第5話 キッチンカー
第5話 キッチンカー
洗濯物を干し終えたところで、はじめは空を見上げた。 雲ひとつない、というほどではない。けれど、白い雲は高いところをゆっくり流れていて、日差しを遮る気はまるでなさそうだった。 九月。 暦の上では秋になったというのに、ベランダに立っているだけで腕がじりじりする。「……これは昼飲み決定ね。」 誰に聞かせるでもなく呟いて、空になった洗濯籠を抱えた。 日曜日は休む。 何年か前から、そう決めている。 家で仕事をしていると、いつからが仕事で、どこからが休みなのか分からなくなることがある。朝起きて少しだけと思ってパソコンを開き、気づけば昼を過ぎ、夕飯を食べたあとにまた続きを始める。 好きで始めた仕事ではあるが、それでは生活の全部が仕事になってしまう。 だから日曜だけは、なるべく仕事をしない。 締切が本当に危なければ話は別だが、それはそれである。 今日は何も危なくない。 ならば、休む。 それも全力で。 昼食はまだ食べていなかった。 稲毛海浜公園まで行けば、常設のカフェがある。今日は日曜だからキッチンカーも来ているはずだ。 サメバーガーが来ていたら最高だ。「よし。」 いそいそと支度を始める。 ノースフェイスの赤い短パンに、外出用の白いTシャツ。九月とはいえ、この日差しを舐めてはいけない。顔、首、腕、脚。露出しているところには念入りにアネッサを塗った。 白いキャップ。薄い青色のレンズのサングラス。 黒い、細かなエンボスの入ったUVカットのカーディガンは袖を通さず肩へ掛ける。 足元はクリア素材のギョサン。 歩きやすいし、何より可愛い。 財布はクアトロガッツのポキート。ハイライトメンソールにミニトーチ、iphone 16 Pro Max。それらを赤い合皮のミニボストンへ放り込む。 最後にタオル地のハンカチを短パンのポケットへ差し込んだ。「ん。完璧。」 玄関の鏡を一度だけ見て、はじめは家を出た。 * 同じ頃。 晴田輝は、ベッドの上で大きく伸びをした。「……十二時?」 枕元の時計を見て、もう一度見る。 十二時だった。「あー……半日寝ちゃったか。」 休日だから、今日は昼まで寝よう。 昨夜そう決めて寝たのだから、予定通りといえば予定通りである。 日頃の練習の疲れもあったのだろう。途中で目を覚ました記憶すらない。 それでもカーテンを開けて、眩しいほどの青空を見ると、少しだけ惜しいことをしたような気分になった。「勿体なかったかなあ。」 言ってから、首を振る。「いやいや。まだ半日あるじゃん。」 天気もいい。 だったら海まで走ろう。 決めてしまえば早かった。 どうせ帰ってきたら汗だくになる。シャワーはそのときでいい。 トレーニング用ほど本格的ではないが、機能性の高いTシャツに、メッシュ素材の七分丈のパンツ。黒いキャップを被り、アンクル丈の靴下に足を通す。シューズは走り慣れたASICS。 スマートフォンは置いていく。 通信のできるApple Watchとイヤホンがあれば困らない。 途中で飲み物を買うため、小さな革財布だけを持った。 十二時十五分。「行ってきます。」 一人暮らしの部屋にそう声をかけて、輝は走り出した。 * 海へ向かって歩く道は明るかった。 はじめは日陰を見つければそちらを選び、日陰が途切れれば諦めて歩いた。 肩に掛けたカーディガンを着るほどではない。 風がある。 暑いけれど、真夏の空気とは少し違う。 こういう日は外で飲む酒が美味い。 今日の一杯目を何にしようかと考えていると、後ろから一定のリズムで足音が近づいてきた。 別に気にも留めなかった。 その足音が少しだけ乱れた。「……あれ?」 続いて、「はじめさん?」 聞き覚えのある声に振り返る。「あら。」 数メートル後ろで、輝が立ち止まっていた。 黒いキャップ。Tシャツ。七分丈のパンツ。 額にはもう汗が浮いている。「輝じゃない。何してんの?」「走ってたんです。はじめさんこそ、どちらへ?」「あたし? 昼飲みしに、ちょっとお散歩。」「昼飲み?」「そうよ。」 輝は空を見上げた。「……天気いいから?」「天気いいから。」 なぜか納得したらしい。「どこまで行くんですか?」「稲毛海浜公園。今日、サメバーガー来てると思うのよね。」「あ、俺も海まで行こうと思ってました。」「じゃ、一緒に行く?」「いいんですか?」「別にいいわよ。」 輝がはじめの隣へ並んだ。「あんた、走らなくていいの?」「結構走ったんで。帰り走ればいいし。」「そう。」 それだけだった。 二人は並んで歩き始めた。 *「あった!」 公園へ着くなり、はじめが言った。 キッチンカーの並びの中に、目当ての看板が見える。「そんなに美味いんですか?」「美味しいのよ。食べてみなさいよ。」「サメですよね?」「サメよ。」「どんな味なんだろ。。。」「だから食べてみなさいって。」 結局、輝も買った。 一口食べて、目を丸くする。「あ、美味い。」「でしょ?」「もっと変な味するのかと思ってました。」「サメに謝んなさいよ。」 はじめは自分のバーガーを齧りながら、ハイボールを飲んだ。 輝がそのグラスを見る。「ビールじゃないんですね。」「なんで?」「バーガーだから。」「ハイボールでいいじゃない。」「そういうもんですか?」「そういうもんよ〜。」 腹が落ち着いたところで、二人は木陰のカフェへ移動した。 ポテトを買った。 しばらくすると、輝がどこかへ消えた。 戻ってきた手には、焼きそばがあった。「はじめさん、これ美味そうじゃないですか?」「あんた、まだ食べるの?」「食べますよ。はじめさんも食べます?」「食べる。」「食べるんじゃないですか。」「一口よ。」 一口では終わらなかった。 二人で容器を挟んで、気づけば半分ほどなくなっていた。「これ美味しいわね。」「ですよねー。」 輝が嬉しそうに笑った。 しばらくして、飲み物を買い足しに立った輝が、小さな財布を取り出した。 はじめが、それを見る。「……あら。」「はい?」「それ、ポキート?」 輝が手元を見る。「そうです。知ってるんですか?」 はじめは赤いバッグをごそごそ探り、自分の財布を取り出した。「ほら。」「あ!」 二つの小さな革財布がテーブルの上に並ぶ。「同じじゃないですか!」「色は違うけどね。」「これ、便利ですよね。走るとき邪魔にならないし。」「そうなのよ。小さいくせに、お札を変な形に折らなくていいのがいいの。」「カードも入るし。」「小銭も結構入るしね。」 二人で財布を眺めた。「なんか、こういうの一緒なんですね〜。」「何よ、こういうのって。」「いや、なんとなく。」「変な子ねぇ。」 はじめは財布をバッグへ戻した。 それからまた、どうでもいい話をした。 輝の練習のこと。 はじめの仕事のこと。「はじめさんって、休みいつなんですか?」「日曜。」「決まってるんですね。」「決めてるのよ。家で仕事してるとね、いつ仕事してて、いつ休んでるのか分かんなくなるの。」「へえ。」「だから日曜は仕事しない。」「絶対?」「……締切が本当に危なかったらする。かもね。」「するんじゃないですか。」「うるさいわね〜。」 輝が笑う。 はじめも笑った。 木陰を抜けてくる風が気持ちよかった。 * カフェにいる間、輝は何度も海の方を見ていた。 正確には、その先に伸びる白いデッキを見ていた。「ねえ。」「はい?」「あんた、さっきからあれ見てない?」 図星だったらしい。「あれ、行けるんですか?」「行けるわよ。」「行ってみたいです。」「じゃ、行けばいいじゃない。」「一緒に行きましょうよ。」 はじめはグラスを見る。 もうほとんど残っていない。「いいわよ。」「やった!」「子供か。」 ホワイトデッキへ向かう輝の足取りは明らかに速かった。「ちょっと。速いわよぅ。」「あ、ごめんなさい。」 戻ってくる。「普段の癖で。」「脚の長さ考えなさいよ。」「はじめさんだって結構でかいじゃないですか。」「あんたは縦に。あたしは横にでしょ。」 海の上へ伸びる白いデッキ。 ラウンド状のバーカウンターで、はじめはまたメニューを眺めた。「あら。」「何かありました?」「テキーラある。」「まだ飲むんですか?」「そりゃ、飲むわよ〜。」 輝はアイスコーヒーにした。 外周の椅子へ並んで座る。 海から吹く風が、昼間に火照った肌を冷ましていく。「うわー!」 輝が声を上げた。「気持ちいいですね〜。」「そうね。」 しばらく、二人とも喋らなかった。 海を見ていた。 波の音。 遠くの人の声。 背後のバーカウンターから聞こえるグラスの触れ合う音。 はじめは氷のたっぷり入ったテキーラロックを少し飲んだ。「最高。」「はじめさん、本当に酒好きですよね。」「好きよ。」「何でも飲むんですか?」「飲めるのと、飲みたいのは別よ。」「違うんだ。」「違うわよ〜。」 輝は笑ってアイスコーヒーを飲んだ。 午後の日差しが、少しずつ傾いていく。 やがてスタッフがデッキの一角を整え始めた。「なんか準備してますね。」「夕方からあそこ、席変わるのよ。」「へえ。」 遠くで音楽が鳴り始める。「これから何かあるんですか?」「夕方からDJ入るの。」「はじめさん、そういうの好きなんですか?」「好きよ〜。」「見るんですか?」「踊るのよ。」「……踊るんですか?」 はじめがサングラス越しに輝を見る。「DJいて酒飲んでんのに、なんで踊らないのよ〜。」「ははっ。」「何よ?」「いや、はじめさんらしいなと思って。」「どういう意味よ。」 笑っているうちに、海が少しずつ橙色になっていった。 はじめは腕時計を見る。「そろそろ帰ろうかしら。」「もう帰るんですか?」「洗濯物。」「あっ。」「昼に干したのよ。取り込まないと。」「じゃ、帰りましょう。」 輝も立ち上がった。「あんた、帰り走るんじゃなかったの?」「今日はもういいです。」「そう?」「一緒に歩きます。」 はじめは特に何も言わなかった。「じゃ、帰ろ。」「はい。」 二人は海を背にした。 行きよりも長く伸びた影が、二つ並んでいた。 * 家へ着いて、はじめが最初にしたのは洗濯物を取り込むことだった。「セーフ。」 何がセーフなのかは自分でもよく分からない。 シャワーを浴び、部屋着に着替える。 昼間に随分食べた。 それでも、夕飯を抜く気にはならなかった。 冷蔵庫から豆腐を一丁取り出す。 半分に切って、二つの皿へ。 一つには、ニンニクと生姜を擦りおろし、鶏ガラスープの素とごま油を混ぜたものを乗せる。 もう一つにはキムチをたっぷり。 仕上げにノンオイルの青じそドレッシング。「こんなもんね。」 いつもの癖でグラスへ手を伸ばした。 氷を――「……いやいや〜。」 手を止める。「流石に、今日はもうよく飲んだでしょ〜。」 グラスを戻した。 代わりに湯を沸かす。 ルイボスティーを淹れて、二種類の冷奴を交互に食べた。「んー。うまっ。」 静かな日曜の夜だった。 * 輝はシャワーを浴びたあと、夕飯を用意した。 パックご飯。 納豆としらす。 鶏胸肉はレンジで加熱して、簡単なサラダチキンにする。 冷凍のブロッコリーも温めた。 いつもの飯だ。 昼間に色々食べたとはいえ、夕方になれば普通に腹は減っていた。「いただきます。」 納豆としらすを乗せたご飯を口へ運ぶ。 美味い。 鶏胸肉を食べる。 ブロッコリー。 また、ご飯。「……サメバーガー、美味かったな。」 焼きそばも美味かった。 ポテトも。 海も気持ちよかった。 あの白いデッキも。 箸を動かしながら、ふと思った。「はじめさん、今ごろ何食ってんだろ。」 口にしてから、少しだけ首を傾げた。 なんでそんなことが気になったんだろう。「……まあ、なんか作ってるか。」 それ以上は考えなかった。 再び箸を動かす。 窓の外では、もう日が沈んでいる。 ただの日曜日だった。 昼まで眠って。 海まで走ろうと思って。 途中で知っている人を見つけただけ。 それだけだったはずなのに。 なんとなく。 今日は一日が短かったような気がした。