、魔女や悪魔が儀式や宴を行う場所とされる。人間が踏み入ると、呪い、病気、不運を受ける。家畜や農作物に直接的な被害が出る。基本的に救いはない。こちらは幻想というより、忌避の対象だ。近づけば損をする場所という、生活に密着した警告に近い。スウェーデンのエルフの輪も同じようなものだが、あっちはもう少し体調に特化している。輪に入ると、皮膚病や発熱、原因不明の体調不良、精神の異常を引き起こすとされる」「ずいぶん具体的なんだ……でもさ、どうして名前も言い伝えも異なるんだろ」まさに輪の中心に座りながら、ルカが腕を組んで小首を傾げる。レインは木の幹から離れ、小型のナイフを指先で回す。「続きは、採取しながら話そう。きみも、とっととその輪から出ないと……」「ねえ、もし僕が何かに引き込まれて、ここから出られなくなったらどうする?」「んー?」とレインは足元の枯れ葉をつま先で軽く退かしながら応える。「踊り狂う姿を見る」「助けないんだ」「出てくるまで待つよ」「何年かかるか分からないよ?」「ああ」「ま、いいや。じゃあ出て来れたとして、何か病気になってたら?」「そんなもの俺が治す。当然だ。エルフによるものなら病理的にかなり興味深い」「じゃ、何事もなく輪から出たら?」「無事を祝って、採れたキノコを分けてやる」「ちぇ」とルカは不満気な声を出した。「リスクの割に合わない」「そういうことだ。魔女にしろ妖精にしろエルフにしろ、人間が得をすることは決して無い」ルカはキノコを踏まないように注意しながら輪から出る。「それにしても詳しいね。ヨーロッパの人ってそうなの?」「医学と民俗学は非常に深い繋がりがある。そもそも軍に志願したのだって、現地の民間療養や呪言に興味があったからだ」「まじない……」「今、戦場医療と民間信仰の研究にとりかかっている」「面白そう。あのさ、レインって……もう医者には戻らないの?」ルカは、言葉を選ぼうとした。しかし上手くいかず、結局そのまま問うた。レインは「あった」とキノコの発見を小さくつぶやいてから、ルカにわからないようにため息をついた。「……複雑な手術はもう出来ないだろうね。現場を離れて少し経ったから」ルカに嘘をつくことは避けたいが、YesともNoとも言えなかった。教会を改築して、小さな診療所にしたいという夢はある。しかしレインの中ではそれはおとぎ話に近い方の夢だ。医者という役目を果たせなかった自分には、夢は持てても予定や目標は持てない。少しの沈黙が流れる。土の匂いに、知る者だけが嗅ぎ分ける菌類の匂いが混ざる。ふと、ルカから静かなハミングが聴こえ、レインは落ち葉を探る手を止める。柔らかで、しっとりとしたメロディだ。レインの気道に緩みが生まれる。土の匂いが深く肺に取り込まれ、呼吸が整う。ルカの傍にいると、なにもかもうまくいくような気がする。しかし同時に、この甘えがレインを苛める。それなのに——愛おしい。妖精の誘惑のように、いつまでも途切れることなく、狂うまで魅了されたい。しかしふと、ハミングは止まった。そしてルカの明るい声。「ねえ、採れたキノコってヒューゴに料理してもらうの?」突然現実に引き戻されたレインが自嘲気味に口角を上げる。「自分でするよ」「でもレイン、料理しないでしょ?」「この時だけは別だ」「どうやるの?」「俺の場合は、胡椒キツめで炒めておく。それを朝食のスクランブルエッグに混ぜる。ライ麦パンでもあれば最高だ」「スクランブルエッグに……?」「旨いよ」レインの即答に、ルカは喉を鳴らす。とれたてのマッシュルームの美味さを想像したのではない。キッチンに立つレインを想像してしまったのだ。フライパンを振る逞しい腕。後ろから立ち姿はきっと、引き締まった背中を際立たせるに違いない。「……食べてみたい」ルカは、ほんのわずかな期待を乗せて言った。「もちろん。半分渡すから、作ってみるといい」予想通りの返答だが、ルカはがっくりと頭を垂れる。——誘い、というほど大げさじゃない。通じていないのか、受け流されているのか。ルカは腕時計を確認する。真夜中まで——長いようで、短い。「……今夜から仕込むの?」もう一歩踏み込んでみる。レインは紙袋を見下ろし、頷いた。「帰ったらすぐに。時間が立つと、自然と溶けるものもある」「へえ」ルカはつま先で土を軽く蹴る。「じゃあさ、下処理とかもあるんでしょ。泥落としたり、選別したり」「まあな」「手間、かかる?」「そうでもない。慣れてる」即答に、ルカは小さく息を吐いて笑った。壁は硬い。なら、もう一歩。「……見てみたいな」「何を?」「その、“慣れてる” やつ」一瞬、沈黙したレインの視線が、わずかにルカを捉える。意味を測る顔だ。「いや、料理してるとこ。普段やらないって言ってたから」「炒めるだけだ」「それでもいいよ。今しか見られないんでしょ」ルカは視線を上げ、逸らさない。レインは短く息を吐いた。「……見ても面白くない」「面白いかどうかは僕が決める」ルカは間を置かずに返す。軽い調子のまま、食い下がる。「音楽だってさ、演ってる側には日常でも、聴く側にとっては一回きりだろ?」レインの目が、わずかに細くなる。理屈は通っている。拒む理由を一つ減らされたことが気に入らないのか、面白がっているのか。自分でも判断がつかない。「それに」ルカは一拍黙って、続ける。「レインが普段何してるか、知りたい」レインはしばらく黙ったまま、ルカを見ていた。沈黙がやけに長い。風が落ち葉を揺らす音だけが、間を埋める。やがて、レインは小型のナイフを指先で弄びながら視線を落とした。「……遅くなってもいいなら」低く、短い、警告とも許可とも取れる声。「うん」ルカの喉が、わずかに動く。「……もう少し集めよう」レインは紙袋を覗いてつぶやき、その場から離れた。ルカは少しだけ離れた所でめぼしいものを見つけるとレインを呼んで、食べられるものかどうか確認を怠らない。日が暮れる頃には、紙袋からきのこがはみ出すほどになっていた。二人はそのままオフィスへ戻り、ルカが持ってきたブリトーで簡単に腹を満たす。「夜は、どんなことをすればいい?」包み紙を畳みながら、ルカが顔を上げる。軽い調子だが、その奥にはきちんと役目を果たそうとする意識があった。「基本的にはさっきと同じだ。研究室に行ってもらう。次は俺も同行する」「またハムスター見るの?」「ああ。それと……スタンリーが高周波暴露の実験をしているはずだ。きみには少し……慣れないものを見るかもしれない」わずかに言い淀むレインの声音に、ルカは引っかかりを覚えたが、それ以上は追及しなかった。科学者の領域に踏み込めば、知らないものばかりだ。今さら一つ増えたところで変わらない。「スタンリーね、会ったことある」「……本当に俺だけが知らなかったんだな、きみが通っていたことに」ルカは肩をすくめてみせるだけで、何も答えなかった。レインはデスクに移動し、キーボードを叩き始める。画面には論文と、ログデータのウィンドウが並んでいる。窓の外は、いつの間にか完全に夜に沈んでいた。遠くの校舎の灯りが、ぽつぽつと消えていく。廊下を歩く足音も減り、やがて、ほとんど聞こえなくなる。時計の針が進む音だけが、やけに明瞭になる。それでも——部屋の中には、二人分の気配がある。ルカがソファから立ち上がり、背伸びをする。「……んー」そのままレインの後ろに回る。「ねえ」ルカの声は小さい。「なんだ」距離が近い。「これ、何語?」「ドイツ語だ」「読めるの?」「多少は」査読を頼まれている論文だ。多少というレベルではないが、ヒューゴのようにネイティブ並みに話せるわけではない。「なにが書いてあるの?」レインは一瞬だけ考え、短く要約する。「野戦環境での神経損傷の初期対応。面白くはない」「レインが書いたの?」「いや、レビューを頼まれてる。よくあるんだ。専門分野の研究者数名が読んで、論文の妥当性なんかを評価してフィードバックを送る」「授業と研究の他に、そんな仕事もあるんだ。雑誌社から報酬があるの?それとも筆者?」「いや、論文の査読は無償だよ」「へぇ……ボランティアってことか。どういう仕組なんだろ」独り言のように呟いたルカに、レインは咳払いをして説明の姿勢を見せる。「どちらかと言えばギブ・アンド・テイクだ。今日査読する側でも、明日は査読される側になりえる。この循環が成立している。それに、査読を頼まれるのは栄誉のあることなんだ」「認められてるってこと?」「その通り。専門家と見込んで依頼されるだけではない。雑誌から依頼される編集委員や招待査読への昇格機会もあれば、将来の論文採択での有利さも考えられる。我われ、研究者間でやりとりされる通貨は『信用』なんだ。ま、俺の場合は、先端研究を発表前に読めるから請け負ってるんだが」ルカはレインの肩あたりに寄りかかり、天井をぼんやり見上げた。「報酬が信用と最新情報か……別世界だなぁ」「きみには退屈だろう?」「その逆。知らない世界のことにすごく興味がある。レインの説明は難しい話でも頭にすっと入ってくる。それに、前にも言ったけど……レインの声、好きだ。歌声を聴いてみたいよ」ルカは冗談めかして笑った。本音すぎて、本人相手に気恥ずかしい。でも今夜は——これまでの空白を埋める時だと思った。できる限りレインのことを知り、いつでも思い出せるように。またいつ、遠ざけられても淋しくないように。レインは一拍だけ間を置いた。ルカの言葉を受け流すでもなく、拾い上げるでもない、沈黙。「……そうか」短い返答だった。視線はモニターに向いたままだが、手は止まっている。キーボードの上で指が一度だけ動きかけて、やめる。「じゃあ、聞くが」「ん?」ルカはさらにレインに体重を掛けるが、びくともしない上体に感心する。レインはようやく画面から目を外した。「音楽の方はどうなんだ」「どうって?」「毎回きちんと報酬があるのか」ルカは少しだけ考えてから笑う。「ライブ、配信、あと……権利関係とか。曲が使われたりすると少し入る」「不安定だな」「よく言われる」ルカは肩をすくめた。「でも、安定してる人生の方が向いてない気がする」レインは一度、視線を落とす。「選択肢を最初から捨てているように聞こえる」「そうかも」即答だった。少しだけ軽い声で続ける。「半分は仕事、半分は……生き方、だからかな」その言葉に、レインの指先が微かに動く。「……曲はどう作る?」「全部独りでやる」ルカは当然のように言った。「歌詞も、メロディも、編曲も?」「そ。基本は全部。ジャズの時は即興になるけど、それ以外はゼロからスタート」レインは短く息を吐いた。「大変な作業だな」「でしょ?でも、そこが一番楽しいところ」レインは少しだけ目を細めた。「与えられた楽譜を演奏する方が楽ではないのか」「それは……楽かもしれないけど」ルカは言葉を探すように天井を見た。「多分、僕は “正しい音” より、“自分の音” を見つけたいんだと思う」レインはその言葉を、評価するでも否定するでもなく受け取る。ただ、情報として扱うように。「……音楽データは?」「録るけど、ライヴと全然違う」レインはそこで初めて、少しだけ興味の温度を上げた。「誤差が出るのか」「うん、環境で変わる。観客とか、会場とか」「再現性がない」「それ、すごく科学者っぽい」ルカが笑う。「成立しているのが不思議だな」ルカは少しだけ真面目な顔になる。「たぶん、“同じじゃないこと” を前提にしてるからだと思う」束の間の沈黙。「毎回違うから、その瞬間だけの価値があるんだと僕は思う」レインの視線が、わずかにルカに固定される。「記録は残るだろう」ルカは軽く肩をすくめた。「残るけど、同じにはならないよ。録音はコピーできるけど、その場の空気はコピーできない」「……興味深い」「ライヴにおいでよ。金曜日は21時からステージだから。ショウも来てる」知っている。だがレインはそれには触れなかった。「学生が出入りするような店に、教師が行ってどうする」そう言ってレインは一拍置く。「それにあの店は……知り合いに会うと気まずいんじゃないか。職場の人間は特に」「まあね。ショウが気がついているかどうかは知らないけどさ、でもレインだってバウンサーを頼まれるくらい常連なんじゃ……」「あれはヒューゴに頼まれただけ。まだ2,3回しか行ってない」「へぇ。でも見たよ。慣れた感じで、誘いをかわしてた」「仕事のうちだ」即答に、ルカは笑いを漏らす。「じゃあさ、その仕事中に聴いてくれた……僕の歌、どうだった?」「……評価する立場ではない」「逃げてる」「逃げてない」「眠れたんでしょ?」「ああ」「なら、感想を教えて。評価じゃなくていい」短い応酬のあと、レインは視線をモニターから逸らす。僅かな咳払い。「……低音から高音に移り変わる声と、ベースのリズムの同期が危険なほど癖になる。きみの歌は……麻薬みたいだよ。一度聴いたら、二度と忘れられない」ルカは一瞬、何か言い返そうとして口を開きかけた。だが、音にならなかった。喉の奥で引っかかったまま、言葉だけが空回りする。いつもの軽口の逃げ道も、うまく見つからない。「……それ」ようやく出た声は、思ったより小さい。「言いすぎでしょ」笑おうとしているのに、顔がうまく動かない。耳の先がじわりと熱を持っていくのが分かる。レインはしばらく黙っていた。キーボードの上で指が一度だけ動き、すぐ止まる。そして、低く言う。「事実だ。きみの歌声は美しい」その一言で、ルカは完全に沈黙した。口元だけが少し歪んで、諦めたような笑いになる。負けを認めた顔だ。「……最高だよ、それ」ルカは、下方にあるレインの頭に自分の額をコツンと当てた。その火照った頬と、逃げ場がないことを理解した顔をレインから隠すためだ。「ありがと……」そしてレインの額に軽く口付けた。レインはそれを少し長めの瞬きで受け止め、微笑んだ。ふわりと空気が軽くなる。ルカは浮いたような足取りでソファに戻り、深く座る。モニターの光と、ページをめくる音だけが部屋に残る。ルカはソファの背に体を預け、天井を見上げた。「ねえ」「ん……?」レインは画面から目を離さない。「レインってさ、仕事ばっかりで疲れないの?」指が止まる。「きみはベースを弾いていて疲れるか」「そう言われると」ルカは小さく笑う。「そっか……。僕たち全然違う世界にいるのに、ちょっと似てる。不器用なところとか」「事実だな」レインは否定しなかった。時計の針が一つ進む音が、やけに大きく聞こえる。やがてルカが立ち上がる。「そろそろ?」「ああ」レインは短く頷き、パソコンをロックして立ち上がった。念のためホワイトボードに書き出された文字に目を走らせる。そのまま二人は並んでオフィスを出た。廊下の蛍光灯が白々と落ち、足音だけが一定のリズムで続く。誰もいない研究棟の奥へ向かいながら、レインは一度だけ横目でルカを見た。依頼されたことに何の不平も言わず、楽しげに協力してくれている。なぜ、そこまで素直でいられるのか。なぜ、頻繁に通っていたことを隠していたのか。そして、なにが彼をそうさせたのか。何も聞くことができないまま、歩き続ける。電磁応用研究室の扉は、いつも通り硬く閉ざされている。レインは、中にスタンリーがいることを確信していたが、彼独りかどうかは賭けだった。通常と変わらない状況でルカを研究室に入れるため、細工はしたくなかったのだ。手持ちの鍵で解錠し、ルカを先に入室させる。室内へ一歩入った瞬間だった。「……ん?」ルカの足がわずかに止まる。眉をひそめ、空気を探るように頭を回し、視線を泳がせている。レインはそれに気づきながらも、あえて触れずにスタンリーへ声をかける。「お疲れ様です、ドク。ルカ君、ひさしぶり」簡単な挨拶を交わすと、ルカはどこか落ち着かない様子のまま、ハムスター飼育部屋へと足を向けた。「こんな時間に?」とスタンリーが小声で問う。「検証の一環だ。少し付き合ってもらう」「あ……どうしよう。装置、今動いてます。ルカ君、見ない方がいいですかね」「ああ。苦痛を与える実験ではないが、何か言うかもしれないな」「そうですね。一般の人の反応も興味ありますし——」言い終える前に、扉が開く。「特に変わりはないんだけど」戻ってきたルカは、しかしどこか妙な顔をしていた。「けど?」とレインが促す。「あのさ……どうして二人とも平気なの?こんなに——うるさいのに」「機械音はしているが、気になるほどじゃない。慣れだ」「……そう?」ルカは納得しきれないまま、音の出どころを辿るように視線を巡らせる。「この装置だよね……?」一歩、また一歩と近づき、次の瞬間、思わず声を上げた。「……わあ」放射状に伸びる金属のアーム。その先端に取り付けられた透明な筒。その中で、小さな体が身じろぎする。「なっ……」言葉が途切れる。目は確かに輝いていた。未知の構造、奇妙な配置——純粋な興味がそこにある。だが同時に、その視線は一瞬だけ揺れた。生きているものが、装置の一部として扱われている光景に。「これ……何の実験?」問いは素直だったが、ほんのわずかに声が低い。レインは横目でその変化を捉えながら、短く言う。「スタンリー、説明してやって」スタンリーが淡々と語り始める。高周波が行動に与える影響、その観察と記録。ルカは最後まで聞いていた。視線は装置から外さないまま。理解しようとする目と、割り切りきれない感情とを、同時に抱えながら。