第27話 妖精の残り香
第27話 妖精の残り香
ダダダッと階段を駆け下りる音に、ヒューゴは一瞬だけ包丁を持つ手を止める。ランチ営業前の仕込みの最中で、厨房で玉ねぎを刻んでいる。「おはよ!ヒューゴ」ルカの弾けるような笑顔。それだけで誰かの一日を明るくする力がありそうだ。「おう」ヒューゴは一瞬だけ顔を上げる。「今日は早いんだな」「うん。ちょっとね」制服を取りに奥のパントリーへ向かうルカは、どことなく落ち着かない様子を見せている。ヒューゴはその背中をちらりと見た。「……どうした?」「え?」「その顔」「僕の顔?」「隠し事がある顔」手元に目線を落としたままそっけなく言うヒューゴに、ルカは笑った。「そんな分かりやすい?」「分かりやすい」包丁が規則正しく鳴る。すぐにエプロンを付けたルカが厨房に戻ってきた。コーヒー豆の袋を棚へ運びながら、何でもない調子で言う。「実はさ……」「ん?」「今日、レインの家から来た」包丁の音が止まり、ヒューゴが顔を上げる。数秒の沈黙。それから、玉ねぎを再び刻み始める。「で?」「で、って?」「それだけか?」ルカは棚に寄りかかる。ヒューゴがわざと見せる薄い反応に、少しだけ、悪戯心を起こす。「じゃ、言うけど……。今、レインの下着履いてる」まな板が鈍い音を立てた。「……はあ!?」ルカが吹き出す。ヒューゴはとうとう我慢出来ず、本気でぎょっとした顔を見せる。「あはは。違う違う違う!」ルカは笑いながらも、耳の先をわずかに赤く染め、視線を一瞬逸らした。「ヒューゴのそんな顔が見れるなんて。僕の服は洗濯中。昨日、泊まったから」「何も違わねぇだろ!」「だから、文字通りただ泊まって、朝シャワー借りたんだ」ヒューゴは深く息を吐いた。包丁を置き、指でこめかみを押さえる。「……クソ」「股間がなんか落ち着かない。サイズが大きいからかな」ルカは悪びれもなく言った。「その情報いらねえよ!」店に、ルカの笑い声が響いた。ヒューゴは呆れた顔で玉ねぎを刻み直す。「話したいなら聞くよ。それとも二人の秘密にしておくか?」それを受けて、待ってましたとばかりにルカは口を開く。「昨日さ、大学に行っただろ」レインに頼まれた仕事の詳しい内容は省き、昨日の出来事をかいつまんで話す。実験施設のハムスターたち。学食で欲張りすぎたこと。キノコ狩り。そしてなにより、レインとまた、友人のように話せたこと。ヒューゴは仕込みの手を止めず、心地よいリズムを奏でながら耳を傾けている。「……で、そこからどうして『お泊り』に発展したんだ?」ルカは「ただの寝落ちだよ」と前置きしておいて、話を続ける。「アパートまで送ってもらって……寝ようと思ったんだけど、どこか嫌な予感がしたんだ」「というと?」「レイン、とても疲れてるんじゃないかって。……なんとなくだけど」「最近は特に忙しくしているらしいな」「大学でのレイン、とてもかっこよかった。何を聞いても答えてくれるし、厳しさはあるけど親切で、学生からすごく頼りにされていて。常に頭がフル回転してる」ヒューゴは軽く頷き、ルカに続きを促す。「あれじゃ、レインが不眠症だなんて誰も気が付かないよ。気付かせないようにしてるんだろうけど……。レインはさ、僕の歌で眠れるって言うくせに、僕に歌ってくれとは言わない。何かのついでにってことはあったけど、それも2,3回だけ。昨夜なんて夜中まで一緒にいたのに、ただ送り届けられただけだよ?」「それは……あいつらしいが」「そんなのフェアじゃない。僕のわがままは聞き入れてくれても、レインは何も望まないなんて」ヒューゴは包丁を置き、ルカの方に向く。ちゃんと聞くべきだと判断したからだ。「……フェア、ねえ」「僕ばかり得してる。教会をスタジオ代わりに使わせて貰ったり、ピアノだって自由に弾かせてくれる。その上、自宅の庭に僕の好きなフルーツを植えて、育ててくれてる。とても感謝してるんだ。だから、何か引き換えに……」「特にキミみたいに律儀なタイプは、そう思うだろうね」「律儀でなくても、自然なことでしょ?」「まあねえ」「ヒューゴはそう思わないの?納得してないみたいだけど……」「いや、理解はできるよ、とても。でも……一つ聞いていいかい?」「うん」「もし、立場が逆ならどうする?ルカの方が年上で、医者で、研究者で、地元に庭付きの家を持っていて、敷地内には古いが音響の良い教会と、使っていないピアノがある。そこに……修行中の若い音楽家がやってくる。才能があるだけじゃない、努力家で、性格は穏やかで朗らか。しかも、とても美しい容姿をしている」「そ、そんな……」ルカはカッと頬を染める。「いいから、想像してみろ」「……僕だったら、その音楽家に協力するよ。できることがあれば、なんでも……」「どうして?」ルカは小さく唸り、「難しいな」と呟く。「単純に、力になりたいと思う。自分の生活に余裕があるのなら、人助けする余裕だって生まれる。それに、楽器は使うものだし。もし仲良くなったなら、その音楽家が成功するのを、自分の楽しみにしても……」ルカが小さく息を飲む。「分かったかい?」ヒューゴの柔らかい問いかけに、ルカの目元が少しジンと熱くなる。「……たぶん」こくりと頷いたルカに、ヒューゴはゆっくり微笑んだ。「レインは、見返りなんて求めていないんだよ。礼だの交換だの、これっぽっちも考えちゃいない」「そっか……」「そう」静かに肯定し、ヒューゴは少しだけ黙る。「少し前だ。レインに、金柑とイチゴのジャムの作り方を聞かれたんだ。まだ花が咲いている頃だ」ふいに話題を変えられたルカが、小首を傾げる。「庭に植えたんだろ?」「うん、イチゴは実験用だけど」「ジャムなんて作ってどうすんだと聞いたら、キミと育てている果物だから、って」「あ……うん。約束した」「僕が思うに、あいつは、そういう未来を与えてくれるルカの存在に、感謝しているんじゃないかな。それがレインにとって、どれほど大きなことかは……僕には量れない。だから見返りだの引き換えだの、考えないことだ」「レイン……」ふいにルカの唇から名がこぼれ、ヒューゴは笑みを強くする。「会いたくなった?」「うん……。さっきまで一緒だったのに。朝ごはんも一緒に食べたんだ。キノコとスクランブルエッグ。パンもめちゃくちゃうまかった。レインが朝からベーカリーに行ってくれて」「いい朝だったかい?」「とても。僕さ……あの人と……あんなゆっくりとした時間を過ごせると思ってなかった。うまく言えないけど……『幸せ』がもしカタチを持っていたら、こういう姿なのかなって……」そう言って、ルカは少し照れたように笑った。ヒューゴはルカに視線を合わせ、ゆっくりと瞬きをした。◆ ◆ ◆その夜。店内に残るのは、洗い上がったグラスの湿った匂いと、アルコールの残り香。客の去った後の静けさが、カウンターに染みついている。ヒューゴはカウンターの内側でグラスを拭きながら、時折レインの横顔に視線を這わせていた。レインは二杯目のビールを前に、ぼそりと朝のことを話し始めていた。ルカが、昨夜帰らなかったこと。ベッドの端で丸くなって眠っていたこと。自分が、朝食を作ったこと。そして——ルカが、歌いに来たいと申し出たこと。「……条件はつけた」「へえ」レインはグラスを指先でゆっくり回す。「日曜の夜と、水曜あたりが理想だ。固定じゃなくていい。数日置きで十分だと」ヒューゴは黙って続きを待つ。手はグラスを拭く動きを止めていない。「実験もそれで構わない。音を聴かせる頻度の異なるデータが取れる。どうせ俺はその時間、家にいる。論文もあるし、教会の修繕もまだ手がかかる」「なるほどな」ヒューゴはグラスをカウンターに置いた。口の端がわずかに上がる。「何か言いたそうだな」ヒューゴは低く息を履く。長年の付き合いで、表情から何もかも読み取られてしまう。それはお互い様かもしれないが。「毎晩きちんと眠れる方がいいに決まってるのに、遠慮でもしたの?」レインは顔をしかめた。「一般論か?それとも説教?」「医者のお前に、ただのバーテンダーが何を説教するってんだよ」ヒューゴは自分のショットグラスから一口含み、喉を鳴らした。「で?本音が出るまであと何杯必要なんだ?飲むと何でも喋ってしまうウォッカもあるが」レインはすぐには答えなかった。グラスの中の泡が、静かに消えていくのを眺める。足元の冷蔵庫が低い唸りを上げ、二人の沈黙を埋める。グラスを飲み干し、レインは諦めたような長いため息をつく。「……嬉しかった」声が低く、掠れた。ルカの、あの熱のこもった眼差し。眠れたことを素直に喜ばれたこと。「僕が作ったレイン」だと言われた瞬間、胸の奥が疼いたこと。——全部、胸のどこかを優しく揺らした。ほどんど、不快なくらいに。「ようやく素直になったな」ヒューゴが小さく笑い、目が優しく細まる。レインはビールをぐっとあおった。喉が動く音が静かな店内に響く。「しかし、俺はまだ、自分の治療を諦めていない」「ああ」「だから毎晩は駄目だ」視線を落とす。指がグラスを強く握る。「……甘やかされたら、俺は二度とルカなしじゃ眠れなくなる」店が、ひどく静かになった。ヒューゴはその横顔をじっと見つめていた。昔から変わらない。傷を平気な顔で抱える顔。——本当に欲しいものを、慎重に遠ざけようとする顔。ヒューゴはグラスをゆっくり回しながら、目を細めた。「お前が恐れているのは、そんな『依存』じゃない」いつも通り、ヒューゴの声は優しかった。しかしそれが余計に、言葉に含まれた事実を強調する。レインはしばらく何も言えなかった。ただ、グラスの表面に映る自分のぼんやりした顔を見つめていた。——この男は、全て見通しているのだろう。「……帰るよ」レインはカウンターに札を置き、立ち上がる。億劫そうに巨躯を伸ばし、小さくあくびをする。「今夜は気分がいい」「それはよかった」「ああ。眠れなくてもいいと思える夜もある」ヒューゴは磨いたグラスを棚に戻しながら、低く返す。「珍しいな。お前がそんなことを言うなんて」レインはジャケットを羽織り、出口へ向かう。「妖精を見たせいかもな」背中越しの呟きを、ヒューゴは聞き逃さない。ドアベルが鳴る寸前、カウンターから低く声をかけた。「待て」レインの足が止まる。肩がわずかに強張る。「その妖精だがな、もしかして、お前の下着を履いてるじゃないか?サイズが合わないのを妙に嬉しそうにして」静かな店内に、ヒューゴの含み笑いが落ちる。でも、その声の底には、からかい以上の何か——親友だけが持つ、静かな慈しみが混じっていた。レインは振り返らず、ドアノブに指を食い込ませる。「……余計なことを」苦々しく絞り出すような声を出した幼馴染に、ヒューゴは小さく鼻を鳴らした。笑いがまだ喉に残っている。レインはドアを押し開ける。いつもは鳴らせずに過ぎるはずのドアベルが、静かにコロンと鳴った。残されたヒューゴは、カウンターに両肘をつき、暗くなった店内を眺めた。唇の端が、わずかに緩む。静かな店に、笑いの残り香だけが、薄く漂う。ヒューゴは、静かに息を吐いた。レインが恐れているのは、何かに依存し不眠を克服できなくなることではない。ルカに対して、計り知れないほどの執着を持ってしまうことだ。——ここに留まるべきでない——類まれな才能を持つ、若き音楽家に。