第2話 カレー
第2話 カレー
あれから、一週間ほど経った。 特に、何かがあったわけではない。 朝になれば、はじめは六時頃に起きる。 朝食を作り、ニュースを流し、シャワーを浴びる。 仕事があればピンクのMacBook neoを開き、なければ洗濯をしたり、掃除したり、 映画観たり、買い物へ出たりする。 夜になれば夕食を作る。 酒を呑む。 呑めば、食事とは別に、つまみも食べる。 そうして眠くなれば、寝る。 隣の部屋からは、朝早くドアの開く音がする日もあれば、少し遅い日もあった。 廊下で顔を合わせれば、「おはようございます!」「おはよ~。行ってらっしゃい。」 それくらいの会話はする。 夜なら、「こんばんは!」「おかえりなさい。」 それだけ。 隣の青年――晴田輝は、相変わらず元気だった。 ボルシチの保存容器は、とっくに棚へ戻っているし、 二人の生活は、それぞれ別々に続いていた。 * その日の午後。 はじめはスーパーの精肉売場で、100g78円の鶏むね肉のパックを手に取った。「よし、今日はカレーにしましょ。」 特に理由はない。 食べたくなったからだ。 じゃがいも。 にんじん。 玉ねぎ。 福神漬け。 家にはまだケチャップもソースもある。 めんつゆもある。 カレールーの棚では、いつもの箱を二つ。 バーモントカレーの甘口と、中辛。 両方をかごに入れた。 * 十七時。 キッチンに立つ。 鶏むね肉を取り出し、皮を剥ぐ。 皮は捨てず、小さなアルミホイルの上へ。 塩をほんの少し。 オーブントースターへ入れる。 その間に肉を切る。 玉ねぎ。 にんじん。 じゃがいも。 じゃがいもは、少し小さめ。 煮崩れるくらいが好きだった。 鍋に油を引き、具材を炒める。 水を入れ、煮込む。 しばらくすると、トースターから香ばしい匂いがしてきた。「あら、いい感じ。」 取り出した鶏皮は、きつね色になっている。 箸で持ち上げると、ぱり、と音がした。「これよ、これ。」 小皿に移して、柚子胡椒を少し。 一枚つまむ。「ん~。美味しい。」 カレーの中で柔らかくなった鶏皮の食感は好きではない。 でも、鶏皮そのものが嫌いなわけではない。 むしろ、好きだ。 カリカリなら。 もう一枚。「あら、……なくなっちゃうわね。」 小皿を遠ざけた。 * 鍋の中で、じゃがいもの角が少しずつ崩れてきた。「そろそろね」 火を止める。 甘口と中辛のルーを2:1で入れる。 もう一度、弱火。 木べらで混ぜながら、ケチャップ。 ソース。 最後に、めんつゆ。 少しずつ。 味を見る。「うん」 もう一口。「美味しい」 辛いものは嫌いではない。 むしろ好きだ。 ただ、辛さが味ではなく痛みや苦味になるのは嫌だった。 辛ければ辛いほど偉いわけでもない。 美味しく食べられるのが一番いい。 だから、はじめのカレーはこのくらい。 もっと辛くしたければ、食べるときに調節すればいい。 鍋をひと混ぜする。 とろりとしたカレーの中で、じゃがいもは半分ほど形を失っていた。「よし。」 そして。 鍋を見た。「…………。」 木べらを持ったまま、もう一度見る。「あら~。。。」 多い。「また作りすぎちゃったわね~。」 一人暮らしなのだから、いい加減覚えてもよさそうなものだった。 明日も食べればいい。 冷凍してもいい。 カレーなら困らない。「…………。」 ふと、棚を見る。 保存容器が並んでいる。 その中の一つ。 一週間前、一度隣の部屋へ行って、きれいに洗われて戻ってきたもの。「あの子、カレー食べるわよねぇ。」 たぶん。 食べないということはないだろう。 でも。「まあ、聞いてみましょっ。」 保存容器を取り出した。 * 十九時半。 ピンポーン。「はい。」 インターホンの向こうから、聞き覚えのある声。 少しして、ドアが開いた。「あ。」「こんばんは~。」「こんばんは!」 輝はTシャツにスウェット姿だった。 髪が少し濡れている。 どうやらシャワーを浴びたばかりらしい。「ごめんなさいね。また突然。」「いえ、全然。」「あのね〜。」 はじめは保存容器を両手に持って、少し持ち上げた。「また作りすぎちゃったのよ。」 輝が容器を見る。「今日は何ですか?」「カレー。」「あ、食べます。」「早いわね〜。」「カレー好きなんで。」 はじめはクスクスと笑った。「じゃ、どうぞ。」「ありがとうございます!」 容器を渡す。 ずしりと重い。「チキンカレーよ。鶏むね肉。」「むね肉なんすね。」「あたし、むねとかササミの方が好きなのよ〜。」「へえ?」「皮も取ってあるから。」「あ、それありがたいです。」「あら、そう?」「脂質、ちょっと減るんで。」「そういうものなのねぇ。」 はじめは、うんうんと頷いた。「まあ、あたしは食感が嫌だから取ってるだけなんだけどさ。」「皮、嫌いなんですか?」「好きよ。」「え?」「カリカリに焼いて、柚子胡椒つけて食べたわよ〜。」「食べてるじゃないですか。」「だって美味しいですもの。」 輝が笑った。 はじめも笑う。「福神漬け、いる?」「欲しいです!」「じゃ、ちょっと待ってて。」 一度部屋へ戻り、小さな容器に入れた福神漬けも渡した。「はーい。」「ありがとうございます!」「じゃ、ごゆっくり。」「はい。いただきます!」「おやすみなさい。」「おやすみなさい!」 ドアが閉まった。 * 輝は、もらったカレーを温めた。 炊いてあったご飯を大きめの皿によそう。 その横へ、カレー。 福神漬けも添える。「いただきまーす!」 一口。「うまっ。」 もう一口。 鶏むね肉は柔らかい。 じゃがいもはかなり煮崩れていて、それがルーに溶け込んでいる。 辛さは強くない。 でも甘いだけでもない。「こういうのでいいんだよな〜。」 練習後の身体には、ちょうどよかった。 食べ進める。「…………?」 スプーンが止まった。 もう一口。「……なんか。。。」 知っている。 この味。 ボルシチのときにも、似たようなことを思った。 でも、今回はもっとはっきりしている。「母ちゃんのカレーに似てる?」 もちろん、同じではない。 実家では鶏肉だったり豚肉だったりした。 じゃがいもも、ここまで溶けてはいなかった気がする。 それでも、どこか似ている。「なんだろ。」 考えながら食べる。 分からない。 結局、最後まで食べた。「うまかったな。」 空になった保存容器を洗う。 明日、返そう。 * 翌朝。 輝は、昨日の保存容器を持って隣の部屋を訪ねた。 インターホンを押す。「はーい。」 しばらくして、ドアが開いた。「あら、おはよ~。」「おはようございます。これ、ありがとうございました。」「あら。またすぐ返してくれたの?」「はい。昨日全部食いました。」「若いわねぇ。」「カレー、うまかったです。」「ほんと?良かったわ〜。」 はじめが容器を受け取る。 輝は少し考えてから言った。「あのっ。」「ん?」「何入れてます?」「カレーに?」「はい。なんか、うちのカレーにちょっと似てたんですよね?」「あら〜。」「でも、何が同じなのか分かんなくて。」「普通よ?」 はじめは指を折る。「バーモントの甘口と中辛でしょ。ケチャップ。ソース。それから、めんつゆ。」「…………めんつゆ。」「そう。」「あぁ。」 輝の顔が変わった。「それだ。」「なに?」「母ちゃんも入れてました。めんつゆ。」「あら!」「だからか〜。」 納得したように笑う。「へえ~。お母様も入れるのね?」「はい。なんで入れてるのか聞いたことなかったですけど。」「美味しくなるのよ〜。」「確かに。。。」「じゃ、お母様と気が合うかもしれないわねぇ。」「かもしれないっす!」 輝は時計を見る。「あ、やば。行かないと。」「あら。引き止めちゃったわね。」「いや、大丈夫です。ごちそうさまでした!」「はい。行ってらっしゃい。」「行ってきます!」 輝が廊下を駆けていく。「気をつけてね~。」 階段を下りる音が遠ざかる。 はじめは部屋へ戻った。 保存容器をキッチンへ置く。「めんつゆねぇ。」 少しだけ笑う。 特別なものを作ったつもりはなかった。 いつものカレーだ。 自分が好きだから、そう作っているだけ。 隣の青年が育った家でも、たまたま同じものを入れていた。 それだけ。 容器を棚へ戻す。 これで二度目。 また、いつもの一日が始まった。