LNCrawler

第31話 雨

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第31話 雨

金曜の夜の駅前は、まだ帰宅する人間とこれから遊びに出る人間が入り混じっていた。クリスの店は、大通りから一本入った場所にある。外観だけなら、英国の古いパブを模した落ち着いた店に見えた。濃い木製の扉、真鍮の取っ手、窓に描かれた金色の店名。どことなくヒューゴの店に似た雰囲気を感じ、レインは、同じデザイナーによるものかもしれないなとぼんやり考える。だが、扉を開ければ印象は変わる。長いカウンターの奥には酒瓶が壁一面に並び、照明はろうそくのみ。白い漆喰と黒い梁の間を、ジャズのウッドベースがゆるやかに満たしている。ルカの音だ。演奏する楽器が違えど、明確に分かる。店内は程々に混み合っていた。仕立てのいいスーツを着た男。撮影帰りらしい長身のモデル。英語とフランス語が混じる笑い声。親密な距離で肩を寄せ合う男たち。ブリティッシュパブというより、上品に酒を飲めるクラブに近い。レインが店へ入ると、数人の視線が一斉に向いた。長身と、厚い肩。暗いシャツの袖から覗く腕には、古い傷が走っている。この店では見慣れない種類の男に映るのだろう。視線には好奇心だけでなく、明らかな値踏みも含まれていたが、レインは気に留めなかった。目的は一つしかない。店の奥、暗い照明に照らされたステージに目線を送った瞬間にルカと目が合う。先にレインを捉えていたのだろう。それだけで、胸の奥にあった妙な違和感が緩んだ。レインはカウンターの端へ向かった。「ようやく顔を見せたな」キツいオーストラリア訛りで声をかけてきたのは、カウンターの内側に立つ大柄な男だった。伸ばした金髪の髭をバイキングのように三つ編みにしている。見た目の割りに目尻の皺が深いのは、よく笑うからだろう。「キース、だったな」「さすが先生だ。覚えていてくれて光栄だよ」「患者の名前は忘れない」無表情で返したレインに、キースが吹き出す。「俺のどこが病人だって?そっちのほうが疲れた顔してるくせによ」キースは楽しそうに言い、グラスへ琥珀色の酒を注いだ。「これは?」「俺の見立て」「客の好みは無視か。ずいぶん乱暴なバーテンダーだ」レインはグラスを持ち上げ、一口だけ含んだ。強い香りのあとに、果実と煙の味が広がる。確かにうまい。「どうだ」「腹立たしいが、悪くない」「ヒューゴと同じ褒め方すんのな」キースは満足そうに笑い、別の客へ呼ばれて離れていった。レインはカウンターの端に立ったまま店内を見渡した。演奏が途切れる。ボーカルがステージ袖から下り、続いてバンドがそれぞれの楽器を傍らに置く。小休止だ。ルカはウッドベースを丁寧に拭き終えると、ステージからカウンターに一直線に向かってきた。客席の空気が変わった。何人かが自然に振り返る。ルカはそれに慣れている様子で、カウンターにいるクリスへ手を上げると、レインに向かってくる。黒いジャケットの下には柔らかな白いシャツを着ていた。長めの前髪は軽く後ろに流され、整えられている。「遅くなった」「ゲスト用のテーブル席、使う?」「いや、立っている方が楽だ。ありがとう」「目立つよ?ナンパされるかも」ルカは笑い、レインの前にあるグラスを覗き込んだ。そしてそのまま持ち上げ、レインに断らずに一口飲む。「これ、キースに選ばれた?」「ああ」「じゃあ気に入られたんだ」「そういうシステムなのか」「たぶん」短い会話だった。「後半の準備してくる。何かリクエスト、ある?」レインは喉の奥で唸る。音楽には明るくないが好きな曲と呼べるのは幾つかあった。しかし。「歌うのか」「それもリクエスト次第かな。どうする?」「あの曲がいい。海で一緒にいた時にきみが……」「そっか。あの曲ならリクエストされなくても、ラストに演ることになってるんだ。だから、ちゃんと最後までいてね」ルカはそう言って、カウンターを離れた。客たちの視線が、フロアを泳ぐように滑らかに歩くルカに注がれる。今夜ここに居る人間の多くは、演奏者を見るために来ているのだから当然のことだ。だが、視線の中に別の種類の興味が混じるのを、レインは感覚で拾ってしまう。何を警戒している。誰から守ろうとしている。この店で臨時のバウンサーをした時の諍いが頭をよぎるが、今はただの静かな金曜の夜で、荒っぽい人物など見当たらない。それでも視線は離れなかった。ルカの交友関係など、見たくないのに。ルカは幾人かと笑顔で言葉を交わし、ステージ横にあるバックドアへと消えた。レインがグラスに向き直ったその時。「ドクター?」聞き覚えのある声に、レインはゆっくりと振り向いた。想像通りの人物、ショウが立っていた。遭遇する確率は高いと思っていた。入店後に見かけていなかったのは、一時的に離席していたのだろう。ショウはいつもよりくだけた服装で、襟元の開いたシャツに質の良い細身のジャケットを合わせている。胸に、シルバーのクロスが付いたネックレス。チェーンもチャームもごつく、細身で色白のショウには少し主張が大きいが、明らかに高級品と分かる。学内と同じように、ショウは人の良い笑顔を浮かべているが、瞳の奥に微かな戸惑いが見え隠れしている。単なる思い過ごしかもしれないが。「奇遇、ってこともないですね。ルカの……」「まあね」レインは最後まで聞かずに答えた。そのさきに続く言葉が『ルカの知人』であれ『友人』であれ、自分でも分からないのだから。ショウはレインの隣へ立ち、ステージを見た。「彼、面白い人ですよね。音楽の話になると、急に目の色が変わる」ショウは楽しそうに笑った。いつも通りの口調、態度。悪意は感じられない。研究室でも同じだ。親切で、協力的で、誰に対しても感じがいい。問いかければ明確に答える。それなのに、どこか掴みにくい。アカデミックな環境にありがちな、社会を知らないがために浮世離れしている学者とはまた違う。核心だけが指の間をすり抜けていくような、奇妙な浮遊感を持つ男。「友人たちとテーブル席を取ってあるんです。みんな医師です。ご同席いただけると嬉しいなあ。いかがです?」丁寧な申し出だが、レインは動かなかった。示されたテーブル席はステージから最も近く、三名の男性が談笑している。みな三十歳前後で身なりが良く、もれなく高級腕時計が手首にはまっている。内二人はおそらく日本人で白人が一人。だが会話は英語のようだった。「遠慮しとくよ」レインは愛想の良い微笑みを心がけ、申し出を断った。こういった場所で敢えて一人で飲む方を望むということは、今夜の相手を探しているとも取られかねない。レインは十分にそれを理解していたが、他人の目にどう映るかなどどうでもよかった。事実とは異なるからだ。それに、誰かに言い寄られてこられたとしても断る手段はいくらでもある。ルカの歌声の邪魔になるものは排除する。ただそれだけだった。ショウがテーブルに戻ると、同席の三名がレインにさっと視線を投げかける。明らかに値踏みを含んだそれを、レインは口の端を少し上げただけで受け流した。「だれ?」と白人の口が動く。ショウはレインに背を向けた位置に座っているため、なんと答えたのかはわからない。いずれにせよ『知り合い』か『職場の人』の二択しかないだろう。まもなくして客席から歓声や指笛が上がり、レインは反射的に振り向いた。ステージにバンドが再登場し、メンバーたちが手を上げて応えている。ジャズを演奏していた時と打って変わってラフな衣装に着替えられていたが、先ほどと全く同じメンバーだ。ルカはジャケットを脱ぎ、白いシャツの胸元を少し開いている。目元に濃い色が添えられているようだ。俯き、ベースのネックに左指を添わせてチューニングをしている。瞳が、口元まで届く長い前髪の間から妖しく覗く。----なんて色気だ。レインは両方の奥歯を無意識に噛みしめていた。普段以上に、ステージ上のルカは目の毒だ。とっさにそう判断し、正面に向き直ろうとしたその時。ステージ前のテーブルに座っていたショウが立ち上がるのが目に入った。ショウは片手を上げ、ルカを手招きする。それに気付いたルカが、少し高くなっているステージ上で中腰になり、ショウの顔に近づいた。ショウの指が、ルカの頭へ伸びる。一体何を----レインは胸の奥に嫌な焼付きを感じ、眉をひそめた。不快という言葉では足りない。怒りとも違う。もっと原始的で、理屈の通じない感情だった。(----触るな)頭の中で言葉になり、レインの呼吸が止まる。急いで、カウンターに向き直る。そんな言葉を持つ権利などない。ルカが誰と話し、誰に触れられるかを、自分が決められるはずもない。たかだか、数回唇をあわせただけだ。そこに何の意味があるのか。もしくは全く何の意味をなさないのか、それすら知らない。それでも、押し寄せてくる感情があった。むしろ理性に押し込められた分だけ、身体の奥で濃くなる。指の節々が白くなり、グラスが軋んだ気がして、ゆっくり力を抜く。ルカを引き寄せ、自分の身体で隠したかった。誰の目にも触れない場所へ連れて帰りたかった。研究室でも、教会でもない。自分だけの場所へ。グラスに同じ酒が注がれ、顔を上げるとキースがレインの背後に視線を据えていた。「最近、見かけるヤツだ。金曜限定なんでバンドのファンかと」独り言のようにキースがつぶやいた。レインは答えない。「誰なんだ?さっき、声掛けられてただろ」レインは微かに頷いた。無言の返事をどう受け取ったのか、キースはレインを大げさに凝視してみせた。「おい、まさかあんたの元恋人だなんて言うんじゃないだろうな?」「ありえない」レインは即答し、キースはニヤリと口を曲げる。「俺の特技を教えてやろうか」レインはしてやられたと眉をしかめる。客の口を割らせるのが上手い。同じバーテンダーであるヒューゴも同様だが、手業が違う。あいつは静かに微笑むだけで客を饒舌にさせるが、キースは無理やりこじ開けてくる。「ルカとの……共通の知人ってだけだ。言葉通りのな」ふーん、とキースは鼻を鳴らして見せた。「そう思ってんのはあんただけかもしれねぇぜ。ルカに特定の恋人が居ないのは俺も知ってるが……」「何だ?」キースは目を細め、ステージを指すように軽く顎を上げた。「演者に手を伸ばすなんてよ、主張が激しすぎるね。まるで自分のモノだと言わんばかりじゃねぇの」レインの眉間に深く皺が出る。「ドク、あんた、そんな風にステージも見ずに余裕ぶっこいてっけど、知らねぇぞ」「……ルカはモノじゃない。誰に、どういう扱いをされたいかは、彼自身が決めることだ」キースは鼻で笑って、それ以上何も言わなかった。半分空いたレインのグラスに同じ酒を注ぎ、レインはその分を一気に飲み干す。ふっとステージの照明が落ちる。客席が静まり、ギタリストが弦を弾いた。空気が震える。レインはようやくステージに視線を戻した。ルカは俯いた姿勢でベースを抱え、向かって右手のマイクの前に立っていた。最初の曲は、夜の街に降る雨を歌った古いR&Bだった。ベースの深い低音が床を這い、その上に女性ボーカルの声が重なる。ハスキーさが心地よい。酒と煙の混じる店内へ静かに溶けていく。レインは再びカウンターへ向き直った。グラスの中で、琥珀色の酒がろうそくの光を揺らしているが、瞳には何も映っていなかった。神経のすべてが、背後から届くルカの音に集中している。時折重なる、透明な声のコーラス。息を吸う音。低い音から高い音へ移るときの、わずかな掠れ。マイクから顔を離した瞬間、声が薄く遠ざかることまで分かる。見ていなくても、長い前髪の下でどんな顔をしているのか想像できた。店にいるすべての人間が見ているだろうに、そんなことを微塵も気にかけない。目を伏せ、眉間から力を抜き、音の中だけに存在することを選んだ顔だ。レインの指が、グラスの縁をゆっくりとなぞった。次の演奏が始まる。今度は、嵐の過ぎた海を歌うブルースだった。その次は、濡れたアスファルトに街の灯が映る曲。さらに、低く垂れ込めた雲の下で、誰かの帰りを待つ歌。濡れた夜。灰色の空。窓を叩く音。行き場を失い、海へ流れ込むもの。どれもが----雨の匂いがした。偶然にしては、統一されすぎている。「セットリストがあるのか?」レインにそう尋ねられたキースは肩を竦めて見せた。「バンド内ではある程度決めてあるだろうが、こっちには無いね。選曲はメンバーで持ち回りらしいが」レインはすでに気づいていた。気づいているからこそ、確かめようとはしなかった。自分の名前と重ねるなど、思い上がりも甚だしい。ルカは音楽家だ。その日の店の雰囲気を考えて、選曲しているだけだろう。そう考えるのが妥当だった。「あいつ、雨乞いでもしてんのかよ」カウンターの内側から、唐突にキースが言った。レインはグラスから目を上げた。「今日の選曲はルカだが、どれも雨じゃねえか」「……今の曲に雨は出てこなかったが」「濡れた道路、黒い雲、嵐の海。十分だろ」キースはグラスを磨きながら、顎でステージを示した。「テーマを揃えただけだろう」「まあ、そうだろうな」キースはあっさり同意した。その素直さが、かえって不穏だった。「セットリストに筋を通すのは普通だ。客もその方が乗りやすい」「なら、何がおかしい」「別におかしくはないさ」キースは一度ステージを見てから、レインへ視線を戻した。「あいつが急に、雨に取り憑かれたみたいになってるだけで」「急に?」「前はこんなに偏ってなかった」レインの指が止まった。「いつからだ」キースの口元がゆっくりと歪む。「気になるのか?」「選曲の話をしている」「そうかい」レインは追及せず、グラスを持ち上げた。「注いでくれ」「気に入ったみてぇだな。Dr.レイン」キースが不意に名前を呼ぶ。その声に含まれた納得を聞き取り、レインは眉を寄せた。「……偶然だ」キースが吹き出す。「まだ何も言ってねえよ」「聞かなくても分かる。英語の歌に雨は珍しくない。曲の雰囲気を統一しただけだ。俺が今夜ここに来る確証も無かったはずだ」「そうだな」キースはまた、素直に頷いた。「だから、あんたに聴かせるために選んだわけじゃない」そう言いきられ、胸の奥に鈍い痛みが走る。レインは顔を上げた。「ミュージシャンってのは、面と向かって言えないことを曲に混ぜる。本人が来るかどうかなんて、あまり関係ない」「勝手な推測だ」キースは肩をすくめた。「でも、あんたも同じことを考えてた顔をしてる」レインは答えなかった。少なくとも、キースも同じものを感じ取った。それでも認めることはできなかった。ルカが自分の名を選曲へ忍ばせているなど----そんな都合のいい話があるはずはない。「偶然だ」もう一度、レインは言った。「なら、そういうことにしておいてやるよ」キースの返答は軽かった。歌詞の中では、雨上がりの街を一人の男が歩いている。もう雨は降っていない。それでも男の服には、まだ水が染み込んでいる。レインはゆっくりとステージを振り返る。ベースのネックを滑る長い指。開いた胸元に落ちるロウソクの影。何一つ見落としたくないのに、なぜか見ていられない。そのとき、ルカがふいに顔を上げた。視線がカウンターの端だけに投げられる。胸の奥に杭が打ち付けられたようだった。偶然だ。選曲も。視線も。歌詞が妙に自分へ重なって聞こえることも。すべて、自分が意味を見出しているだけだ。それなのに、レインの身体は別の答えを知っていた。あの声は自分へ向けられている。少なくとも今、この瞬間だけは。その確信が生まれた途端、店内にいる他の客たちがひどく邪魔に思えた。彼らも同じ声を聴いている。ルカの掠れた息も、低く甘い音も、目を伏せた横顔も、等しく与えられている。見せたくない。聴かせたくない。あの目が自分を捉える瞬間を、誰にも見られたくない。ショウが触れようとした肩も。グラスから勝手に酒を飲んだ唇も。今、自分の名を思わせる歌を紡いでいる声も。すべて、自分のものにしてしまいたい。レインはグラスへ口をつけた。酒の味は分からなかった。「思い上がりで構わない」呟くと、キースが横目で見る。「何が?」「何だろうな」レインはステージから目を離さなかった。少なくとも今夜、ルカの声を誰より深く受け取っているのは自分だ。そして演奏が終われば、あの男をこの店に残して帰るつもりはなかった。