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第九章59 『――じゃない』

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第九章59 『――じゃない』

――愛してる。

△▼△▼△▼△

――深く息を吐き、心の奥で、覚悟という弓の弦を引く。

「――――」

直前にやり取りした少女たち、特にペトラの思いやりには胸が痛んだ。素直さに乏しい小悪魔的な態度のメィリィや、ビジネスライクなフラムも、あれでしっかりこちらを慮ってくれていたようだし、ベアトリスを筆頭にいい幼女が揃っている。

「さすがは『幼女使い』ってとこか。どっちにとっても不名誉だわな」

呼ばれ始めた当初はともかく、ペトラたちもいつまでも幼いままではない。永遠に幼いベアトリスを連れている以上、本人からその異名が剥がれる日はこないだろう。無論、ベアトリスと仲違いすることがあれば話は別だが――、

「それができりゃぁ、な」

おそらく、この計画はもっと低い難易度で実現が可能だったはずだ。

実際、人間に友好的な陰属性の大精霊など、ベアトリスを除いてお目にかかったことがない。それもあって彼女はデザインされたものだと思うが、自分の知る『魔女』とは別の、『魔女』の係累が意図したところはわからない。

なんにせよ、陰属性の専門家であるベアトリスには、その出自も合わせ、計画に必須のファクターを解き明かされる恐れがある。だから、タイミングが重要なのだ。

契約で対象と魂で繋がっているベアトリスをも、禁術で取り込まなくてはならない。

「――――」

キリキリと音を立てて、弓の弦が確かに張り詰めていくのがわかる。

そうして、何度目にしても圧倒される光景、大量の本を収めた書架が広大なフロアを埋め尽くした『タイゲタ』の書庫に入り――見る。

「ムラク」

大精霊の万全のサポートを受け、短い詠唱で最大の効果を得たその男が、ぴょんと背の高い書架の上へと飛び乗り、そこに一冊の本をそっと隠したのを。

「――――」

遠目に本だとわかっても、それが誰の名を題した本なのかまでは見通せない。

この書庫にある『死者の書』はタイトル以外、どれも見た目が同じで、厚みにも区別がないのだ。考えてみればおかしな話で、幼くして五歳で病に倒れた子どもと、波乱万丈の人生を送った百歳の大往生、どちらも同じ厚さの本になんてなるはずがない。

ここがオド・ラグナの性質を利用した書庫であることは間違いないだろうが、それを本の形に出力するようにしたのは『魔女』のはずだ。

だったら、『魔女』はどうしてわざわざわかりにくい書庫なんて作り上げたのか。

「手に取ったときの一期一会に、余計な雑音を入れたくないじゃないか」

『魔女』の言いそうな発言、それを自分で口にしてみて、本当にそれが正解であるように思えてきて嫌な気持ちになった。

そもそも、『魔女』のことを思い出すのもできるだけ避けていたのに。――彼女が死んでしまってから、それまでの反動のように、『魔女』を思い出す。

『――誰も、ボクが創った君には勝てないよ』

一瞬、思った。ここが死者の人生を綴った本を収めた書庫ならば、当然、『魔女』の本もまた、ここのどこかにあるのだろうと。

そして――、

『――そら見よ、また妾の勝ちじゃ』

耳を塞ぎ、目を背け、魂で拒んで遠ざける声、その主の『死者の書』も、また。

「……何が、勝ちだったんだよ、プリシラ」

忘れ難い最後の、彼女との最期のやり取りの中、勝ち誇ったような笑みがあった。その笑みと共に告げられた勝利宣言、その意味が今もわからない。

わかったところでどうにもならない。すでに彼女はもう亡いのだから。亡いものとはもう、言葉を、想いを交わすことはできないのだ。

だが、一方的なものであろうと、理解を可能とするのがこの大図書館プレアデス。

「……馬鹿か、オレは。いや、馬鹿だオレは。そりゃ、ただの口実だろうが」

全ては計画のため、一度は放棄した『魔女』との策を成立させるために用意した、傷心の自分をあの男たちに慰めさせるためのカバーストーリー。

それに本気で心を揺らされるだなんて、ミイラ取りがミイラどころの話じゃない。

何より――、

「オレを救わないでくれ」

本を読んでしまったら、あの沈んでしまった太陽の眩さに今一度焼かれてしまったら、『後追い星』をやめた日と同じように、また自分は揺らぐかもしれない。

救われる価値のない愚かな星が、また。

だから――、

「――星が、悪かったんだよ」

その言葉で自分を諦めさせて、止まった足の歩みを再開、書庫を進む。

書架の上にひっそりと隠された一冊の本、タイトルの見えなかったその本が、しかし誰の名を題した本であったのか、それは見なくてもわかった。

あの男がこそこそと、自分に都合が悪いと思って隠す『死者の書』があるとしたら、その本のタイトルは一個しかない。――そしてその本を見つけ出すこともまた、この計画を実行するために必要なパズルのピースだった。

探し出したかった二冊の本、自分とあの男の『死者の書』は見つかった。

ならばあとは、決行の時――、

「やれやれ。まるで図書館で悪さ働くいたずらっ子だな……」

そうこぼし、頭を掻いている男の背中にゆっくりと歩み寄る。こちらの接近に気付いていない相手は、今しがた本を隠した書架から離れながら、

「探究心の塊のエッゾさんに見つかったらマズい……っていうか、今後もどしどし大勢出入りする可能性もあるんだし、全部処分しなきゃか? 全部で何冊――」

「――処分って、何をだ、兄弟?」

「――っ」

ブツブツと呟く背に声をかけた瞬間、相手は大げさに肩を跳ねさせた。ゆっくり、こちらを振り向く男の表情は微かに強張り、後ろめたいことをしていたのが見え見えだ。

そんな隠し事の下手な相手の反応に、あえて大きく肩をすくめ、

「オイオイ、ビビりすぎだろ。世間話振っただけだぜ」

「……ああ、悪い悪い。独り言聞かれるのって、だいぶバツ悪いじゃん?」

「その気持ちはわからなくねぇが、それで悪者にされちゃ困るぜ、オレ」

「悪者って……」

首を傾げる相手に顎をしゃくり、その意識を後ろに向けさせる。と、そちらからトテトテと可愛らしい靴音を立ててベアトリスがやってくる。

彼女はその小さな体でこちらと相手の間に割って入り、頬を膨らませて、

「こら、お前、いきなりスバルを驚かせるんじゃないのよ。ベティーの見てないところだと、スバルは蚤の心臓ってやつかしら」

「蚤の心臓……兄弟がぁ? そんなタマじゃねぇと思うがな」

「それが俺の図太さとか図々しさ由来の評価だってんなら甘んじて受けるけど、俺の何を見て知ってそんな風に思うんだよ」

「――そうだな。ま、兄弟が思ってる以上に実は色々知ってるかもだぜ?」

自分を庇うベアトリス、その頭にポンポンと手を置きながらの男の言葉に、少し考えたあとで無難な回答をするのに留める。

今ここで話題にした以上の情報――それこそ、この世界にくる前の、両親との微妙なすれ違いや劣等感、そうしたものまで知っていると言えば、どう思うだろうか。

もちろん、そんな愚かな真似はしない。そういう衝動的な気持ちに駆られたことは何度もあったが、そのたび、兜の金具を弄って堪えてきた。

思案するときのルーティン、計画を忘れるなと自分を戒める金属音だ。

「ずいぶんと意味深なのよ。ベティーの前で、スバルについて詳しいだなんてよく言えたものかしら。精霊と契約者のスイートな関係を甘く見てるのよ」

「スイートなだけにな。やれやれ、熱々な蜜月を邪魔して申し訳ねぇよ」

カチカチと兜の継ぎ目を弄るこちらに、腕を組んだベアトリスはいたくご立腹だ。その機嫌を損ねまいと肩をすくめると、相手はぎこちなく自分の頬を指で掻いて、

「いや、気にすんなよ。俺とベア子は時間が許せばイチャイチャしてるんだし、今はほら、あれだ。こっちの書庫の方が最優先、だろ?」

「何から何までご配慮ありがとう、だ。いや、これが冗談抜きに、改めて礼を言わせてくれ。ほんの三日でも、オレのために時間を切るのはしんどかったはずだろ。ベア子ちゃんも、兄弟を付き合わせて悪ぃ。一緒にきてくれてありがとよ」

「ベティーとスバルは二人で一人だから、一緒なのは当然かしら。――あと、ベティーは何度も同じ注意をしてやるほど慈悲深くないから、ちゃんと自分で改めるのよ」

「了解、了解。――お優しいね、おたくの子」

「ん、そうなんだ」

どうにも歯切れ悪く苦笑する男、その手をそっとベアトリスが柔らかく握る。

何やら会話が弾まない。打てば響く、というと自分と相手の相性がいいみたいであまり嬉しくないが、それでも会話のキャッチボールはテンポよくできていたはずだ。それがこうもギクシャクするのは、よほど都合の悪いものを見られたと思ったか。――あるいは、こちらの予想と違うタイトルの本を隠したからか。

例えばそれは、先ほど自分が思い浮かべた二冊の本、そのどちらかとか。

「アル、その、調子どうだ?」

「――。なんだよ、その距離感掴みかねてる思春期の親みたいな質問。……見ての通り、成果は挙がってねぇよ。三日もあればと思ったけど、さすがに途方に暮れるわ。この本の数、マジで砂漠に針一本落としたレベルじゃね?」

「――っ、でも、諦めるなよ。ちゃんと探そう! 俺も、力になるから!」

「オイオイ、兄弟?」

かと思えば、ぐっと前のめりになった相手の勢いに思わずのけ反る。

力になると、相手は何度も何度も、変わることのない誠意をこちらに誓った。それが嘘だとも、それ自体を腹立たしいとも思わない。――なにせ、期待していないのだ。

一番の期待は、してほしかったことは、してもらえなかった。

だから――、

「ここにきたがったのがどっちかわかんなくなる気迫やめろっての。オレまで、兄弟みてぇに暑苦しくなんなきゃ筋が通らねぇじゃん」

「なれよ。なろうぜ、必死に。三日、全力でやり切るんだよ。それを……」

声が震える。――こちらではなく、相手の声が震えるのを聞いた。

感情移入しすぎ、あるいは一度は過ぎたはずの波が寄せ返し、感情がぶり返したのかもしれない。惜しむ気持ちも悔やむ気持ちも、人並み以上に感じる。それはわかる。

それが自分とこの男と、世界でたった二人だけが持ち合わせた、権能という呪い。

ただそこに、それで愛するものを救える男と、救えない自分がいるだけ。

そして、男のその愛を許し続ければ、やがて生まれる。――世界を終わらせる存在が。

それを止めるために、せめて、自分は『後追い星』の使命を――、

「――スバル」

声を震わせ、俯いた男と手を繋ぐベアトリスが、その名前を静かに呼んだ。

呼びかけに込められた感情は静謐として、その可愛らしい外見とは裏腹の、彼女もまた長い時を生きる大精霊であることを証すような、神秘的な荘厳さがあった。

「――――」

大精霊の呼びかけに、当の本人は息を詰めたまま話せない。

その反応に、また兜の継ぎ目を指で弄りながら、決める。――あと一言か二言、言葉のラリーを行ったところで、仕掛ける。

相手の言う通り、この塔で書庫を捜索する期間は三日。日程が消化されればされるほどに、頭は別のことに回り始める。故に、そうなる前に動く。

「――三日、それじゃダメなのか?」

絞り出したような男の言葉、どうしてか縋り付くように聞こえたのは、こちらもまたナーバスになっている証拠だろうか。――少し、考えてしまう。

三日、相手の言う通りに『死者の書』を探して、もし仮に見つかって、いなくなった女が最期に遺した想い、それを余さず知れたなら、どうなるだろうか。

確信を以て言える。――どうにもならない。

この傷が癒えることも、痛みが消えることもない。そもそも、それを望まない。

だから、相手が投げかけた問いかけに対し、はっきりすれ違ったものになるとわかっていながら、あえて、こう答える。

「――星が、悪かったのさ」

自分でも、その星を肯定的と否定的、どちらの目で見たのかはわからない。

この場にある二つの星、プレアデスとアルデバラン――否、スバルとリゲルを突き合わせながら、誰を悪いと責め、誰を悪くないと慰めたのか、自分でも。

「――――」

感傷的になりすぎた。今回会話のラリーが下手なのはこちらも同じだ。

あんな調子でやり取りしていれば、引きずられてこっちも不審に思われる発言をしてしまいかねない。もう決めた。次でいくと、そう決めた。

押し黙った相手が、星の名前をもらい、星の名前を付ける男が、次の言葉を言い終えたところで、仕掛ける。――ゲートにマナを通し、術式を編み、禁術の門を開く。

そして――、

「――アル」

そして、泣きそうな顔をしたナツキ・スバルと目が合った。

「――オル・シャマク」

自分ではない、詠唱だった。――理解する。

アルデバランは、絶対に勝たなければならなかった戦いに、また負けたのだ。

『――そら見よ、また妾の勝ちじゃ』

愛おしい女の、二度とは取り戻せない勝ち誇った笑みと、声が聞こえた。――次の瞬間、アルデバランの世界は暗転した。

△▼△▼△▼△

「――ナツキ殿、慰めにはならないだろうが、君の懸念は的中していた。彼はマナを練り、術式を編んでいた。一手違えば、立場は逆転していたことだろう。私は、君の判断が最善であったと、そう全面的に味方する」

一部始終を見届けた小人族――エッゾ・カドナーの言葉は、確かに彼の言う通り、決してスバルの心を慰める手助けにはならなかった。

もっと他の、誰も傷付かずに決着できる解決法が、あったんじゃないのかと。

「大将、俺様にゃァわかんねェよ。ただ、ただッよォ! 何にもわかっちゃァいねェ俺様でも、これッだけァ言える! ……大将が無事でいてくれて、俺様ァ嬉しいんだよ」

エッゾと同じく、状況を俯瞰する役目を与えられ、歯痒くもどかしい思いをしていただろう弟分は、直球の言葉とたくましい腕でスバルの肩を抱き、そう言ってくれる。

そしてそうやって、スバルに寄り添ってくれているのは彼だけではなく、

「スバルは、ちゃんと決断したかしら。……ベティーが代わりに、全部引き受けてあげることだってできたのに、それで傷付いて、おバカさんなのよ」

「ベアトリス……」

「でも、あの禁術はベティーとスバルが二人でやったかしら。スバルが術式を用意して、ベティーが魔法を構成して、スバルが詠唱して、ベティーがマナを通した。だから、これはベティーと半分こなのよ。背負い込みすぎたらズルかしら」

「――っ」

ぐっと歯噛みしたスバル、その右手が、閉じた指が開かないぐらい強く強く、自分の至らなさがそうするしかなかった、黒い球体を握りしめている。

――それ以外の、止める手立てのなかったアルを閉じ込めた、魔玉を。

「――悪い。いかなきゃ、いけない場所がある」

胸の奥、体の中の内臓全部が震える感覚を味わいながら、膝をついていたスバルはその場に立ち上がり、ゆっくりと『タイゲタ』の書庫を出る。

手を繋ぐベアトリスを、心配するガーフィールとエッゾを連れ、スバルはともすれば崩れそうになる足を叱咤して、廊下を進み、目的の部屋に辿り着いた。

そして――、

「あらあ? お兄さん、どうしたのお? 書庫の探し物はあ?」

入口に姿を見せたスバルを見つけて、部屋の隅の樽に腰掛けていたメィリィが、頭の上に乗せた小紅蠍と一緒に首を傾げる。

その、無事で小生意気な様子も胸を衝くものがあったが、それ以上に――、

「――スバル、どうしたの? 何か忘れ物?」

メィリィの声かけを聞いて、こちらに背を向けていた少女が振り返る。夕食に使った調理器具の鍋を片していた彼女は、スバルを映した丸い瞳をぱちくりさせていた。

「――ぁ」

その少女を目の当たりにして、思わず、スバルの心身が硬直する。

彼女は少し不思議そうにしたあとで、すぐに「スバル?」と曲げていた膝を伸ばす。そして、よたよたとおぼつかない足取りのスバルを正面に迎え、

「ベアトリスちゃん、何かあったの? なんだかスバルが……」

「何かはあったかしら。でも、ベティーの口からそれは言わんのよ。……ただ、今は無性にペトラに会いたかったみたいかしら」

「わたしに?」

きょとんと、そのベアトリスの返事に少女――ペトラが驚いた顔をする。その、豊かな表情の変化を間近で見ていて、ゆっくりと、スバルも頬の強張りが解け始めた。

「ふうん?」と意味深な嘆息をしているメィリィを背後に置きながら、こちらと向かい合ったペトラを見つめ、スバルはしばし躊躇ってから、

「ペトラ、変なこと言うけど……抱きしめていいか?」

「――。言わないで抱きしめてくれてもいいけど。あ、やっぱり、それはダメ。考えただけでも、ドキドキして心臓が壊れちゃ――ぅ」

悪戯っぽく微笑んだペトラ、その優しい答えが言い切られる前に、スバルは腕を伸ばして彼女の体を引き寄せ、自分の胸の内で抱きしめていた。

「え、と……」

突然の抱擁に、戸惑いを隠せないペトラ。いつの間にかすっかり肝が据わって、何事にも動じなくなりつつある少女にしては、珍しいぐらいはっきりとした動揺。

だが、そのことを茶化すようなことを言えるものは、この場には一人もいない。

だって――、

「ねえ、スバル、大丈夫?」

そっと、胸の内から伸びてくる手が、スバルの頬に柔らかく触れる。

すぐ間近で、目の前で、それこそ息がかかるどころか、心臓の鼓動さえぶつかり合うような距離からの少女の問いに、スバルは息を呑み、笑みを作った。

「大丈夫に――」

決まっている。だってそうだろう。だって、こうしてペトラが元気でいるのだ。

ペトラだけじゃない。ベアトリスも、ガーフィールも、メィリィも、エッゾもフラムも何ともない。塔にいるみんなが、塔にこられなかったみんなが、無事なのだ。

起きてしまった悪いこと、その全部はなかったことになった。

もちろん、起こったことの全部を知っているわけではないし、起こったことの全部が悪いことだったわけではないとも知っている。

対立と和解があり、裏切りと友誼があり、決別と再会があり、呪いと誓いがあり、憎しみと愛があり――アルデバランとナツキ・スバルがあった。

「――大丈夫じゃ、ないかも」

ペトラを抱きしめながら、その手から離れない魔玉を見て、ポツリと、漏れた。

そして一度、ポツリと唇からこぼれ出した弱音は、ただ引きつった声だけでは終えられなかった。ポツリポツリと、本心は涙となって、眦からも流れ出す。

「――じゃない」

大丈夫だと胸を張って、スバルを『死に戻り』させ、取り返しのつかない多くを取り返させ、代わりに置き去りになる世界を良しとしたペトラたちに報いたかった。

無理だった。悲しくて悔しくて、自分の力不足が情けなくて、胸を張れない。

「大丈夫じゃ、ない……っ」

多くを代償に捧げたペトラにも、何もかも取り戻したはずのレムにも、最後の最後までアルとの対話を諦めないでいたエミリアにも、一緒に封じられながらも禁術の術式を解読し、『死に戻り』するスバルに切り札を持たせてくれたベアトリスにも、あの戦いに参加した、スバルの知るものたちも知らぬものたちも、全部全員みんなに。

最後に、対話する機会さえ作れなかったアルに――、

「ごめんなさ――」

「――スバルっ!」

不意の、高く鋭い声に、口にするはずだった謝罪の言葉を断ち切られた。

それは言葉を呑み込んだ胸の内、そこからスバルを覗き込むペトラの声だった。彼女はその丸い瞳を大きな大きな感情で揺らしたかと思うと、ポロポロと涙のこぼれていたスバルの顔に手を添えたまま、

「やっと言ってくれたね。大丈夫じゃないって」

「――ぁ」

「そんな風に怖がらなくていいんだよ。全部、一人で抱えたりしなくていいの。ね、ベアトリスちゃん」

「……当然なのよ。ベティーはスバルのパートナーかしら」

ひしと、そうペトラに促されたベアトリスが、スバルの体にぎゅっと抱き着く。その二人の少女の温もりに戸惑うスバルに、なおもペトラは微笑み、

「メィリィちゃん」

「ええ? わたしはいいわよお。ペトラちゃんたちで十分……」

「メィリィちゃん」

「……わかったわよお」

ひょいと樽から降りたメィリィが不貞腐れた顔で、気乗りしない感を全身から出しながらスバルの傍に立ち、ちょんと服の裾を摘まんでくる。そんな主人の代わりと言わんばかりに、彼女の髪から飛び出した小紅蠍がスバルの肩に乗り、頬に体をすり寄せた。

「ガーフさん」

「おォ! 大将ッ!」

「ぐお!?」

待ってましたと飛びついてきた勢いが背中にぶつかり、思わず苦鳴を上げる。前のめりに倒れたらペトラを潰すと必死に踏みとどまり、耐えた。耐えたが――、

「エッゾさんと、フラムちゃんもくる?」

「私は部外者だ、遠慮しよう。ただ、ナツキ殿の味方ではある」

「私は今きたところなので、事情が呑み込めていませんが……わかりました」

あとから現れた気配が、躊躇なく右腰あたりにそっと寄り添ってきた。

これで全方位、逃げ場のない抱擁態勢が完成――その温もりに集られ、スバルは「は」と思わず息を吐いた。

「なんだこれ」

傍目から見たら――実際、傍目から見ているエッゾの目があるのだから、彼からしたら今、スバルたちはどんな間抜けな状態になっていることだろうか。

モコモコと、みんなでこんなに固まって、馬鹿みたいだ。

「いいのっ。わたしがバカだったって教えてくれたの、スバルだもん」

「そんなこと、あったか?」

「あったんです」

「……俺の知ってる人の中で、ペトラより頭いい人、たぶんいないよ」

そう思う。きっとそうだ。だから、賢い彼女には見え見えなのだ。すごい。これが本当に賢いってことだ。アベルみたいな賢い馬鹿とは大違いで。

「決めたよ」

まだ、涙でグズグズの顔で、優しいみんなに四方から抱き着かれてメタメタで、これっぽっちも大丈夫じゃないことを認めたばかりだけど、決めた。

「アル、お前は俺のこと、許せないぐらい嫌いだったみたいだけど」

その理由の本当のところはわからない。ただ、わからないまま終わらない。

たくさんの終わりかけたものを、たくさんの終わらせない意思が終わらせないでくれたから、全然大丈夫じゃないナツキ・スバルは、決めた。

それは――、

「――俺は必ず、お前も救ってみせる」

それが、たとえ世界を敵に回すような凶行であろうと、いいことも悪いことも全部まとめて、『死に戻り』でなかったことにしてしまったナツキ・スバルの誓い。

そのナツキ・スバルの誓いを聞いて、ペトラ・レイテは満足げに頷いて、

「それでこそ、わたしのスバルっ」

――そう、『憂鬱の魔女』とならなかった少女が微笑んだ。