第30話 幽霊探知機とキス
第30話 幽霊探知機とキス
ルカが戻ってきたのは、きっかり十五分後だった。 ノックのあと、返事を待たずにドアから顔だけを覗かせる。「ただいま」「おかえり」レインはパソコンの画面から目を離さずに答えた。通常ならば返事を待たれなかったことに若干の落胆を覚えるが、ルカの場合のそれはレインに真逆の感覚を与えた。 他人行儀でないことが、心地よさを与えてくれる。ルカは部屋に入り、静かにドアを閉める。先ほどまでの軽い足取りとは違い、何かを考え込んでいるようだった。「どうだった」「今日も何も聞こえなかった」「そうか」「ハムたちは元気そうだったよ。何匹か寝てた。僕が近づいたら起きちゃったけど」「昼行性じゃないからな。昼間に眠っているのは正常だ」「分かってる。だから、なるべく静かにしてた」レインはそこで画面から視線を上げた。目を見開き、大げさにルカの頭からつま先まで見渡して見せる。「噛まれなかったか」「大丈夫。素手で触らなかったよ。信頼できるお医者さんの言いつけだから」「それは賢明だ」「でも、少し気になることがある」ルカはソファへ戻りながら言った。「寝てないやつって、すぐ見分けられるの?」「観察だけで断定はできない。活動量、休止時間、巣に戻った回数なんかを、記録と照らし合わせて判断する」「昼間に起きてる時間が長いほど変だってこと?」「単純化すれば、そうだ。あの飼育部屋の照明はタイマーで管理されているし、餌の時間も量もほぼ固定だ。全個体が同じ条件の生活リズムを送っていると言える。その中で異常行動を起こす子がいれば、観察の対象としてよいだろうね」ルカはゆっくり頷いた。 それ以上は尋ねなかったが、完全に疑問が解消された顔ではなかった。 遠慮がちな視線が、レインに向けられている。レインは、ルカの心配がハムスターだけに向けられているのではないと気付いていたが、どうにかなるものでもない。 今すぐここで歌って俺を眠らせてくれ、など言える状態ではない。勤務中だ。「コーヒーにするか」レインは椅子から立ち上がった。 ルカが顔を上げる。「カフェ?」「ああ。空のカップを眺めていても、中身は増えない」「学者らしくない発言だ。珍しい」「では、再現性のある方法で補充しに行くぞ」「了解」二人は並んでオフィスを出た。 大学のカフェは、午後の講義中で空いていた。ガラスケースには数種類の焼き菓子が残り、エスプレッソマシンの低い音だけが店内に響いている。レインはブラックコーヒーを、ルカはカプチーノを注文した。「クッキーでも食べるか? 今夜も遅くなる」レインが尋ねる。「いらない。今日は十分甘いものをもらったから」「唐揚げ定食に甘味はなかったはずだが」「……そういうところだよ」ルカは少しだけ不満気だが、詳しく説明するつもりはないらしい。 紙カップを受け取り、二人は再びオフィスへ戻った。レインがパソコンの前へ座ると、ルカはカプチーノをローテーブルに置き、バックパックのファスナーを開いた。 中から出てきたのは、小ぶりなウクレレだった。「わざわざ持ってきてたのか」「うん。僕は読書よりこっち。待ち時間にちょうどいいと思って」ルカは楽器を膝に載せ、弦を軽く弾いた。明るく乾いた音が、書籍に囲まれた部屋へ柔らかく広がる。「今更だけど、弾いてもいい?」「構わない。大きな音でなければな」「邪魔になったら言って」ルカはペグをわずかに回し、音を確かめる。 それから、低く穏やかな旋律を弾き始めた。 ウクレレから連想される陽気さとは違う。音数を抑えた、ゆっくりとした曲だった。親指で弦をなぞるたび、小さな音が生まれ、書架に並ぶ本の間に静かに吸い込まれていく。レインは論文が映し出されたパソコンの画面へ視線を戻した。 邪魔ではなかった。むしろ、思考の隙間を埋めるのにちょうどいい。 キーボードを打つ音と、ウクレレの柔らかなリズム。時折、ルカがカプチーノを飲む気配。 他人と同じ部屋にいながら、それぞれ別のことをして、別の音を発している。 それが不思議なほど心地よかった。レインは文章を一行書き直し、次の段落へ進んだ。思考が滑らかになり、指の動きがそれに追随する。 文章がルカの音に沿うように紡がれてゆくのが、なんとも心地が良かった。しばらくして、その旋律に声が重なった。 ルカは歌っているつもりではなかったのだろう。歌詞にもならない音を、低く、息に混ぜるように口ずさんでいる。 途端に、レインの指が鈍る。 意識の奥が、ゆっくりと沈み始める。 文字を追っていたはずの目が、同じ一行を何度も辿った。「……ルカ」演奏が止まる。 深い低音で名が囁かれ、ルカの背筋にぞくりとした痺れが走った。「なに?」「歌はまずい」ルカが目を瞬く。「僕、歌ってた?」「ああ。勤務中に寝るわけにはいかない」数秒の沈黙のあと、ルカが吹き出した。「まだ夕方だよ」「時刻の問題じゃない。きみの歌は、俺の脳に効きすぎるんだ」「そんな強制力ある?」「ある」「そっか……ごめん。無意識だった」「謝らないでくれ。俺が勝手にそうなるんだから」「うん、わかった。ウクレレはいい?」「それだけなら、ちょうどいい」「了解。歌唱は禁止、と」「少なくとも勤務時間中はな」ルカは口元を緩めた。「勤務時間外ならいいんだ?」レインは一瞬、返答に詰まった。 ルカは何も知らない顔で、ウクレレの弦に指を戻している。「……質問が多い」「答えてくれないからだよ」「キリがない」「最後の質問にするからちゃんと答えて。勤務時間外なら歌っても——」レインは椅子を引いた。 脚が床を擦る低い音に、ルカの指が弦の上で止まる。レインは机を回り込み、ローテーブルとの狭い隙間へ入った。数歩にも満たない距離だった。 それでも、近づくたびにルカの表情がわずかに変わっていくのが見えた。軽口を叩いていた口元から笑みが薄れ、代わりに、期待とも警戒ともつかない色が瞳に浮かぶ。ウクレレを抱えたまま、ルカは大きな身体を見上げた。「……なに?」声が、少しだけ小さい。 それでも、まだ問いを重ねるつもりらしい。レインはソファの前で足を止める。 座ったままのルカとの高低差が、思った以上に大きかった。レインの影が膝の上のウクレレを覆い、次いで、ルカの胸元から顔へゆっくりと昇っていく。 ルカの喉が、小さく動いた。レインの視線はそこを追い、それから、わずかに開いた唇へ落ちた。 昼間、自分を眠らせかけた声を生む口。 際限なく問いを寄越し、平然と懐へ入り込んでくる口。 触れれば静かになるだろうかと考えた。 おそらく、ならない。分かっていながら、レインは片手をソファの背に置いた。逃げ道を塞ぐためではない。だが、ルカを包み込むには十分な近さだった。「質問が多いと言っただろ」低く告げると、その声が二人の間だけに落ちた。 ルカの唇が、かすかに緩む。「だって、答えてくれないから——」最後まで言わせなかった。レインはウクレレに触れないよう、ゆっくりと身を屈める。 ルカは逃げなかった。むしろ、近づく顔を追うように顎を上げた。 その仕草に、レインの呼吸が一度だけ止まる。頬へ手を添えれば、ルカの体温が掌に移った。指を顎の線に沿わせ、親指で口元をかすめる。 ルカの睫毛が震えた。 視線は合ったままだった。 あと少しで触れる距離になっても、どちらも目を閉じない。互いの息が唇にかかる。「レイン……」名を呼ぶ声が、柔らかい。レインは指先でルカの顎を持ち上げ、唇を塞いだ。 触れたのは、ほんの一瞬だった。 それなのに離れたあと、ルカはウクレレを抱えたまま固まり、レインもまた、すぐには元の姿勢へ戻れなかった。 近すぎる距離で、互いの息が触れる。「……は、初めてだ、ね?」ルカが呟く。「ん?」「レインから、キスしてくれたの……」「そうだったか」レインは何事もなかったように言った。 耳の奥に熱さを抑え込む。「質問攻めを止めただけだ」「……勤務時間外なら歌っていいって意味?」「他に何の意味がある?」レインはデスクへ戻り、パソコンに向き直った。 「キスが返事代わりなら、もっと質問するけど?」どう受け取ったのか、ルカは拗ねたような口調だ。しかし再び、穏やかな旋律を奏で始める。 今度は歌声を伴わない。レインは論文へ視線を戻したが、しばらく同じ一行から先へ進めなかった。 仕事には静かな方がいい。 それでも、背後でルカが笑いを噛み殺している気配は、音楽よりよほど集中を乱した。◆ ◆ ◆夜の研究棟は、昼間とは別の建物のようだった。 照明の落とされた廊下に、非常灯の緑色が点々と浮かんでいる。人の気配は少なく、空調設備の低い振動が床から伝わってきた。ルカは、電磁応用研究室へ入った。レインは咄嗟に腕時計を確認する。 スタンリーが待機中であり、装置を稼働させていることは事前に打ち合わせ済みだ。 前回と同じ条件。 出力も、設定時間も変えていない。「どうだ」「うん、前回と同じ音だと思う。ほんと、こんな騒音の中でよく平気でいられるよ」ルカの軽口に、スタンリーは肩を竦めて、自嘲する。「スタンリー、出力を上げてくれ。ハムスターは外してあるな?」「ええ、実験はこの後でやります。では、最大出力でいいですか」「ああ」レインの応答から、数秒も経たなかった。 若き音楽家は両手で耳を塞ぎ、装置から距離を取る。「ルカ」「大丈夫」そう答える声には、明らかな苦痛が滲んでいる。レインはルカの腕を取り、廊下へ連れ出した。 ドアを閉める。「どの程度だ」ルカは耳から手を離し、何度か瞬きをした。「昼間とは全然違う。すごく大きい。前回よりも」眉間に皺を寄せる。「痛みがあるのか?」「少し。音っていうより、頭の内側を細いもので引っ掻かれてる感じ」「吐き気、めまいは?」「ないよ。本当に大丈夫」レインは返事を鵜呑みにせず、ルカの正面に立った。「俺の指を見ろ」片手を目の高さまで上げ、左右へゆっくり動かす。ルカの視線が遅れず追従するのを確かめてから、今度は顔を近づけ、左右の瞳孔を見比べた。 大きさに差はない。光への反応も正常だ。「耳鳴りは。音が籠もる感じや、片側だけ聞こえにくい感じはないか」「ない。もう普通に聞こえてる」ルカの手首を取り、橈骨動脈に指を当てる。脈はやや速いが、乱れてはいない。呼吸も落ち着きつつある。 顔色に異常はなく、冷汗もない。受け答えも明瞭だった。「立っていられるか」「ほら」ルカは両手を広げてみせる。 レインは肩に手を添え、ふらつきがないことを確かめた。 少なくとも、急性の神経症状や平衡感覚の異常は見られない。 それでも、レインはすぐには手を離さなかった。「耳の痛みや聞こえ方の変化が出たら、すぐ言え」「分かった」「明日、聴力を確認する」「そこまで?」「念のためだ」有無を言わせない声だった。「今夜はもうラボに入る必要はない」「あんな一瞬で……再現性の方はどうなの?」「十分だ」「でも、ほんの少しなら、もう一回——」「駄目だ」低い声に、ルカが口を閉じる。 レインは自分の手が、まだルカの腕を掴んでいることに気づいた。ゆっくりと力を緩める。「きみの耳を壊してまで得る価値のあるデータじゃない」「そんな、大げさだよ」「いや、俺の想像力が欠けていた。自分たちに聞こえないからといって、きみへの影響を低くみていた。すまない」「平気だって。心配性な先生だなあ」「そうじゃない。きみの耳が特別だからだ。……分かってくれ」まるで懇願するかのような悲痛なレインの声が廊下に響き、ルカは素直に頷いた。レインはオフィスの扉を開き、ルカを先に通す。「少し横になってろ」ソファを指さしてそう言い、自分はパソコンに向かった。 これまで集めたログを次々と表示させる。ルカの耳は、昼夜で明らかに異なる反応を示した。 昼間、ルカがハムスターの飼育室にいた時間帯、装置の稼働ログは出力ゼロを示していた。だが、同じ時間帯、このフロアだけ消費電力が不自然に上昇している。 何かが電力を使っていた。 それにもかかわらず、室内にいたルカは、装置の稼働音を感知しなかった。一方、夜間にスタンリーが出力を最大まで上げたとき、ルカは耐えきれず耳を塞いだ。その反応と同時に、装置のログも正しく最大出力を記録している。 少なくとも、装置そのものが常に故障しているわけではない。 仮に、一時的な記録障害が起きていたのだとしても、同じ異常が何度も重なるとは考えにくい。まして、ログを学部長に提出したのは高周波曝露装置の管理者であるショウだ。 装置に不具合があると知りながら、それを黙認してデータを渡したとなれば、後々に管理責任を問われかねない。 彼がそのようなリスクを負う男だとは考えにくい。では、何が起きている。 装置の最大出力による高周波が、スタンリー、ダニエル、アリサの実験結果に影響した——その仮説自体が誤っているのか。 最初から、装置は稼働していなかったのか。 それとも。 装置は動いている。 電力も消費している。 だが、ルカには聞こえていない。そこまで考えたところで、レインは眉間を押さえた。 そもそも、自分はなぜショウを疑っている。 自分の仮説とルカの聴覚が矛盾しているのは確かだ。 最初から、疑うべき相手を決めてしまっているだけなのか。 自分の見当違いを認められない愚か者ということか——「3回目は取り止める」言い切ったレインに、ルカは目をぱちくりとさせた。「今夜で僕の役目は終わりってこと?」「ああ、十分だ」「役に立った?」「とても」レインは迷わず答えた。「きみでなければ、できなかった」ルカの表情が明るくなる。 それから照れを隠すように耳を触った。「でも、どうやって僕の耳の反応を証明するの?」正しい疑問だった。 レインは即答を避け、ルカの背景にある壁のあたりに視線を移した。 第三者にとっては、ルカの申告と装置の稼働ログの一致は当然のことだ。ログが装置の未稼働を示す時間とルカの聴覚に反応がないなど、当たり前と言えることを学部の会議に持ち出したりすれば、レインの認知能力を疑われかねない。他のラボから収集した各装置の稼働ログ、消費電力の変移を示すログ、レインの学生たちから上がってきた実験結果の異常値、そしてルカの聴覚。 すべてが整って初めて、意味が出てくる。 だが、今夜のようにルカを、最大出力にした高周波曝露装置の前にさらして苦痛を味あわせるなど到底できない。 扱うべき記録は多いが、互いの関係が見えにくい。 それにルカになんらかの計測装置を取り付けて反応を出力したわけでもない。脳波に出るとも分からない。「何か考えてる顔だ」レインは目線をルカに戻す。「明日、聴力検査をさせてくれ」「それはさっき聞いたよ」「いや、ダメージを受けていないかを検査するつもりだったが、それに加えてきみの聴覚を詳しく調べたい。拡張高周波聴力検査ができるか、病院の方に掛け合ってくる。少しここで待っていてくれ」まもなくしてレインがオフィスに戻る。 ルカの隣に腰を下ろすと、廊下の微かな薬品臭とレインの香りが混ざった空気がルカを包み込む。レモングラスに似た、爽やかで清潔な匂いだ。「ルカ、明日の午後2時から検査開始だ。都合も聞かずにすまないが、どうだろう」ルカは反射的に自分のスマートフォンをポケットから取り出し、カレンダーアプリを起動する。「いいよ。金曜はヒューゴが店に立つから、バイトも無いし」「休みなのか?」「そ。ヒューゴが片思いしている相手が、毎週金曜日の夜に食事に来るんだ。だからヒューゴは仕入れから張り切って、全部自分で用意してる。だから金曜のランチも自然といい材料になって、いつもより凝ったものが多い」「透だろ。この話、俺はずっと聞き続けてる」「あはは、そっか。そうだよね。でさ、ランチが異様に豪華なことに気がついている常連さんも居て、金曜はお客さんがちょっと増えるんだ。でもヒューゴは独りでいいって」「なんのこだわりなんだか」「たぶん、待ってるんだよ。待つ時間が楽しいんだと思う」「へぇ?」「詳しくは知らないけどさ、来ることを知っているのが何よりも幸せだって言ってた」「……なるほど」レインの脳裏に、高校時代のヒューゴが鮮明に蘇る。ヒューゴが恋に落ちたのは十三年前、日本に留学中のことだ。声を掛けることもできず、相手の名前も知らないまま帰国し、一度は諦めていた。 その人物が、再び日本に戻り、カフェバーを開いたヒューゴの前にふらりと現れたのだ。あの時のヒューゴの動揺と興奮を思い出し、レインは口角を上げた。 もう二度と会えないと覚悟していた人と再会し、小さな約束を積み重ねてゆくことに喜びを感じている親友。 「だから、金曜日は空いてる。夜はステージがあるけどね」「そう言えば先週は休みだったな」「あんなパーティの後じゃ、誰も働きたくないよ。で、その検査って演奏に影響しないよね?」「しない。通常の聴力検査と同じように幾つかの音を聞くだけ。十五分程度で済むだろう」「OK、ステージ、見に来るんだろ?」「ああ。……たぶん」「たぶん?」ルカが片眉を挙げて、隣に座っているレインを怪訝そうに覗き込む。「こないだ約束したと思ったんだけど。来れるって」「金曜の夜、ヒューゴの店で人と会うことになっている」「そっか……」「データの見せ方が問題なんだ」突然飛躍したレインの言葉に、ルカが大きく首を横に傾ける。「見せ方? 話が見えないんだけど?」「透の職場に凄腕のエンジニアがいるらしい。ヒューゴの計らいでね、引き合わせてくれることになっている」「調査中の件でアドバイスをもらうってこと?」「そうだ。ほんの顔合わせのつもりだったが、旨いものが食えるかもしれないな」「じゃ、終わったら来て。客がいる限り演ってるから」半ば懇願するような目で見上げられ、レインの目尻が下がる。そもそも、はなから行くつもりだ。「……分かったよ。約束する」「でも、さっき言ってた見せ方って?」「俺が今やっているデータの発掘作業——収集済みの各種ログ、実験データ。これらを全部統合して、誰が見ても『何かがおかしい』とわかるように可視化する必要がある。数字を並べるだけじゃ駄目だ。装置がどう動いていたのか、それが動物の行動とどう重なるのか。専門外の人間にも理解できる形にする必要がある」「分かりやすく翻訳するってこと?」「そうだ。いい表現だな」「音楽も同じだよ。頭の中にあるものを、そのまま他人に渡すことはできないから」レインは、すぅっとルカの瞳を見据える。「君の聴覚は、これらのデータの中で最も重要なキーとなるだろう。検査の結果を使用しても構わないだろうか。もちろん、匿名性は守る」「喜んで。自由に使ってくれていいよ」ルカは笑顔で即答した。 研究も音楽も、存在するだけでは伝わらない。 他者が受け取れる形へ変換しなければならない。「……翻訳か」レインは小さく呟いた。◆ ◆ ◆金曜の夜、ヒューゴの店は週末の客で賑わっていた。 グラスの触れ合う音と、低く重なる話し声。厨房からはバターと香草の香ばしい匂いが流れてくる。レインが入ると、カウンターにいた透が立ち上がった。 ドアベルが鳴らなかったので、不意を突かれたに違いない。アーモンド型の瞳が一瞬大きく見開かれたが、すぐに柔らかくカーブを描く。「こんばんは、レイン先生」その隣に座っていた男も、静かに立つ。 黒に近い髪、深い緑の瞳。東欧の血を思わせる彫りの深さと、日本人らしい端正さが、精密な均衡で同居している。 白いシャツの袖は肘まで捲られ、露出した前腕には、パソコンに向かいっきりの職業からは想像しにくい筋肉の線が走っていた。レインよりは低いが十分に長身で、肩から胸にかけての厚みは衣服では隠しきれない。 対するレインは、二メートル近い長身と、軍医として実用的に鍛えられた巨躯を持つ。荒削りな顔立ちと淡い髪色は、古い北方の戦士を思わせた。 並んだ二人へ、近くの客が一瞬だけ視線を向ける。「こちらが音川さん。僕の会社の技術責任者」「クバでいい」差し出された手の指は角張っていて長い。 握ると掌は硬く、握力も強い。トレーニングを欠かさないに違いないが、見せるための身体ではないことが、触れただけで分かった。「レイニエルだ。レインと呼んでくれ」「日本語でいいんだな。公開済みの論文は全て英語だったから」「こっちに拠点を移したばかりでね。それに、喋れはするが書けない漢字は山程ある。おとか……クバは? 初見で失礼ながら、東欧系かと」「さすが。母がポーランド出身だが俺は生まれも育ちも日本だ。向こうには何年か居た程度」レインは軽く頷き、音川の瞳を束の間見つめた。 澄んだ緑に、知性の輝きが宿っている。「さて……、今日は時間を取ってもらって助かる」「概要は彼らに聞いた」音川は一瞬ヒューゴと透に視線を向けた。「なら、話が早い」ヒューゴは「向こうに席を作ってある」と裏庭を示し、すぐカウンターへ戻っていった。 ランタンの灯りにぼんやりとガーデンテーブルが浮かび上がっている。音川がグラスとラップトップが入ったスリーブを手にして移動を始め、レインはヒューゴから黒ビールのボトルを受け取り後を追う。 庭へ続く通用口のドアを押し開ける。 ほんの少しの湿度を含んだ風が、ざぁっとミントの群生を爽やかに揺らす。レインはその端に空の素焼きのポットを見つけ、無意識に微笑んでいた。 トマトに向かって歌っていたルカの無邪気さと輝く頬。 彼は音楽が植物に効くと鵜呑みにしていたわけじゃない。もし何か効果があれば面白いという好奇心からの実験だった。ガーデンチェアを引き、レインは音川の向かいに座る。 持参したパソコンを両者から見えるように垂直に置いた。 音川の手元にも端末があることから、何か準備をしてきてくれたのだろうとレインは予測するが、先にこちらの状況を伝えるのが順序だろう。最初に示したのは、研究棟各階の消費電力ログだった。 次に、高周波刺激装置の稼働記録。 さらに、スタンリー、ダニエル、アリサの実験日時と、睡眠時間、活動量、体温に現れた異常値を重ねる。 最後に、仮の聴力検査結果を表示した。現時点では一般的な二十代男性のモデルデータを用いておく。本データは金曜の午後にルカから得られる予定だ。音川は途中で口を挟まず、画面を追っていた。「この三名の実験で、通常では説明しにくい変化が出ている」レインは装置のログを拡大した。「異常が観測された時間帯には、隣接する研究室の装置が最大出力で稼働していた可能性がある。だが、稼働ログと消費電力が一致しない」「ここか」音川が一点を示す。「そうだ。装置のログは出力ゼロを示している。だが、同じ時間帯、このフロアだけ消費電力が上昇している」「他の設備では説明できない?」「建物全体の消費電力だけだ。しかし、空調、冷却設備、待機電力、別の実験機器が稼働しているため関連性を主張するには弱いんだ」レインは聴力検査結果へ切り替えた。「これは仮データだ。明日以降、ある人物の聴力検査の結果が手に入る。彼は……装置が最大出力になったとき、耳を塞いだ人物だ」「そんな爆音の中で実験してんのか」「いや、俺や学生たちには聞こえない。慣れはあるが、雑音程度だ。正確には、彼だけが装置の稼働音を聞き分けることができる」音川が目を見開いた。 レインは軽く頷き、続ける。「彼が耳を塞いだその瞬間、当該装置は最大出力に設定され、稼働ログも正しく出力値を示していた」「なるほどな。だが、ログがゼロだった時間帯には音は聴こえていなかった。うん……特定の時間帯で装置ログと音とが一致する場合としない場合があるが……建物の消費電力ログと装置ログと音は一致している、と」そう言うと音川は、テーブルに肩肘をつき、曲げた人差し指を下唇に押し当てたままで黙り込んだ。 レインは無言でビールを煽り、見るともなしに画面に視線を固定する。言葉が正確で無駄がない、沈黙を埋めない、視線も距離感も安定している、自分を良く見せようとしない。 レインはすでに音川を、信頼できる人物だと確信した。そして、音川の理解は早かった。学部の職員が皆このレベルであればよいが、そうはいかないだろう。頭脳の問題ではなく、固定観念や学部政治が邪魔をする。 本質のみを純粋に追求することができる研究者は意外と少ないのだ。手元のボトルが空になりそうなタイミングで、音川が口を開く。「ゴーストバスターズ」唐突な言葉に、レインは眉をひそめた。「レイン、これは幽霊を探すようなものだ。監視カメラには誰も映っていないのに、床には足跡が残っている」音川は消費電力のグラフを示した。「装置ログが映像なら、これは足跡だ。記録の上では存在しない何かが、確かに電力を消費している」次に、学生たちの異常値へ視線を移す。「そして、こちらは現場に残った傷だ」「そうなると、ルカ……音を聞き分けた人物だ。彼はどうなる?」音川は鼻で笑った。「幽霊探知機に決まってる」「探知機?」「幽霊そのものを記録する機能はない。何に反応したのかも、彼の反応だけでは証明できない」音川は、仮の聴力検査結果を指した。「だが、何もないはずの場所で反応する。その反応が、床の足跡に目を向けさせる」レインは画面を見つめた。「……証拠ではないが、調べる理由にはなるということだな?」「そうだ。探知機が鳴ったから幽霊がいる、と結論づけることはできない。だが、鳴った場所を調べた結果、足跡と傷が見つかったなら、無視はできない」音川は装置ログの空白を示した。「映像には映らない。記録にも残らない。それでも電力を消費し、学生たちの実験に痕跡を残している」「ログに存在しない稼働」「ああ」音川は静かに頷いた。「レイン、キミが第三者に示したいのは、幽霊の存在そのものじゃない。探知機が反応した場所に、説明できない足跡と傷が残っていることだ」レインはゆっくり頷いた。「学生たちの異常値が重なっている時刻に、まず幽霊が通った可能性を示す」音川は新しい時間軸を開いた。「そのあとで、そいつが何を壊したのかを示せばいい。必要なのは、原因を描く図ではない。矛盾が発生した場所を見せる構造だ」「ルカの聴力検査の結果は明日渡せる」「本人は了承済みなんだな?」「もちろんだ」音川はレインのパソコンをやや自分の方に向け、表示されている時間軸の横に細い帯を作った。「幽霊探知機は別のレイヤーに置く。聞こえた、聞こえなかった、耐えられなかった。これらは感覚ではあるが、生のデータだろ。それぞれに時刻、場所、距離、遮蔽物、装置ログ、消費電力を紐づける」「聴力検査の結果は別か?」「ああ。基礎特性として別に示す。彼の証言を検討する価値がある理由になる」音川の頭の中ではすでに、見せるべきものを作る手段が組み上がっていた。 装置が記録したこと。 電力が示したこと。 動物に起きた変化。 学生が行った操作。 そして、探知機となったルカが聞いたもの。 すべてが独立しながらも時系列に並ぶことができる、一つの時間軸を作成する。 そして、そこには一致も不一致もすべて含ませる。「週明けに大学まで見せにいくよ」「ずいぶん仕事が早いんだな」意外そうな顔をしているレインに、音川の口元がごくわずかに緩んだ。「正しいものを認めるのに、時間をかける理由はない」「助かるよ。学生たちにも説明したい」レインは心底そう思った。 音川は澄ました顔で頷いた。まるで当然だろと言わんばかりだ。「ルカ本人にも会えるのか」その名前が音川から発せられた瞬間、レインの表情がわずかに引き締まった。「面談の目的は?」とっさに出た言葉に、レインは自分自身に内心で舌打ちをした。音川は知人として誇れる人物に違いない。ルカに引き合わせようと、問題はないはずだ。 しかし、胸に嫌な苦味が広がる。「並外れた聴力の持ち主なんだろ」レインの脳裏に、ルカが音を説明するときの顔が浮かんだ。 「ああ。音を聞き分け、異常を認識し、それを言葉にできる」「それは、聴力閾値とは別の能力だな」「ルカには……表現者としての天性がある。おそらく音楽家として幼い頃から訓練を受けているのもあるだろう」「ふーん」と音川は喉の奥で相槌を打つ。「興味本位、というわけじゃないんだ」レインは黙って続きを促した。「今、精神科医と共同で、IT従事者に特化したカウンセリングAIを開発している」「カウンセリングAI?」「仕事上の孤立、燃え尽き、睡眠障害。人間の相談員へ連絡する前の段階で、状態の悪化を拾うためのものだ」音川はグラスに指先を添えた。「言語認識の精度は、かなり上がった。何を話したか。どんな言葉を選んだか。文脈の矛盾や、過去の発言との変化も追える」「なら、問題は何だ」「音の聞き分けだ。相談者を安心させる声の高さ、速さ、間の取り方。そういうものを生成する技術はある。だが、人間の声から心情を読む方は、まだ言葉ほど単純ではない」レインは音川を見た。「感情認識か」「それだけじゃない」音川は首を振った。「悲しそうな声を悲しいと判定する程度ならできる。問題は、本人が隠したときだ」音川の声は低く、とても静かだった。レインはそこに、救う側の人間だけが持つ、ある種固有の落ち着きを感じ取った。「つらい人間が、わざと明るく喋ることがある。笑いながら『大丈夫です』と言う。言葉も声の調子も表面上は前向きだ。AIはそれを、そのまま受け取ることがある」「人間なら分かると?」「必ずではない。だが、同じ言語と文化を共有する人間なら、ピンとくることがある」音川は少し考え、言葉を選んだ。「笑う場所がわずかに違う。息を吸うまでの間が長い。語尾だけが不自然に軽い。母語話者なら意味として学んでいなくても、何かがおかしいと感じる」「無意識に拾っている情報か」「ああ」「それをプログラムに落とし込みたいんだな?」「最終的には。でもまずは、人間が何を拾っているのかを知りたい」音川は仮の聴力検査結果データへ目を向けた。「ルカは、音の違いを認識して、それを言葉にできるとキミは言った」「そうだ」レインの答えには迷いがなかった。「同じ音でも、ざらついている、奥に別の音がある、距離が違う。彼はそういう区別をする」「それが知りたい」音川の目に、エンジニアらしい鋭い関心が浮かんだ。「音響特徴量なら機械でも取れる。基本周波数、強度、話速、休止時間、揺らぎ。だが、数値のどの組み合わせを人間が『無理に明るく振る舞っている』と感じるのかは、まだ十分に分解できていないんだ」「ルカなら分かると思うのか」「分からない」音川は即答した。「だから会いたい。彼が人の声にも同じような聞き分けをするのか。それとも、機械音と音楽に限られた能力なのか。本人に聞かずに決めるつもりはない」レインはしばらく黙っていた。 音川の関心は疑いようのない本物だ。 だが、純粋な関心は、ときに生物を研究対象へ変える。モルモットのように。「ルカは、AIを改善するためのサンプルではない」静かな声だった。 威圧してはいない。 ただ、越えてはならない線を示していた。「分かっている」音川も表情を変えなかった。「検査をさせたいわけじゃない。話を聞きたいだけ」「協力するかどうかはルカ次第だ。どういった話かは、先に説明してやってくれ。週明けに大学にこられるよう手配しておく」音川は頷いた。レインは再び画面へ視線を戻した。「ただし、一つ言っておく」「何だ」「ルカは音楽家だ。聴力を実験に活用することより、自分の音を探す方が重要な男だ」レインの声には、本人以上にその価値を信じているような確かさがあった。 音川は一瞬だけ目を細めた。「覚えておくよ」「ならいい」短い返事だった。 だが音川には、レインがルカを守ろうとしているだけではないことが分かった。 彼の能力ではなく、彼が何者であるかを守ろうとしている。 それは、音川がAIを作るときに最も失いたくないものと、よく似ていた。 人間を理解するための技術が、人間を一つの機能へ縮めてはならない。そこに、ヒューゴがトレイを片手に庭に出てきた。「話はまとまった?」「概ね」レインが答える。「この後、どうする? 僕たちは朝までここにいるけど」ヒューゴは店内を振り返る。 その視線の先には、透がカウンターでニッコリと微笑んでいる。 金曜の夜は、朝まで透と飲むのが習慣なのだ。 それは今のヒューゴにとって、文字通り生き甲斐となっている。「俺はこの後、クリスんとこ」レインはヒューゴを見ることもなく簡潔に答えるとボトルをあおる。「ほーう」と片眉を上げて、ヒューゴがわざわざレインを覗き込んだ。「意地を張るのを止めたんだ?」「なんの意地だよ」「僕とここで不毛な会話をするより、早く行ってやれ。クバ、グラス持ってくぞ」それだけ言って、彼はガーデンテーブルの上を片付けると再びカウンターへ戻っていった。「今夜なんかあんの?あんなガイジンが集まる店にわざわざ行くタイプには見えないが」音川はラップトップを仕舞いながら、世間話のような口調で尋ねた。「ルカがステージに立つ。毎週金曜日のレギュラーだ」「なんだよ、じゃあ今からでも会えるんじゃねえか」「だめだ」「は?」「だめ」レインが頑なになるほどに、音川の頬は緩んでゆく。「さては……心配なんだろ?」「……何がだ」「ルカを奪おうって気なんかさらさらねぇよ」一拍、沈黙が落ちた。 レインはゆっくりと椅子へ背を預けた。「誰がそんな話をした」「顔見りゃわかる。医者にしちゃポーカーフェイスが下手だな」「……いい友人になれると思ったんだが、俺の早とちりだったようだ」ハハ、と音川は笑い飛ばす。「大切にしているんだな」「ああ」レインは否定しなかった。 音川はからかうことなく、その言葉を事実として受け取った。「じゃ、週明けに大学で」「ああ。頼む」生体を読む研究者と、構造を読むエンジニアが、一枚の図の輪郭を作り始めていた。 聞こえない音を、見える形へ変えるために。