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第37話 名前のない関係

眠らぬ聖域 — fujossy.jp · All chapters

第37話 名前のない関係

夜になっても、昼間の空気がまだ家の中に残っているようだった。デリバリーの夕飯のあと、どちらともなくリビングのソファに落ち着いた。それぞれの手には、ビールのボトルが握られている。「映画でも観る?」ルカの問いに、レインが少し意外そうな顔をする。「今から?」「軽いやつ。短めの」「明日は月曜だぞ」「僕は休み」「俺は仕事だ」「じゃあレインが寝落ちするまで」「それなら。十分あり得る」そう言いながら、レインはルカの隣に腰を下ろした。結局選んだのは古いコメディだった。ルカが「今日は頭を使う映画は禁止」と言い張ったせいだ。最初の十分ほど、レインはあまり興味がなさそうにしていた。ところが、主人公がどうしようもなくくだらない失敗をしたところで、隣から低い笑い声が聞こえた。ルカは画面から目を離す。「笑った」「笑うだろ、これは」「意外」「どういう意味だ」「皮肉とか難しい比喩でしか笑わない人かと思ってた」レインが呆れた顔でこちらを見る。「俺を何だと思ってるんだ」「医大の准教授」「それは職業だろ」ルカは笑いながら、ブランケットを足元まで引き上げる。昼間よく動いたせいか、身体に心地よい疲れが残っていた。画面から流れる明るい音楽と、隣にある体温が眠気を誘う。いつの間にか、肩がレインの腕に触れていた。どちらも避けることなく、視線は画面に固定されたままだ。しばらくすると、レインが腕をソファの背に乗せる。そこから放たれる体温が、ルカにふわりと纏い付く。まるで、迎え入れてくれているような温かさだ。ルカは少し迷ってから、身体を寄せてみた。レインは何も言わない。ただ、背もたれに置かれていた腕が下りてきて、そっとルカの肩を抱いた。映画はまだ続いている。けれど、ルカはさっきから内容の半分も頭に入っていなかった。恋人でもない。じゃあ何なのかと、尋ねる勇気すらない。それなのに、日曜の夜に同じ家で夕食を食べて、同じソファで映画を観ている。こんなふうに抱かれて。「ねえ」「ん?」「これ、たぶん一人で観てもそんなに面白くないよね」「俺も今それを考えてた」ルカは顔を上げた。「気が合うじゃん」「珍しくな」「ひどい」レインが笑う。ルカはまた肩へ頭を戻した。映画の終盤、今度はレインの方が先に欠伸をした。「もう寝る?」時計を見ると、深夜に近い。思っていたより時間が経っていた。レインはリモコンを取り、エンドロールが始まったところで電源を落とす。「そうするか」ルカはまだレインの腕の中にいた。レインも、それを解こうとはしない。今日一日、何度も似たようなことがあった。朝食を食べた。一緒に買い物をした。同じ場所で、それぞれ好きなことをした。そして今、何でもない映画を一本観た。特別なことなど、何もしていない。それなのに、ルカにはひどく大切な一日に思えた。「……そろそろシャワー浴びる」ようやく身体を起こすと、肩からレインの腕が外れた。少しだけ——いや、かなり——惜しいと思う。「なんで明日仕事なんだよ」珍しく強いオーストラリア訛りでルカが言い、レインは声を上げて笑った。「月曜ってのはそういうもんだろ」ルカはソファから立ち上がり、数歩進んでから振り返った。レインはまだ座ったまま、ルカに顔を向ける。「レイン」「何だ」「今日、楽しかった」レインは一瞬だけ黙った。それから、ゆっくりとまばたきをした。「ああ、俺もだ」ルカに笑顔が広がる。「じゃ、主寝室の方、借りるね」ルカが廊下へ消えたあとも、レインはしばらく動かなかった。ルカを抱いていた腕と胸に視線を落とす。腕の中から消えた体温だけが、妙にはっきり残っていた。ルカの存在が眠気を誘うのは、ほぼ確定してよいだろう。もしここに歌が加わっていれば、静脈麻酔で落ちるようにソファで眠っていたかもしれない。レインは小さくため息をついて立ち上がった。主寝室から聞こえる水音を背に、自室の浴室へと向かう。帰国後すぐに主寝室をゲストルームとして整えた。自室は狭いが、使い勝手が良いから部屋替えはしなかった。そのうち、オランダから友人が尋ねてくるか可能性は十分にある。しかし——レインはシャワーのコックを全開にした。熱い湯を頭から落としても、一昨日見たルカの美しさを脳裏から消すことはできなかった。もはや、ルカ以外があのベッドを使う様子など、想像できなかった。◆ルカは借り物のTシャツと、洗いたての自分の下着を付けて浴室を出た。頭からバスタオルを被ったままでリビングへ戻ると、そこにレインの姿は無かった。奥の浴室からも水音はしない。「レイン……?」呼びながら部屋の方へ進むと、「なんだ」と応える声が半分開いたドアから聞こえる。「まだ寝ないの?」「ああ、俺はここでいい」レインは自室の椅子に座り、本を開いていた。褪せたカーキ色のTシャツに、黒のロングボクサーが太ももの筋肉をより目立たせている。「……なんで?」「昨日、きみが隣にいるだけで眠れた」「それなら、なおさら一緒に寝ればいいじゃん」ルカは畳み掛けるように言ったが、レインは少し黙った。「だからだ」意味が分からず、ルカは眉を寄せる。「眠れるからって、きみを隣に縛り付けておくわけにはいかない」胸の奥が、すっと冷えた。ついさっきまで、同じソファで身を寄せていた。それなのに、突然線を引かれた気がした。フローリングの床にある自分のつま先が、いつもより白く見える。「なにそれ?遠慮してんの?」「きみにはきみの時間がある。うちに泊まるから俺の隣で寝なければならない、という義務感を持ってもらいたくない」「レインはいつもそうやって決めつける」「決めつけてるわけじゃない」義務感や同情で、ルカが本来持っているべき選択を奪いたくないだけだった。至極まともでフェアな対応だと考えた。ルカに反論されることが、レインには少し意外ですらある。「……僕が、レインの隣で寝たいと言っても?」ルカには、勇気のいる言葉だった。「きみは優しいから、同情心からそう言うだろうね」ルカは思わず顔を上げた。「ふざけんな!義務?同情?」思ったより強い声が出た。けれど、止められなかった。「言っとくけど、僕はそんなお人好しじゃない」レインは黙っていた。「僕がここにいたいって言ってるのに、それすら僕の意思じゃないみたいに言うなよ!」レインの目が伏せられる。ルカは続けた。「二度と、勝手に違う意味にしないで」長い沈黙が流れた。ようやく、レインが小さく息を吐いた。「……すまない。俺が悪かった」本心だった。反論されてようやく、ルカを自分の型に当てはめようとしていることに気が付いた。——そして、自分に向けられているものが、同情でないかもしれないとも。ルカは身体の力を抜き、レインのベッドにすとんと腰掛けた。「レインがここで寝るなら僕もここで寝る」「ルカ」「嫌なら、僕を家から追い出せばいい」きっぱりとした口調に、レインが目を瞬いた。その口元が、ほんの少しだけ緩んだのを、ルカは見逃さなかった。「無理だ。このベッドは狭すぎる」そう言うと、レインは部屋の灯りを消し、主寝室へ向かった。クイーンサイズのベッドの傍らに立ちブランケットを剥ぐ。昨夜と同じように、隣を半分開けて、長駆を横たえる。ルカは、ベッドの下に敷かれてあるラグを軽く蹴った。そのまま勢いよく、レインの腹に飛び乗る。「っ!おい!ルカ!」「一回やってみたかったんだ」ルカはニンマリと笑ってから、そのまま上体を倒し、胸をレインに添わせた。首筋に額を埋める。「いい匂い」瞬間、レインの呼吸が止まった。両腕が、ルカの背をゆっくりと抱く。ルカはしばらく呼吸で上下する胸の厚みを楽しんだ。このまま、眠ってしまうのも悪くはないけれど——ルカは少し迷ってから、顔を上げた。「……もう、僕には触りたくない?」レインの目がこちらを向く。「逆だ」「え?」背中の腕が、ぐいとルカの腰を掴んで、そのまま下方へずらされる。「あ……」硬く、熱いものがルカの内ももに力強く当たった。「だから困ってるんだ」胸の奥が大きく鳴った。それだけで十分だった。ルカはレインの頬へ手を伸ばした。柔らかな無精ひげが指先をくすぐる。レインの体毛はブロンドに近く、ナイトスタンドからの灯りで輝いている。レインはすぐには動かなかった。ほんの数秒、ルカの顔を見つめる。それから、静かに唇が重なった。軽く啄むように、ルカの柔らかな唇にふれる。何度目かに、唇がわずかに開かれ、ルカの熱い舌がレインの唇を撫でる。「もっと深くして」そう唇に囁かれ、レインは息を飲んだ。抑えていたものが一気に溢れる。確かめるように、何度も唇が重なる。頬に触れ、髪を撫で、耳の後ろへ指が滑る。ルカは目を閉じた。触れてくる柔らかな感触と、発せられる荒い息。その乖離が、たまらなく嬉しかった。身体がぐいと抱き寄せられ、体勢が入れ替わる。レインの重みが背をマットレスに押し付け、Tシャツの裾から手が差し入れられた。指が腹をゆっくり撫で、肋骨の下を辿り、ルカが息を詰めた位置で一度止まった。「続けてもいい?」耳に囁かれた声は低く、鼓膜を揺らす。胸が疼く。ルカが頷くと、レインの表情が綻ぶ。自分が望んだことを、この人は嬉しそうに受け取る。何かを奪うためではなく、与えるために触れている。「いちいち聞かなくていい」「でもね……」「レインのものになりたいって言ったこと、もう忘れた?」即答すると、レインが低く笑った。「……忘れない。たぶん、一生」しばらく見つめ合う。それからレインは、ルカの額へ口づけた。頬へ。喉元へ。鎖骨を唇で押さえ、胸の先を舌でひと舐めしてから、下へ降りていく。触れ方はゆっくりだった。金曜の夜よりもずっと静かで、それなのに、ルカには今夜の方が深く感じられた。どこへ触れられるかよりも。どうして触れられているのかが、分かる気がしたからだ。レインはルカの硬くなっているものへ、一度だけ指を這わせ、顔を上げる。言葉はない。しかし、レインの瞳は、まるで懇願するかのように許可を訴えてくる。ルカは頷くことしかできなかった。最初に触れたのは、先端だけだった。 唇が、熱を包む。自分の熱なのか、レインの口の熱なのか、境がすぐ分からなくなった。舌が裏筋をゆっくり舐め上げ、腰が勝手に浮く。レインがそれを許さないかのように強く抑え、無意識にうめき声が出てしまう。根元を指で軽く握られ、そのまま、口の中へ沈んでいく。レインの呼吸の速さで、深く含まれては引かれ、また含まれる。唾液の音が、部屋の静けさの中ではっきり聞こえた。「見て」くぐもった低い声。反射的に見下ろすと、レインと目が合った。欲望に満ちて暗い瞳を閉じないまま、自分を含んでいる。欲しいものを、自分の速度でしか受け取らない顔だった。顎のシャープな線は、喉の奥までルカを受け入れている証だ。ルカは堪えきれず、レインの髪へ指を絡めた。声を抑えようとすると、レインがそれを止めるように、空いた方の手でルカの手を握る。「声、聞かせて」その一言に、胸の奥まで熱くなった。レインは再び深く含み、喉の奥をすぼませる。舌の腹で裏を押し、先端を締め付け、ルカが震えるたびに速さだけを少し上げた。視線が、時折ルカと交わる。見ている。見られている。しかしもう、ルカは耐えられなくなっていた。「レイン……!」目をきつく閉じ、名前を一度だけ呼んだ。吸い上げが強くなる。腰を押さえていた手が、太腿の内側へ移り、開かせる。最後まで離さず、舌で清めるように舐め取ってから、ようやく顔を上げる。レインは唇の端を親指で拭い、ルカの隣へ身体を戻した。しばらく、ルカはまともに息ができなかった。身体の奥に残った余韻が、まだ細かな震えになって手足まで走っている。レインは何事もなかったように、立てた肘で頭を支え、ルカを見ている。さっきまで自分をあれほど乱した男とは思えない静けさだった。それが妙に腹立たしい。ルカは横向きになり、レインを見る。「……ずるい」「何が」「僕だけ」レインの眉がわずかに上がった。ルカは視線を下げる。褪せたTシャツの下の胸。腹。そこからさらに下へ続く身体。自分は何も身につけていないのに、レインだけがまだ服を着たままだ。「足りない?なら、もう少し……」「ま、待って。僕はもう、よくて……」ルカは胸へ顔を埋める。「というと?」「したい。その……レインのを」レインの呼吸が、一瞬止まる。「……それは」「また、義務感だとか言ったら殴るよ?」レインは笑い声を上げた。「そこまで言うのなら……」声が低くなっていた。それだけで、身体が熱を思い出す。Tシャツの裾へ指をかけると、レインの腹がわずかに動いた。止められない。けれど、助けてもくれない。ルカはゆっくり布を持ち上げた。金曜の夜は、触れられることで精一杯だった。今は、自分から知りたいと思う。ルカは掌を腹へ置いた。温かい。鎖骨の下。肩。古い傷の縁。どれも白く薄れているものもあれば、まだ皮膚の色がわずかに違うものもある。レインの身体は大きい。自分が両手で触れても、到底すべてを知ることなどできない気がした。傷跡も、数えられない。でもそのことが、少しだけ嬉しかった。これから触れられるところがある。知っていくことができる。「……綺麗だね」レインが目を細めた。「何が」「傷」「傷を綺麗だと言う奴は初めてだ」「そう?」ルカは気にした様子もなく、一本の傷跡を指の腹でなぞった。「だって、レインの身体にちゃんと馴染んでる」「褒めてるのか?」「すごく」レインは少しだけ困ったように笑った。ルカの手がさらに下へ移る。脇腹に、斜めに走る傷があった。他のものより長い。肋骨の下あたりから、腹の横へ向かって伸びている。ルカの指が、その途中で止まった。「これは?」レインは一度だけ視線を落とした。ただ、見ている。その視線が怖いくらい真っ直ぐで、ルカの方が耐えられなくなった。ルカは傷の端を、壊れ物に触れるような慎重さではなく、ただそこにあるものを確かめるように撫でた。「話すの、辛ければ……」「いいんだ。きみになら」低い囁きが落ちる。その響きだけで、心臓が速くなる。レインは少し黙ったあと、何でもないことのように言った。「破片だよ」「何の?」「迫撃砲」ルカの手が止まる。レインはその反応を見て、すぐに続けた。「俺を狙ったわけじゃない」あまりにも平然と返されて、ルカは眉を寄せた。「そういう問題?」「重要な違いだ」レインは苦笑する。「基地に落ちた。着弾したところから少し離れてたんだが、飛んできた破片をもらった」「どこ?」「アフガニスタン」分かっていた答えなのに、その言葉を聞くと急に傷が生々しく見えた。ルカはもう一度、指の腹でそっと縁を辿った。「深かった?」「そこまでじゃない。腹壁まではいってない。運がよかった」「自分で分かるもの?」「ああ。出血の量と痛み方で大体は。ただ、さすがに自分で縫ってはいない」「当たり前だよ」ルカが思わず笑うと、レインも笑った。「同僚に診てもらった。麻酔して、洗浄して、異物を取って、縫合」「説明が完全に医者だ」「他にどう説明しろと」「普通はもっと、『すごく痛かった』とか」レインが少し考えた。「すごく痛かったよ」意外なほど素直な返事だった。ルカは顔を上げる。「その時、怖かった?」今度は、返事まで少し時間がかかった。「着弾した瞬間は、たぶん」「たぶん?」「考える暇がないからね。先に身体が動く。そう訓練されている」レインは自分の脇腹に置かれたルカの手を見た。「すぐに負傷者が来た。自分の傷を気にしてる余裕はなくなった」「レインも怪我してたのに?」「歩けたから」それで十分だと言わんばかりだった。ルカは眉を寄せる。「歩けたら働くの?」「もっと優先度の高い患者がいる間はね」「……軍医って、そういう感じなんだ」「医者だから特別というわけじゃない。あそこでは皆そうだった」ルカは黙った。傷の線を、またゆっくり撫でる。「他のも、そこで?」「全部じゃない」レインは肩近くの小さな傷を指した。「これは車両から機材を降ろしてて切っただけ」「え、普通」「傷にいちいちドラマチックな由来を期待するな」「ちょっと期待した」「これは訓練中」今度は前腕の薄い線を示す。「こっちは?」「搬送中に転んだ」「患者を?」「ああ。ストレッチャーを落としたくなくて、俺が下になった」ルカは一瞬黙ってから、じっとレインを見る。「……それは、すごくレインっぽい」「どういう意味だ」「自分の方が壊れてもいいと思ってるところ」レインから笑みが消えた。「そこまでは思ってない」「本当に?」問い返すと、レインは答えなかった。その沈黙に、ルカはそれ以上踏み込まなかった。代わりに、もう一度脇腹の長い傷へ触れる。「でも、やっぱり綺麗」「まだ言うのか」「うん」「あと一つだけ。この星型のは?」ルカは、鎖骨まで指を滑らせた。そこには星形に盛り上がった白い瘢痕がある。初めて見た時から、銃創だろうとルカは当たりをつけているものだ。「ああ、これは……」「銃創でしょ?」「まあね。でも、この話は次の機会に」「なんで?」「どうやらきみは傷跡が好きらしい。全部話すと、これから先に話題が無くなる」「……それって、また僕と……?」言葉はそこで途切れた。レインも、自分が何を口にしたのか遅れて気づいたらしい。ほんの一瞬、淡い瞳の奥に揺らぎが走る。けれど、取り消さなかった。「何だ」むしろ、続きを促すように訊く。その平静さが、ルカにはひどく眩しかった。——これから先。たったそれだけの言葉なのに、そこには明日より向こうの時間がある。今夜だけではない。次があり、その次があり、そのどこかにも自分がいる。レインの中で、それが無意識のうちに前提になっている。胸の奥に、熱が満ちた。幸福というものは、もっと静かに訪れるものだと思っていた。けれど実際には、息苦しいほどだった。嬉しい。ただそれだけの感情が、身体の内側に収まりきらず、別の熱へ姿を変えていく。目の前にはレインがいる。古びたTシャツの下に隠された厚い胸郭。むき出しの腕には、時間に磨かれた傷がいくつも残っている。その身体に、また触れられる。また触れたいと思っていいのだ。触れてほしいとも。そう意識した瞬間、さっきまで穏やかだった鼓動があからさまに速くなった。ルカはそれを悟られまいとするように、鎖骨の下の傷へもう一度指を置いた。「顔が赤い。平気か?」「レインのせいだよ」「俺?」「そう」「今日は軽めにしたつもりだったが」本当に心当たりがないような顔をする。その無自覚さが、今は少し憎らしい。ルカは傷から手を離し、そのまま掌をTシャツ越しの胸へ滑らせた。布一枚の下に、確かな体温がある。触れた瞬間、レインの呼吸がごくわずかに止まった。見逃すには小さすぎる変化。けれど、ルカには十分だった。この先を望んでいるのは、自分だけではない。そう知ると、不思議なほど勇気が湧いた。「これからも、隣で寝てもいいんだ、と思って」レインは黙った。「違うの?」今度は逃げずに、正面から訊いた。沈黙は長くなかった。「きみが嫌じゃないなら」ぼそりと、低い声が落ちる。胸の奥で、何かがひどく柔らかく崩れた。まただ。この人はいつもそうだ。自分から欲しがる代わりに、ルカの望みを差し出す場所だけを空けて待っている。まるで、そこへ何を置くかはルカが決めればいいとでも言うように。ルカは、レインのTシャツの胸元を掴んだ。「これ、邪魔」視線が自分の指へ落ちる。次に、Tシャツへ。最後に、またルカの顔へ戻った。次の瞬間には、もう裾へ両手をかけていた。腕を交差させ、一息に布を持ち上げる。腹部が露わになる。脇腹の傷が現れ、厚い胸が続き、最後に肩の輪郭が抜ける。鍛えられた身体が少し縮まり、頭を通したTシャツがするりと外れた。レインはそれを片手にまとめ、ろくに見もせずベッドの脇へ放った。あまりにも無造作で、それがルカの息を止めさせる。広い肩。胸郭。皮膚の上を走るいくつもの傷。そのどれも、昼の光の下で見るのとは違っていた。いま目の前にあるのは、ただの裸ではない。ルカの望みにより、脱いだ身体だった。その事実が、ルカの内側に火を落とした。レインが少し眉を上げる。「何だ」ルカは答えなかった。言葉にした瞬間、何かが薄まってしまいそうだった。だから代わりに、手を伸ばす。今度は布越しではなく、直接その胸へ。掌の下で、レインの身体が呼吸する。硬い筋肉も、ところどころに残る傷も、その下を流れる熱も、すべてが一つの身体に繋がっている。ルカはゆっくりと手を滑らせた。「……どうすればいい?」自分から触りたいと言っておきながら、何もわからなかった。経験がないわけではない。ただ、レインに対して抱いている感情が初めてだった。この気持ちを、どう伝えればよいのかがわからない。「好きにすればいい」レインは柔らかく微笑んで言った。「一番困る答え」「そうか?」「僕、レインみたいに何でも知ってるわけじゃないから」「俺だって、きみのことは手探りだ」さらりと言われて、ルカは顔を上げた。レインは笑っていなかった。「本当に?だって、あんなに……」——気持ちいいのに。「慣れてるのに」「そうでもない」「嘘だ」「本当だよ。きみの反応を見て、どうするか決めてる。そういうもんだろ」「そっか……」「そうだよ」自分だけが知らないわけではない。この人も、一つずつ覚えている。そう思うと、緊張が少しほどけた。ルカはまたレインの身体へ視線を落とした。肩から胸へ。胸から腹へ。指先が辿るたびに、皮膚の下の筋肉がごくわずかに動く。「ここは?」「尋問か?」「反応を見るって、習った」「誰に?」「生物学の先生」レインが喉の奥で笑った。その震えが掌に伝わる。ルカはそれが面白くて、また違う場所へ触れた。今度は笑わなかった。代わりに呼吸が少し深くなる。「今の、好き?」レインがこちらを見る。「……きみは本当に飲み込みが早い」「答えになってない」しばらく睨み合うように見つめ合ってから、レインが観念したように息を吐いた。「悪くない」「それ、レイン語で『好き』ってこと?」自分が触れることで、レインに変化が起きる。嬉しくて、少し楽しくて、とてもそそられる。ほんの少し呼吸が乱れる。腹に力が入る。声が低くなる。普段なら見過ごしてしまうほど小さな変化が、今夜は一つ残らず見える気がした。ルカは身体を寄せ、レインの胸へ口づけた。一度。少し場所を変えて、肋骨の谷間にもう一度。唇の下で、レインの呼吸が止まる。それだけで胸が高鳴った。「……ルカ」名前を呼ばれる。警告にも聞こえるし、懇願にも聞こえた。ルカは顔を上げる。レインの目が、今までルカへ向けていたものとは少し違っていた。——委ねられている?そう気づいた途端、胸の奥が熱くなった。こんなにも大きな身体を持つ男が。何かあれば自分より先に動き、いつも決め、守り、与える側にいる人が。今は、自分の手を待っている。ルカはゆっくりと手を下ろした。レインのそれは、ルカの掌が周りきらないほどだった。ベーシストとして指は長い方だと自負していたが、まるで足りない。その逞しさに、ルカは自分の喉仏が大きく上下するのが分かった。レインの表情を見ながら、自分なりに探る。少し変えれば、呼吸が変わる。また変えれば、目が閉じる。それを覚えていく。同じように触れているつもりでも、ほんのわずかな違いで返ってくるものが変わる。その反応を拾い、また試す。音と、同じだ——。レインが、極上の楽器に思えてくる。生身で、熱を持ち、世界で一番魅力的な。夢中になっているうちに、ルカの肩に置かれていた手が、いつの間にか強くなっている。時折、深く息を吐くのが分かる。レインは感情を隠すのがうまい。苦痛にも、疲労にも、たぶん長いあいだそうしてきたのだろう。けれど、快楽まで完全に隠せるわけではないらしい。呼吸が少しずつ崩れていく。眉間に力が入る。ルカの名を呼ぼうとして、途中で飲み込む。「気持ちいい?」訊くと、レインは薄く目を開けた。「ああ」「ほんとに?」尋ねると、レインの手が重ねられた。「続けて」甘い囁きが、ルカの腰に響く。指の力をほんの少しだけ強め、上下に動かす。今までより自信を持って。いま知ったばかりのレインの反応を、一つずつ確かめながら。やがて、レインの身体に張りつめたものがはっきりと分かるほどになる。肩が硬くなる。呼吸が止まる。それから。「ルカ」強く名前を呼ばれた。いつもの落ち着いた声ではなかった。「うん」「……もう」レインは目を閉じた。次の瞬間、身体が大きく強張る。ルカは動けなかった。目を離せなかった。いつも余裕があって、何でも知っていて、自分よりずっと遠いところにいるように思えた男が。自分の手で。快感を与えられたこと以上に、その事実が嬉しかった。自分にも、この人へ渡せるものがある。歌だけではない。眠りだけでもない。レインは束の間目を閉じていた。「……どうだった?」淡い瞳が開く。「採点されたいのか」「気になる」レインが笑った。珍しく、少し疲れたような笑いだった。そのまま腕を伸ばし、ルカを引き寄せる。素直に胸元へ収まると、大きな腕が背中を包んだ。ルカはまだ少し興奮していた。「……よかったよ」「それだけ?」レインが呆れたように息を吐く。「そうだな……」髪を撫でられる。その手つきがあまりにも優しくて、さっきまでの熱とは別のものが胸に広がった。「……話しておくべきか、迷った」低い声だった。ルカは思わず顔を上げる。「え、なに……?」「ああ、大丈夫だ。不安になるようなことじゃない」「わかった。何でも聞く」ルカは再び、レインの胸元に頬を寄せた。胸に腕を回し、文字通り抱きつく。どんな話を聞かされるのか正直慄いたが、レインの言葉を信じた。「俺は……欲がなかった」ルカを抱く腕に少し力が入った。「なくそうとしたわけじゃない。身体が反応しなくなった。触れても、見ても、何も起きない。長いこと、そうだった」ルカの指が、シーツの上で止まる。「不眠と同じくらい?」「ああ。原因も同じ」レインは少し間を置いた。「もう戻らないと思ってたんだ。それが……」淡い瞳が、ルカから逸れない。「最初は、きみの歌のせいかと思った。眠れるようになったのと同じで、何か身体に作用してるのかと」「それで?」「違うらしい」「どうして分かるの」レインがわずかに息を吐いた。「歌がなくても、きみがいると眠れる。他のだれでもない。それに似て……」そこで言葉を切る。「きみに触れると、身体が反応する」ルカは黙って、これが聞き間違いでないことを祈った。「……僕だけ?」レインの胸が、一度だけ深く上下する。「ああ」短い返事だった。逃げ道も、言い訳もない。ルカは視線を落とした。「それって……」続きが出てこない。レインも急かさなかった。しばらくして、ルカは小さく笑う。「なんか、ずるいな」「何が」「そこまでは言うのに」レインの目がわずかに細くなった。「その先は、まだ言葉にはできない」ルカは顔を上げた。否定しようとして、できなかった。今ここにあるものを、軽い言葉にしてしまいたくない。かといって、あり大抵の言葉で口にできるほど、二人とも身軽ではなかった。「でも、僕も……そうかも」やっと、それだけ言える。レインの手が、胸に置かれたルカの手へ伸びる。指先が触れ、そのまま静かに重なる。「俺は……」レインの呟きを、ルカは待つ。「どうでもいいと思ってるわけじゃない」きっぱりとした口調だった。ルカは重なった手を返し、レインの指に自分の指を絡めた。「僕も」何を、とは言わなくても分かる気がした。今夜だけで終わらせたくないことも。身体だけのものにはしたくないことも。けれど、まだ約束には変えられないことも。レインは握りあった手を口元に持っていくと、ルカの指に、小さくキスをした。全ての大切な関係に、名前があるとは限らない。