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第29話 幸福の目撃者たち

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第29話 幸福の目撃者たち

オフィスに入るなり、ルカは「んー」と伸びをして、大きく息を吸い込んだ。部屋を見渡せば、書籍や用途のよく分からない雑貨がそこかしこに置かれている。雑然としていながら、どこか不思議な均衡が保たれていた。レインは、ルカがソファにバックパックを置くのを待って、約束どおり学生食堂へ誘った。平日はほとんど朝食を取らないため、胃の中は空っぽだった。すっかり慣れているはずなのに、ルカが昼食を持ってくるようになってから、身体が食べ物の摂取を期待するようになってしまった。ルカを見ると、空腹になるような気さえする。今日もランチタイムはとうに過ぎている。レインは行き先を中央食堂と決め、ルカの真横に並んで歩いた。券売機で食券を買い、トレイを手に受取口へ向かう。「ファン・ダール先生」背後から柔和な声で名を呼ばれ、レインは意図的にゆっくりと振り返った。声の主は工学部の准教授だった。レインより年上だが、細面に銀縁の眼鏡をかけた細身の男で、理系の学生たちに交じれば見失ってしまいそうな風貌をしている。医学部と工学部では研究室も離れているが、大学内ではおそらく最も懇意にしている同僚だった。レインが工学部の作業室を借り、実験器具の改造に悪戦苦闘していたとき、手を貸してくれたことがきっかけだ。英語がひどく流暢で、レインの名字をファン・ダールと区切って読むのはこの大学では彼だけだ。おそらくイギリスで暮らした経験があるか、帰国子女なのだろうとレインは考えていた。もっとも、本人に尋ねたことはない。「こんにちは。こっちの学食に来るなんて珍しいね」「ああ」レインは短く応じた。それから、隣に立つルカへ視線を向ける。「紹介しよう」ルカが姿勢を正した。「彼はルカ・ホロウェイ。今、俺の実験に協力してもらっている」工学部の准教授が、興味深そうにルカを見る。「非常に稀な聴覚特性を持っている。現在取り組んでいる高周波音知覚の検証は、彼の協力なしには成立しない」ルカは思わずレインを見た。そこまで詳しく説明されるとは思っていなかったのだろう。レインは構わず続けた。「本職はベーシストだ。今は日本で活動しながら、作曲もしている。優れた音楽家だ」准教授はわずかに首を傾け、顎に手を当てた。その姿勢のまま、しばらく静止する。「もしかして……」「なんでもどうぞ」ルカも小首を傾げ、明るく応じた。「ああ、その前に自己紹介だ。工学部で准教授をしている黒岩です。それで……違っていたら聞き流してほしいんだけど、ひょっとして、クリスの店で演奏しているベーシストはきみか?」握手を交わした手をそのままに、黒岩が尋ねる。驚いたのはレインの方だった。予想もしなかった名前が飛び出し、思わず目を見開く。ルカがそこまで知られているのか。それとも黒岩が、ショウや大学の学生たちと交流を持っているのか。「そうだよ。来たことある?」レインの驚きなど気にも留めず、ルカは軽やかに答えた。「あるよ」「あるのか?」レインは口を挟まずにはいられなかった。あの店の知名度は、特定の層を除けばそれほど高くない。この土地に住む外国人であれば聞いたことくらいはあるかもしれないが、それも、ゲイ・コミュニティと接点があればという程度だ。少なくとも、職場の同僚との会話に自然と上るような店ではない。「ただ、週末の混雑は避けるようにしていてね。残念ながら、まだきみたちのステージにはお目にかかれていないんだ」「前半はジャズが中心だけど、後半はなんでもやるよ。リクエストも受け付けてるから」「ぜひ近いうちに聴かせてもらうよ」「ありがとう」ルカがぴょこんと頭を下げる。「ああ、ファン・ダール先生。今日は唐揚げ定食がおすすめですよ。いつもより衣が軽くて、ぱりっとしている。油が新しいのかな。じゃあ、また」そう言い残してひらひらと手を振り、黒岩は飄々と去っていった。勧められたとおり、二人とも唐揚げ定食をトレイに載せ、空いている席を探した。窓際の明るい席に着くと、ルカが小さく笑う。「僕の紹介、すごく立派だった」「事実を述べただけだ」ルカは照れたように首を掻いた。「『本職はベーシストだ』って言ってくれたの、嬉しかった」「実際そうだろ」「まだプロって言えるほど売れてないよ?」「才能の有無と知名度は別問題だろ。まあ、あとはタイミングだと思うがね」レインは味噌汁に視線を落としたまま、続けた。「きみは優れた音楽家だ」その言葉は、あまりにも自然で、真っ直ぐだった。ルカは一瞬、息をするのを忘れた。胸の奥だけが、静かに熱を帯びていく。「ほ、褒めても何も出ないよ」「褒め言葉じゃない。評価を述べているだけだ」「評価する立場じゃないって、前に言ってなかった?」レインは微笑み、ようやく向かいに座るルカを見た。「撤回する。だから、金曜日のステージを観に行ってもいいか?」「もちろんだよ!」立ち上がりかねない勢いで声を弾ませ、ルカは周囲の視線を集めた。レインは気にも留めなかった。むしろ、ルカが自分の関係者であると周囲に知られるには、都合がいいとさえ思った。「レインが来るなら、もっとちゃんと演奏しなきゃな」「普段は手を抜いてるのか」ぐ、とルカが米を喉に詰まらせる。「ち、違う。普段は100パーセントだけど、これからは120パーセントにするって意味」「そうかい。それなら、ほかの客のためにも毎週行くべきかもな」「本当に? 嬉しいよ。でも、あんまり厳しく評価されたら、僕のモチベーションが……」「心配無用だ。きみの才能を睡眠薬代わりに使っている男の評価なんか、信用するな」ルカの箸が止まった。「……となると、さっき僕に才能があるって言ってくれたのは?」レインは声を上げて笑った。周囲の学生たちの視線が、一斉に二人へ注がれる。——あの先生が笑ってる。そんな囁きが広がっていたが、当人たちの耳には届いていない。「俺は音楽に疎い。だが、きみに特別なものがあるのは間違いない。そうでなければ、俺は誰の歌でも眠れることになる。違うか?」「確かに……」「俺は、きみの特別な才能の生き証人ってわけだ」「うん」ルカは目を輝かせて頷いた。レインの言葉に納得したらしい。「ほら」レインは手を伸ばし、親指でルカの口元についたマヨネーズを拭った。それから、拭った指先をどうするか一瞬迷い、ごく自然に舐め取った。今度こそ、周囲の空気が完全に凍りついた。静寂が波紋のように広がり、近くの学生が息を呑む気配まで伝わってくる。「だから、子供扱いするなって」「その話は済んだはずだ」「じゃあ何。僕がヒューゴだったら、同じことしてた?」「するわけねぇだろ」「ほらね」「そうじゃない。あいつはマヨネーズをつけたまま歩いてりゃいい。あの美形は、それくらい欠点があってようやく釣り合いが取れる」「……分からなくもないな、それ」「一方、きみの場合は事情が違う。『ドクター・ファン・デールの客人が、顔にマヨネーズをつけたまま校内を歩いていた』なんて言われてみろ。オランダまで届くぞ」「う……」ルカが言葉に詰まる。「僕、レインの客人だっていう自覚、あんまりなかったかも。行動に気をつけなきゃな」その素直な言葉にルカらしさを感じながら、レインは咳払いをした。「ああ、それには及ばない。マヨネーズでもケチャップでも、好きなだけ顔につけてかまわない」「どうしてそうなるのさ」まるで逆のことを言い始めたレインに、ルカは首を傾げる。「こっちの責任だからだ。俺が拭って、きれいにする」レインは澄ました顔で、当たり前のことのように言った。ルカは目を丸くし、口までぽかんと開けている。「んぐ」そこへレインの箸が伸び、小ぶりな唐揚げが口に押し込まれた。ルカは慌てて咀嚼する。「なに?」「食べ盛りかと思って」「だから、子供扱いを……」「してないのは知ってるだろ。それとも忘れたか?」低く囁かれ、ルカは俯いた。レインに言われたことと、少し前に交わした口づけを思い出す。「忘れて、ない」絞り出すように呟いたルカに、レインは微笑んだ。「それは残念だ」「……なんで?」「思い出させる機会がなくなった」耳に熱が集まり、ルカはさらにうつむく。「こっち向け」「無理」「どうして」「僕、今、学食でしていい顔じゃないと思う」「見せろ」「無理」とうとうルカは窓の方を向き、そのうえ手で顔を覆ってしまった。レインの視線から逃れるためだろうが、赤く染まった目元が窓ガラスに映っている。はは、とレインがまた声を上げて笑う。「食い終わったなら戻るぞ」レインは自分のトレイにルカの食器を重ね、席を立った。慌ててルカもあとに続く。「今日も、この間と同じ流れでいい?」照れを隠すために咄嗟に出た言葉ではあったが、自分の役割を確認しておきたいのも事実だった。「ああ。同じで頼む。時間は大丈夫か?」昼と夜の2回、電磁応用研究室へ行き、そのときに聞こえた音をレインへ伝えるのがルカの役目だ。帰りが遅くなることをレインは気にしているようだったが、夜型のルカには何の問題もない。むしろ、遅くなればなるほど都合がよかった。レインと過ごせる時間が増える。「じゃあ、キノコ狩りも?」軽い冗談を装ってはいたが、内心ではかなり期待している。「そうだな。この時期なら、まだ少しは生えてるだろう」ルカはガッツポーズをしてみせた。前回はレインの話に夢中になり、あまり収穫を上げられなかったのだ。「あのスクランブルエッグが気に入ったようだな」「それもそうだけど……話が面白かった。民間信仰と民間療法の関係について」前回のキノコ狩りは、ルカにとって特別な時間だった。レインから、民間信仰やハーブの効能について教わった。彼の知識の深さもさることながら、構内の人気のない林で行われる講義は、まるでフィールドワークのようでもあり、その土地で長く語り継がれてきた物語を聞いているようでもあった。ルカはレインの語りに、特別な安らぎを感じていた。声の調子や話す速さ、言葉の選び方といった、単なる会話技術だけではない。レインが醸し出す雰囲気としか言いようがなかったが、この人は医者になるべくしてなったのだと思わせる何かが、レインにはある。ルカは、そう確信していた。「ほう。それは感心だ。俺の講義にも来ればいい」「いいの? ここの学生じゃないけど」「当然だ。聴講生は何人かいる。事情があって大学を離れた元学生や、趣味で民俗学をやってる年寄りとかな」「開かれてるんだね。なんだかレインらしい」「そうか? この商売は聞く人間がいて成り立つんだ。多い方がいいに決まってる」「確かに……」「だろ」二人は食堂で袋をもらい、そのままキノコ狩りへ向かった。数日前より数は少なかったが、それなりの収穫はあった。特に、「見逃していたか」とレインが呟きながら採ったスポンジマッシュルームは、ひときわ大きかった。「ほら、虫食いもない」目の前に差し出された傘の裏側を、ルカはしげしげと観察した。バター色のスポンジ状の組織がきれいに揃い、ふっくらと盛り上がっている。肉厚で、見るからに状態がよかった。うまそうだと思うと同時に、先日、レインが見せてくれた調理姿を思い出す。器用にナイフを扱う手の繊細さ。フライパンの柄を握ったときに浮き上がる、腕の太い血管。広い背中から腰へ向かうにつれ、引き締まっていく端正な後ろ姿。「今夜は……」ルカは口ごもり、そこで言葉を止めた。レインとは、数日置きに歌いに行くと約束している。だから焦る必要はない。今日でなくてもいいのだと、自分に言い聞かせる。約束の日でなくとも、必要だと思えばいつでも駆けつけて歌うつもりでいる。自分の方が、レイン本人よりもその必要性を早く察知できる自信があった。幸い、レインには聞こえていなかったらしい。「そろそろ行くぞ」声が掛かる。ここはレインの秘密の狩場だ。長居は無用だった。研究棟の通用口を抜け、かすかな薬品臭の漂う廊下を並んで歩く。レインはルカをオフィスに残し、ラボへ足を向けた。自分のラボであっても、ノックに続けて声を掛けるのが習慣だった。「入るぞ」ドアを開けたレインに、アリサ、ダニエル、スタンリーの視線が一斉に集中した。その圧に押されたように、レインは一瞬だけ動きを止める。「何だ。何かあったのか」「聞きましたよ」口を開いたのはダニエルだった。「何を?」「ドクター・ファン・デールが、学食で美人と仲よさそうにしていたとのことです」ニュースを読み上げるような口調で続けたのは、スタンリーだった。いつも以上に真顔で、くいと眼鏡を押し上げる。面白がっているのは明白だった。二人が学食を出てから、まだ30分も経っていない。それなのに、噂はすでに医学部まで届いていた。ルカを丁寧に扱ったつもりだったが、どうしてこんな話になる。「美人かどうかなんて、見る人間の主観だろ」「お相手は? まあ、大体分かりますけど」アリサはにこにこと笑っている。「知らん」「そうですか。でも、先生、ますます人気が出ますね」「なぜそうなる」「ギャップ萌えってやつですよ。あんなふうに扱われてみたいって、みんな言ってます」「……全員がルカなら、それも可能かもな」そう告げると、レインは素早く踵を返し、ラボを出た。向かいにある自分のオフィスのドアを開く。当の美人は、来客用を兼ねた読書用のソファに浅く腰掛けていた。レインが戻ると、にっこりと笑いかけてくる。「俺の主観だけじゃないことくらい、とっくに知ってる」脈絡もなく発せられた言葉に、ルカが小首を傾げた。「急に何の話?」「なんでもない。独り言だ」ルカの美しさが人目を引くことには、初対面のときから気づいていた。ただ、それを素直に認めたくない、つまらない意地のようなものがあった。幸か不幸か、ステージで演奏するルカの色気は、まだ大学では知られていない。ショウを除いて、だが。「そろそろ、ハムたちのところへ行ってくる」ルカは、レインがきっと忙しいのだろうと判断し、ソファから立ち上がった。頭の中で論文の構成でも組み立てていると思ったのかもしれない。それに、これまでハムスターを見に行っていた時間とも一致している。「ああ、頼む」レインはパソコンの前に座り、手元のコーヒーカップを覗き込んだ。中身は空だった。「15分くらいかな。忙しいなら、もっと長くいるけど」「いや、それで構わない。戻ったらカフェに行こう。コーヒーを勧められても断れよ」「了解」ルカはおどけた敬礼をしてみせた。「気をつけて」不意に出た言葉に、レイン自身が戸惑った。「ハムスターに?」いかにもルカらしい反応だった。この場所に危険など存在しないと、信じ切っているのだろう。今はまだ、不安を与える段階ではない。「……そうだ。齧歯類が媒介する病原体は多い。噛まれるなよ」「信頼できるお医者さんがいるから平気」「確かに、ここにいる人間の大半は医師免許を持ってる」「そうじゃないよ」ルカはにっと笑い、レインを指さした。「俺は元軍医ってだけだ。信頼に値しない」「前から不思議に思ってたんだけど、レインって、他人には優しいくせに、自分のことはそうやって決めつけるよね」「事実だからな」「それ、口癖?」「かもな」「じゃあ、それでいいよ」ルカはオフィスのドアを開け、思いついたように振り返った。「いつか僕が証明するよ。レインが最高の医者だって」レインは椅子を後ろへ引き、ルカを見据えた。「……それだけは断る」「どうしてさ」「お前に何かあるってことだろ」そんなことも分からないのかと、呆れたように答える。ルカはますます笑みを深くした。「分かってるよ。それ以外の方法で、僕にしかできないことを探すんだ」楽しげにそう言うと、ルカは後ろ手にドアを閉めた。すぐに、跳ねるような軽い足音が遠ざかっていく。レインの自己否定は、深く根を張っている。任務終了後は名誉除隊となり、心身の治療もすぐに始められた。だが、どれも思うようにはいかなかった。あの戦場での経験を、誰かに語るつもりはない。ましてや、ルカに聞かせるなど、もってのほかだった。ルカといるときに感じる解放感。未来を照らすような、彼の言葉や振る舞い。絶対に失いたくなかった。悪影響というものは伝わるのが早く、しかも質が悪い。レインはそれを自覚し、少なくともルカの前では、自分を否定する言葉を口にしないと決めた。とはいえ、染みついた自虐的な態度が、すぐに消えるはずもない。それを少しずつ、冗談に変えていけたなら。あるいはいつか、永遠に消えてしまうかもしれない。レインは胸元にそっと手を置いた。そこに芽生えた、かすかな温かさを守りたかった。いつものように否定してしまわないよう、自分を律する。——ここに留まってくれ。そう祈るように。