第26話 聖域
第26話 聖域
レインが目を覚ました時、部屋はまだ薄暗かった。ブラインドの隙間から、淡い朝の光が細く差し込んでいる。ぼんやりと天井を見上げたまま、数秒動かなかった。珍しく、頭が静かだった。いつもなら覚醒と同時に押し寄せるノイズがない。思考が過剰に回転する感覚も、身体の芯にへばりつく苛立ちもない。呼吸がゆったりとしたリズムを刻んでいる。そして——それは自分のものだけではないらしい。レインは、恐る恐る、視線を動かした。すぐ隣に、ルカがいた。正確には、ブランケットの塊だ。狭いセミダブルのベッドの端で、レインのブランケットを全て奪い、丸くなって眠っている。レインはしばらく黙って、その寝顔を見ていた。睫毛が頬へ影を落とし、少し開いた唇から穏やかな寝息が漏れている。そこに長めの前髪の先端があたり、軽く揺れる。レインは指先を伸ばし、髪の毛を掻き上げようとして、動きを止める。そのまま手で自分の目を覆い、低く息を吐いた。当たり前のように触れようとした自分を責める。昨夜の記憶は、残っている。まだほんの数時間前だ。自分はこの男を帰そうとしていたはずだった。それなのに——(……あんたを眠らせることができるのは、僕だけだ)あの熱い眼差し。それと対のように、裸の胸に押し当てられた額は、夜気でひんやりと冷えて心地よかった。そして——ルカの口から発せられた、誤解を招くような誘いの言葉。ベッドに行こう、などと——ありえないことは分かっていた。だが、胸は起こり得ないことを想像して高鳴る。この発想は——かなりまずい。とりあえず現状から離れるため、レインはそっと身体を起こそうと身じろいだ。その瞬間。ルカの指先が、昨夜ようやく腰へ引っ掛けたスウェットの裾を掴んだ。「……ん……」低く、微かに掠れた声に、反射的に動きが止まる。ルカは目を覚まさないまま、眉だけわずかに寄せた。レインは数秒固まったあと、静かに天井を仰いだ。かなり、心臓に悪い。レインは慎重にルカの指を外す。起こさないよう、まるでオペの執刀中みたいな手付きで。ようやくベッドを抜け出すと、そのままバスルームへ逃げ込んだ。冷たい水で顔を洗う。そして、足音を忍ばせてキッチンへ移動する。冷蔵庫を開け、卵をいくつかと、昨夜のキノコソテーを取り出す。フライパンに熱を入れ、バターを落とす。ナイフで卵の殻を叩き、器用に割る。レインはいつも、ここで父を思い出す。父子だけの生活で、朝食は父の担当だった。スクランブルエッグは彼の得意料理で、大学に進んで一人暮らしを始めた時に、きちんと伝授してもらった。料理はいい。余計なことを考えずに済む。独りでの食事にわざわざ手間を掛けないが、新鮮なキノコが手に入る時期だけは別だった。そして、誰かと朝を迎えた時も、朝食は進んで用意していた。もうそんな朝など忘れてしまうほどに久しいが。ルカとは無論そういう関係ではない。でも、作ってやりたくなった。当然だと感じた。やがてバターとキノコの香りが漂い始めた頃、背後で小さく床が軋んだ。「……いい匂い」掠れた声。即座に、昨夜の記憶がフラッシュバックする。ルカの歌を、身体が覚えてしまっている。脳が、細胞が、乾いた砂漠に水が染み込むかのようにルカの歌を貪欲に吸い込む感覚を。振り返ると、ルカが寝ぼけた顔のまま立っていた。髪は跳ね、目元には眠気が残っている。レインはフライパンを火から下ろし、視線を戻す。「起きたか」ルカは黙ったまま、数秒レインを見た。ほんのりと目元に浮かぶ笑み。上半身は裸のままで、朝の光がくっきりと筋肉の陰影を作り出している。キッチンに立つレインはほとんど神々しかった。絶句したかのようなルカに、レインは軽く「どうした」と声を掛ける。昨夜よりも低く、でも少しだけ柔らかな声。その優しさが、ルカの胸を貫く。「……お、はよ……」「まだ早い。ちゃんと眠れてないだろ」レインにそう言われ、ルカはほんの一瞬考えるように頭をぐるりと回す。知らない間に寝落ちしていたにも関わらず、ルカの頭はスッキリしていた。確かにベッドは狭かったし、体勢だって自由ではなかったが、寝違えや手足のしびれも無い。「ううん、よく眠れたよ。レインは……?」「俺は……なんて言えばいいのか……きみの声があると、まるで気絶したみたいに眠れる」ルカはほんの少し頬を染めた。誰に歌を褒められるよりも、レインの言葉は胸に刺さる。ライヴで得られる拍手や歓声より、レインが眠れることの方に満足感を感じるのだ。「よかった……。強引だったけど、来た甲斐があった。ね、それ、僕の分もある?」レインの脳裏に、昨夜のルカの言葉が蘇る。——ひとりで食べるの、ちょっとやだな。同じ気持ちだったなどと、軽々しく言えるほど若くはない。行動で表すのが、レインには精一杯だった。スクランブルエッグを皿へ滑らせる。「あるよ」ぶっきらぼうな返答に、ルカは満足げに微笑んだ。そして、ゆっくりとダイニングの窓辺に向かい、何気なくブラインドを上げる。途端に朝日が、ルカを照らし出した。目で姿を追っていたレインは、その眩しさに目を細めた。太陽の光に、ではない。ルカが、あまりに美しかったからだ。光を反射したルカは、まるで内側から発光するかのように輝いていた。その背後に、大きな翼が生えているような錯覚すらさせるほどだった。——眠れないはずの聖域が、その姿を変えた瞬間だった。あまりにも長い時間、レインの視線はルカに釘付けだった。ルカが身じろぎをして、小首を傾げる。ようやくレインはハッとしたように目を開き、小さく咳払いをする。「……パン、買ってくる」「えっ、待って。僕も行く」すかさずそう返事したルカを、レインは手で制した。「すぐ戻る。……ここで待ってて」言うなりレインは自室へ行き、クローゼットから新品のタオルや買い置きの下着やらを取り出し、きっちりと畳んでベッドの片隅に置いた。「シャワーを浴びるならどうぞ。二度寝も歓迎だ」後ろをついてきていたルカが、「でも」と遠慮がちな声色を上げる。「頼む」ふいに出たのは、祈りにも似た願いだった。レインは気まずさをごまかすように、裸の上半身にTシャツをひっかけ、飛び出すように家を出た。外へ出たことでルカの気が変わり、「やっぱり帰って寝直す」などと言い出したら……引き止める方法など分からない。この茶番を、もう少し続けさせて欲しかった。完全に、恋人のために朝食を用意しているような感覚に陥っていた。良くない傾向だと分かっていても。レインは半ば駆け足で、馴染みのベーカリーショップに向かった。店はこのエリアに古くからあり、ドイツ出身の家族が経営している。ライ麦100%の黒パンは酸味と甘みのバランスに優れており、近隣住民から絶大な支持を得ている。レインの一家がまだここに住んでいた頃——母が健在だった頃は、土日の早朝、この店に朝食のパンを買いに行くのが父とレインの役目だった。それはヒューゴの家も同じくで、二家族揃って朝食をとることも珍しくなかった。今では彼の店で出されるパンは全てこの店から仕入れている。レインはいつものように黒パンを買い、そして万が一、このサワー種のパンをルカが好まなかった場合に備えて、小型のパン——ブロッチェンを幾つか選ぶ。オーストラリアの食文化に疎いことに加え、ルカが普段朝食に何を食べているのか知らないからだ。そのイレギュラーなレインの行動に気付いたパン職人の奥さんが、「あら珍しい」と声を掛けてくる。レインは小さく咳払いをしただけで、無言でトレイを差し出す。ははーん、と奥さんが流し目でレインを見る。「レイニエル ファン ダール、お見通しよ。今朝は特別な……」フルネームで呼ばれるということは、これから説教が始まるということだ。「いいから会計して。卵が冷める」「これはそうそう見られるもんじゃないね!そうだ。今朝はフランツブロッチェンがあるのよ。おまけに入れておくからね。甘ぁい朝に、ちょうどいいんじゃない?」「……そういう関係じゃない」「なによ照れちゃって。あんたもヒューゴも、ほんと真面目なんだから」「俺らはそれが取り柄なんだ」「バターはまだあるのかい?牛乳は?」「あるよ」「花は?」「はぁ?そんなもの……」「うちの庭のハイデが満開だから、持って行きなさい。花の無い朝食なんて。オマが知ったらなんて言うかね」「……わかったよ。ありがとう」「どういたしまして。その子がうちのパンが気に入ったかどうか、後でちゃんと報告に来なさい」バッチリとウインクをかまされ、レインは苦笑いで店を後にする。未だに子供扱いだ。しかしフランツブロッチェンがあったのは幸いだった。これはいわゆるシナモンロールで、硬派なドイツパンの中では珍しく菓子パンの類に入るが、朝食にもよく食べられる。ルカとこれまで昼食を共にした経験や、果物の育成に熱心なことから、多少は好みが分かる。きっと、この甘くてスパイシーな味は歓迎されるはずだ。「ただいま」自分から発せられたその言葉があまりに自然で、レインは驚愕する。この家に越してきて一度も口にしていないはずなのに、不意に口をついた。そして返って来る「おかえり!」とはずんだ声。続く足音。まるで昨夜のレインさながらに、髪をバサバサとタオルで拭きながらルカがリビングに入ってくる。レインはその姿が見える直前に一瞬身構えたが、ルカはきちんと与えられた服を着ていた。それに安堵し、パンが入った紙袋をダイニングテーブルに置いた。「んー!」紙袋に、ルカが顔をつっこむようにして香りを吸い込む。「焼き立てのパンなんて、日本に来て以来初めてだ」ルカの喜びように、レインは片眉を上げる。「意外だな」「近くにパン屋さんがあるなんて知らないよ」「ヒューゴから聞いてないのか。ここから仕入れてるんだが」「全然。聞いたら教えてくれてたんだろうけど」レインにはそれ以上に、ルカから香るシャンプーの匂いの方が鮮烈だった。嗅ぎ慣れている香りがルカから発せられていることが、なんとも言えない幸福感をレインに与えていた。「コーヒー?紅茶?」「コーヒー!できればフラットホワイトがいい」続いた聞き慣れない言葉に、コーヒー豆の入った缶を掴んだレインの手が止まる。「なんだそれは」片眉を上げて興味深げな顔をしたレインに、ルカは上機嫌になる。「それなら」とダイニングに座り、オーストラリアにおけるコーヒー文化について語り始めた。移民により発展した国は、食文化も多様だ。10代から演奏で稼いではいたが、叔父が出資していたカフェバーでのアルバイト経験も長い。ウェイター兼演者、と言ったところだった。コーヒーや酒には一端の知識がある。ヒューゴには絶対に叶わないので店でその知識をひけらかすようなことはないが、オーストラリア独自のことを客に尋ねられれば喜んで答える。「僕が淹れるよ」とルカが立ち上がる。「レインにはブラックコーヒーが似合うけど、シルキーなミルクコーヒーだってきっと気に入る……この家にミルクがあれば、だけど」「ある。プロテインを溶かすのに欠かせないからな」「もしかして、それが主食?」「そういうわけではない。ただ、主な栄養源ではある」「医者の……なんだっけ」「不養生と言いたいのか?」「それ」「お前こそ、ちゃんと食ってんの?そんなに細い身体で」ルカは、心外だというように頬を膨らませた。「これでも体力はある方だし、それに人前に出る仕事だから、一応、気を使ってる」「へぇ。朝食はどんなものを?」「ミューズリーにバナナ。そこにアーモンドミルクかソイミルクを掛けて、あとは蜂蜜は欠かせない。のどに良いから」「昼は店でまかないか。夜は?」「昼と同じ。ヒューゴが多めに持たせてくれるんだ」「相変わらず面倒見のいいやつだな……そりゃ、好きになるよな」しまった、と気付いたがもう遅い。レインは己から出た無意識の発言に、顔を強張らせた。火を入れ直したフライパンに視線を固定する。「うん。もしヒューゴを嫌う人がいれば、原因は嫉妬でしかないね」ルカの回答は、まるで一般論のようだった。レインは思わず顔を上げる。聞き直すべきかどうか——束の間考え、レインは口をつぐんだ。答えを知った所で、何かが変わるということもない。「そうだ。ヒューゴが土曜日を完全に休みにしちゃったんだ。だから、昼も夜も僕が店番。飲みに来て。お願い」「……ああ、例の……」レインは高校時代にヒューゴから全てを聞いているし、その初恋の人物とこの夏に再会したことを知っている。しかし、ヒューゴに想いを寄せているであろうルカの前で、その人物の名前を出すことは憚られた。ルカは温まったミルクをなんとかして泡立てようと、レインにホイッパーの場所を尋ねる。そしてシャカシャカとかき回し、「ミルクフォーマー、持ってくればよかった」などと昨夜の時点では予想もつかなかっただろうことを後悔している。「トオル、だよ。一度見かけたけど、確かにいい男だったな。どことなく凛とした感じで、でも冷たさとは無縁な柔らかい瞳でさ、ヒューゴの一目惚れなんでしょ?分かる気もする」まるで世間話のようなルカの口調に、レインは目を見開いた。「……それで……きみは平気なのか」「なにが?」「ヒューゴに恋人ができることが」アハハ、とルカから笑い声が起こる。「当然!早くくっついて欲しいよ」レインは腑に落ちない表情のまま、エスプレッソが湧いていることに気がついて火を止める。「どういう感情なの、それ」「僕にはブラザーコンプレックスなんて概念すら無いしさ、べつに兄貴に恋人ができたところで、盗られたなんて思わ……」「兄だって?」レインはルカが言い終わる前に口を挟む。「そ。ヒューゴは日本での僕のお兄ちゃんのつもりなんだって。だから僕も弟として、精一杯甘えさせてもらってる。兄には早く幸せになってほしいって思うものでしょ?僕は一人っ子だから、擬似的とは言え、ヒューゴみたいな兄ができて嬉しい……なに?どうしたの?」低く唸り声を上げ、レインはその場に座り込んだ。ルカが、小首を傾げて見下ろす。「あのヒューゴの弟分だなんて……僕、自意識過剰かな?」「……なんだよ、俺はてっきり……」「なに?」長い溜息の後、レインは立ち上がった。「なんでもねぇよ……腹減っただけ」「僕も!楽しみすぎるよ、そのスクランブルエッグ」すぐにいつもの無邪気さを見せたルカが、「カップはどこ」と即興の歌詞をつけて小さく歌う。「食器類はダイニングの戸棚だ。すべてオマのお気に入りだから、割るなよ」すぐに返ってくる明るい返事。ルカのあっさりとした性格は今に始まったことじゃない。レインは自嘲を浮かべながら、パンにナイフを入れる。ルカがヒューゴに恋をしていると——思い込んでいた自分が急に愚かに思えて。レインの長い指がナイフを扱う動きには、奇妙なくらい無駄がなかった。硬い外皮に刃が入り、ぱり、と乾いた音が弾ける。数枚スライスしておいて、戸棚の一番高い棚へ腕を伸ばし、籐の籠を取り出す。飴色に艶を帯びたそれは、家族の歴史を感じさせる。パンを籠へ盛りながら、レインはフランツブロッチェンの向きをそっと整える。幾重にも折り重なった生地の間からたっぷりとしたシナモンの筋が見えるように。続けて引き出しからテーブルクロスを出す。ふわりと白い布が空気を孕み、朝の光を包みながらとダイニングテーブルへ落ちる。布の端を指先で引き、四辺をきっちりと整える。それから、パン屋で摘んできた一束のハイデをグラスに挿して、中央へ置く。細やかな明るい紫の花が控えめで、素朴な野を室内へ運んでくる。その隣にパンの籠。ガラスの蓋付きのバターケース。キノコ入りのスクランブルエッグは、まだ微かに熱を残すフライパンを鍋敷きに乗せ、そのままテーブルへ。レインは戸棚のガラス戸を開き、オマの気に入りのプレートを取り出す。淡い乳白色の縁に控えめな金彩が入った古い皿だ。先ほどルカが取り出したカップとも、バターケースとも揃いの柄。銀のカトラリーを左右対称に並べ、最後に、きっちりとアイロンのかかったナプキンを置く。指先で折り目を整え、ほんの数秒、全体を眺めた。「……よし」小さく呟き、レインはルカに振り返る。ルカはその一連の動作を、最初から最後まで見ていた。一コマも見逃すまいと、ビデオ録画をするかのように。パンを並べる角度。テーブルクロスを払う手首。カトラリーを整える指先。レインの動作には一定のリズムがある。急がず、乱れず、硬すぎない。これは慣れではない。注意深く順序立てられている。まるで、『二人の朝食』という儀式が、丁寧に整えられていくようだった。そこに、木べらを突っ込んだままのフライパンを、気取らずにドンと置く矛盾。それは妙に実用的で、生活の温かさを感じさせる。ルカは、このレインの行動が嬉しくて仕方がなかった。昨夜、独りで食べたくないと言った。それに、帰りたくないと思った。それらの願望が、レインによって叶えられてゆく。彼がただ辛抱強い人間だというだけかもしれないけれど、ルカには堪らなく幸運だ。ルカがコーヒーのカップをそれぞれのプレートの脇に置き、それを合図のように二人は着席する。「どうぞ」とレインが低く柔らかにルカを促す。「イタダキマス」ルカはまずコーヒーを一口。そして、ふふ、と小さく笑みが溢れるのを止められなかった。ヒューゴの店で淹れるのと寸分違わない味だったからだ。豆も牛乳も、同じものを使っているに違いない。幼馴染で親友だとヒューゴはよく口にするが、レインからはあまり聞いたことがない。しかし、隠しきれない二人の仲の良さは、ルカの胸をほんわりと温める。そんな様子を、レインはスライスした黒パンにバターを塗りながら横目で見ていた。すぐに隅まで均一にバターが乗り、つややかに輝いたそれを、当然のようにルカのプレートに乗せる。「また子供扱いして……」こういう照れを、どう隠していいのかルカはまだわからなかった。レインは口の端だけで笑う。「これくらいバターを塗ったサワー種の黒パンがあって初めて、この料理は完成する」「へぇ、こだわりがあるんだ」「スクランブルエッグは好きなだけどうぞ」勧められるがままにルカはフライパンを取り、木べらひとすくい分をプレートに乗せた。フォークで、レインがバターを塗ったパンに押し付けるように乗せていく。ようやく、レインがコーヒーカップに口をつけた。ゲストより先に食べ物を口にしない。それくらいのマナーは備わっている。ルカはこぼさないよう、細心の注意をはらいパンを持つ手を口へ運ぶ。レインはそんな様子を伺うように、カップ越しに少しだけ目だけを上げる。「んん〜!」ルカから上がったほとんど歓声のような声に、レインは好奇心を止められなかった。「どうだ?」「旨い!!」「……そうか」「どうしてこんなに深い味になるんだろ。塩と胡椒以外に、何か隠し味があるの?」レインは微笑みながら、フライパンを手に取る。「無いよ。キノコ類が持つうまみの成分だ」「あ、それ知ってる。日本人が見つけたんだろ。科学の授業で習った」レインはナイフとフォークを使い、パンを小さい正方形に切り取るとフォークに乗せて、丁寧に口へ運ぶ。戦場帰りの無骨な男が見せるその洗練された動作は、ルカの胸を高鳴らせる。「正確には、うまみの正体を定義したのが日本人だ。昨日採取したのは4種類のキノコで、それぞれ、グルタミン酸とグアニル酸が非常に多く含まれている。当然、混ぜれば相乗効果となる。キノコが『森のMSG』と呼ばれる所以だ」MSGとはうま味調味料のことで、あまりよい意味では使われない言葉だが、レインは敢えて使った。それだけ成分が濃いということだ。ソテー自体はキノコから出た水分で黒ずみ、それが黄色いスクランブルエッグに混ざった所で食欲をそそる外見ではない。しかしルカは、次また同じものを見たら、口の中いっぱいに唾液が満ちるだろうと確信した。「こんな旨いものが今だけしか食べられないなんて。キノコなんて一年中生えててもおかしくないのに」レインは、わかりやすく消沈の声を出すルカに、また微笑む。「豊作と美味は、必ずしも同義じゃない。森のキノコのうまみが濃いのは、急かされず、だが甘やかされてもいないからだ」「じゃ、栽培されたものを買って来ても、同じ味にはならないってこと?」「そうだね。それに、ここにある種類のは売ってないだろ」レインはフォークの先で、器用にキノコソテーを選り分け、一欠片を突き刺した。「この黒く染まったのは、その名の通り、インクマッシュルームだ。生えている姿は白い。だが、採取してから数時間で自己消化を始める。胞子を広げるために、自分で溶けていくんだ。だから市場には出ない。味はいい。特にバターとガーリックと相性が抜群だ。卵とも合う。採取した者だけに与えられる恩恵だな」ルカが覗き込む。「へえ。白ワインとか合いそう」「やめておけ」レインは即答した。「この類にはアルコール分解を阻害する成分を含むものがある。動悸や吐き気を起こす。わざわざ自分から毒物学の実験台になる必要はない」「朝食専用ってわけだね」「……きみが朝から酒を飲むタイプじゃなくてよかったよ」「当たり前だろ。今日だってバイトがある」「昼食では飲まないだろうな?食後数時間から数日は、控えたほうが安全だ」「数日?それはちょっと……」ルカは恐々とした様子で、籠のシナモンロールに手を伸ばす。正式にはフランツブロッチェンだ。一口ほうばり、ガツンとくるシナモンと砂糖に満面の笑み。「今週は休みだけど、いつもの金曜のステージ、報酬としてアルコール飲み放題が含まれてんの。だから」「なるほど。来週またインクマッシュルームを食べるなら、店での飲酒は止めておけ。まあ、中毒を起こしたところで、二日酔いの症状みたいなものだ。ただし、かなり酷い部類の」「わかった。気をつけるよ。それに、限られた時期だけだし、こんなに旨いんだから、酒くらい飲めなくてもいい」レインは、皿の向こうにいるルカを見ながら、奇妙な静けさを覚えていた。こんな朝は、記憶にない。オランダで父と二人で暮らしていた頃でさえ、食卓はもっと実務的だった。父は教会へ、レインは講義や実習へ向かう準備に追われていた。パンとコーヒーはあった。会話もあった。だが、こうして時間が緩むことはなかった。だからだろうか。——こんな朝が、自分の人生にも入り込む余地があったのかと、レインはまだ判断しかねていた。この朝をここへ運んできたのは、向かいにいる青年だった。その事実が、レインの胸を静かに揺らしていた。奇妙だった。こんな時間を、自分が惜しいと思い始めていることに。そして、その理由がルカであることに。束の間押し黙ったレインに、ルカは明るい声を掛ける。「ね、提案があるんだ」レインは目を合わせ、無言で続きを促した。「イチゴの実験、今日から再開したい」「……今日から?」「正確には……」ルカはレインの口調を真似る。できるだけ焦りが滲まないように。「今夜から。僕、レインのために歌いに来てもいい?まずイチゴにベースを聴かせて、レインに歌って、寝たら帰る……どう?」レインは面食らった。「きみに何の得が?」「ずっと、お礼をしたかったんだ。教会を使わせてくれてることに」ルカはカップを指先で回した。「ここで、自分の音を見つけた。まだ教会でしか出せてない、特別な音色がある。あのピアノだって、もう作曲には欠かせない。あの場所に出会えてなかったら……挫折してたかもしれない」「しかし」レインは言葉を選ぶ。教会は常にそこにあるものだ。自分が便宜を図ったわけではない。「それにね」ルカはゆっくりコーヒーを口に運んだ。「レインが、僕の歌で眠れるって言ってくれたのが嬉しいんだ」視線はカップに落ちたまま。「だから……きちんと、夜にレインが寝るまで歌いたい」「……事実を述べただけだ」ルカは小さく笑って、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。——あなたに必要とされたい。それは、あまりに身勝手で、あまりに裸な願いだ。代わりに、少し遠回りをする。「眠れた日のレイン、とても機嫌がいい」レインの眉がわずかに動く。慢性的な寝不足による不機嫌——それが表に出ないよう、気をつけている身としては耳が痛い。「顔つきが違うし、よく喋ってくれる。それを見るのが好きだし……」ルカは、正面からレインの瞳をじっと見つめた。「そのレインを作ったのが僕だと思うと、なんか——たまらない」朝の静けさが食卓に落ちる。レインはしばらく何も言わなかった。視線だけが、静かにルカを見ている。それから、低く息を吐いた。「……きみ、ね」その先が続かなかった。——そのレインを作ったのが僕だと思うと。胸のどこかが、静かに軋む。困るのだ。そんなふうに言われると。眠れたことを喜ばれることも。自分の変化を誰かに見つけられることも。まして、その理由になりたいと願われることなど。レインは視線を落とした。カップの縁に触れていたルカの指が見える。その指に触れたいのか、自分でも判別がつかなかった。ただ一つ確かなのは——ルカの口元に視線が落ちた瞬間、口づけたい、という考えが、驚くほど自然に浮かんだことだった。その考えは、欲望というより、防衛に近いような気がした。これ以上踏み込まれる前に。これ以上、自分が踏み込みたくなる前に。視線を戻すと、ルカはにっこりと微笑み、こちらを見ていた。その無防備さが、余計に質が悪い。妖精の輪とは、こういうものかもしれないと、レインはふと思った。