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第4話 おでん

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第4話 おでん

昼間は、まだ暖かかった。上着がなくても困らないし、日が差せば少し暑いくらいだった。けれど、夜になると違う。窓を少し開けていたら、冷たい風がカーテンを揺らした。「あら」はじめは窓を閉めた。ほんの少しだけ、肌寒い。寒いというほどではない。暖房をつけるほどでもない。そういう夜があったのだ。

なので、ついつい。「……おでん食べたい。。。」一度思ってしまうと、もう駄目だった。

次の日には、材料を買い集めた。大根は、上の方を半分より少し多めに使った。厚めに切って五つ。皮を剥いて、面取りをして、片面に十字に包丁を入れる。
下茹でしておく。こんにゃくは、両面に細かく切り込みを入れた。臭みを取るために軽く湯通し。さつま揚げ、ごぼう巻きは油抜き。

ゆで卵にしらたき。じゃがいもはメークイン。それから昆布と、牛すじ。味付けはヒガシマルのおでんの素。「こういうのは、便利で美味しければいいのよ。」誰に言うでもなく呟いて、大鍋に具を入れていく。一つ一つは、それほど多くない。大根が五つ。ゆで卵が四個。こんにゃく一枚。練り物だって、それぞれ一袋ずつ。なのに。全部が鍋の中に収まった頃には、明らかに一人分ではなくなっていた。「…………多いわね。」しばらく鍋を眺めた。まあ、おでんだし。蓋をした。夜になる頃には、部屋いっぱいに出汁の匂いが広がっていた。はじめは大根とこんにゃく、牛すじ、それから卵を器に取った。柚子胡椒を少し。冷やの純米酒をグラスに注ぐ。「いただきます。」大根を箸で割る。中まで熱い。薄めの汁をたっぷり吸ったところに、柚子胡椒の香りと辛みが立つ。「んー。」酒を一口。旨い。こんにゃくを食べて、また一口。牛すじをつまんで、もう一口。おでんは美味しくできた。酒も美味しい。それで十分だった。時計を見ると、八時を少し過ぎていた。「今日は遅いのかしらね。」口に出してから、もう一杯注ぐ。別に待っているわけではない。そもそも、輝に食べさせるために作ったわけでもない。自分がおでんを食べたくなったから作った。そして、いつものように作りすぎただけだ。ただ。鍋には、まだたくさん残っている。あの子なら結構食べるでしょうね。そんなことを思った。まあ、帰ってきたら聞けばいい。食べるなら、分けてやればいい。それだけだ。もう一口、酒を飲んだ。九時を過ぎた頃。外から、聞き慣れてきたスクーターのエンジン音がした。「あ。」グラスを置く。エンジンが止まる。少しして、階段を上がってくる足音がした。はじめは立ち上がった。輝が階段を上りきると、隣の部屋の玄関が開き、人が立っていた。「むむ。おかえり。今日は遅かったのね。」「……ただいまです。」Tシャツ。トランクス。その上に、ちゃんちゃんこ。頬が少し赤い。輝は一度、自分の部屋のドアを見た。それから、はじめを見た。「……飲んでます?」「飲んでるわよ。」「ですよね〜。」「おでん。」「はい?」「おでん作りすぎちゃったのよ……。」「またですか。」「美味しくできたの。」輝は少し黙った。「……なんで俺に報告してるんですか?」「食べる?」はじめの部屋から、いい匂いがしていた。昆布と醤油と、何か肉のような匂い。正直、旨そうだった。「うわ……食いたいですけど。」「食べていきなさいよ。」「いや、今日は無理です。」「…………。」「練習のあとミーティングがあって、そのままみんなで飯行ってきたんですよ。」「…………そう。」はじめの肩が、目に見えて落ちた。なんでだ。「いや、本当に美味そうなんですけど。もう結構食っちゃったんで。」「そうよねえ……。」「これ以上食ったら、さすがにカロリーオーバーなんで。」「そうよね。」「……。」なんでそんなにしょんぼりするんだ。「いいのよ。別にあなたのために作ったんじゃないもの。」「じゃあ、なんでそんな顔してるんですか?」「してないわよ。」している。「……明日なら食べます。」「ほんと?」顔が上がった。「はい。明日なら。」「じゃあ明日ね。」「はい。」「おやすみ。」「おやすみなさい。」はじめは、妙に機嫌よく部屋へ戻っていった。輝はその背中を見送った。「……なんなんだ、あの人。」自分の部屋の鍵を開ける。それでも、鼻の奥にはまだ、おでんの匂いが残っていた。翌日。仕事を終えたはじめは、大鍋の蓋を開けた。「……まだこんなにある。」当たり前だった。昨夜、一人分しか減っていない。大根も、卵も、こんにゃくも。まだたっぷり残っている。汁を少し味見する。昨日より出汁が馴染んでいる。美味しい。けれど。「同じ味で食べ続けるのもねえ。」冷蔵庫を開ける。奥に、真空パックがあった。実家から送られてきた黒はんぺん。「あった。」はじめは、それを取り出した。「……しぞーかにするか。」濃口醤油を足す。味を足すというよりは、色を付けるためだ。昨日まで淡い色だった汁が、ぐっと濃くなる。牛すじも追加した。黒はんぺんも入れる。小鍋には赤味噌。砂糖を加えて、おでんの出汁でゆるく伸ばす。だし粉と青のりも用意した。鍋の中は、昨日とはまるで違う色になった。「うん、よし。」満足して、蓋をした。夜。チャイムが鳴った。「はーい。」ドアを開けると、輝が立っていた。「おでん食いに来ました。」「はいはい。どうぞ。」昨日とは違って、ちゃんと腹を空かせてきたらしい。輝は部屋に入るなり、鍋の方を見た。「昨日、めちゃくちゃいい匂いしてたんですよね。」「そう?」「帰ってから、食えば良かったかな?ってちょっと思いました。」「駄目よ。食べてきたなら食べなくていいの。」「昨日は食えって言ってたじゃないですか。」「昨日の私は酔っ払いよ。」「便利ですね、それ。」「便利なのよ〜。」はじめが鍋の蓋を取った。輝が覗き込む。止まった。「…………。」「なに?」「……これ、昨日のおでんですよね?」「そうよ?」「黒くないですか?」「しぞーかにしたから。」「しぞーか?」「静岡おでん。私の地元のおでん。」「昨日、こんな色じゃなかったですよね?」「醤油足したもの。」「…………。」「あと牛すじ足して、黒はんぺんも入れた。」「なんか増えてる。」「細かいこと気にしないの〜。」輝はもう一度、鍋を覗いた。昨日食べるはずだったものとは、明らかに違う。「これ、しょっぱくないんですか?」「食べてみれば?」はじめは大根、こんにゃく、牛すじ、黒はんぺん、卵を器に取った。「はい、召し上がれ。」「なんか横にいっぱいありますけど。」「甘味噌。こっちがだし粉と青のり。」「どうすればいいんですか?」「好きに。」「好きに?」「味噌つけてもいいし、だし粉と青のりでもいいし。全部でもいいわよ。」「全部?」「そう、全部。」輝は少し考えて、まず大根をそのまま食べた。箸を入れると、すっと割れた。一口。「……あ。。。」「なに?」「見た目ほど濃くない。」「色が濃いだけよ。昨日から煮てるんだから、そんな味濃くしたら食べられないでしょ?」もう一口。「これ、うま。」「でしょ?」はじめの声が、少し弾んだ。輝は甘味噌を少しつけてみる。「うわ。これも合う〜。」「だし粉もかけてみなさいよ。」「はい。」「青のりも。」「はいはい。」「黒はんぺんも食べて。」「今食ってますって。」黒はんぺんを一口。輝の眉が上がった。「……これ、はんぺん?」「黒はんぺんね。」「俺の知ってるはんぺんじゃない」「でしょうね。」「なんか魚っぽい。」「魚でできてるんだから当たり前でしょ。」「普通のはんぺんも魚じゃないですか。」「そうね。」「なんなんすか。」はじめが笑った。輝も笑った。「もう一個いいですか、これ。」「食べなさい、食べなさい。まだあるから。」「じゃ、大根も。」「卵は?」「食べます。」「牛すじもまだあるわよ。」「それも。」「じゃがいもは?」「……はじめさん。」「なに?」「俺、まだ口の中に大根あります。」「食べ終わってからでいいわよ。」「そういう意味じゃなくて。」また、はじめが笑った。結局、輝はよく食べた。大根をもう一つ。黒はんぺんも追加して、牛すじも食べた。メークインは煮崩れず、箸で割ると中まで出汁を吸っていた。「これもうま〜。」「そう?」「はい!」「じゃあ、もう一個――。」「いや、今日はここまでにします。」「あら。まだあるのに。」「あるかどうかじゃなくて。俺、一応、食事も仕事の内なんで。」「あ、そうだった。」「忘れないでくださいよ。」「だって、よく食べるんだもの。」「食べますけど。」輝は箸を置いた。「ごちそうさまでした。」「はい、お粗末さまでした。」「ほんと美味かったです。」「そう。良かった。」はじめは器を重ねた。「また作りすぎたら呼んでください。」「作りすぎる前提なの?」「作りすぎるでしょ?」「失礼ね。」「違うんですか?」はじめは少し考えた。「……まあね。」「じゃあ、また。」「はいはい。おやすみ。」「おやすみなさい。」輝が隣の部屋へ帰っていく。ドアが閉まる音がした。はじめは食器を流しへ運んでから、大鍋を持ち上げた。昨日より、ずいぶん軽い。蓋を開ける。あれだけあった具も、ちゃんと減っていた。「……よく食べるわねえ。」そう言いながら、はじめは少しだけ笑った。