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第35話 ただ、そこにいて

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第35話 ただ、そこにいて

目を覚ましたとき、ルカは最初、自分がまだ夢の中にいるのかと思った。ふんわりと優しいのに、頼もしい重み。それが何かを思い出した瞬間、怒涛の如く幸福感が押し寄せる。背中にはレインの胸があり、腰には腕が回っている。二度寝前のそのままの温もり。少し身じろぎすると、背後から低い声が落ちた。「起きたか」ルカは驚いて振り返ろうとした。「起きてたの?」「ああ」「いつから?」「少し前」回されていた腕が少し浮く。くるりと正面に向き直ると、レインの淡い瞳はもう完全に覚めているようだった。「起こしてくれればよかったのに」レインはほんの少し考えた。「よく寝てたから」ルカは瞬きをした。レインの顔は、ごく当然のことを言っただけという様子だった。ルカが寝ている。だから、ここにいる。だとしたら。胸の奥が妙にくすぐったくなる。「……待っててくれたの?」「別に」「でも、起きなかったんでしょ」「俺も起きたばかりだ」ルカはブラインドの隙間から差し込む光が、最初に目覚めた時より強くなっていることに気がついていた。下手すればもう昼前かもしれない。「レインもよく眠れたんだ……。よかった」一瞬、レインは黙った。それから腰に回した腕を、ほんの少しだけ強くした。「うん」それがあまりに自然で、ルカは返事ができなかった。代わりに目に熱いものがじんわりとにじみ、慌ててブランケットを引っ張る。「まだ眠いのか」その問いかけは不満ではなく、どこか満足そうに響いた。「起きるよ。今日、バイトだし」「何時から?」「5時」「なら時間は十分ある」「いま……何時?」「さあ。10時かそこらじゃないか」「まだ早いなぁ」ルカはボソリとつぶやいた。眠気がないわけではない。そもそも土曜日はいつも、前夜の演奏の疲れとアルコールによる二日酔いで、午前中に起きることはない。それに加え、昨夜は——ルカはブランケットを更に引き上げ、すっぽりと頭から被った。「寝る」「朝食は?」「食う」「そうか。じゃ、後で起こしてやるよ」レインは起き上がり、マットレスに腰掛ける。「おやすみ」ブランケット越しに頭を撫でられ、その心地よさが更にルカの瞼を重くする。それから小一時間ほどして、寝室のドアが小さくノックされた。薄ぼんやりと覚醒していたルカは、ブランケットを払い、片足を床へ下ろす。「……っ」思わず息が詰まった。全身が強張っている。肩や背中だけではない。腰も腿も、それどころか今まで筋肉痛になった記憶のない場所まで、動かすたび鈍く訴えてくる。「開けるぞ」レインはドア枠に片腕を掛け、マットレスに腰掛けたルカを見ている。観察している、と言った方がよい。「立てるのか?」「そんなの、当たり前……」立ち上がったところで突然脚に力が入らなくなり、ルカはそのまま、すとんとベッドへ腰を落としてしまった。レインは何も言ってこない。でも、俯いたままでも視線が向けられているのが分かる。「……笑わないでよ」恐る恐る顔を上げると、案の定、レインは笑っていた。声こそ立てていないが、明らかに楽しそうだった。普段ほとんど見ることのない、少しだけ荒っぽく、妙に満足げな笑い方だった。「言っただろ」「何を」「朝は動けないかもしれないって」「でも……なにも痛くなかったのに」後半は消え入るほど小さな声だ。「あれほど射精して、何時間も全身で仰け反っていれば、そうなる」「ちょっ……!やめて」「事実だろ」レインの口元がさらに上がった。「クソ」ルカは小さく毒つき、もう一度試す。今度は腰へ力を入れたところで痛みが走り、また同じ場所へ座り込んだ。「ほらな」「誰のせいだと……」低い笑い声が聞こえた。「俺か」その笑顔を見た瞬間、ルカは怒る気が失せた。「……ずるい」レインがこんなふうに笑うのを、自分はほとんど見たことがない。「もう今日はここから出ない」「それがいい」即答だった。「え」「朝飯は持ってくる」「そこまでしなくても」「立てないんだろ」「今はね」「なら寝てろ」「仕事、大丈夫かなぁ」レインは少し考えた。「夕方からだろ。問題ないよ」「ほんと?」「ああ。一時的な疲労だ。昼まで休めば、夕方には普通に歩ける」医者の声だった。そして、わずかな間。「店まで送る」ルカは笑った。「大げさだなあ」「俺のせいだからな」「もう反論するの面倒になった」「賢明だ」その言い方が妙に偉そうで、ルカは枕を投げた。しばらくして、レインはトレイを持って戻ってきた。スクランブルエッグ、果物、コーヒー。それに籠に盛られたいろんなパン。「本当に持ってきた」「何のために好みを聞いたと思ってる」マットレスの上でトレイを置くためのスペースを空けながら、ルカはまた顔が熱くなるのを感じた。「……言った通りになったね」「だろ」トレイを挟み、二人で同じベッドの上に座り、朝食を食べる。昨夜とはあまりにも違う時間だった。窓から光が差し込み、コーヒーの湯気が上がる。隣にはレインがいて、ごく普通の顔でパンを食べている。「あ、このシナモンロール!前にも出してくれたよね。うまいんだよなあ」「言っといたよ」「誰に?」ルカの間髪入れない問に、レインは自分が口を滑らせたことに気がついた。しかし後の祭りだ。「パン屋の奥さん。……きみが気に入ったかどうか知りたがったから」「え?なんで?」「ヒューゴの店の仕入先だ」「それ、答えになってない」レインは一瞬黙る。「……俺は、自分の朝食のためにわざわざパンを買いに行かない」「それって……」ルカは天井を見上げ、すぐにレインに視線を戻した。「いつも、誰かと朝を迎える度に、パン屋の奥さんに報告してるってこと?」まっすぐな問に、レインは声を上げて笑った。「理屈上はそうなるな」「事実は?」レインはコーヒーを一口啜る。「異なる」「ふーん」ルカは再び天井を見上げた。いないわけがないのだ。これまでも、そしてこれからも——レインに自分みたいな中途半端な人間が、ふさわしいとはこれっぽっちも思っていない。ただ、今だけは。この時間だけは自分のものだ。「どうでもいい、かな」「弁解させてくれないのか」「必要ないよ」(そんな関係じゃないんでしょ?)とルカは続けそうになって止めた。頭の中で再生された自分の声が、期待を孕んでいたからだ。否定して欲しいことが丸出しで、あまりに醜く響いたのだ。「そう?」「レインには分かんないよ」ルカはコーヒーカップで口元を隠した。食べ終わるころには、満腹と疲労が一緒に押し寄せてきた。ルカは枕へ背を預ける。「……なんか、また眠くなってきた」「寝ろ」「でも、せっかくの休みなのに、僕が居座ってちゃ……」「俺の休みだ。俺が決める」レインはトレイをデスクに置き、ルカの身体をベッドへ横たえた。肩まで布団を引き上げる。「病人じゃないんだけど」「昼過ぎに起こす」「散歩したい」「歩けたらな」「歩けるよ」「分かった。起きたら行こう」「一緒に?」レインは一瞬、妙な顔をした。「他に誰がいる」その答えに安心したのか、ルカはもう何も言わなかった。目を閉じて、数分もしないうちに寝息を立て始めた。レインはしばらく、その寝顔を見ていた。やがてトレイを持って立ち上がる。寝室を出る前に、一度だけ振り返った。そこにルカがいる。それを確かめてから、ようやく寝室を出た。昼をとうに過ぎた頃、二人は公園へ向かった。秋の気配を含んだ風が、雑木林を揺らしている。「どうだ」「平気」「痛みは」「あるけど、朝ほどじゃない」ルカは数歩進んでから、大げさに両手を広げた。「ほら。人類に復帰した」「大袈裟だ」「誰のせいだよ」レインが笑う。まただ、とルカは思った。今日のレインはよく笑う。それだけで、胸が少し温かくなる。「5時だっけ、仕事」「うん。一旦帰る。このままじゃ、ね」ルカは自分の体を見下ろす。全身、レインの服だ。なにもかも大きい。靴下さえも。「わかった。4時半に出ればいい」「いいの?」「何が」「僕、このまま帰ってもいいし」「俺の都合なら、今日のタスクは一つしかない。きみを無事に店に送り届ける」「ヒューゴに気付かれるよ」「まあな。あいつは顔と勘だけはいい」ルカは明るい笑い声を上げた。この幼馴染同士がお互いを揶揄し合うのを気に入っているのだ。とはいえレインの方がずっと寡黙で、もっぱら優勢なのはヒューゴだった。「本当に仲がいいよね」「心配するな。他人のプライベートを詮索するヤツじゃない。気が付いたとしても、何も言わねぇよ」「どうかなあ。なんせ、僕の『兄さん』だから。弟の素行にはうるさいかもよ」レインは片眉を上げてルカを見たが、何も言わなかった。しばらく歩いて、ルカがふと立ち止まる。「仕事が終わったら……」レインがこちらを見る。自分でも、どうして口を開いたのか分からない。「何でもない」ルカは前を向いた。さらに数歩進んでから、レインが言った。「終わるのは何時だ」「お客さん次第だけど、だいたい11時前後かな。真夜中にはならない」「そうか」短い応答だった。レイン自身はまだ知らなかった。その時間が近づく頃になれば、自分が時計を何度確認することになるのかを。◆◆◆ルカが店を出たときには、もう日付が変わりかけていた。最後の客が話好きで、なかなか腰を上げなかったからだ。昼間よりも気温が落ちている。ルカは上着の前を閉じ、店の前で足を止めた。ここから先には二つ道がある。ひとつは公園沿い。遠回りだが、街灯が途切れない。もうひとつは、公園の雑木林を抜ける近道だった。以前、レインに教えてもらった道だ。昼間のバイトへの往復にいつも使っている。木立の間を抜ければずいぶん早い。けれど夜のシフトの日に使ったことはない。暗く、ほとんど獣道だからだ。別に、人が怖いわけではない。ルカも男としては上背がある方だし、この時間帯に一人で歩くこと自体に不安はなかった。問題は、足元だった。木の根が張り出している箇所がいくつかある。昼なら何でもない。だが暗闇で引っかければ、簡単に転ぶ。転ぶとき、人間は反射的に手を出す。突き指。捻挫。最悪なら手首の骨折。ベーシストには、致命傷になりかねない。それでも今夜は、近道へ気持ちが傾いた。身体の芯に、まだ鈍い疲労が残っている。朝のような筋肉痛ではないけれど、長い勤務を終えた今になって、重さを訴えている。ルカは暗い木立を見た。行けなくはない。スマートフォンのライトを使えば――そこで、不意に思った。(レインなら、なんて言うだろう)考えるまでもなかった。眉間に薄く皺を寄せた顔が、あまりにも鮮明に浮かぶ。――近道?――却下だ。理由まで聞こえてきそうだった。暗い。足元が悪い。お前は手を使う仕事をしてるんだろ。たぶん、そのくらいは言う。そしてルカが「でも早く帰れる」と反論すれば、ますます不機嫌そうな顔をする。想像したら、思わず笑ってしまった。「……そうする」誰もいない道で、小さく呟く。雑木林へ向きかけていた身体を戻し、公園沿いの舗装された道へ歩き出した。本人はここにいないのに。少しだけ気恥ずかしくなって、ルカはポケットへ手を入れた。遠回りの道は静かだった。閑静な住宅街。右には各家の植栽が優しく照らされ、左は公園の池に街灯だけが映っている。風は爽やかで、ほんの少し涼しい。いい夜だ。しばらく歩くと、教会の尖塔が建物の間から見え始めた。その頃には、疲労も少し和らいでいた。やっぱりこっちでよかった。教会の角を曲がる。そこで、ルカの足が止まった。門の外に、人がいた。薄い街灯の下。長身で、ひどく大きなシルエット。片足と背を門柱へ預け、両手をポケットに入れている。暗がりの中でも、肩の広さと脚の長さが分かる。一瞬。本当に一瞬だけ、息をするのを忘れた。何か特別な格好をしているわけでもない。昼間に見たのと同じ、生成りのシャツ。なのに夜の中にいるレインは、昼間よりずっと男らしく見えた。静かな立ち姿。風に少し乱れた淡い髪。街灯の光が頬骨と顎の線だけを拾い、半分は影に沈んでいる。ルカは束の間立ち尽くした。まるで、自分とは別の時間を生きている男のようだった。こちらに気づいたのか、レインが顔を上げる。淡い目が光を拾い、視線が絡む。その瞬間、ひどく胸が鳴った。「……レイン?」近づきながら名前を呼ぶ。「お疲れ」短い言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちた。疲れなどどこかへ消えてしまう。「何してるの?」レインは門柱から背を離した。「少し外にいた」ルカは笑いそうになった。「こんな時間に?」「悪いか」「悪くないけど」少しだけ距離が縮まる。レインは夜気の冷たさを纏っていた。ずっと外にいたのだろうか。その考えが浮かんだ途端、心臓がまた速くなる。「……僕が通るの、待ってた?」聞いてから、少し後悔した。また、期待しすぎている。レインはすぐには答えなかった。1秒毎を余計に長く感じてしまう。やがて、低い声が夜風に紛れた。「通るかもしれないと思った」ルカは瞬きをした。否定ではなかった。胸の奥が、ゆっくり熱くなる。「もし僕が通らなかったら?」「その時考える」「家に入ってた?」「そのうち」「どれくらい待つつもりだったの」レインは少しだけ眉を寄せた。思わず笑ってしまう。最近のレインは、ときどきそうだった。何も知らない顔をしているくせに、こちらの心臓だけを確実に乱してくる。ルカは門へ視線を移した。「僕に何か用事があるとか?」レインの表情は変わらなかった。「質問が多い」予想していた答えだった。レインは静かにルカを見ていた。やがて門へ手をかける。鍵が外れる音がする。「アパートに帰るなら送る」「帰りたいわけじゃない。ただ……」続きをうまく言葉にできなかった。好きだと言われていない。恋人だとも言われていない。なのにレインは、こうして夜中に門の外に立っている。自分が来る保証もないのに。帰ってくるかもしれないという、それだけで。ルカは少しだけ笑った。「待ってたのかなって思ったら、ちょっと嬉しかっただけ」レインの表情が止まる。街灯の下で見る横顔は、やはりひどく整っていた。ルカは、レインが押さえている門扉を通り過ぎた。そのすれ違いざま。レインの手が背中へ触れた。押すわけでもない。ほんの一瞬。そこにいることを確かめるような触れ方だった。ルカは何も言わずに歩いた。レインも隣へ並ぶ。教会の敷地は静かだった。砂利を踏む音だけが続く。「教会の……」レインがぼそりと呟く。「うん?」「修繕が遅れている」「仕事、忙しいんでしょ」「まあ、それなりに」「あ、調査のせい?」「それもある」レインが何を言いたいのかいまいち掴めない。「じゃ、なに?」「……人手が足りない」「どういう……?」「さっきの質問攻めの答えだ」ルカは少し俯いて笑った。「何だ」「何でもない」「最近そればかりだな」「レインのせいだよ」「俺が何をした」ルカには、まだ判断できなかった。この気持ちが、レインに届いているのか。あるいは。分からないふりをしているのか。ただ。理由は何であれ、薄い街灯の下で、自分を待っていたのは事実だ。