LNCrawler

第25話 そばにいさせて

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第25話 そばにいさせて

ルカは、アパートのエントランスまで続く短い通路を小走りで抜けた。振り向いたらいけないような気がした。結局手にはレインから渡されたキノコソテーの入った容器を持っている。階段を駆け上がり、暗い部屋のドアを開ける。靴を脱ぎながら、シューボックスの上に置いた小さな観葉植物に、「ただいま」と声を掛けるのが習慣になっていた。冷蔵庫に容器を入れ、ついでにミネラルウォーターのボトルを取り出す。喉を鳴らして半分ほど一気に飲むと、ため息と共に頭がスッキリする。足元に転がるエフェクターを避けるようにバスルームに入る。明日も、ヒューゴの店でアルバイトだ。今日もそうだったように、午後に予定がある日は、ベースの練習は朝だ。ヘッドフォンを着けるため夜中であっても練習は可能だが、そうすると寝付きが悪くなる。演奏の出来が悪ければ嫌な気分のまま寝返りばかりで寝付けず、良ければ良いで、調子にのって作曲に進んでしまう。どちらも寝不足になるのだ。Tシャツを首から抜くと、木の匂いがした。古い床材。バターとキノコ。車。レインの香り。胸の奥が妙にざわつく。ルカは深く息を吐き、乱暴に髪を掻き上げた。駄目だ。こんなの、考え始めたらきりがない。頭から湯を落とし、片手でソープのボトルを取る。男性向けの全身洗浄タイプだが、ルカは利便性よりもその香りが気に入って使っている。風呂から上がり、下着とパジャマ代わりのよれたTシャツに着替える。真夜中過ぎ、ベッドに腰かけ、窓辺から流れてくる涼しい夜風に当たっていると、ゆったりとした眠気がやってくる。残りのミネラルウォーターを一口流し込み、 ルカはあえて、「今日は楽しかったな」と声に出した。よい気分のままで眠りにつくよう、心がけているのだ。続けて、レインの様子を想像する。これまで、幾度となくレインのプライベートに想像を巡らすことはあった。それはどれもただの空想でしかなかったが、彼の家を知った今なら、具体的に映像で思い巡らせられる。ソファに座ってカフェテーブルに足を投げ出して座る彼。部屋のベッドにあの逞しい身体を横たえて何か考えに耽る彼。書斎に座って小難しい顔をしている彼。どれも、ありありと想像できる。「歌ってあげればよかった」ルカは思わず口をついた言葉に、自分で驚く。そしてすぐに、それが、想像上のレインがどれも眠っていないからだと気がついた。研究室で聞いた、静かなレインの声が耳に蘇る。——睡眠が削られる状態が続けば、行動も判断も鈍る——ルカは、水を飲み干そうとして、そのまま止まる。冷たい水が喉を落ちていく感覚。——長く置けば、別の影響が出る可能性はある——あれは、ハムスターの話だ。そう。ただの研究の話。ルカの手で、ペットボトルが音を立てて潰れる。そのまま、しばらく動けなかった。ゆっくりと、嫌な感覚が背骨を這い上がってくる。レインの顔が浮かぶ。「どうせ眠れない」軽く笑って言った声。使われていない主寝室。きっちり整えられたベッド。生活の痕跡が無い部屋。対して、“元子供部屋”の狭いベッド。深夜まで明かりの点いた研究室。時々、ふっと焦点が遠くなる目。ルカは息を止めた。頭の中で、ばらばらだったものが一気に繋がる。研究への没頭。質の高いと評判の講義。休日に臨時のバウンサー。眠らなくても平然としている態度。いや。平然としているんじゃない。無視しているだけだ。そこまで考えた瞬間、血の気が引いた。レインは、自分の状態を“異常”として扱っていない。もっと悪い。受け入れてしまっている。ルカは思わず立ち上がった。嫌な想像が次々浮かぶ。判断力の低下。慢性的疲労。免疫低下。精神消耗。これらを隠すために、彼は大学で、非常に気を張っているのではないか。唯一くつろげる家でさえ、眠りは彼を遠ざける。しかし——ライヴで歌を聴いた日は眠れたはずだ。レインは確かにそう言った。なのに。「また歌ってくれ」とは言わなかった。——家に入れてくれた、今夜でさえ。ルカの瞳が揺れる。レインは、誰かに頼る気など無いんじゃないか。自分が壊れる方が先でも——誰かを必要とするくらいなら。「……っ、」掠れた声が漏れる。怒りなのか、焦りなのか、自分でも分からなかった。ただ、じっとしていられない。部屋で歩き周り、エフェクターを蹴飛ばして悪態をつく。鍵を取る。玄関に向かい、下着姿に気付いて急いで着替え、スニーカーを履く。冷静な部分が、(夜中だぞ、迷惑だ、何を言うつもりなんだ)と叫んでいる。だが止まれない。もし今、レインがまた研究室へ戻ったら。もし、あの静かな家で独り、眠れない夜を過ごしているなら。ルカは玄関を飛び出した。夜気が肺へ刺さる。それでも足は止まらなかった。ルカは教会の門を駆け抜け、家のポーチでようやく立ち止まる。胸の痛みは、走ってきたせいだけではない。なんとか呼吸を整え、ポーチを抜けて玄関に手を掛けると、ドアが簡単に開く。無施錠はともかく、半開きだなんて彼らしくない。嫌な汗が背中を伝った。「……レイン?」返事はない。家の中は暗く、静かだった。だが、奥から微かに水音がする。ルカはそこでようやく息を吐いた。安心した途端、今度は別の焦りが押し寄せてくる。自分は何をしに来たんだ。こんな夜中に。勢いだけで飛び出してきたせいで、説明も整理も出来ていない。その時。不意に水音が止み、ルカの肩が跳ねる。数秒後、廊下の奥から足音が聞こえ、やがて、壁のアーチから見事に引き締まった身体が現れる。レインは濡れた髪をタオルで無造作に拭きながら、気配に足を止めた。その姿に、ルカの思考が、一瞬真っ白になる。当然、レインは全裸だった。肩から胸にかけて薄い古傷が走っている。濡れた肌を水滴が伝い、鎖骨を滑り、腹筋の縦線へ落ちていく。だが目を引いたのは、色気より先に、その脂肪の削げた痩せ方だった。筋肉の間に、肋骨が薄く浮いている。腰骨が鋭い。レインは一瞬だけ目を見開き——すぐにその驚きを押し殺した。「……つい先程、送り届けたはずだが」低い声。冷たいほど静かな声音だった。そして刺すような視線が、真っ直ぐルカを射抜く。ルカは喉を鳴らした。来る途中で何度も頭の中で繰り返していた言葉が、全部飛ぶ。レインは無言のルカから視線を外さず、バスタオルを腰に巻き付ける。しかしそれはレインの男性自身を浮き彫りにしただけで、余計に煽情的だ。「何かあったのか」言い訳があるんだろうな、と言わんばかりの口調。目は鋭くルカを射抜いたまま、気だるげに濡れた髪を掻き上げる。ルカはその色気に息をすることすら忘れ、立ちすくんだ。「……おい、ルカ」名を呼ばれ、拳を握る。言わなければと思うのに、うまく息が吸えない。代わりに出たのは、ほとんど掠れた声だった。「……眠れてるのか、どうしても心配になって……」沈黙が落ち、レインの表情が止まる。さらに静まり返る部屋。濡れた髪の先から落ちた水滴が、鎖骨を伝って胸元へ滑っていく音さえ聞こえそうだった。風呂場から流れてきた湯気がまだ廊下に薄く漂っていて、裸のレインの肌からは石鹸の匂いがした。ルカは玄関ホールに立ち尽くしたまま、指先を握り込む。心臓がうるさい。走ってきたせいだけじゃない。レインを責めたいわけじゃない。ただ、確かめたかった。ハムスターの異常行動について語るレインは、あくまで研究者の顔だった。淡々と。不必要なほど、客観的に。——あれは他人事じゃなかった。意を決したように、ルカはレインを見つめ返していた。視線を逸らしたのはレインだった。「急に何の話だ」低く平坦な声。だが、その冷静さが逆にルカを苛立たせる。「誤魔化さないで」「誤魔化してない」「してるだろ!」言葉が重なる。レインは小さく息を吐き、カフェテーブルに置かれたビールのボトルを手にした。その仕草には、先程無かったはずの疲労が滲んでいるように見える。ルカは唇を噛む。——この人は、ずっとこうやって平然としてきたのだろう。眠れなくても。神経が削れても。心が苦しくても。全部、冷静な研究者の顔で。「レイン、自分で言ってた」ルカは一歩、リビングへ踏み込む。冷えたフローリングが裸足に軋んだ。「睡眠が削られたら、行動も判断も鈍るって」レインの目がわずかに細くなる。再びの沈黙。遠くで、鳥が微かに鳴いた。レインはソファへ背を預ける。無造作な動きなのに、その瞬間、肋骨の浮き方が見えた。ルカの胸が嫌な風に痛む。腕や肩の筋肉が目立つのは、それ以外の部分が痩せているからだ。よく絞れた身体だとと思うより先に、危うい、と思った。「……だから何だ」レインが言う。「お前が夜中に飛び出してくる理由にはならない」「なるよ」ほとんど反射だった。レインの眉が動く。眠れないことに。独りで朝を迎えることに。身体を削る生活に。そんなものに慣れるなと、叫びたかった。しかし叫びは声にならず、代わりにルカは一歩踏み出した。レインは動かない。逃げもしない。だが、受け入れもしない。ただ静かに座り、ルカを見上げている。その距離が、どうしようもなく苦しかった。「……僕が歌えば、寝られるんだろ」レインが息を飲む。ほんの刹那だが、呼吸が確かに止まったのをルカは見逃さなかった。「どうして言ってくれないの」レインがゆっくりと立ち上がった。「……帰れ、ルカ。必要なら何度でも送ってやる」返答は硬かった。拒絶に近い声音。だがルカには、もう分かっている。この人は怒っているんじゃない。怖がっている。誰かがいないと眠れないことを。誰かを必要としてしまうことを。ルカは震える指先をゆっくり持ち上げる。逃げられたらどうしようと思った。鬱陶しいと思われたら。迷惑だと切り捨てられたら。だが、それでも放って帰ることなんて出来なかった。自分は間違っていないという自覚があった。ルカはさらに踏み込み、立ち尽くすレインの手首にそっと触れる。熱かった。生きている体温。脈が、微かに速い。「ルカ……これ以上は……」ルカは泣きそうになるのを堪えながら、小さく呟いた。「……困ればいい」レインが息を呑む。ルカはそのまま額をレインの胸へ寄せた。濡れた肌はひやりとしているのに、その奥の鼓動だけが異様に熱かった。レインは動かなかった。突き放すことも、抱き寄せることもせず。ただ、胸元へ額を預けてきたルカを見下ろしている。濡れた髪先から落ちた水滴が、ルカの頬へひとつ落ちた。静かだった。互いの呼吸だけが近い。ルカは目を閉じる。鼓動が聞こえる。速くて、強い。連動するように、呼吸が早い。——こんなレインを知らない。いつだって冷静で、何を考えているのか掴ませない。まるで岩みたいな人だと思っていた。なのに今は違う。胸の奥で鳴る鼓動は、生々しいほど人間だった。「……ルカ」低く掠れた声が頭上から落ちてくる。「自分が何をしてるか分かってるのか」ルカは少しだけ笑った。額を押し付けたまま、小さく答える。「うん」半分だけ本当だった。勢いで飛び出してきた。夜中に、憧れてならない男の家へ来て。帰れと言われても拒絶し。裸のままの相手に触れているなんて。冷静に考えれば全部おかしい。だが、レインを独りにしてはいけない気がした。それは絶対に間違ってはいないはずで。ルカはレインの胸元に手を添える。熱い。「……あんたを眠らせることができるのは、僕だけだ」その瞬間。レインの指が、ぴくりと動いた。触れるか迷うみたいに宙で止まり、それからゆっくりとルカの後頭部へ落ちる。抱き寄せるでもなく、撫でるでもなく。ただ、そこに置かれた重い手。ルカは息を止める。レインが自分から触れてくることなんて、ほとんど無い。それだけで胸が締め付けられる。「ずいぶん……自信があるようだな」レインが呟く。だが声には、もう先ほどまでの硬さが無かった。むしろ面白がっているようにも聞こえる。確かにレインは疲れていた。それもひどく。忙しいはずの頭の中に、時折現れるルカへの渇望を追い払う日々に。ルカとの実験を止めてから、まともに眠れたのは1度きりだ。ルカはそっと顔を上げる。思わず息を呑むくらい近くに、レインの顔がある。濡れた睫毛。シャワー上がりの熱を帯びた肌。僅かに赤い目元。「ベッド、行こう」ぽろりと零れたルカの言葉に、レインの目が細くなる。「ん……?」地の底のように低い唸りが、身体から直接響いてくる。ルカは自分の言葉が与える別の意味に気付き、耳まで赤くなる。「ち、違っ……そうじゃなくて!」レインの口元がわずかに動く。笑った。本当に僅かだったが、確かに。「知ってる」響きが妙に優しくて、ルカを余計に焦らせる。レインはゆっくり息を吐いた。それから、観念したみたいに目を伏せる。「……来い」レインは苦い顔のままルカから離れ、壁のアーチを超えると左に曲がる。そして自室のドアを開け、そのまま無言で中へ入った。ルカも後に続く。本棚に囲まれた静かな部屋。ベッド脇の小さなランプだけが点けられ、琥珀色の灯りが木目を柔らかく照らしている。レインは腰のタオルを適当に椅子へ放り、ベッドの端に腰掛けた。全裸のままで。本人は気にしていないらしい。だがルカは、非常に視線の置き場に困り、意味もなく本棚を見る。魚類図鑑。植物図鑑。人体解剖図。最悪だ。余計に意識する。「……ルカ」レインの低い声が飛んでくる。「顔が赤い」「誰のせいだと?」レインは少しだけ目を瞬いたあと、疲れたように額へ手を当てた。「……服を着る前に侵入者があったから」「僕のせい?」「かもな」レインは小さく息を吐き、身体を横たえる。「それで。歌ってくれるのか」ルカはゆっくり頷いた。だが、そこで困る。歌うと言ったものの、こんな状況で何を歌えばいいのか分からない。ラブソングなど論外だ。今そんなものを歌ったら、自分が死ぬ。レインはそんなルカを見て、かすかに口元を緩めた。「適当でいい」「適当って……」「お前の声なら、たぶん何でも同じだ」その言葉が静かに胸へ落ちる。ルカは誤魔化すように咳払いをした。それからベッドの脇へ腰を下ろす。マットレスが沈み、レインの体温が伝わる。ルカは一度だけ深呼吸した。そして、小さく歌い始める。夜を刺激しないような、柔らかな旋律。即興だ。メロディというより、呼吸に近い歌だった。レインは目を閉じ、静かに聴いている。まだ意識があるのは明らかだ。だが、数分もしないうちに、呼吸が少しずつ変わっていく。深く。ゆっくり。張り詰めていたものが、解けるみたいに。ルカは歌いながら、そっと視線を向ける。レインの眉間から力が抜けていた。それだけで胸がほっこりと暖かくなる。歌声が微かに震える。その時だった。レインの手が、ゆっくりシーツの上を探る。半分眠りに落ちた、無意識の動作のようだ。もしかして——と、ルカは膝の上で組んでいた指を解いた。やや遠慮がちに、レインの長い指先につんと触れ——瞬間、指先が弱く握られた。まるで子供みたいな仕草だった。夜を怖がり、親の存在を確かめるかのような——ルカは唇を噛む。この人は、いつからこうだったんだろう。どれくらい長く、眠れない夜を越えてきたんだろう。ポロリとルカの瞳から雫が一つ落ちる。レインの辛さは、想像し難い。彼に寄り添いたいと願うと、なぜだか涙が出てしまう。レインの呼吸が深く、穏やかに変わる。完全に眠りに落ちたに違いなかった。それでも、握る手だけは離さない。そしてルカは、歌を止められなかった。ほんの指先だけの繋がりでさえ、じんと胸に染みる。部屋の灯りは暗く、夜は深い。窓の外で風が木を揺らす音がする。その全部から、この小さな部屋だけ切り離されているみたいだった。レインの指が、微かに動く。確かめるように、ルカの手を撫でる。だが、それが余計にルカを追い詰める。起きているレインは、決してこんな風に触れてこない。なのに今は。安堵しきった顔で、まるで本音みたいに触れてくる。ここに居て欲しいと、すがるように。ずるい。ルカは声を止め、小さく笑った。「……ほんと、ずるいよ」返事はない。代わりに、レインの呼吸がさらに深くなる。眠っている。ちゃんと。ルカは信じられない気持ちで、その寝顔を見つめた。眠るレインの傍にいるだけで、心が満ちていく。この時間を守るためなら、何を投げ出しても惜しくない。ルカは空いている方の手をゆっくり伸ばした。濡れて濃くなったブロンドの前髪をそっと払う。指先に熱い額が触れる。眠れていない人特有の熱だった。レインの手がまた微かに動き、今度は少しだけ強くルカの指を握り込んだ。ルカは目を閉じる。だめだ。こんなの、好きにならない方が無理だ。「……おやすみ、レイン」小さく囁く。返事はない。だが、眠ったままのレインの口元が、ほんの僅かに緩んだ気がした。