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第24話 夜の途中に

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第24話 夜の途中に

オフィスに戻ってからも、ルカは何も言わなかった。レインはホワイトボードに無言でペンを走らせる。被験者:ルカ高周波認識:有再現性:要検証ルカはあの音を今まで “知らなかった”。仮説が確信に変わる瞬間は、妙に生々しい。曖昧だったものが、急に手の中で脈を打つ。あの手応えは、何度でも味わいたくなる。「ルカ」張りのある声で呼ばれ、ルカの背筋が伸びる。「あの装置が気になるのか」ルカは視線を床に落とした。理解と拒否が同時に訪れるのは、奇妙な感覚だった。「……あの機械、さ」レインは無言で待った。「本当に痛みを与えないの?」言葉とは裏腹に感情を押し殺した声。スタンリーの説明は、学生らしく数値や基準や指標が目立ち、素人相手に向いているとは言えなかった。それがルカの凝りになっているのだろう。「苦痛や不快を伴う実験ではないんだ。ただ……異常値があると言っただろ?通常、ハムスターたちは夜行性で昼間は丸まって寝ている。だが、スタンリーの実験中、睡眠サイクルが乱れている子たちが目立つようになった」「うまく眠れていない……?」「即座に命に関わることではない。他に目立った損傷もない」レインは淡々と続ける。「だが、睡眠が削られる状態が続けば、行動も判断も鈍る。長く置けば、別の影響が出る可能性はある」「そんな……。心配だよ」「うん。だから今、調査をしているんだ。あと三日。今日と同じように来てくれるか。連日でなくていい」「……実験?」「観察だ。再現性が重要なんだ」ルカは一瞬だけ黙り、それから頷いた。「いいよ。ハムたちのためなら協力は惜しまない」「よっぽど好きなんだな。礼はするよ」レインの申し出に、ルカは軽く首を振った。「いらない。あ、でも、学食に連れて行ってほしい。独りじゃちょっと入り難くてさ」レインは頷く。「そんなのでいいのか。契約成立。じゃ……帰ろうか」真夜中を過ぎた駐車場には、レインの車だけがぽつんと残っている。帰りが遅くなることを想定して、ルカを送り届けるつもりで乗ってきていた。角ばった車体。無骨なライン。深い色にくすんだ塗装が、街灯の光を鈍く返す。助手席のドアを開けると、ルカがやや戸惑ったように、「ありがと」と微かに呟く。車内は無言だった。エンジンの低い振動と、タイヤがアスファルトを擦る音だけが続く。ルカは横目で、レインの手元を見ていた。ステアリングを切る、戻す、そのたびに微かな革の擦れる音がする。それに、なぜか聞き入ってしまう。ハンドルを握る指は、ごつごつと血管の浮かび上がる手の甲やそこから続く逞しい腕に比べると、筋張っていて細く、すらりと長い。それはルカのような、日々指先で楽器を操る者に通ずる繊細さがあった。少し開けられた窓から、秋の夜気が流れ込む。窓の外に木々が増え、暗さが増す。公園脇の道に差し掛かり、ヒューゴの店の前を通過する。話しかければ応えてくれるだろうが、口を閉じたまま。ルカは、この沈黙を妙に心地よく感じていた。やがて車は減速し、門を静かにくぐる。ヘッドライトで照らされた教会の脇で、車は止まった。レインはシートベルトを外して後部座席に置いてあった紙袋を掴み、さっと車を降りた。そのまま回り込んで助手席のドアを開いて、ルカが降りるのを確認する。軒先のポーチを抜け、振り返りもせずにドアを開く。「入って」背後にあるルカの気配に、短くそれだけ告げ、ドアを開け放ったまま中に入る。ルカは小さく頷いて後に続いた。ポーチで昼食を食べたことは何度もある。だが、室内へ入るのは初めてだ。ルカは少し迷って、レインに習い靴を脱いだ。それに気がついたレインが「どっちでもいいよ」と雑なことを言う。室内は、外よりも静かで、木の匂いが漂っている。すぐ右手にドアがあり、半開きの隙間からデスクとチェアが見える。「ここ、何の部屋?」と尋ねたルカに、「書斎」とレインが投げかけ、立ち止まる。ルカは、やや振り返り気味に佇んでいるレインに、しばし目を奪われた。穏やかな笑みを浮かべて、静かにルカを見ている。大学の研究棟で見る姿とは、まるで違う温かみを纏っていた。「レインが育った家……」思わず漏れたつぶやきに、レインの口角が上がる。「ね、ルームツアーして欲しい」レインから低く唸り声が上がる。「お願い」食い下がったルカに、レインは小さくため息をつく。しかし、口角は上がったままで。まんざら嫌でもなさそうだ。「小さな家だからツアーというほどのものでもないが……見ての通り、ここがリビング」レインは軽く両手を広げる。中央に置かれたL字型のソファには、控えめな色彩のブランケットがきちんと畳まれて置かれてある。その前に据えられたカフェテーブルの上には、印刷物がいくつか整然と載っている。レインはリビングのソファの脇に立ったまま、手で右方向を指す。「あっちがキッチンで、その奥がダイニング。ほとんど使わないが」リビングからL字を逆さにした間取りで、ルカの位置からもキッチンに続いてダイニングが見えた。重厚感のある大きな楕円のテーブルに、揃いの椅子が6脚。リビングの灯りを映す深い色合いは、マホガニーだろう。使っていないとレインが言う通り、そこには何も置かれていない。ルカは、実家で祖母が大切にしているダイニングテーブルを思い出し、そこにランナーと花瓶を想像で埋めた。この家の内装ならば、きっと、マーガレットが似合うだろう。レインはキッチンと反対側となる左の壁に向き、大きく開いたアーチに進む。そこを抜けると、廊下状にホールが左右に伸びており、それぞれの端にドアがある。数歩歩いて、レインがまず右手のドアを開いて中に入る。「主寝室。元は両親の部屋だ」クイーンサイズのベッドはきっちりと整えられ、ホテルさながらだ。まるで生活感がないことから、ダイニングと同じく使われていない部屋であることは明らかだった。「バスルームはここと」そこまで言って部屋を出て、レインは反対側のドアへ進む。「ここ」主寝室より小ぶりな部屋だが、大きな本棚がルカの目を引いた。図鑑らしい分厚く重厚な背表紙がびっちりと並んでいる。英語のものだけでも、植物、動物、魚類、人間。とにかくあらゆる図鑑が揃っているようだった。「レインの……子供部屋だ!」「妙な言い方をするな。”元”を付けてくれ。オランダに越した時に13歳だったから、そのままってだけ」セミダブルのベッドには、ソファと同様にきちんと畳まれたブランケット。こちらはまだ若干人の気配があった。「ここで寝てるの?メインベッドルームを使えばいいのに」言ってしまってから、ルカは口をつぐんだ。レインの不眠症について、よく知っているはずなのにと後悔したが、先に立たずだ。「普段に使うには広すぎる。それに、どうせ眠れない」レインは自嘲し、軽い調子で言った。「ごめん、そんなつもりじゃ」「いいんだ。ま、こっちの方がコンパクトで掃除が楽ってのが本音だな」「ふーん……」とルカは首をかしげ、少し黙った。気にしないふりをしていたが、どうしても考えずにはいられないのだ。——あの主寝室を使うことがあるのだろうか、と。独りでないとき。『普段』でないとき。たとえば、誰かと——ルカはぐしゃりと手で髪の毛をかき回し、思考を強制的に止めた。考えても仕方がないことは、考えないと自分に言い聞かせる。リビングに戻ると、レインはすぐにキッチンに移動した。「ビールでいいか」と、冷蔵庫を開け、いつかヒューゴが持たせてくれたものと同じボトルを取り出す。スウェーデンの黒ビールだ。「あ、いや、やめとく」ソファに座り、ルカが遠慮の姿勢を見せる。「……飲みたいか、飲みたくないかで言えば?」「……飲みたい」「じゃあ遠慮なんかするな」ここまで来ておいて、と喉元まで来た言葉をレインは飲み込む。家族同然のヒューゴはともかく、この家に他人を連れてきたことは無い。その必要も、機会も無いからだ。もっと言えば、実験だなどと理由をつけて、誰かを庭に呼び寄せたことも無い。そんなレインの思いなど知らないルカは、ボトルに口をつけ、喉を鳴らして美味そうに飲んでいた。一息つき、改めて室内を見回す。広いリビングに家具は少ない。必要なものだけが、適切な場所に置かれている。壁には意匠を凝らした作り付けの棚。窓辺には簡素だが質の良い書き物机と椅子。居心地よく過ごすために工夫された家だと分かる。木の匂い。微かに軋む床の柔らかい音。しかし、生活の気配はあるのに、どこかそっけない。まるで——長く住む前提じゃないみたいだ。人を迎え入れる準備が出来ているのに——安らぎ、リラックスし、一日の終りを静かに過ごす場所になりそこねた、箱。「適当に座ってて」キッチンからそう声を掛けられ、ルカはダイニングに移動する。椅子を引き、浅く腰掛けると、テーブルに肘をついて調理の態勢に入ったレインを見上げた。レインはシャツの袖を丁寧に折り上げ直しながら、ルカを見るともなしに視線を送る。まずは採ってきたキノコ類の掃除だ。水で洗うと風味が失われるため、キッチンペーパーでかるく拭うか、泥が付着していればブラシで軽くこする。レインの動きは静かで、正確で、無駄がない。まるで手術でも始まるかのような雰囲気に、ルカは固唾をのむ。フライパンに火が入る。油が温まり、音が立つ。刻まれたキノコが入れられ、じゅっと弾ける。続けてミルが挽かれる。塩の次が胡椒。長めにゴリゴリと音が響いて、胡椒を効かせると言っていた通りだ。途端に、部屋中に芳醇な香りが、ゆっくりと広がる。レインは一度もルカを見ず、時折ビールをあおる以外は調理に集中している。その横顔は落ち着いていて、乱れがない。少し、微笑んでいるようにも見える。ルカは、レインの挙動も表情も見逃すまいと目を凝らしていた。見栄えのいい男が調理するのは、ヒューゴで見慣れている。しかし——思いを寄せている——これまでの人生で最も惹かれている——人物であるレインがキッチンに立つ姿はとても新鮮で、恐ろしく魅惑的だ。やがてレインは火を止め、フライパンの中身を半分、小さな容器に移した。そしてふと顔をルカに向ける。「スクランブルエッグは作れるのか?」「ん、あ。うん。当然」「じゃ、出来上がったスクランブルエッグに混ぜるといい」レインはその容器をルカに差し出した。しかし、ルカはどこか釈然としない様子で、惚けたようにレインを見上げるだけで手を出さなかった。「……ルカ?」呼ばれて、ようやく顔を上げる。「これ、さ……」「ん?」「一人で食べるの……ちょっと、やだな」レインの呼吸が、わずかに止まる。「……そうか」短く返す。容器は差し出されたままだ。ルカはそれを見て、少しだけ笑った。レインは視線を逸らさない。数秒の沈黙が流れた。「送っていく」低く、迷いのない声だった。ルカは小さく息を吐く。納得ではない。理解だ。レインに拒まれたという、紛れもない事実の理解だ。「いい。歩いて帰るよ」「……だめだ」「家、近いし」「深夜だ」「子供じゃないんだから」「知ってる」言葉は淡々と。だが、どちらも譲らない。レインはため息をついて見せ、容器を手にしたまま玄関へと歩き始める。「行くぞ」それ以上の余地を残さない声。ルカは少しだけ間を置いてから、肩をすくめた。「……わかったよ」言葉とは裏腹に、足取りはわずかに重い。玄関のドアを開けると、深夜の外気が流れ込む。——帰りたくない。しかし、『子供じゃない』と自分で啖呵を切ったからには、これ以上のわがままや甘えはもう言えない。ルカは早足で、レインの背を追った。車内残る僅かな土の匂いが、ルカに夕方の一時を思い起こさせる。レインから聞かされた、妖精の輪の民話だ。レインは間違いなく厳しい部類の准教授だが、彼の話法の仕組みや声のトーンは、ルカの知っている眠いだけの講義とは真逆にある。特段、生物や医学に興味があるわけではないルカでさえ、レインの口から語られると面白くて仕方がないのだ。ルカは深呼吸し、肺を残り香で満たした。数時間巻き戻せたら、なんてありえないことを夢想するのは健康的ではない。今日は楽しかったのだとあえて意識的に再認識することで、もっとレインと過ごしたいという欲望を納得させる。それに、少なくともあと三日は、正々堂々と研究室に通えるのだ。車はすぐにルカのアパートに辿り着き、エンジンが停止する。無言のまま動かないレインに、ルカは少しだけ落ち着きを無くす。今日は何度か助手席のドアを開けてくれた。大学を出る時、レインの家に着いた時。指先を組んで、少し待つ。エスコートされたいわけじゃない。ただ、優しさが嬉しかった。——ドアを開けてくれないのなら、おやすみのキスくらいしてくれてもいいのに口が裂けても言えない言葉を飲み込み、組んだ指先を解く。レインは時々、驚くほど優しいくせに、人との距離には異様に臆病だ。もし拒まれたら。困ったような顔をされたら。間違い無く深く傷付く。なにも自分から進んで痛手を負う必要はないと、ルカは内面で笑って誤魔化す。「……じゃ、おやすみ」そう言って、シートベルトに指を掛ける。金具が小さく鳴った、その瞬間。レインの喉が、ごく浅く動いた。視線は前を向いたままだ。両手が、ハンドルを握り潰しそうなほど強く力んでいる。白くなる指。呼吸が妙に静かだった。車内に、場違いなほど明るく響いたルカの別れの挨拶を耳で捉えながら、レインの頭の中では、まるで別のことが起きていた。——いっそ、引き返してしまおうかここで助手席にルカを押し倒し、シートへ縫い付けるみたいに閉じ込めて。黙らせるように唇を塞ぎ、舌の奥まで、滅茶苦茶に。そんな衝動が、一瞬で背骨を駆け上がり——強く奥歯を噛む。相手は、初めて自分の『聖域』に招き入れた人間だ。獣じみた欲望で、怯えさせたいわけじゃない。レインは両手をハンドルの一部になったかのように固定する。まるで自分を拘束するみたいに。古傷が疼く夜より、よほど質が悪い。カチ、と乾いた音。助手席のシートベルトが外れ、ルカが身じろぐ。それだけで理性が削れる。ほんの数秒、ルカと視線が絡む。——潤んだ瞳。こちらに触れてもよいものかと、戸惑う視線と指先。レインは低く息を吐いた。「……早く行け」ぶっきらぼうな声だった。ルカは一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑う。「なにそれ」「明日も仕事だろう。夜更かしするな」半分嘘だ。残り半分は、“これ以上ここにいるな”だった。ルカは小さく頷く。「うん。おやすみ、レイン」「ああ」ドアが閉まり、冷たい空気だけが残った。アパートの前で別れたあとも、レインはしばらく車を動かさなかった。空の助手席から敢えて目を逸らす。つい数分前までルカが座っていた場所。帰して正解だった。そうするべきだった。夜は遅かったし、翌日もある。そう考えていたはずだった。レインはキーを入れる。古いディスカバリーが規則的なリズムで唸る。だが、妙な感覚だけが残った。まるで、観察方法は正しかったのに、結果だけが間違っていたような。家へ戻れば論文がある。読みかけの文献もある。やるべきことはいくらでもある。それなのに。さっきまで隣にいたルカを、自分はなぜ帰してしまったのだろう。そんな考えが、頭を侵食していく。レインは舌打ちした。馬鹿げている。数日後には研究室で顔を合わせる。それなのに、今夜が惜しいなど。その事実が気に入らなかった。静かな車内には、自分の呼吸しかない。レインはそこでようやく、握り締めていた指をゆっくり緩める。ハンドルの革に、爪の跡が薄く残っていた。