LNCrawler

第36話 ふたりの休日

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第36話 ふたりの休日

家に入ると、レインは何事もなかったように照明をつけた。昨夜と同じ玄関、廊下、家具。教会の裏手にひっそり建つ静かな家なのに、一度ここで夜を越しただけで、もう昨日までとは違って見える。「シャワーを使うなら主寝室のを」「うん、ありがと。レインは?」「自分の部屋で浴びる。タオルは昨日の場所にある」淡々と告げて自室へ消えたレインに、ルカは微かな落胆と安堵の両方を覚えた。けれど、『昨日の場所』という言葉が妙に嬉しい。まるで、自分がまたここへ来ることなど、最初から決まっていたように聞こえた。シャワーを浴びながら、ルカは否応なく身体のことを考えた。朝ほどではない。それでも腰や腿には鈍い疲労が残っている。普段なら意識もしない場所まで、動くたび昨夜の記憶を返してくる。そして、その奥に一つ、消えない感覚があった。昨夜、レインに触れられた秘部。知識はある。けれど、その感覚は知らなかった。それなのに、もう続きを知りたい。触れてほしい。もっと深いところまで。そう思う自分を、もう否定することはできなかった。問題は、その欲望をレインへ差し出していいのかということだった。自分は音楽をやるために日本へ来た。自分だけの音を見つけたくて、ここまで来た。けれど現実には、まだ大きな仕事もない。それを恥じたことはなかった。自分で選んだ人生だ。ただ、レインを前にすると、ときどき足元が揺らぐ。医大の准教授で、かつて軍医として人の命を背負い、今も研究室と学生を抱えている男。威厳と色気が同居する、強靭な肉体と淡い瞳。そんな人間を、自分が当然のように欲しがっていいのだろうか。身体だけではない。時間も、生活も。できるなら、その先まで。考え始めると、欲望より先に躊躇いが立つ。寝支度をして主寝室のバスルームを出ると、レインはすでにベッドにいた。読んでいた本へ栞を挟み、ブランケットを持ち上げた。「おいで」ルカはその隣へ滑り込んだ。すぐに腕が回ってくる。胸元へ引き寄せられ、頬に落ちた髪を指で払われた。「おやすみ」ルカは一瞬、返事を忘れた。「……うん」レインが目を開ける。「何だ」ルカは視線を逸らした。「今日は、寝るだけなんだなと思って」言ってすぐに後悔した。レインはしばらく黙っていたが、やがて低く答えた。「不満か」ルカは苦笑した。「……少し」正直に言うと、レインの眉がわずかに動いた。「何がしたい」あまりにも真っ直ぐ訊かれて、今度こそ言葉を失った。答えは分かっている。昨夜の続きを知りたい。触れられたい。もっと近くまで。けれど、それを口にすれば、身体だけの話では済まなくなる気がした。同時に、身体だけの話になってしまう気もした。「……うまく説明できない」「そうか」レインはそれ以上聞かなかった。ただ、背中に回していた腕をわずかに緩める。その瞬間、ルカは反射的に顔を上げた。「なんで離れるの」「俺がいると不安だろう。昨夜は少し踏み込みすぎたから……」「違う」即答だった。レインが黙る。「一人で寝たいわけじゃない」「なら?」ルカは一度目を閉じた。ここだけは迷わなかった。「ここにいて」レインの目が静かに細められる。「よかった」腕が戻ってきた。今度はゆっくりと、確かめるように背へ回り、そのまま深く抱き寄せられる。ルカはその胸へ身体を預けた。近い。鼓動も、呼吸も分かる。昨夜なら、それだけで身体が高ぶった距離が、今はひどく落ち着く。少し間を置いて、ルカは言った。「ちょっとだけ、欲張ってもいい?」「うん?」「朝まで離れないでほしい」レインは何も言わなかった。そっと顎を掴まれ、顔を上げさせられる。胸の奥が大きく揺れた。目を閉じると、ふんわりと唇が重なる。触れるだけの優しいキス。離れ際に下唇を軽く啄まれ、胸がざわめく。そして、昨夜、触れられた場所も静かに疼いている。——もっと欲しい。いつか言えるだろうか。引け目ではなく。怖さでもなく。自分の望みとして、まっすぐに。「レイン」「何だ」「明日。教会の修理、手伝うよ」胸越しに、低い笑いが伝わる。「ああ、頼む」「どこを直すの?」「そうだな。俺は壁のひび割れをどうにかするから、きみは……」「何でもやるよ?」「じゃあ、ピアノを弾いてくれないか」ルカは思わずレインの胸から頭を上げた。「それだけ?」「簡単なことではない。きみにしかできない」「そんなことは……」「言い直す。きみ以外には弾いてほしくない」分厚い胸が軽く上下し、レインが深く息を吸ったのが分かった。「もう寝ろ」「……うん。おやすみ、レイン」「おやすみ」額に、そっと口づけが落ちる。ルカは素直に目を閉じた。◆ふいに意識が覚醒し、薄く目を開ける。視界の端で何かが動いていた。レインの手だった。片手でスマートフォンを持ち、親指だけでゆっくり画面を送っている。何を見ているのだろうと目を凝らすと、英語の論文が並ぶサイトだった。タイトルと抄録をいくつか拾い読みしているらしい。もう片方の腕は、ルカの腰に回っていた。昨夜眠ったときと、ほとんど同じ位置に。レインはとっくに目覚めているようだった。それなのに、自分を腕から外すでもなく、起き上がるでもなく、そのまま朝を始めている。——心地いい。まるで、ずっと前からこうして朝を迎えていたような気さえしてくる。画面を送っていた指が止まった。「起きたか」ルカは少し笑った。「分かった?」「呼吸が変わった」「医者っぽい」「だろ」スマートフォンから目を離さないまま返す。ルカはその胸元へ少しだけ顔を寄せた。「何読んでるの?」「論文」「僕、邪魔じゃない?」そこで初めて、レインが画面から目を上げた。「邪魔なら抱いてない」あまりにも平然と言われ、ルカは返事を忘れた。腰に回された腕が、さらに少しだけ締まる。レインは何事もなかったように画面へ視線を戻した。こういうところだ。本人にはきっと、大した意味はない。ルカはレインの胸へ額をつけたまま、しばらくスマートフォンの光を眺めた。「何の論文?」「睡眠だ」レインの返答はいつも早い。けれど、簡潔すぎる。そのくせルカには『質問が多い』と指摘するのだ。「不眠症について?」知っているからこそ、もう一歩踏み込んでみる。「そうだ。……興味があるのか?」レインはスマートフォンを少し離し、意外そうにルカを見た。「あるよ、当然」「当然?きみは眠れるだろ。俺が知る限りでは」興味があるのはレインのことだからだが、それはいったん置いておく。「あのね、僕はいろんなことに興味がある。だからレインの話を聞くのが好きなんだ。もっと話してくれないと困る。僕にいちいち『なんで?』『どうして?』って、子供みたいな質問をさせてるのはレインだって分かってる?」勢いづくルカに、レインはくっくと大きな肩を揺らした。「そうだったか。それは申し訳ないことをした。でも、話がくどいとか、説明しすぎるとか——」「その時は言う」ルカが遮る。「だから話して。ただし、分かりやすくね。レインの学生と違って、こっちはアート系なのを忘れないで」「分かったよ。話したくないわけじゃない。興味がないのかと思っていた。きみとは……共通点があまりないから」——なのに、こんなにも惹かれている。レインは最後の言葉を飲み込んだ。一度触れ合ったくらいで感傷的になられても迷惑なだけだろう。——ただし、ルカが望めば別だが。「だからだよ!」ルカの声は明るかった。ブラインドの隙間から差し込む朝の光よりも、ずっと。「お互いの知識を共有するのって、楽しいと思わない?変だな。レインは大学の先生なんだから、この台詞はそっちから出てくるべきだと思うけど?」レインはついに声を出して笑った。「きみにはかなわないな。学生たちから聞きたい言葉だ。まあ、そうなるように導くのが教師の役目だがな」「そのうちギターやピアノも教えてあげるね。きっと好きになるよ」「ああ、頼むよ」ルカは、スマートフォンを握るレインの手に自分の手を重ねた。指を一本ずつ辿るように撫でる。「ずっと外科医の手だと思ってた。でも、音楽家にも向いてるかも」「器用な方ではあるな。だが今はただの研究者だ。さて、どうする?この論文について議論するなら、まずきみにも読んでもらうことになる」「論文そのものより、レインが何に興味を持って調べているのかを知りたい」「ああ、そういう……」「僕の歌で眠れるって、不思議だなと思ってた」ルカは、反射的に遮った。レイン自身に興味があるのだとはっきり言ってしまったようで、急に気恥ずかしくなったのだ。「俺も、それは検証する価値があると思っている。週三で俺に歌ってくれるって話だが、そのままデータ収集に使えそうだ」レインは気に留めた様子もなく、ルカの話に乗った。「レインが実験体ってこと?」「うん。きみの歌で万人が眠るわけではないことは分かっている。そうでなければ、今頃クリスのバーは睡眠クラブだろ」「言えてる」「それと」レインはいったん言葉を止めた。スマートフォンをナイトテーブルに置き、ルカの手を握る。「眠れたんだ、昨夜。歌はなかっただろ?きみがここで……隣で眠ってくれただけで」「そっか……僕、ベッドに入ってすぐ寝たはず」「きみの存在が眠りを誘うとすれば、ヒューゴだって睡眠クラブの仲間入りだ」「確かに……」「だとしたら、原因は俺にあるんじゃないか、というのが現時点での可能性だ」「個人的なものってこと?」「それを調べたい。俺個人の特性でないなら、どこかに似た報告があるはずだ。音でなくてもいいと思っている。何か、薬や治療以外で……」「催眠術とか?」ルカは聞かずにいられなかった。レインがここまで自分から話してくれるのは、おそらくヘキセンリングの輪に入って以来かもしれない。「それは効かなかった」冗談で言ったつもりだったが、返事は大真面目だった。「催眠術で不眠症を治すの?」「標準治療ではないけどね。ヒプノセラピーと言って、臨床催眠を不眠治療の補助として取り入れることはある。身体をリラックスさせて、入眠しやすい状態に整える」「効果がなかったの?」「全くというわけではない。おかげで身体を休ませるコツは分かった。何年も不眠症なのに仕事も生活もこなせているのは、そのおかげだ。ただし、睡眠ではないから」「そっか……」ルカはレインの胸に頭を埋めた。「ん?どうした?」低い声が胸を通って頭に響く。「週三だけでいいの?僕は、毎晩でも……」「優しいね、きみは」ルカの手が、ぎゅっと握られた。窓の外は静かだった。かつてなら、隣の教会には人が集まったのかもしれない。今はもう何もない。鐘も鳴らない。十字架もない。残っているのは、古い建物と朝の光だけだ。「ねえ」「何だ」「今日もシナモンロールある?」画面を滑っていた指が止まった。レインがゆっくりこちらを見る。「……ルカ」「なに」「まさか、それ目当てで泊まってるんじゃないだろうな」真顔だったが、声の端にはわずかに笑いが混じっている。ルカは吹き出した。「ばれた?」「帰れ」「ひどいな」笑いながら、ルカはその胸へ頬を戻した。「でも食べたい」「ああ、買いに行くつもりだよ」「じゃあ僕も行っていい?」途端に、レインの返事が止まった。「……いや」「え?」「俺が行く」ルカは顔を上げた。「悪いよ、昨日だって……」「すぐそこだ。わざわざ二人で行くほどじゃない」妙にきっぱりしていた。けれど、その横顔を見ると、耳のあたりがわずかに赤い。「レイン?」「何だ」「なんでそんなに嫌がるの」「嫌がってない」「嫌がってるよ」レインはしばらく黙った。やがて、低く呟く。「……あのパン屋の奥さんは」露骨に眉をひそめる。「子供の頃から面倒見がよくて……たぶん、余計なことを言う」ルカは思わず笑った。「何言われると思ってるの」「いや、俺にじゃない。きみに、だ」「どんなこと?」「知らん」返事が早い。「行ってみれば分かるよ?」「想像はつく」そこでレインは、ようやくルカを見た。怒っているというより、明らかに居心地が悪そうだった。「ふうん」ルカはそれ以上追及しなかった。レインが何を想像したのかは分からない。ただ、自分と一緒に店へ行くことを避けたがっている。ここに泊まることと、外で並んで歩くことは、もしかすると別なのかもしれない。人に何かを言われるような関係には、したくないのかもしれない。考えれば考えるほど、さっきまでの温かさに薄い影が差す。けれど、それをレインに悟らせるつもりはなかった。「そっか」ルカは軽く笑った。「じゃあお願いしようかな」「ああ」レインはスマートフォンをナイトテーブルへ置き、身体を起こした。ルカの額に、小さなキスが落とされる。「行ってくる」◆店に入ると、焼きたてのパンとバターの匂いが鼻をくすぐった。レインは棚をひと通り見てから、カウンターへ向かう。「フランツブロートヒェンは?」店主の妻が顔を上げた。「もうすぐ焼けるわよ」「二つ欲しい」彼女の目尻が、すっと下がった。「二つ?」「ああ」「昨日も買っていかなかった?」レインは答えず、棚からサワードウのパンを取った。ついでにチーズのケースを覗く。背後で小さく笑う声がする。「いよいよ恋人ができたのね」「そういうんじゃない」即答すると、笑い声が少し大きくなった。「二日続けて朝からパンを買いに来て?」「食いたがる奴がいるだけだ」「へえ」レインはチーズを一つと、店の主人手作りのサラミを選んでカウンターへ置いた。彼女はそれらと、焼き上がりを待つフランツブロートヒェンを順番に見る。「ちゃんと食べさせてあげたいんでしょ」「ゲストへのマナーとしては当然だろ」「ずいぶん大事にしてるのね」レインの手が止まった。「だから、そういうんじゃない」「じゃあ、どういうの?」面倒なことを訊く、と眉を寄せる。それでも、子供の頃から変わらない距離感に気が緩んだ。昔から、この人の前では妙なところで口が滑る。「……俺の、恩人だ」言ったあとで、レインは黙った。彼女もすぐには何も言わなかった。やがて、ふっと表情を和らげる。「そう」それだけだった。問い返されなかったことに、かえって居心地が悪くなる。ちょうど奥から焼きたてのフランツブロートヒェンが運ばれてきた。甘いシナモンとバターの香りが広がる。「はい。恋人……じゃなくて恩人だったわね。おまけを入れておいたから」「……余計なことを」「あんたがそう言うからでしょう」レインは温かな紙袋を受け取り、会計を済ませた。「明日も?それとも週末だけ?」反射的に顔を上げた。即答はできなかった。「……分からない」「じゃあ、とりあえず明日も焼いとくわ。売れなきゃ私が食べるし」にこやかな返事に、レインは思わず破顔した。「うん」紙袋を抱えて店を出る。外の空気はまだ少し冷たい。袋から、温かなシナモンの香りが漂ってくる。焼きたては格別だ。ルカなら、きっと喜ぶ。そう思っただけで、口元がわずかに緩んだ。玄関を開けると、家の中は出たときと変わらず静かだった。ただ、リビングの方から微かな物音がする。紙袋を提げて覗くと、ルカはソファに座り、スマートフォンを見ていた。「おかえり」顔を上げた途端、その視線がレインではなく紙袋へ落ちる。レインは眉を上げた。「やっぱりパン目当てじゃないか」「ちゃんと最初にレイン見たよ」「一秒もなかった」「じゃあ次から二秒見る」ルカが笑いながら立ち上がる。紙袋から漂う甘い香りに、もう隠す気もなく鼻をひくつかせた。「焼きたてだ」「最高!」予想以上に嬉しそうな声だった。——ちゃんと食べさせてあげたいんでしょ。さっきのパン屋の奥さんの言葉が、不意に頭をよぎる。レインは何も言わず、袋をキッチンへ運んだ。「皿、出してくれ」「了解」「コーヒーも頼む」「それくらいは働きます」二人で朝食の支度をする。レインは自分用のサワードウを切り、チーズとサラミを並べた。ルカの皿には、まだ温かいフランツブロートヒェンを二つ。椅子に座ったルカは、しばらくそれを眺めていた。「食わないのか」「見てる」「見ても増えないぞ」「焼きたてって、それだけでちょっとありがたいじゃん」そう言って一つ手に取る。温かな生地を割ると、幾重にも重なった層の間から、シナモンとバターの香りが立ち上った。ルカはひと口食べて、動きを止めた。レインがコーヒーを注ぎながら見る。「どうした」「……これ、やっぱり僕の知ってるシナモンロールと違う」もうひと口。今度は確かめるようにゆっくり噛む。「初めて食べた時から思ってたんだ。生地がすごく軽い。外側はちょっとさくっとしてるのに、中はバターが染みてる」「正確には、シナモンロールじゃないからな」ルカが顔を上げた。「違うの?」「フランツブロートヒェン」「フランツ……?」「ブロートヒェン。ドイツ北部ではそう呼ばれてる」「へえ」ルカは興味深そうに断面を見る。「じゃあ、あの渦巻きのシナモンロールとは別物なんだ」「クロワッサンに近い生地だな。あの店のは、それにアプリコットを混ぜてある」「アプリコット?」もう一口食べる。「あ、本当だ。言われると分かる。すごく薄いけど、最後にちょっと酸味がある」「だから甘さが重くない」レインは自分のパンにチーズを載せた。「それに、あの店はバターがうまい」「そんなに違う?」「フランスから仕入れてるらしい。『バターに金を惜しむな』が店の奥さんの口癖だ」レインは片手の指で二重引用符を作った。「だからこんなに香りが残るんだ」ルカは感心したようにパンを眺め、それから笑った。「二個買ってきてくれて正解」「もっと欲しければ追加で買ってくる」レインが紙ナプキンで口を拭い、椅子を引く。今にも出かけそうな勢いだ。「二つで十分だよ。ありがと。一個目を食べながら、二個目がある安心感を噛みしめてる」レインは思わず笑った。「大げさだな」「食べ物の幸福って、けっこう大事だよ」その言葉に、レインは少しだけ手を止めた。「そうだな」ルカは二つ目に手を伸ばす前に、少しちぎってレインの皿へ置いた。「俺は甘いものは……」「焼きたてなのに?」引かないルカに負け、レインはそれを口に入れる。「ね?」「ああ、うまいな」満足そうに微笑むルカに、しばし視線を奪われる。胸の奥に、味覚の甘さとは違う甘さが静かに広がる。ルカは二つ目のフランツブロートヒェンまできれいに食べ終えると、名残惜しそうに指先についたシナモンを舐めた。「あーあ、毎朝食べられたらな。ね、お店の場所、教えてよ」「必要ない」レインはコーヒーを飲みながら答えた。「なんで?」「俺が買ってくる」ルカは少し考えてから、ふと思いついたように顔を上げた。「あ。ヒューゴに聞けば分かるか。店の仕入先なんでしょ?」レインの手が止まった。数秒、無言でルカを見る。そして、空になったカップへ視線を落とした。「明日の朝も、俺が買ってくる」さらりと言われて、ルカは黙った。意味を理解するまで、ほんの少し時間がかかった。明日の朝も。ということは——。胸の奥に、じわりと熱が広がった。「……僕、今日も泊まることになってる?」レインが顔を上げる。「帰るのか?」まるで、そちらの方が意外だと言わんばかりだった。「ううん、帰らない」ルカは慌てて首を振る。居てもいい。今日も。明日の朝まで。レインはそれ以上確認せず、当然のように言った。「なら、明日も二つ買ってくる」ルカは少し俯いた。顔が情けなく綻んでいる気がして。嬉しい。ひどく嬉しい。こんなことで、と思うほどに。一方でレインは、自分でも馬鹿げていると思っていた。店の場所など、教えれば済む。ルカが自分で買いに行けるようになったところで、本来なら何も困らない。それでも——この役目を、手放したくなかった。長いあいだ、自分の意思ではどうにもならなかった眠りを、ルカの歌は連れてきた。なのに今朝、さらに知ってしまった。歌がなくても、ルカが隣にいれば眠れるらしい。不眠は長年、思考も集中力も体力も、本来持っていたはずのものを少しずつ削ってきた。それを取り戻させてくれる人間がいる。今のところ、この世にひとりだけ。そのルカが、あのパンを食べて笑う。なら、何度でも買いに行けばいい。朝でも、夜でも。雨でも雪でも。季節がいくつ巡っても。そのルカを喜ばすことができるのなら、どんな機会であれ逃したくはない。◆朝食を終えると、二人は教会へ移った。昼の光の中で見ると、建物の傷みは夜よりよく分かる。造りそのものは頑丈だったが、壁には細かな亀裂が走り、窓枠の塗装もところどころ剥がれている。長く人が集まらなくなった建物には、使われていた頃とは違う静けさが染みついていた。レインは脚立に上がり、壁を指先でなぞりながら亀裂を確かめていく。ルカは少し離れて、その様子を眺めていた。「これ、全部ひとりで直すつもりだったの?」「急ぐものでもないからな」「業者に頼まないんだ」「構造に関わるところは頼むよ。俺がやるのは、その前の手入れみたいなものだ」「なんか、レインらしい」「何が」「壊れてから直すんじゃなくて、壊れる前に気づこうとするところ。やっぱり、根っからのお医者さんなのかもしれないね?」レインの手が一瞬止まった。数秒後、何事もなかったように工具へ手を伸ばす。ルカは、祭壇だった場所に上がり、ピアノの蓋を開ける。一音鳴らすと、古い礼拝堂の空気がわずかに震えた。鐘はもう鳴らない。十字架は壁にその跡があるのみだ。それでも、この場所は音を受け止めることだけは忘れていなかった。ルカはゆっくりと鍵盤を辿る。何曲か弾いているうちに、工具の音が途切れた。振り返ると、脚立の上でレインがこちらを見ている。今度はレインの方から口を開いた。「ここで聴くと違うな」「何が?」「クリスの店で聴いた時と」「僕もそう思ってた!」「パイプオルガンもないし、音響を考慮した設計ではないはずだが」「僕は地元の教会でも演奏したことがある。でも、ここは特別。低い音も逃げない」試すように左手で低音を鳴らす。柔らかな振動が床を這った。レインはしばらく耳を澄ませている。「修理したら、音が変わるか」「どうかな。でも、もっと良くなる気がする」「なら……よかった」「音のために直すのやめるつもりだった?」「場合によっては」ルカは笑った。「建物よりピアノ優先?」「この建物を使う奴がいるなら、使い方も考える」その言葉に、ルカは鍵盤へ視線を落とした。自分がここで弾くことが、これからも続いていく。そう聞こえたのは、きっと気のせいではない。昼を過ぎた頃、レインは壁を見上げて唸った。「足りないな」「材料?」「ああ。補修材とサンドペーパー。ヘラも替えたい」ルカはピアノから立ち上がった。「じゃあ買いに行こう」「ああ」朝のパン屋とは違う、あまりにも自然な返事だった。知り合いに見られるのが嫌なのだろうか。けれど、それなら以前、大学の学食へ自分を連れて行ったことと辻褄が合わない。考えても分からないか。そう素早く判断し、ルカは追及するのをやめ、レインに続いて教会を出た。ホームセンターに着くと、レインは真っ先に資材売り場へ向かった。補修材の成分表示を比べ、ヘラの幅を確認し、サンドペーパーの番手を選んでいく。ルカはカートを押しながら、その様子を眺めていた。「今日は研磨までいかないだろうな」「明日以降もやるの?」「ああ。平日はほぼできないからな」ルカは何気なく訊いた。「僕も手伝っていい?」少し考えてから、レインは頷いた。「手を痛めるようなことだけはするなよ。絶対に」「知ってるよね、DIYは得意なんだ」「知ってる。でも無茶はするな。俺はきみがその辺りをうろついてるだけで……」「なんだよ。僕、そんなに危なっかしい?」「違う」レインはカートへ補修材を置いた。「手伝いは二の次だ。近くにいてくれればいい」あまりにも自然な返事に、ルカは何も言えなくなった。二人で教会の修理方法を考えながら店内を歩く。途中で切れていた電球を思い出し、照明売り場にも寄った。庭の果樹に肥料が欲しいと、ガーデニング売り場にも回る。休日に二人で、暮らしに必要なものを選んでいる。その何でもない光景に親密さが滲んでいるようで、もう、朝のパン屋のことなど、どうでもよかった。教会へ戻り、資材を運び込む。ルカは再びピアノへ向かいかけて、ふと思い出した。「そうだ。ついでに楽譜も」レインが振り向く。「楽譜?」「事務室にあるってオマが教えてくれた」「オマが?」声に露骨な興味が混じった。ルカは笑う。「知らなかった?たくさんあるよ」「見せてくれ」あまりの即答に、ルカは目を丸くした。「何かリクエストでも?」「母の楽譜かもしれない」そう言って、もう先に歩き始めている。事務室は、礼拝堂の入口から入ってすぐ右手にある小部屋だ。扉を開けると、紙と古い木の匂いがした。机、椅子、書類棚。壁際には本棚が並んでいる。どれも簡素な木製だが、使い込まれて艶がある。楽譜の引き出しはアルファベット順に整理され、目当てのものがすぐ見つかるため、ルカは収蔵されている曲目すら把握していなかった。「この辺の引き出しがそう」ルカが指差すと、レインはためらいなく一つを開け、傍らの机へ中身を次々と並べていった。「お母さんのだった?」「ああ。全部そうだ」一冊をぱらぱらとめくり、途中のページを開いてルカへ見せる。「ほら。俺の落書き」「うはっ」ルカは思わず吹き出した。そこには、可愛らしいアヒルが描かれていた。ただし、器用に中指を立てている。「練習が嫌でね」「えっ、じゃあ習ってたの?」「母はピアノ講師だったからね」「どれくらい?」「彼女が入院するまでだから、十一歳かそこらだな。二歳から始めた」「それならかなり弾けるんじゃ……」「もう何年も弾いてない。特訓すれば、あるいは」「教え甲斐がありそう!楽しみだな」はは、とレインが声を上げて笑う。「なら、頑張るよ」「ピアノの先生だったのなら、教本がどこかに……」ルカは壁際の本棚へ向かい、視線を巡らせた。「あ、これかも」一冊抜き取ろうとして、その上の棚に目が止まる。古い聖書や宗教書が並んでいた。その中に、日本語の背表紙がある。『ルカによる福音書』「あ」背後にいたレインが覗き込む。「どうした」ルカは背表紙を指した。「僕と同じ名前だ。これはなんて読む?」「ふくいんしょ。Gospelだな」「もしかして、The Gospel of Luke?」ルカは本を抜き取った。「そうだ」「日本語だと僕と同じルカになるんだ。なんかちょっと得した気分。ルカって、聖人?」「伝承では聖人だな。パウロには同行したとされてる。でも、イエスを直接見て書いたわけじゃない。人から聞いた話や記録を集めてまとめた、と考える方が近い」「へえ。じゃあ吟遊詩人みたいなもの?」表紙を開き、ぱらぱらとページを送るルカに、レインは笑みを向けた。「福音書に楽譜でも付いていれば、そう言えるかもしれないがな」「教会でこんなこと言うのもなんだけど、僕、聖書すら読んだことない」「まあ、普通だろ」「レインは?詳しそうだけど」「いや、読まされただけ」少し拗ねたようなレインの言い方に、ルカは笑った。「ピアノも聖書も、自分からじゃないんだ」「ピアノ講師と牧師の息子に選択権があると思うか」「じゃあ内容も覚えてる?」レインは本気で記憶を探るように目を細めた。「ほとんど忘れた」「そんなに?」「試験もなかったからな」「試験があったら覚えた?」「たぶん」ルカはくすくす笑いながら、またページをめくる。「レインって、そういう子供だったんだ」「どういう」「必要ならちゃんと覚える。でも必要ないと思ったら、きれいに忘れる」レインは少し考え、それから苦笑した。「否定できない」その反応が珍しくて、ルカはまた笑った。「何か一つくらい、覚えてない?」「一つか」レインはページを眺めた。「食事の場面が多かった気がする」「それだけ?」「それしか記憶にない」ルカは手を止めた。「聖書って、もっと非現実的な奇跡の話ばかりだと思ってた」「はっきり言うんだな。同感だが」ルカは少し笑って、もう何ページかめくった。文字を追うというより、ところどころ目に入る単語を拾っているだけだった。「自分と同じ名前だと、ちょっとだけ親近感わくけどね」ルカは冊子を元の位置へ戻すと、楽譜を抱えて事務室を出た。その後を追ってレインも扉へ向かうが——ふと足が止まる。棚に戻された『ルカによる福音書』の背表紙が目に入った。——何か。遠い記憶の底で、微かに引っかかるものがある。けれど、掴もうとすると輪郭を失った。レインはそれ以上追わず、事務室を出た。礼拝堂へ戻れば、じきにまたピアノが鳴る。自分は壁に向かい、ルカは鍵盤に向かう。そういえば以前にも、似た時間があった。大学の准教授室で、自分が論文を書いている傍ら、ルカが静かにウクレレを奏でていた。あの時も、不思議なほど集中できた。今は、長く使われなくなった教会を直す自分の傍で、ルカがピアノを弾いている。今は誰にも見せる必要のない、自分の暮らしの内側だ。それなのに、他人を自分の領域へ入れたという感覚が少しもなかった。新しく何かを加えたというより、ずっと空いていた場所へ、ようやく正しいものが収まったような。一つ嵌まると、また次の形が見えてくるような、予感にも似た感覚。朝食を一緒に取り、同じ家を出て、必要なものを買いに行き、それぞれ別のことをしながら同じ場所で午後を過ごす。どれも大したことではない。なのに、その一つひとつが静かに繋がっていく。レインはまだ、それを何と呼べばいいのか知らなかった。ただ、ルカの音が響くたびに。彼と視線が合うたびに。自分の中の何かが、正しい位置へ戻っていくような気がした。