LNCrawler

リゼロEX 『ゼロカラササゲルイセカイセイカツ』

Re:ゼロから始める異世界生活 — ncode.syosetu.com · All chapters

リゼロEX 『ゼロカラササゲルイセカイセイカツ』

恒例のエイプリルフール、恒例の遅刻です! すまなんだ!

色々今回も何をするか悩みましたが、悩んだ結果、いいものが出たと思います。

今回のお話もIFストーリーですが、これまでとまた違った毛色の作品かと。

ではでは、楽しんで! あとがきでお会いしましょう!

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰の名前も呼びかけないと誓います。

△▼△▼△▼△

――轟々と、身を切るような冷たい風が、絶氷河全体を包み込んでいた。

「――――」

厚手の防寒具を着込んでなお、貫くような空気の冷たさを味わいながら、白い息でけぶりそうになる視界を懸命に押し開き、前を見る。

ただ寒さだけを相手にするなら、もっと着込む要素もいくらでもあっただろう。だが、ここで相手にすべき真の敵は、吹き付ける風や雪ではない。

もっともっと明確に、こちらの命に対して刃を突き付けてくる脅威であるのだ。

「――怖いかしら?」

ふと、そう尋ねる声を聞いて、相手の柔らかな手の感触を意識する。

繋ぎっ放しの左手に感じる温かな熱は、どれほどの苦境に立たされようと、決して自分を見放すことのない、信頼と親愛しかない最高のパートナーだ。

「いや、他にも庇護心とか可愛げとか情熱とか、おおよそポジティブな気持ちはいくらでも詰め込めるからな……お前を褒め称える言葉が足りねぇぜ」

「ふふん、当然なのよ。その足りない言葉、時間が許す限りいくらでも聞いてあげたいのは山々だけど……今は、ちょっと邪魔者がいるかしら」

「だな。――ったく、わかっちゃいたが、勘弁してほしいぜ」

可愛いパートナーの言葉に賛同し、肩をすくめながら視線は正面――軽口を叩き合いながらも、微塵も緩まない警戒を、そこにいる存在に注ぎ続ける。

正直、緊張も警戒も、どれだけ注いだところで、十分なんて言えない相手だ。

「いまだに物差しとして機能するのはどうかと思うが……お前のヤバさと比べたら、レグルスなんて可愛い……いや、可愛くはねぇか。レグルスなんてノミみたいなもんだな」

「――それは、貴君からの特別な評価と受け取り、受け取っておこう」

こちらのぼやきを地獄耳で拾い、律義に返答してくる相手に片目をつむる。

ゆったりとした立ち姿、壮麗な装いに鍛え上げられた長躯、恐ろしく強い意志を貫徹する姿勢を示した眼光と、わずかに雪焼けしたような浅黒い肌。その肌に淡く浮かび上がったのは、梵字めいた不可思議な紋様のタトゥー。

見るからに只者ではない風貌の男は、紛れもなく只者ではない。――少なくとも、今の世界の全土を見渡しても、彼に勝てるものは皆無だろう。

――人呼んで『狂皇子』。

それが今、極寒の暴風が渦巻く絶氷河で、自分たちが対峙する強敵である。

「対峙、か。……なんで、俺たちはやり合わなきゃならねぇんだろうな」

「自問か? 疑問だとしたら、疑問するその態度に疑問しなくてはならない。何故かについてなら、我輩は貴君らと散々言葉を交わしたはずだ。その上で決裂した。故にこうなっている。――我輩としても、不本意でならん」

「不本意? そりゃまたどうして」

「我輩は、貴君に恨みも憎しみも抱いていない。我輩と貴君がこうして向き合わなければならぬ理由に、互いへの好悪や憎悪は無縁なのだ。ただ――」

そう言って、一度言葉を区切った『狂皇子』が目を細め、視線をわずかに下げる。それにより、視線の向きが自分から、傍らのパートナーに移ったのがわかった。

瞬間、どろりとした、粘性を帯びた消えることのない憎悪が、相手から漏れる。

それは確かに、『狂皇子』が対峙する自分には決して向けない感情。その上で、絶対にあの男と、自分とが相容れない理由でもあった。

その、隠さぬ憎悪を垂れ流しにしながら、『狂皇子』は告げる。

「――その汚穢を巡り、我輩と貴公とは相容れない」

「まず、俺の超可愛いパートナーを捕まえて、汚れ扱いするその美的センスが全く理解できねぇぜ。だから、お前とは友達になれねぇんだ」

「至極、残念だ。残念だから、残念でならない。残念ながら、手は引かないが」

ゆるゆると首を横に振り、説得失敗を悔やむように『狂皇子』が嘆息する。しかし、あれで説得する気があったというなら、価値観の溝は永遠に埋まるまい。

「本当に会話にならん奴なのよ。……セシルスの方がまだ話せたかしら」

「比べたらセッシーが可哀想だよ。セッシーは別に全然話せた……ただちょっと、話の結論がセッシー好みに勝手に着地するだけだ。強者の理屈って感じ」

「でも、それを通させるわけにはいかないのよ。――わかってるはずかしら」

「――ああ、言われるまでもねぇ。言われた方が気合い入るけど」

きゅっと、繋いだ手に力を込め直して、ちらと視線を向け合って笑みを交換。

強敵との対決を前に、パートナーとの連帯感は十分。――そして、戦場をこの場所に選定し、長く対話に時間を割いた理由が、不意にくる。

それは視界の端、刹那だけ光って感じられた絶氷のプリズム――、

「「――E・M・M!!」」

瞬間、声を重ねた詠唱が発動し、絶対防御魔法が自分とパートナーとを包み、この世界から存在を半歩ずらすことであらゆる干渉を無力化する。

その、実像のブレた自分たちの体を通り抜け、向こう側に突き抜けていったのは、容赦なく膝下をぶち抜いていこうとした白光だ。もし防いでいなければ、仲良く並んだ自分たちは揃って足を撃ち抜かれ、戦闘不能状態に陥ったはず。

そしてそれは、同じように『狂皇子』をも狙っていたが――、

「――全力か? それとも我輩を怒らせたいのか? 挑発というのであれば、その報いは受けてもらうが? 受けさせるのは我輩、受けるのは貴公だ」

言った『狂皇子』が、立てた二本の指で白光を挟み、受け止めていた。

光は男の指先でゆっくりとその光輝を失い、やがて一本の長い針の本体を晒すと、それも散り散りになって霧散していく。――魔法で構築した針を、超高速でぶっ放すそれは、こう呼ばれていた。

「ヘルズ・スナイプ……ってことは」

「――またあなたなんだ? 懲りないね。何回きたっておんなじなのに」

「――――」

不意に、上空から降ってくるその声に、思わず息を詰めた。

風は、今も轟々と吹き付けている。にも拘わらず、どうしてだろうか。何故、これほどの風の中にあっても、その声はしっかりとこの鼓膜を揺すぶるのか。

あるいは強者の理屈とは、自然の法則さえもねじ伏せ、従わせる力を持つのか。

仮にそれが事実なら、その声が吹雪を切り裂いて届くのも道理だ。

なにせ、この絶氷河の空に悠然と現れた存在、彼女は――、

「――久しいな、『憂鬱の魔女』。息災かね?」

「知り合いみたいに話しかけてこないでくれる? わたし、あなたの友達でも気安い知り合いでも何でもないし。わたしが元気かどうかなんてどうでもいいでしょ」

「そうでもなく、そうでもない。何しろ、目下、貴公とこちらの彼は、我輩の目的を達する上での確かな障害だ。体調不良の時節があるならばぜひつけ込みたい」

「へえ、そうなんだ? じゃあ、わたしが絶不調って嘘の噂を流したら、それを信じてのこのこ飛び込んできてくれるの? すごーい、死んじゃえ」

ぱちぱちと、胸の前で小さく手を叩いて、その寒空に浮遊する女が残酷に笑う。

「――――」

それは、美しい女だった。

長く伸ばした赤みがかった茶髪をリボンでまとめ、桃色と水色と金色と、複数の色を混ぜ込んだ特殊な紋様の入ったドレスを纏っている。

白く細い肩を露出したその装いは、極寒の絶氷地帯では信じられないほどの薄着だが、吐く息すら白くしない彼女にとって、それは何の障害にもならないらしい。

吹雪の音が、その唇から漏れる美しい音色を遮ることができないのと同じように、暑さ寒さや天候の不順など、彼女のやりたいことを、したい格好を妨げることはできない。

「――きたのよ」

息を呑み、身を硬くしたこちらの意識を、その呼びかけが引き戻した。

同じ相手を見上げ、きっと同じ心境に辿り着いたはずのパートナーは、しかしこちらの気持ちに配慮して、溢れ出す感情を懸命に堪えてくれている。

そう思いやられることを、情けないとも、申し訳ないとも思わない。――ただ、せっかくの厚意を無下にしてはならないと、大きく息を吸った。

そして――、

「――ようやくまた会えたな、■■■!」

「――――」

声を大にして、白くけぶった風の向こうにいる彼女に、そう呼びかける。

生憎と、彼女や『狂皇子』と違い、こちとら風をねじ伏せる術なんて持たない。

それに、溜めに溜めたこの瞬間の声を、相手に届かなかったからと言い直すなんて、そんなクソダサい真似も絶対にしたくない。

いったい、どれだけこの瞬間を待ちわびただろう。

どれほどの無力感を噛みしめ、踏み越えて、ここまでやってきただろう。

その全部の結実を求め、息を吸い――ナツキ・スバルは、■■■を見つめる。

見つめながら、言った。

「お前を取り戻すぜ、■■■。――運命様、上等だ!!」

それは、ナツキ・スバルがこの極寒の地を踏むまでにかけた長い時間、それだけの時をかけた理由の結実であり、全てを捧げると決めた日々の決算たる宣言であった。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かの命を背負わないと誓います。

△▼△▼△▼△

――暗い。暗い。暗い。暗い淵に、揺蕩い続けた。

微睡みのように曖昧で、永劫のように不確かで、泥濘のように散漫で。

一冊の本の中の、夢と現のページの境目にあり続けるような、そんな曖昧で不確かで散漫な、終わることのない暗闇を揺蕩っていた。

いったい、どれほどこうしているだろう。

いったい、あとどれだけこうしているのだろう。

いったい、この延々と続く刹那はどこまで続くのだろう。

そうした、あって当然の思考、疑問、命題さえも、暗闇は薄く引き伸ばしていく。

引き伸ばされたそれはペラペラの薄紙みたいで、少し強く突くだけで簡単に破れ、繋ぎ目がわからなくなり、やがては元の形を逸してしまう。

きっと、もう何度もそれを繰り返している。

散逸する意識を掻き集め、寄せ集め、繋ぎ合わせて、ほんの些細な力の込め方で容易くそれを突き壊して、また散り散りの粉々にしてしまって。

いっそ、数もわからなくなるくらい毀れてしまったモノなんて、繋ぎ止めようとするのをやめてしまえばいい。――なのに、それはできない。

――暗い。暗い。暗い。暗い淵に、揺蕩い続けている。

微睡みのように曖昧で、永劫のように不確かで、泥濘のように散漫で――でも、決して独りではない暗闇に、揺蕩い続けていた。

独りではない。独りにはならない。

引き伸ばされる刹那を、繰り返し続ける失敗を、揺蕩い続ける暗闇を、独りではないという理由が引き止めて、消えてなくなることを良しとしない。

自己の定義も不完全で、独りではない根拠も黒い霧中に覆われているのに、それでも、投げ出したり、手放したり、諦めたりはできなくて。

諦めるのは、できなくて。――諦めるのは、似合わないから。

だから――、

△▼△▼△▼△

「――――」

視界が開け、外の世界に放り出された瞬間、押し寄せてくる情報の洪水に頭の中が盛大に掻き乱され、肉体は激しく身悶えした。

「――ッ」

チカチカと、視界が明滅し、赤と黒のコントラストが交互に世界を凌辱する。

伸びた手足にはピンと力が入り、無意識のブレーキが外れた肉体への酷使が、恐ろしいことに指先から付け根に至るまで、全ての関節の筋肉を順番に攣らせた。

痛み、心身の隅々にまでわたる痛み、それが、身も心も掴んで、放さない。

「焼き切れましたわー!! からの、ちょちょちょ!? これ、大丈夫ですかしら!? 陸に打ち上げられたお魚さんの状態ですかしらよ!?」

「黙るのじゃ、ルーメラ。如何にそなたの見てくれが常軌を逸して愛らしかろうと、余の耳元で喚くのを許した覚えはないぞ。そも、当然の結果じゃろう」

「当然!? 閣下、今当然って仰いました? わかってたんですか、これが!?」

「余の『陽剣』は焼きたいものを焼き、斬りたいものを斬る。とはいえ、正規の手段を踏んでおらぬ出し方ゆえ、不都合が働くのも否めんじゃろう」

「……それ、前もって言ったっちゃ?」

「これしきのこと言わずともわかるじゃろう。貴様らは揃いも揃って、賢くもまだ幼き余より年長であるのじゃから。それとも雁首揃えて人生サボったか?」

視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。五感がキャッチするあらゆる情報の濁流に呑まれ、意識の撹拌を余儀なくされる頭上、そんな声が飛び交っている。

その声も、新たなる情報だ。すなわち、押し寄せる濁流の一端だ。

「マズいマズいマズい! もしこのまま死なれたら、長年の苦労が水の泡ですよ!? 方々駆け回って散々地べたに頭を擦り付けて、ようやく漕ぎつけたのに……うわぁ、誰にも顔向けできなくなる!」

「言ってる場合じゃありませんですのよ! こういう場合は……そう、荒療治! 多少の痛みも結果が伴えば紛れてエレガント! きっと主様も、よくやったと微笑んでくださるはずですかしら!」

「それです! やれるんですか、ルーメラさん!」

「ド無理ですかしらー! わたくし、燃え盛るほどに火属性ですもの! 火炎にできることは破壊と再生の破壊の部分だけですかしらよ! おほほほほ!」

「もしかして今これめちゃめちゃただの時間の無駄ですか!?」

わあわあと、洪水と濁流の中にあっても飛び抜けてうるさい情報が右へ左へ。

自分を挟んだやり取りが轟々と交わされているのを感じながら、心身の痛みに紛れ、ゆっくりと迫りくる脅威――息苦しさという情報を得る。

「――ぉ」

胃壁が痙攣し、空気の通り道となっている管が内部の収縮で塞がりかけている。

不自然な肉体の蠕動が引き起こした悲劇だが、その先に待つのは誰も笑えない喜劇。ただでさえ極度の消耗に衰弱した体が、呼吸不全によって機能を損ねつつある。

なのに、それをどうにかする方法が、数多の情報に乱される今、見つからない。

「貴様ら、その調子で騒いでおってよいのか? 此奴、死にかけじゃぞ。余とは面識のない男ゆえ、死んだとて余に何の痛痒もないが、貴様らはそうではないじゃろう」

「いやそれは本当の本当にそうなんですけど、結構僕らも限界ギリギリまでリソースぶち込んだりしたので余裕ないわけですよ! 一回、さっきの球の中に戻すとかどうですかダメですかですよねはい!」

「高速で自己解決しよったな。楽しめる男じゃ。――ふむ、そうじゃな。余の光輝を以てしても、死にかけの道化にできることなぞないが……こちらは別じゃ」

「何するつもりっちゃ?」

「たわけ、何を他人事めいた顔をしておるのじゃ、『雲龍』。――そこな男はともかく、こっちの愛い娘にはできることがあるじゃろう」

対処できないまま、苦しみが募り募り募っていく。

その苦しみに、痛みに、痙攣に、何もかもが塗り潰され、永劫に引き伸ばされていたはずの刹那が、どっぷりとした終わりを被せにくる。

このまま――、

「――――」

――このまま、終わりか?

「――スバル!」

瞬間、暗く閉ざされつつあった意識を、また別の情報が殴りつける。しかし、今度のそれは、ただ痛みと苦しみを長引かせるものではなかった。

痛みを痛みで、苦しみを苦しみで、情報を情報で、拭い去るもので。

そして――、

「死んじゃダメなのよ。死ぬんじゃないかしら……!」

そしてその情報は、苦しみは、痛みは、よく知る大切なものだったから。

「――ぁ」

蠕動する胃壁が、閉じかけた喉が、もつれる舌が、明滅する視界が、刹那に呑まれかけた意識が、暗い彼方に散り散りになるはずだった命が、留まる。

手放すな、何も。放り出すな、全てを。しがみつけ、世界に。

そうしなくちゃ、それができなくちゃ、そうすることでしか――、

「ぉ、え、お」

「スバル!」

チカチカと、目障りな赤と黒の光が消えて、逆光に照らされた涙目が見えた。

蝶を象った特徴的な紋様の瞳、名前を呼びかけてくれる愛おしい声、散らばりかける存在を全力で引き止めている、小さな体の大きな存在。

「えぁ、こ」

「――そう、そうなのよ。そうかしら。大丈夫なのよ、傍にいるかしら」

どこもかしこも自由にならない体で、脆く痺れてボロボロになった心で、それでも自己を証明するために、それでも相手を覚えていると伝えるために、紡ぐ。

受け取ってくれる。そう、信頼という架け橋を、目をつむって歩いて渡るように。

「何がどうなっていようと、ベティーたちなら乗り切れるのよ、スバル」

その、頼もしく心強い言葉をしかと抱きしめて、意識が途切れる。

――それが、ナツキ・スバルの歩みの再開、その初日の出来事だった。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、昨日を思わないと誓います。

△▼△▼△▼△

うっすらと、瞼が開いたとき、最初に飛び込んできたのは知らない天井だった。

「――ぉあ」

見たまま、それを口にしようとするも、ガビガビに乾いた口内と、ハチャメチャに荒れた喉はまともな音を奏でてくれず、できたのは不細工に呻くことだけ。

まるで、潰れた蛙の断末魔だ。

だが――、

「――起きたかしら。ずいぶんとお寝坊さんで、悪い子なのよ」

枕元で、その目覚めを待っていた相手にそれを伝えるには十分役立った。

そっと伸びてくる小さな手に前髪ごと額をくすぐられ、こそばゆさに目を細めたスバルがそちらを見れば、柔らかく目尻を下げる少女――ベアトリスが、いる。

変わらぬ姿、変わらぬ眼差し、変わらぬ温かみのある彼女が、そこに。

間違いなく、一寸の違いもなく、意識に焼き付いたままの姿の、ベアトリスが。

「ぇあ、こ」

「そう、ベティーで間違いないかしら。心配いらないから、無茶しちゃダメなのよ。今のスバルは、心と体の配線がメチャメチャで、不自由この上なくなっているかしら」

「は、ぁう」

無茶、と言われるほど無茶をしようとしたわけではない。

ただ体を起こし、込み上げる感情のままにベアトリスを抱き上げ、そのまま部屋の外まで飛び出していき、だだっ広いところで二人でくるくる回りたかっただけだ。

だが、今のスバルにはそれすら高望みの状況らしい。――心と体の配線と、そうベアトリスは喩えてくれたが。

「――ぉ」

実際、スバルの脳が体の動かし方を忘れてしまったのは事実らしい。

動かない眼球の端、かろうじてベアトリスを映せているから彼女を捉えられたが、手指どころか眼球さえ、スバルの望んだ通りに転がってくれない。

体を起こすどころか、何とか呼吸できていることすら奇跡に思える。

心臓が、鼓動の打ち方を忘れないでいてくれてよかった、というべきか。

「案外、笑い話にもならないのよ。あの中に閉じ込められている間、ベティーはともかく、スバルの生命活動はほとんど停止していたかしら。それこそ、体が当たり前のことを忘れてしまうくらい、だったのよ」

「――ぁ」

「あの空間……ベティーの知らない陰魔法で編まれた、とんでもない代物だったかしら。間違いなく、お母様の手が入ったものなのよ。どうしてあの男が、お母様の作った禁術を習得していたのか、謎は尽きないかしら」

「――ぃ」

「それについて、スバルと議論する気はないのよ。スバルがなんて言おうと、ベティーにとってお母様はお母様、かけがえのない方かしら。ぷい、なのよ」

たどたどしく入るのは、掠れ息でしかないスバルの合いの手だ。

しかし、それを受けるベアトリスは抜群の理解度で会話を成立させ、その上で、スバルの額に触れたまま、不満げに頬を膨らませてぷいと顔を背けた。

その、愛情と不服のどちらか一方に偏れない姿が過剰に愛おしいが――、

「……それ、本当に会話成立してるんですか? 僕にはベアトリスちゃんが、一人で勝手に一喜一憂してるように見えるんですけど」

ふと聞こえたその声は、スバルとベアトリスのどちらでもない第三者のものだ。

視界の中、ベアトリスが「む」と横たわるスバルの足の方に目を向けたので、声の主はそっちに立っているらしい。が、生憎とスバルにはそっちを見る手段がない。

その視界に入ってこない相手に、ベアトリスは頬を膨らませたまま、

「失礼なことを言うんじゃないかしら。大体、スバルとベティーの絆は無限大……スバルが何を言いたいかくらい、目を見ればベティーには筒抜けなのよ」

「なるほどなるほど、さすが精霊使いと契約精霊ってことなんですかね? わりと周りに精霊の関係者はいる方なんですけど、そこって門外漢には感覚的にわかりづらくて」

「他はともかく、ベティーとスバルの関係は唯一無二かしら。ま、契約した精霊はみんなそう思ってるはずだから、下手に知った口は利かない方が身のためなのよ」

「ええ、アドバイスどうも。とと、そろそろ僕もご挨拶させてもらっていいですかね」

そう言って、足の向こうの相手は挨拶の許しをベアトリスに求めたようだ。

具申されたベアトリスは小さく吐息すると、その大きな瞳でスバルを見つめる。挨拶させてもいいか、と確かめる彼女に、スバルは気持ちで頷いた。

「――ぅ」

「仕方ないからツラを拝んでやる。感謝しろ、だそうかしら」

「そりゃまたありがたいですねえ! 口の減らなさは聞いてた通りだなぁ、まったく」

言いながら、のしのしと床を踏みしめ、声の相手が近付いてくる。

どことなく、聞いた覚えのある口調――だが、その声自体には聞き覚えがない。そんな相手の接近を、まさにまな板の上の鯉状態で迎えるしかない。

ゆっくりとベアトリスが身を引くと、確保された視界のスペースに、ひょいと割り込んでくる相手の顔が見えた。

それは、緑を基調とした服装と大きな帽子、癖のある灰色の髪に、中性的な雰囲気のある顔立ちをした『知らない』優男の顔で――、

「どうも、はじめまして、ナツキ・スバルさん。――僕の名前はニコラ・スーウェン。色んな肩書きがありますが、一応、商人が一番通りがいいかなと」

目尻を下げた優男――ニコラ・スーウェンが、自らをそう名乗る。

スーウェンと、そう耳馴染みのある家名を口にした相手に、スバルは目を見張った。しかし、その驚きと混乱に拍車をかけるように、彼は止まらない。

「いきなりのことで驚かれてると思いますが、碌に体の動かない今のうちに、酷ですがさらにショッキングなことを伝えておきますね。――あなたが、『逆賊』アルデバランの手で封じられてから今日まで、おおよそ四百年が過ぎています」

――――。

――――――――。

――――――――――――。

「――。――――。――――――ぁ?」

「四百年です。わかりますか? あなたが……いえ、あなたとベアトリスちゃんが目覚めたのは、あなたのいた時代の四百年後です。あと、これも伝えておきますね」

理解が、まるで追いつかない。

情報の量ではなく、質に押し流され、呑み込まれるスバル。そんなスバルの前で、とんでもない濁流を起こした優男――よく知る友人と、同じ特徴を持ったニコラが続ける。

それは――、

「――いくら何でも、待たせすぎなんですよ、ナツキさん」

四百年越しに、いくつもの命を間に挟んで届けられた、友人の呆れた叱責だった。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かの死を悼まないと誓います。

△▼△▼△▼△

「本当に、長い長い苦難の歴史でした。まさに、スーウェン家に代々受け継がれる大事業だったんです。――モゴレード大噴口、その奥底に沈んだあなたたちの回収は」

言いながら、脱いだ帽子を両手でくるくると回している優男――ニコラが、それまでの苦労を思い返すみたいに深いため息をつく。

その背負い込んだ苦労を語る姿や、仕方ないと言いたげな語り口の雰囲気に、ニコラと友人――オットー・スーウェンの共通項を感じ、スバルは胸が締め付けられた。

似ている。否定を重ねようとすればするだけ空しくなるほど、似ている。

だが、それを認めれば、受け入れなくてはならなくなる。

今、ナツキ・スバルの置かれたこの状況が、夢や幻ではない、現実であるのだと。

「ニコラ、はしゃぐ気持ちはわかるし、お前には感謝してもし足りんのよ。でも、スバルは病み上がりどころの話じゃないかしら。実際、お前の顔を見て、名前を聞いただけでも気絶したくらいなのよ。無茶は禁物かしら」

「いや、わかりますよ? わかりますけど、僕の方だってだいぶお預けというか、辛抱やる方無しというか……サルベージ現場でも初顔合わせでも引っ込めさせられて、スーウェン家四百年の悲願の達成は、いつになったら実感できるんですか!」

「実感なら、ベティーが十分させてやったはずなのよ。まだ、『扉渡り』であっちにこっちに飛ばされ足りないかしら?」

「まるで僕が望んでやってもらったみたいな言い方やめてくれませんかねえ!?」

目をかっぴらいて嘆くニコラの姿は、まさにオットーの生き写しだ。

が、オットーよりもニコラの方がまだわずかに若く、線の細さも感じられる。髪もオットーより長く、背中の真ん中あたりでまとめたそれは、商人というより、学者然とした風貌のそれに感じられた。

細部の違いと共通点、ニコラ・スーウェンは紛れもなく、その自己申告通り――、

「打てば響く奴なのよ。さすが、オットーの子孫かしら」

「ご先祖様がお二人とどんな付き合いをしてたのか、正直同情したくなりますよ。まぁ、親しかったからこその気安さ、って感じですかね」

「――なのよ。いい人間だったし、優秀な男だったかしら。それこそ、子孫にスバルとベティーを掘り出させるなんて、やりすぎなくらいなのよ」

それは優秀さというより、執念深さを象徴するようなエピソードに感じる。

確かに、行きずりで加わったと思えないくらい、陣営に欠かせない有能ぶりで活躍したオットーだが、真にオットーをオットーたらしめていたのは、その内政力や『言霊の加護』の力ではなく、持ち前の度胸と機転、そして根性だった。

目的を果たすためなら、どんな労力も惜しまない粘り強さ。――それがオットー・スーウェンの最大の武器であり、ついには子孫のニコラたちをも利用し、成し遂げた。

本当に、すごい男だ。――なのに、それを直接称える機会は、もうない。

もう、話すことも、笑い合うことも、できない。

「――ぅ」

「スバル……」

じわりと、容赦なく込み上げた涙に視界を潤ませられ、息を詰めたスバルに気付いたベアトリスが、その雫をそっとハンカチで拭う。

そうしたベアトリスの優しさに悲しみを拭われながら、スバルは嗚咽した。

認めた。認めざる、を得なかった。

時の残酷な流れと、自分たちの敗北という結末を。

「――――」

ゆっくりと、散り散りになったナツキ・スバルの意識を掻き集めれば、目覚める前の最後の記憶は、『死者の書』の書架に囲まれたプレアデス監視塔の一幕。――その心を案じたアルに裏切られ、彼の手でベアトリスごと、禁術によって封じ込められた刹那だ。

そしてあれ以降、スバルとベアトリスは封じられたまま、四百年もの時を過ごし、今の時代で目覚めた。――もう、あの頃の誰もいない、この時代に。

「――ぃ」

こぼれる嗚咽と涙を、我慢できない。

ただひたすらに、自分が不甲斐なくて、死んでしまいたかった。

情けなくて、惨めで、みっともなくて、死にたいぐらいダサくて、馬鹿だ。

たった一度のしくじりで、取り返しのつかないことは起こる。知っていたはずだ。他ならぬプリシラの死が、スバルにそれを学ばせたはずだった。

それなのに、ナツキ・スバルはしくじった。

しくじって、何もかもを置き去りに、義務も使命も全部放り出して、今に。

「――っ」

死んで、しまいたかった。

それは惨めさや無力感だけが理由ではない、実利として挑む価値のある『死』だ。

今、『死に戻り』をすれば、戻れるかもしれない。四百年前に。

しかし――、

「――――」

スバルの体は動かない。死ぬことすら、自分ではできない。

そうでなくても、片時も離れずにスバルを見守ってくれているベアトリスが、『死』を望むスバルの決断を許せるはずがない。

死ねない。死ねないのだ。

『死』すら、今やナツキ・スバルの手を滑り落ちて。

「泣きたい気持ちはよくわかるかしら。たくさん、たくさん涙を流すのよ、スバル。どれだけ涙を流しても、ベティーが全部拭いてあげるかしら」

ベアトリスの優しい手つきが、溢れ続けるスバルの涙を拭う。

涙で溺れる希望すら抱けず、しかし、そのベアトリスの思いやりに救われる心地も同時に味わい、スバルは希望と絶望のコントラストで心がめちゃくちゃになった。

もし、この途方もない未来に自分だけが投げ出されていたとしたら、間違いなくナツキ・スバルの心は壊れ、朽ちる以外になかっただろう。

だが、この場にベアトリスがいなかったなら、スバルは自死を選べたかもしれない。無論、どうあれ体の動かない今、それは選びようのない可能性でしかなくて。

「――――」

希望と絶望が、生と死が、過去と未来が、ナツキ・スバルの魂を凌辱する。

どうにもならない。どうにもできない。どうも、なりようがない。

そんな手詰まりの絶望に、しかし、一点だけ――、

「――ぁ」

一点だけ、蹂躙される魂が、熱を帯びる疑念があった。

それは――、

「――ぇい、いあ」

「――わかってるのよ」

震える唇が紡いだ不確かな音を、ベアトリスは確かな音として受け取った。

四百年の時が流れ、世界は移り変わり、スバルたちの生きた世界にいた多くの人々は、もう世界中どこにもいない。しかし、それにも一部の例外はいる。

四百年の歳月が流れても、その命尽きることのない存在、その代表格は――、

「ニコラ」

「ええ、はい。――エミリア様ですね」

「――――」

細い糸に、天から垂れ下がる蜘蛛の糸に、縋るような気持ちだった。

なのに、平然とその名前が口にされ、スバルの心臓が痛むほどに強く跳ねる。その勢いのままに体を起こし、ニコラの胸倉を掴んで揺すぶれないのがもどかしい。

だが、気迫だけは伝わったのか、ニコラは「怖いなぁ」とわずかに身を反らしつつ、

「先に聞かれていたので、ベアトリスちゃんにはもうお伝えしたんですが……その、エミリア様はですね」

「――――」

「実は、わかりません」

「――ぁ?」

ギリギリと、心臓を万力で締められるような思いで待ったのに、その肩透かしだ。

思わず、自由にならない喉でドスの利いた声を漏らしたスバルに、慌てたニコラが「いやいやいや」と顔の前で手を振って、

「お、怒らないでください。ふざけてるとかもったいぶってるとかじゃなくて、本気でわからないんですよ! エミリア様がご無事かどうか」

「……その理由も話すかしら。じゃなきゃ、納得なんてできないのよ」

「それはベアトリスちゃんの口から……ってのは酷ですか。ああもう、ルーメラさんやロザリンド閣下には任せられませんし、貧乏くじだなぁ」

わしわしと自分の頭を掻き毟り、仕方ないとニコラが大きく息を吐く。それから彼は、「いいですか」と指を一本立てると、

「まず、誤解のないように先にお伝えしますが、エミリア様はご存命です。それは間違いありません。ただ、接触する手段がなくて、ご無事かどうかがわからないんです」

「……い、ぃあ」

「意味がわかりませんよね。もう少し噛み砕きます。エミリア様は現在、統一帝国ヴォラキアと、グステコ聖王国との国境沿いにあるアグザッド渓谷――その大渓谷を氷漬けにして、周囲との接触を断たれています。それも」

「――――」

「――『逆賊』アルデバランを、自分ごとその絶氷に閉じ込めて、です」

耳を疑うような情報、それを流し込まれ、スバルはまたも息を詰まらせる。

瞼の動きがもっと自由であれば、二度三度と、白黒する目を瞬かせたところだ。そのぐらい、ニコラの明かした事実は衝撃的な内容だった。

――エミリアは生きている。ただし、大渓谷で、アルと氷漬けの状態で。

「――――」

原理は、わかる。

水門都市プリステラで、『色欲』の権能の被害に遭った人々をコールドスリープさせたのと同じ。エミリア自身も、自らを百年以上閉じ込めた過去があると語っていた。

それと同じことを、彼女は自分とアルに施し、氷に閉じこもったのだ。

その理由は――、

「あの男を、死なせないためかしら。そしてそれは……」

「ぉえ、たちぉ」

「――スバルとベティーを取り戻す方法、それを失わないため、なのよ」

スバルと同じ結論に辿り着いたベアトリス、その言葉に心から同意する。

エミリアが、アルごと自分を氷漬けにした背景――それは、アルを死なせないためとしか考えられない。そしてエミリアがそうした理由は、スバルたちを封じたアルにしか、その封印を解く方法がないと、そう考えたからだ。

少なくとも、アルの命が失われれば、それを聞き出す選択肢は永遠に失われる。

エミリアはそれを阻止するために、強硬手段に出た。

「実際、『逆賊』アルデバランのしでかしたことを考えれば、当時の情勢でも処刑は免れなかったはずです。まぁ、最終的にナツキさんたちの封印を解くのには別の方法を使ったので、アルデバランの知識には頼らなかったわけですが」

「でぉ……」

助けられた以上、エミリアの奮闘を無意味にするニコラの選択に文句は言えない。が、逆を言えば、スバルたちが回収された今、エミリアが自分を氷漬けにして、誰にも手出しさせない状況を維持し続ける理由もなくなったはずだ。

ならば、氷漬けのエミリアを解放することも、できるはず。――そのエミリアと一緒に氷漬けにされたアルと、何を話せばいいのかはわからないが。

ただ、アルの目的がスバルを永遠に排除することだったのだとしたら、その狙いも失敗し、勝者のいない結末が数百年越しに露呈するだけ。

それでも、それでもだ。それでもせめて、エミリアと会えれば――、

「――実は、それだけじゃないんですよ。エミリア様と会えない理由は」

「――っ、聞いてないかしら。てっきり、その氷さえ溶かせば、エミリアを出してやれるってベティーは思っていたのよ。騙したかしら!?」

「人聞き悪いこと言わないでください! 騙したわけじゃなく、こう、状況の複雑化を招くので、説明が難しかったというか……とにかく! 誰にも手出しできないよう、自分ごと氷漬けにしたエミリア様ですが、それが強力な魔法って以外の問題があります」

「そ、えぁ?」

「――『魔女』です」

「――――」

思いがけない単語に、スバルとベアトリスが息を呑んだ。

ここで、『魔女』――魔女教か、あるいは『嫉妬の魔女』か、いずれかが立ちはだかってくるとは、どれだけ息の長い問題であるのか。

しかし、ニコラの続けた言葉は、そんなスバルたちの想像をさらに裏切った。

何故なら――、

「――『憂鬱の魔女』が、エミリア様のいる絶氷河を根城にしていて、近付こうとする相手を片っ端から襲ってくる。だから、誰も手出しできないんです」

それは、四百年の時を跨いだスバルたちの、知らない『魔女』の台頭だったから。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰とも抱き合わないと誓います。

△▼△▼△▼△

「――ナツキ・スバル様! お目覚めになられたとお聞きしたですかしら!」

「げふがふごふっ」

騒々しくバーンと開かれた扉に驚いて、食べていたお粥がスバルの気管に入った。

激しくむせるスバル、その正面でご飯を食べさせてくれていたベアトリスが、吐き出されたお粥をこれでもかと顔面に喰らい、「うきゃーなのよ!」とひっくり返る。

あわや一瞬で、寝室は死屍累々の大惨状と化していた。

「な、な、な、なんであえてベティーの可愛いお顔目掛けて咳き込むかしら! 米粒が全部、ベティーのお顔に当たったのよ!」

「ぁ、うい……おまえ、を、みてたか、ら」

「む……なら、仕方ないかしら。ほら、顔を見せるのよ。口の周りを拭くかしら」

むせた余韻を残したスバルの言い訳に、自分の顔を拭き終えたベアトリスが、ため息まじりにこちらの顔も拭いてくれる。だが、その優しい手つきと裏腹に、「それで」と続けた声はやや冷たかった。

ただしそれはスバルにではなく、今の原因を作った相手に向けたものだ。

そのベアトリスの可愛いが棘のある声に、相手は盛大にビクッと肩を震わせる。

「お前、ずいぶんと賑やかに飛び込んできたもんなのよ。病み上がりの相手をお見舞いするなら、マナーってものがあるかしら」

「あ、あのう、ベアトリス様……わたくし、悪気なんて一切ありませんでございましてよ? ただ一身に、燃えるようにお二人のご無事を祈り続けてですかしら……」

「だとしたら、危うくお前の手でその祈りの終止符を打つところだったのよ。……わざとなんて思ってないから、そう小さくなるんじゃないかしら」

「まあ! わたくし、ベアトリス様より体は大きくてございますかしら。このルーメラ、燃え盛る炎の如く、大きく大きく育ってますですもの!」

「お前がテンション上げると部屋が暑くなるから、スバルのために自重するのよ」

「うう、はいですかしら……」

そう言われ、しょんぼりと肩を落としたのは、明るく波打つ長い緋色の髪と瞳、それらと同じ色をしたドレスを纏った背の高い美女だ。

背丈はスバルより大きく、百八十センチ以上あるだろうか。身の丈に見合った豊満な体つきと、派手で豪華な装いがマリアージュした、際立つ美貌の持ち主。

これまた見覚えのない女性の登場に、ベッドに上体を起こされ、ベアトリスの手ずからご飯を食べさせてもらっていたスバルは、目をぱちくりさせた。

「ぇえ、と?」

「あら! あらあらあらまあ! ニコラ様からお聞きしていたより、ずっとずっとお元気そうでわたくし燃え広がるように感激ですかしら! それにしても、ベアトリス様共々本当にお変わりなく……心よりお喜び申し上げますですのよ!」

「ルーメラ! 暑い……じゃなく、もはや熱いかしら!」

「あらまあ! 燃え滾るほどのわたくしとしたことが!」

ずんずんと大股で詰め寄ってくる美女との間に割って入り、ベアトリスが小さな体で相手を押し返す。その美女――ルーメラと呼ばれた人物は胸の前で手を合わせ、自分の勢いや行動を恥じらうように頬を染め、「おほほ」と照れ隠しに笑った。

その彼女の勢いのある接近に、スバルは確かな熱の接近を感じた。ベアトリスの言ったことは事実――ルーメラは明らかに、周囲のマナに感応し、熱を発している。

それも、感情の昂りに呼応した、無意識で強烈なものだ。その事実と、どこか浮世離れした雰囲気から、スバルは彼女の正体を薄ぼんやりと察した。

「せぃれえ、か?」

「――? ええ、焼き尽くすほどに肯定ですかしら! もちろん、ただの精霊ではございませんですますのよ。わたくし、大精霊ですもの! あれから長い長い年月が過ぎたですかしら、このルーメラも大精霊へと至りましてですわ!」

そう破顔したルーメラが、自分の豊かな胸に手を当てて誇らしげにする。

つまり、ベアトリスと同じ人型の大精霊――精霊は成長したとき、自分で自分の姿を選べると聞くが、それで人型を取るものはずっと少ないらしい。だから、こうしてベアトリスとルーメラ、人型の精霊が二人も揃うのは大変レアな光景だ。

しかし、ルーメラの言動に、スバルは奇妙な引っかかりを覚えている。

「はなしぁ、みぇねぇ」

少しばかり個性的な言葉遣いをするルーメラなので、ただ単に言葉のチョイスが変なだけかもしれない。が、彼女の態度の端々には、スバルと会えたことを喜んでいるだけではなく、そこに再会を喜んでいるニュアンスがあるのだ。

だが、スバルには彼女の見覚えがない。そもそも、精霊にも知り合いなんてほとんどいないのだから、心当たりを探るまでもないのだが。

「――――」

「あ、あら? あらあらあらま? どうされたんですかしら、ナツキ・スバル様……もしや燻るほどに恐ろしいことに、わたくしとの再会を喜ばれておりませんですの?」

「さすがにそれは被害妄想が過ぎるのよ。お前が大精霊になったと聞いて、スバルもビックリしてるだけかしら。じきに慣れるのよ……スバル?」

その反応の悪さに、スバルの困惑を感じ取ったルーメラが不安げにする。が、そのルーメラの不安をフォローしたのは、あろうことかベアトリスだった。

スバルの絶対の味方であるはずのベアトリスは、どういうわけか、ルーメラの存在に心当たりのないスバルに気付かず、わかって当然の顔でいた。

何故そんな行き違いが起きたのか、スバルはひとまず誤解を解こうとし、

「ぃあ……」

「――はいですかしら!」

「ぇ?」

いや、と一言間を作ろうとした途端、いきなりルーメラが大声で返事をした。その、パッと顔を明るくした彼女の反応に、スバルはまたも目を丸くする。

そんなスバルの驚きを余所に、ルーメラはホッと自分の胸を撫で下ろして、

「はぁ、心の底から燃え尽きるほどに安心しましたですかしら。ナツキ・スバル様は、わたくしのことをお忘れになられたのでございますかしらと……それにしても、そう呼ばれるのも久しぶりのことで、嬉しくございますですのよ」

「なま、ぇ……」

名前を呼んだとそう言われ、スバルは考え込む。

しかし、それからすぐに、スバルは自分の言葉の何がルーメラにそう思わせたのかに思い至り、そしてそれが意味するところも察して、「あ」と息を呑んだ。

彼女は確かに、自分の名前を呼ばれたと思って反応したのだ。

何故ならルーメラは――、

「いぁ、か?」

「ええ、そうですかしら! この姿でお会いするのは初めてでございますですもの。――わたくし、ルーメラ・イア・ユークリウスは、主様からの燃え上がるほどの特命を果たすため、ナツキ・スバル様とベアトリス様をお探ししていましたですかしら!」

「――――」

激しく、それこそ燃え上がるような肯定に、スバルはまじまじと彼女を見た。

ルーメラ・イア・ユークリウス――イアと呼ばれ、それを肯定した彼女は、確かにスバルとの再会を喜ぶ資格を持った存在だ。

『最優の騎士』たるユリウス・ユークリウスと契約し、その精霊騎士としての実力と勇名を支えた六体の準精霊――否、精霊へ昇格し、ついには大精霊へ至った存在。

四百年前当時、スバルもまだ準精霊だった彼女に助けられたことがあった。そのイアがこうして、ルーメラとしてスバルの前に姿を現した。――違う、そうではない。

彼女はスバルとベアトリスを回収するのにも、その力を貸してくれたのだ。

「ルーメラは、ニコラの協力者かしら。それで、ベティーたちをモゴレード大噴口から引っ張り出すのに力を貸したのよ。それもこれも、ユリウスの指示で、かしら」

「ゆりぅす、が」

「ですかしら! 今はわたくしたち六人の精霊姫で、ユークリウス領を治める小領主をしておりますですの。本当はラピチャもソヨネもドレナもキアラもシニカも、みんな焼け焦げるくらいナツキ・スバル様との再会を心待ちにしていたのですけれど、ここにはこられなくてとても残念でございましたかしら」

「そ、か」

轟々と、猛る炎のように前のめりなルーメラ。

彼女が口にした数々の名前は、おそらくいずれもユリウスの連れていた精霊たちが、大精霊となった今、名乗っている名前なのだろう。元々の名前はミドルネームに、家名はユークリウスを名乗っていると、そういうわけらしい。

「……四百年かけて、ユリウスとの約束を守ったのよ。律儀なことかしら」

「まあ! わたくしたち、全員燃え広がるほど主様一筋でございますですもの。あの御方のお望みを叶えるためなら、四百年も当然ですかしら! そのためにニコラ様と協力して……いいえいいえ、今のは鎮火するほど誤った物言いでしたかしら」

「まちが、った?」

「正しくは、代々のスーウェン家の皆様と協力して、ですますのよ。長年の積み重ねが実を結び、今代でそれが叶いましたですかしら」

功績を自分たちだけの手柄にしないのは、ルーメラが律儀な性格だからというだけでなく、ニコラとの良好な関係を築いているが故の認識だろう。

その背景に、オットーとユリウスの存在があることに、スバルは嘆息する。

「……ばかやろう」

自分と契約し、長く尽くしてくれた精霊たちを、自分の死後も消えない盟約で縛り付けるなんて真似、ユリウスらしからぬ優雅さに欠けた選択だ。

しかもそれを、ヴォラキア帝国ではバチバチにやり合っていたオットーと協力して進めるなんて、手段を選んでいなさすぎる。――否、たぶんそれは、ユリウスやオットーに限った話では、きっとないのだ。

「みんな……」

直接の繋がりがあるニコラやルーメラがいる分、その行動の結果がわかりやすいオットーとユリウスだが、彼ら以外の面々も、これと無関係のはずがない。

わかる。確信できる。――みんな、スバルたちのために、必死になってくれたのが。

ガーフィールが。■■■が。フレデリカが。リューズが。メィリィが。パトラッシュが。ロズワールが。クリンドが。アンネローゼが。ラムが。スピカが。――レムが。

スバルたちを救う手立てを未来に残すため、その力を使ったエミリア。

彼女を除いた陣営のみんなが、スバルとベアトリスのために動かなかったわけがない。突然失われたスバルたちを追い、みんながどんな時間を過ごし、今があるのか。

みんなはいったい、自分たちの時代をどう過ごし、どう終わりを迎えたのか――。

「――っ」

何もかも、これからだった。

よくなっていくのも、よくしていこうと志すのも、全部これからだった。あったはずの未来が失われ、届くはずだった希望を取り逃がし、もう何もわからない。

「……ルーメラ、お前はどのくらい、ベティーの仲間のことを知っているのよ」

「申し訳ございませんですかしら。お二人の陣営の方々のことだと、あまり多くは知らないのでございますですのよ。お二人がいなくなられて、アグザッド渓谷が絶氷地帯になった前後は色々ありすぎてしまったですかしら」

「――。まったく、使えない奴かしら」

「うう……わたくし、今やベアトリス様とも肩を並べる大精霊でございますですのに、それでも四大に匹敵する歳月を経た方には頭が上がりませんですかしら……」

打ちひしがれるスバル、その望んだ答えをルーメラが返せないとわかると、ベアトリスが殊更に冷たくそう言って、大きな精霊姫を凹ませる。

それがスバルとルーメラ、二人を気まずくさせないためのベアトリスの気遣い。そうわかるものだから、ますますおんぶに抱っこの自分が情けない。

せめて――、

「いちにちでも、はやく」

自分の手で、足で、この世界を動き、確かめることができるようにならなければ。

今のスバルには、偉そうに後悔する資格さえないのだから。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、自分の名前を残さないと誓います。

△▼△▼△▼△

ベアトリスが言うところの、メチャメチャになった心と体の配線。――それを真っ当に繋ぎ直すのには、長く過酷なリハビリが必要になるとのことだった。

「長いことあの空間で魂だけの状態にされて、肉体との接続が剥がされていた後遺症なのよ。肉の器に縛られたニンゲンと、ベティーのような精霊とはお話が違うかしら」

「ひさびさの、じょういそんざい、とーく」

「スバルが自分を過剰に責めないように、ベティーとの違いを言語化してあげただけなのよ。邪推されるなんて、ベティーは大いに傷付いたかしら。ぷい、なのよ」

そう可愛らしく顔を背けるベアトリスには、スバルと違ってアルのオル・シャマクを喰らった後遺症が見られない。その理由は聞いての通りで、ベアトリスだけでも無事であることが喜ばしい一方、もどかしい思いが強まるのも事実。

その体とオドとが直結した精霊と違い、スバルは魂と肉体との接続を一つ一つ確かめ、その上で接続した体の操作を脳に思い出させなくてはならない。

もし仮に配線を間違えようものなら、手を動かそうとして足が動くなんて、そんなちぐはぐな事態も起こりかねないという話だ。

「りはびり、か……」

不自由極まりない自分の体の調子に、スバルはたどたどしい声でそう呟く。

スバル自身はもちろんのこと、身近にもそうした状況に陥ったものがいなかったため、あくまで想像でしかないが、長く寝たきりだった人間がリハビリをしようとすると、今のスバルと似たような苦労があるのかもしれない。

だとしたら、きっとそのコツもおそらく同じ。――焦りすぎないことと、目標をしっかり持って、一歩一歩、それに向かって邁進すること、だ。

そして、目的に邁進するという点において、今のナツキ・スバルほど強い動機を抱いている人間なんて、そうそういないと言えるだろう。

とはいえ――、

「――なんじゃ、多少は前よりマシになったかと期待したというに、先月と変わっておらぬようじゃな。余の時間を無駄にするなど、不敬じゃぞ、不敬」

そう、リハビリに挑むスバルの成果を厳しく評する声がある。

手厳しい意見だが、スバルにはぐうの音も出ない。実際、その評価は正しい。客観的に見ても、スバルの努力は到底実を結んだとは言えない有様だ。

その言い返せないでいるスバルに、評価を下した人物が「ふん」と鼻を鳴らし、

「言い返す気概もなさそうじゃ。見下げ果てた男じゃな。せめて、心持ちだけでも負けぬと歯を食い縛らねば、貴様に時を費やしたものたちが浮かばれんじゃろうに」

「閣下、言いすぎ」

「竜にも、哀れに見えてくるっちゃ」

「は、周りのものが気を遣って言わなすぎじゃ。ちゃんと食事が噛めて偉い偉い。飲み込めただけで大した奴じゃ。――不甲斐なさに自憤の涙で溺れ死んではどうじゃ?」

「さすがに、いいすぎ……っ」

いくら何でもそこまで言われる覚えはないと、お望み通り、スバルも怒る。

が、その絞り出した怒声を聞いても、相手は涼しい顔で受け流すのだから、全くもって憎たらしいと言わざるを得ない。

「邪魔しにきたなら帰るかしら、ロザリンド。スバルはリハビリで忙しいのよ。お前だって、それなりに忙しい立場のはずかしら、統一皇帝」

「その忙しい合間を縫って足を運んだ余を粗雑に扱うか。ルーメラたちもそうじゃが、貴様ら精霊はいつまで世界の秩序の外側にいるつもりでおるのじゃ? 貴様らが生きる地も得る糧も、全て余の国土のものじゃぞ。ベアトリス、貴様の見てくれが至上の愛らしさでなければ、首を刎ねておるところじゃ」

「言えば? ……気になって、仕事が手につかないって」

「口を慎むのじゃ、『金剛姫』。余への敬意が足らぬのは貴様と『雲龍』もじゃぞ。余が美なるものを愛でる芸術肌と思って、調子に乗りすぎじゃ」

嘆かわしい、とばかりに額に手をやり、厳しいのかそうでないのか図りかねる発言を重ねる人物が大きなため息をつく。その様子に顔を見合わせたのは、問題の人物を左右から挟むように立った、銀髪の犬人と黒い角の生えた小柄な少女の二人――どちらも、スバルとベアトリスの知っている顔だ。

それは、この時代で知り合った相手というわけではなく――、

「お前たちも、苦労が尽きないのよ。――アラキア、マデリン」

「竜に余計な配慮は不要っちゃ」

「セシルスより、マシ」

交互に、気遣いの言葉を口にしたベアトリスに応じたのは、四百年前から旧知の間柄である、ヴォラキア帝国の『九神将』の二人――アラキアとマデリンだ。

驚くべきことに、この時代で再会した二人は、その外見と立場を変えないまま、四百年が過ぎた今も、ヴォラキア帝国の一員として存在し続けていた。

そして、その彼女たちを従えているのが――、

「貴様ら、いい度胸じゃな。余を誰と心得るのじゃ。偉大なる統一皇帝たる余、ロザリンド・ヴォラキアなんじゃぞ。そっちのけとは不敬じゃぞ、不敬」

そう言って、年齢相応の不満を爆発させる幼い少女、ロザリンド・ヴォラキア――ヴォラキア帝国の今代の皇帝にして、アベルやミディアムの子孫。

その証拠に、不遜な言動や態度の大きさはヴォラキア皇族のそれだが、金色の髪と青い瞳、口調と対照的な丸い目をした愛らしい容貌は、スバルのよく知るオコーネル兄妹の要素がずいぶん色濃く出ている。

一度、オルバルトの手でスバルが小さくなったとき、同じタイミングでミディアムも小さくなっていたが、あのミディアムとよく似ていた。

「これじゃ、あべるみたいに、くちがわるくても、かわいいだけだな……」

「優れた治世で知られたヴィンセント・ヴォラキア先帝のことじゃな。まぁ、どうせ余より才能のない皇帝のことなどどうでもよいのじゃ。それよりも、いくらせがんでも『金剛姫』が話してくれぬから、『青き雷光』の話を聞かせるのじゃ」

「いい。しなくて」

「するのじゃするのじゃ! 『青き雷光』の伝説を聞くのじゃ!」

バタバタと短い足をばたつかせ、まだ幼い皇帝がうるさくそうせがむ。その要望にアラキアはこれ以上ないくらいの渋面で、マデリンは呆れ顔だ。

すでに、ロザリンドの訪問も片手を超える数迎えてきたのでスバルもわかってきたが、この幼帝、どうやらいたくセシルスに憧れているらしい。なのに、当時を知るはずのアラキアたちの口が重たいものだから、代わりをスバルに求めてくるのだ。

無論、スバルの口から語れる『青き雷光』の話はいくらでもあるのだが。

「お前がくると、リハビリの予定が狂ってよくないかしら。アラキアも、意地悪しないで話してやればいいのよ。セシルスとは添い遂げたはずかしら」

「全然、違う」

「違うっちゃか? 死ぬところまで居合わせたんなら、添い遂げたって言っておかしなことはないって、竜は思うっちゃ。それに――」

「――。なに」

「セシルスに頼まれた通り、こいつら探しに手を貸したっちゃ」

意地悪な笑みを浮かべたマデリンに言われ、アラキアの渋面が限界まで極まった。

もはや何を言ってもと思ったのか、アラキアは反論を諦め、ただ唇を結ぶ。だが、彼女がスバルたちのために力を貸してくれた背景がわかって、何とも言えない気分だ。

まさかあのセシルスが、自分が降りたあとの舞台のことを託すとは。

「存外、多くを残したようじゃぞ、貴様らは。余が『陽剣』の焔を貸したのも、ヴォラキア皇家に伝わった話……鬼の娘の訴えあってのことじゃ」

「――――」

「余の『陽剣』なくして、貴様らは日の目を見ることはありえぬのじゃったのじゃ。努々それを忘れるでないぞ」

言いながら、掲げた手の中に、空の鞘から抜き取った『陽剣』を握るロザリンド。

その赤々とした刀身を見せつけてくる幼帝の態度に苦笑しつつ、スバルは今日が初めてではないその話に、深く感じ入る。

ヴォラキア皇帝に引き継がれる『陽剣』ヴォラキア、それが有した強力な力が、スバルとベアトリスを封じたオル・シャマクの黒球を破壊した。

それはニコラやルーメラが協力を求めた結果であり、その求めにロザリンドが応じた理由こそが、先の彼女の発言――ヴォラキア皇族に、スバルたちの救済のための助力を願い、約束を取り付けた鬼の娘の存在だった。

「――れむ」

少しずつ、明らかになっていく足跡に、スバルは何度味わっても慣れることのない痛痒と、それが引き連れてくる涙の熱を味わうことになる。

レムもまた、スバルたちを襲った悲劇ののちに、自分のできることを果たそうと、ヴォラキア帝国にわたり、そこでアベルたちと話を付けた。あるいはセシルスがアラキアに未来を託そうと考えたのも、レムの存在の影響かもしれない。

あまりにも、あまりにも多くのものがスバルたちを救おうとして、そうして実際に救い出す未来にまで辿り着いていた。

だから――、

「おれは……」

「そう言えば、聞いたのじゃ。貴様ら、いずれ動けるようになった暁には、あの絶氷河に挑むそうじゃな。――『魔女』と、事を構えるつもりじゃとか」

「――。ああ」

言葉少なに頷いて、スバルはロザリンドの問いかけを肯定する。

今、スバルがリハビリによって体の自由を取り戻す目的、それは絶氷地帯にいるとされるエミリアとの再会だ。――ニコラやルーメラからは非常に危険であり、体が動くようになってから改めて話し合いたいとされているが、曲げる気はない。

確かに、こうなったことでスバルとベアトリスは、多くを諦めざるを得ない。

だが、決して届かないという理由で諦めなければならないものと違い、エミリアは必ずやそこにいるのだ。それは、諦める理由になんて、絶対にならない。

「茨の道じゃが、あえてそれを往く姿勢は悪くはないのじゃ。魔女教とやらも王国の滅亡と引き換えになくなり、『嫉妬の魔女』への恐れもほとんど形骸化した世にあって、今もなお『魔女』という肩書きに畏怖を纏わせるのは、『憂鬱の魔女』の存在ゆえ……それがなくなるなら、余にとっても意味のあることじゃ」

「――――」

「む、何ゆえに黙ったのじゃ。不敬じゃぞ、不敬」

「黙りたくもなるのよ。お前、もう少しベティーたちに気を遣うことを覚えるかしら。ベティーたちにとって、歴史書に載っているような出来事も、つい最近のことなのよ。ましてや、王国……ルグニカがなくなったのも、受け止め切れんかしら」

「押し寄せる苦難に打ち勝てなければ滅ぶ。それが人でも土地でも、国でも変わらんというだけの話じゃ。ルグニカもカララギも、もはや歴史書にひっそり消えた名じゃな」

それが世の習いとばかりに、統一皇帝――ルグニカ王国とカララギ都市国家、それらを併呑したヴォラキア帝国のトップたるロザリンドが肩をすくめる。

正直、信じ難い出来事があまりに多く打ち寄せるものだから、その事実に関しても、十分に驚き切れているかはわからない。はっきり言って、四百年が経過し、全てを置き去りにしてしまったという事実以上に、スバルたちを揺るがしたものはない。

かといって、ほんの先頃まで、その王国の玉座を争う王選に全力投球していた身としては、その王国が滅んだという話も、容易くは呑み込めなかった。

「時の流れの中で、変わるものもある。変わらないものもあるっちゃ。どちらに価値を見出すにせよ、ただ流されて悔やむのは愚かなことっちゃ」

それは、見た目こそ幼くとも、四百年以上の年月を人間と共に生き、その営みを見つめ続けてきた古き竜人の、助言か忠告だったのかもしれない。

マデリンやアラキア、あるいは三国を呑み込んでさらなる巨大国家となったヴォラキアの皇帝であるロザリンドでさえも、時の流れを止めることはできない。

だからこそ、ただ唯々諾々と流れに身を任せるなと、そう助言されたと、思う。

いずれにせよ――、

「――やろぅ」

「その意気なのよ。ベティーも、全力でスバルをサポートするかしら」

時間が惜しい。時間は、いくらあっても足りない。

たとえどれほど惜しんでも、砂粒のように指の隙間をこぼれ落ちていくそれを、もう一度手の中に戻すことはできない。だから、手の中にあるうちに、なのだ。

自分がどれほど恵まれているか、失ってから気付くことがないように、なのだ。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、安らぎを求めないと誓います。

△▼△▼△▼△

――逸る気持ちと、遅々として進まないリハビリの焦りと裏腹に、スバルたちの日々は緩やかに淡々と、皮肉にも大過なく流れていった。

「ベアトリスちゃんの希望ですので、ナツキさんの身の回りの世話は基本的にお任せします。何か必要なことがあれば、いつでも言いつけてください。あまり大きな家も持て余すでしょうから、ひとまずはこの家を必要なだけ使ってくれれば」

と、そう言ってポンと家を一軒引き渡してくれたニコラには驚かされたが、現状のスバルたちには彼の厚意に甘える以外の選択肢がなかった。

それでも、ちゃんと借りは返すと伝えると――、

「貸し借りの清算はきっちりと。それは僕も商人の端くれとして好ましい考え方ですよ。でも、ナツキさんたちへのこれは、貸しだとあまり思ってないんですよね」

「それは、どぅして」

「そうですね。……長年の苦労が実ったのは、ナツキさんたちが助かってくれたから、だと思っているのかもしれません」

「――――」

「僕は、スーウェン家の中だとわりと変わり者の方でしてね。兄弟や親類はもう少し落ち着きがあるというか、考え方が大人なんですが、どうも向いてない。大成するか野垂れ死にするかのどちらかだと言われてきました。で、これです」

「これ……」

「スーウェン家四百年の悲願を果たした。ひとまず、これでいつ死んだとしても、野垂れ死にする前に何かを為したと、そう胸を張れるでしょう。だから、お代は結構。僕が手伝えてよかったと、そう思える明日を過ごしてください」

そう晴れ晴れと言ってのけたニコラに、大きな借りがあると思わないなんてどだい不可能な話だった。それに、改めて強く感じたものだ。――スーウェン家でも変わり種扱いされたというニコラの、隠し切れないオットー性というものを。

「お邪魔いたしましてですかしら、ナツキ・スバル様! その後、お加減はいかがでございますですこと? このルーメラ、燃え滾るほどに案じておりましたですかしら!」

ユークリウス領の統治はどうなっているのか、わりと頻繁に顔を見せるルーメラは、ベアトリスとの友情を築いているのもあるだろうが、とてもよくしてくれている。

彼女にも、イア時代から世話になりっ放しだ。彼女以外の姉妹たちは、さすがにスバルの見舞いに訪れることはないが、日々の話題には上がっているという。

「自然と、主様のことを思い出す機会にも繋がっていて、わたくしたちも燃え上がるほどに尊い時を重ねておりますですの。もちろん、主様のことを思わない日はないのでございますけど、色も味も濃い思い出を、堪能できていますかしら」

「それぁ、ふくざつなきぶんだ……そぅいえば、おれたちをみつけたときって」

「あら! あらあらまあ! お聞きになりたいですかしら? もうもうそれはそれは、燃え尽きるほどの一大事でございましたことよ? だって、モゴレード大噴口の大穴は、この世界の裏側まで繋がっていて、流れ込んだものを探すのに大変な苦労が……」

「……よくみつかった、な」

「もちろん、一度でうまくいったわけではございませんかしら。四百年がかりで、足りない技術も力も集めて、わたくしたちみんなでやり遂げたことでございましてですわ」

「――――」

「だから、ナツキ・スバル様、どうかどうか嘆き悲しまないでくださいですかしら。あなた様を、主様の生きた時代に取り戻せなかったこと、わたくしたちも痛恨でしたかしら。でも……」

「ぁぁ。わかってる、るーめら。――ぁりがとぅ」

四百年と、言葉にすればたったの一言で済んでしまうそれは、実際にその時間を過ごしたものたちにとって、途方もなく大きな意味を持っている。

ベアトリスが『禁書庫』で過ごした日々も、皮肉にも同じ四百年ほどだった。――言うまでもなく、ベアトリスはその時の重さを知っている。

四百年という時間が、スバルたちのよく知る人たちの人生を終わらせ、その後に続くものたちの人生をまた終わらせ、それでもまだ届かないほどの長さだということも。

数多の、スバルたちすら知らないものたちの、スバルたちを救うための奮闘の上に、今のスバルたちがあるのだと、そう思い知らされるほどに。

「くだらぬ感傷じゃ。余らのような立場のものが、貴様らの如き、雑多な塵芥に望みを託されるのは、今に始まったことでも、いずれ終わることでもないのじゃから」

何かを相談したわけでもないのに、ロザリンドは持ち前の洞察力で、こちらの抱える悩みや懊悩を見抜いて、まるで小馬鹿にするみたいに嘲笑う。

真剣な悩みに対して、あんまりな態度には違いない。なのに怒る気がしないのは、彼女の見てくれに絆されるのと、彼女の本心が言葉ほど尖ったものではないのだと、その行動と接し方が、如実にこちらに伝えてくるからだ。

「それにしても、進歩らしい進歩がないのじゃな、貴様は。いつになったら、剣奴孤島で語り草になったと聞く、伝説の『スパルカ』を再現してくれるのじゃ?」

「できてたまるか、ぁんなこと」

「安心するのじゃ。心配せずとも、余とてギルティラウのような冗談の通じぬケダモノとぶつけるつもりはない。『金剛姫』か『雲龍』にやらせる。どうじゃ?」

「どぅじゃもなにも、ばかじゃん?」

「余を捕まえて愚物じゃと? 不敬じゃな、不敬じゃぞ」

くつくつと笑い、隙のある姿を見せていくロザリンドは、スバルたちの下に、かつての伝説の話を聞くという名分で、羽を伸ばしているようにも見えた。

ロザリンドの優秀さ、それがおそらく、年齢分を差っ引けばアベルにも見劣りしないものなのは察しがつくが、アベルが統治していた時代よりも三倍近い大きさとなった統一帝国を仕切るには、並々ならない労苦があることだろう。

甘えるつもりはないが、ニコラやルーメラがスバルを急かそうとしない分、ロザリンドの厳しい言いようには、尻を叩かれる効果もあって、背筋が正される。

もっとも――、

「誤算。そっちが話せば、閣下はわたしにはもう聞いてこないと思った」

「なのに、知れば知るほど興味が増しているみたいっちゃ。アラキアが嫌がる顔を見るのも閣下の趣味っちゃから、振り回されてるようっちゃ」

「……マデリンも、助けてくれない」

「竜を意のままにしようなんて、図に乗るんじゃないっちゃ、ニンゲン」

そのロザリンドの態度に、しっかりと割を食っているアラキアからすると、スバルや、それを助長するマデリンの姿勢は歓迎できたものではないらしい。

正直、四百年経っても、死後のセシルスのことをしっかり消化できていないアラキア側の問題だとスバルは思うが、マデリン共々、からかい材料に残しておくのみだ。

ともあれ――、

「――スバル、今日もお疲れ様だったかしら」

来客のある日もない日も、その締めくくりは必ず、親愛なるベアトリスと迎える。

焦れる気持ちを強く持つスバルと相対しながら、それ以上のもどかしさがあるかもしれない立場なのに、ベアトリスは決してそんな様子を見せない。

それが、ベアトリスの優しさゆえなのだと、そう思うけれど。

「考えすぎなのよ。焦ってもいい結果は得られないって、ベティーはちゃんと知ってるだけかしら。これでも、八百歳の大人なのよ」

「ちょう、おとしより……」

「い、言うに事欠いてかしら! 急かしたりしないけど、無礼に怒りはするのよ! それに、もしもスバルが挫けたら、ちゃんと叱るかしら」

「くじけ、たら」

「なのよ。――それ以外で、ベティーがスバルを引っ叩くことなんてないかしら。最初に目が覚めたとき、言ったのよ。覚えてるかしら?」

「――――」

「何がどうなっていようと、ベティーたちなら乗り切れるのよ、スバル」

そう、そうだった。そう言ってくれたのだ。

そして、それを本当にしなくてはならないと、それがスバルの原動力となる。

日々は過ぎてゆく。大過なく。だがそれを、漫然と受け入れてはいけない。

惜しむほどに時は貴重で、一日も、一時も、一秒だって、無駄にはできない。

それが――、

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、失敗を嘆かないと誓います。

△▼△▼△▼△

――それがナツキ・スバルの歩みに立ちはだかったのは、何の変哲もない、代わり映えしない一日の一端、つまり前触れのない凶事だった。

「――我輩は思い、思うのだ。常々思う」

その大柄な男は、唐突にスバルとベアトリスの日常に割り込んできた。

壮麗な黒い装いに、白いコートを肩から掛けた格好。明るい黄緑の髪は丁寧に撫で付けられ、浅黒い地肌とのコントラストがありあり存在を浮かび上がらせる。

厳つくも整った容姿には、野性じみた気品という矛盾した気質が宿っていて、一目見れば忘れることのできない存在感を直接脳に刻み込んでくる、魂の色濃さがあった。

それ故に、間違いなく初見の相手だ。

ルーメラのときと違い、知った相手が時を経て異なる容姿に変化したわけではない。その招かれざる男は、突如として夕餉の席に現れていた。

折しも、その日はニコラとルーメラ、それにアラキアが食卓に揃っていた。

示し合わせたわけではなく、いつもより賑やかな食事の席に、スバルもリハビリの成果を見せたいと意気込んでいた矢先だった。

「経験上、怒りというものは六秒ほどしか持続しない。たったの六秒だ。その六秒をやり過ごせば、怒りの発露という原始的な感情の爆発、その最大化は免れる」

家の中に踏み込んでくる男の存在に、スバルは呆気に取られる。しかし、そのスバルを余所に、それ以外の面々は一瞬で顔色を変え、警戒に椅子を蹴って立ち上がった。

とりわけ早く動いたのは、この場で最大の――否、世界全土を見渡しても、最高クラスの制圧力を有したアラキアだった。

ヴォラキアでの『大災』の最中、四大の一角である『石塊』ムスペルの一部を取り込んだことで、『精霊喰らい』アラキアは常軌を逸した力を手に入れた。

時を経て、その力をさらに我が物とした彼女は『金剛姫』と呼ばれ、現代の皇帝であるロザリンド・ヴォラキアの懐刀として、遺憾なく力を発揮している。

「つまり、だ」

そのアラキアの全身から、キラキラと煌めく光帯が幾本も伸び、触れたものを容赦なく切り裂く最高硬度の刃となって、食卓を荒々しく迸る。

十二本の光帯、それが狙ったのは、堂々と立ち尽くす褐色の大男。その男の左の顔面を、梵字風のタトゥーが淡く光り――、

「――我輩の怒りを最大限相手に味わわせるためには、六秒以内にケリを付ける必要があるということだ」

瞬間、男を中心に荒れ狂った光の暴発が、男を切り刻むはずだった光帯を真正面から薙ぎ払い、その繰り手であったアラキアを二十八の塊に分断――その斬光の余波が爆発的に広がり、左右にいたニコラとルーメラが消し飛んだ。

そして――、

「六秒ちょうどだ」

顔色一つ変えずに言い切る男、その両手にはいつの間にか双剣――持ち手の部分から先が光の刀身となった、奇妙な二振りの剣が握られている。

それがアラキアを、その余波でニコラとルーメラを瞬殺――そして、巻き起こった剣風の巻き添えに、スバルをも瀕死に追いやった剣舞の正体だ。

「――ぁ」

地べたに仰向けに倒れ、用意されていた夕餉の残骸を浴びたスバルが呻く。

痛みはない。皮肉にも、リハビリの不完全なスバルの体は、ただ動かしづらいだけでなく、痛覚を含めた五感の配線もめちゃくちゃで、肉体を襲った突然の悲劇も、いっそ画面の向こうの出来事のように実感が得られなかった。

だが――、

「……お前、何者なのよ」

「――。驚いたな。驚いて、驚いたぞ。生き残ったのか」

自分の体を襲った痛みは他人事のように思えても、スバルを庇うように、その両手を広げて立ったベアトリスの健気さには無関心になれなかった。

衝撃波が押し寄せる寸前、とっさに自分とスバルとを守ったベアトリス。彼女は、自分の手がニコラたちに及ばなかったことを悔やみつつ、それを一瞬で噛み殺し、下手人である男をキッと睨んだ。

その瞳には、確かな怒りと、わずかな困惑がある。――困惑の理由、それは。

「人間……? それとも、精霊かしら……?」

「どちらでもあり、どちらでもない。我輩は我輩だ。そして――」

「ぇあ、とりす……ッ」

血を吐くような覚悟の絶叫は、掠れ声で大した牽制にもならなかった。ただ、ベアトリスの小さな体に、不相応な覚悟を固めさせ、無謀に挑ませただけだ。

その結果は、言うまでもなく見るも無残なもので。

「――精霊という汚穢は消す。六秒だ」

その残酷な宣告を最後に、六秒もたずしてベアトリスは、そしてナツキ・スバルは、まとめてこの世界から消滅させられる。

四百年の時を隔て、多くのものが希望を繋いだ結果、はるか未来にサルベージされた精霊と契約者、その二人の最期としてあまりにも悲痛な決着。

そしてそれは――、

×  ×  ×

「――我輩は思い、思うのだ。常々思う」

意識が晴れた瞬間、夕餉に乱入者のあったその場に立ち返ったナツキ・スバルの、四百年後における戦い――『狂皇子』ヴェイグ・アドガルドとの、絶望的で、勝ち目の見えない泥沼の攻防戦の始まりを意味するのだった。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰にも理解を求めないと誓います。

△▼△▼△▼△

――『狂皇子』ヴェイグ・アドガルド。

それは、『剣聖』ラインハルト・ヴァン・アストレアや、『青き雷光』セシルス・セグムント、『礼賛者』ハリベルと肩を並べた四大国最強存在の一人。――それはあくまで、スバルたちが過ごした四百年前の話、という但し書きが付く。

ルグニカ王国の『剣聖』、ヴォラキア帝国の『青き雷光』、カララギ都市国家の『礼賛者』とくれば、グステコ聖王国の『狂皇子』とくるのがお約束だが、その圧倒的なネームバリューに対し、当人の情報は驚くほど少ない。

聖王国、その王族の一員でありながら、自身と同じ立場の血族十数人をその手にかけ、数千の軍勢が七日七晩かけてようやく制圧、幽閉したというエピソードが有名――というより、それ以外に出回った風聞がないとすらされた存在。

そのあまりに荒唐無稽な噂から、『狂皇子』の存在自体が、他国の最強を牽制するための聖王国のパフォーマンスではないかと疑われていたとも聞く。

しかし、その疑惑は疑惑に過ぎなかった。

『狂皇子』は実在した。その実力も、噂に違わぬ圧倒的強者のものであり、肩を並べたとされる三人の最強をいずれも知る立場からも、彼らに匹敵すると断言できる。

そして彼らと違い、『狂皇子』だけは、四百年後の現在にも生き延びていた。

そのカラクリは――、

「――にんげんと、せいれいの、はーふ?」

「公然の秘密というヤツです。彼が、世界で唯一の『精霊人』だという話は」

苦いものを噛み潰したようなニコラの言葉に、スバルは思わず息を呑む。

人間と精霊のハーフ――そうした存在が誕生可能であるという点に驚いたのと、他ならぬその『精霊人』が、精霊を付け狙っているという理解できない事実に。

確かに世界には、ベアトリスやルーメラのように、人と遜色のない姿かたちをした精霊が存在する。だが、体をマナで作られた彼女らのマナ体は、その仕組みの根本から人間と違うものであり、子どもを作ることなど不可能に思われた。

しかし――、

「事実として、彼は存在しています。自分のルーツの一端を担っている、精霊を滅ぼし尽くすと公言してやまない、世界最大の災害として」

そのニコラからの確定情報が、ナツキ・スバルに思い知らせる。

これまで、あらゆる難敵とぶつかり、そのたびに悪戦苦闘を強いられてきたスバル。それでも、本当にやり合う以外になかった存在は、魔女教というネジの外れたものたちを除けば、トッド・ファングやエルザ・グランヒルテといった例外しかいなかった。

そのトッドやエルザとすら、やり方と目的次第では共闘可能だったのではないか、とスバルは思うことがある。――その目が、この相手にはない。

スバルの愛するものの多くは、精霊との関係が不可分だ。――すなわち、『狂皇子』ヴェイグ・アドガルドは、絶対にナツキ・スバルと相容れない。

精霊を殺す存在と、スバルが並んで歩くことなど絶対にできないのだから。

「――六秒だ」

何より、『狂皇子』の振るう刃は、精霊を殺すためであるなら周囲の巻き添えを一切厭わない。故に、スバルはまた殺される。

一回、二回、十回、二十回。――カウントは、無情に重ねられていく。

まだ、この四百年後の時代で一度も試せていなかった『死に戻り』、それが発動したことは僥倖と言えた。そのリスタート地点が、四百年前に設定されていなかった失意と落胆を抜きにしても、僥倖と言えた。

ただ、それは大きな問題を残している。

それは――、

×  ×  ×

「――我輩は思い、思うのだ。常々思う」

また始まる、『狂皇子』による暴虐の寸前、そこに立ち返るナツキ・スバルは、いまだリハビリの不完全な、誰かの手を借りずに立つこともできない状況ということ。

「――六秒だ」

そして、何もできないまま、無力なスバルの世界がまた斬光に切り裂かれた。

△▼△▼△▼△

――ナツキ・スバルが味わった『死に戻り』の螺旋の中でも、この『狂皇子』の強襲は、およそ最悪に分類されるべき苦難だった。

並べるならば、魔都カオスフレームでのオルバルト・ダンクルケンとの鬼ごっこか、あるいは剣奴孤島ギヌンハイブでの『スパルカ』含めた一連が匹敵するかもしれない。

しかし、体が縮んでいたとはいえ、それでも手足が自由に動き、状況打破のためにあれこれと自分から確かめられたあれらの障害は、今と比べれば天国に思える。

なにせ、数ヶ月のリハビリ生活を経た今も、ナツキ・スバルの体の不自由にはほとんど改善が見られず、自力での歩行もままならない状況なのだ。

そこに、スバルがこれまで遭遇した敵の中で、初代『剣聖』であるレイド・アストレアくらい馬鹿げた力の持ち主が相手とあれば、生き残る目は針の穴よりなお小さい。

故に、スバルは死に続けた。

アラキアも、ニコラも、ルーメラも救えず、ベアトリスを逃がすことさえできずに、むしろ彼女らの逃げ道を不自由な体で塞ぐ形で、死なせ続け、死に続けた。

「本当に、焦げ付くくらい鬱陶しい方ですかしら! わたくしたちを目の敵に……あなたのせいで、ユークリウス領は散々でございますことよ!」

当然だが、六人の大精霊が治めるユークリウス領など、精霊の絶滅を目論む『狂皇子』からすれば、あってはならない土地の最先鋒だ。

これまでにも幾度も衝突があったのか、現れた『狂皇子』に対するルーメラの感情は、怯えと怒りとが等分に混ぜ込まれたものだった。

「それ、セシルスが欲しがってた剣。奪って、墓標の前で折る」

『狂皇子』が両手に持った双剣、光の刀身を宿したそれが、『龍剣』や『陽剣』に並ぶ世界有数の魔剣――『呪剣』アイオーンであると、アラキアの観測が明らかにする。

所有者のマナを吸い上げ、それに応じた切れ味を発揮するとされる『呪剣』の剣風は、『金剛姫』と呼ばれるアラキアの防御さえ容易く突破するものだ。

荒れ狂うそれから身を守る術は、現状のスバルたちには多く取れない。

「マズいマズいマズい! 油断しましたって言うと僕らに落ち度があるみたいですがこれって予想できない災害すぎませんか!? ここまで前触れなしに世界最恐と出くわすことになったら、備えだって全然間に合いませんよねえ!?」

この場で、身動きのできないスバルに続いて戦闘力のないニコラが、突発的な会敵に顔面を蒼白にしながら必死に叫ぶ。

どうやらオットーと違い、ニコラの方は本格的に商人らしい商人のようで、鉄火場にたじろがないほど度胸は据わっていないらしい。もっとも、オットーよりも年少の彼にそれを期待するのは酷な話だし、味方の邪魔をしないだけで十分偉い。

そして何より――、

「スバルは、ベティーが守るのよ。――ベティーしか、もういないかしら」

何度『狂皇子』の振るう刃に命を絶たれようと、必ずスバルの命運が尽きるその前に立ちふさがり、小さな体でスバルを庇うベアトリスがいる。

その彼女の変わらぬ献身が、何度でもスバルの心を奮い立たせるから――、

「――六秒だ」

繰り返される『死』の螺旋にも、スバルの心は折れ曲がらない。

一度折れたら、もう立ち上がれない。だから、折れることこそが一番怖い。そうならないために、スバルは――、

「いいぇむてい!」

「――E・M・T!」

決死のスバルの表情に呼応し、反応したベアトリスがE・M・Tを発動――絶対無効化魔法のフィールドが拡大、食卓を囲んだスバルたちを丸ごと包む。

このフィールドの中では、マナと関連したあらゆる効果が無効化される。それは、『精霊喰らい』であるアラキアや、大精霊であるルーメラも同じ。それだけに、これだけで終わったら単なる利敵行為だが――、

「――まほぅけん、だろ!?」

『呪剣』アイオーンの刀身がほつれ、光がE・M・Tのフィールド内に拡散する。

それは狙い違わず、『狂皇子』の有する魔剣の効果を断ち切り、これまで数十回にわたってスバルたちを切り刻んだ死因を初めて遠ざけるのに成功した。

「妙な魔法で、妙な効果だ。想定の外だな」

E・M・Tに初撃を妨害され、『狂皇子』が初めて攻撃性以外の発言をする。その『狂皇子』の横っ面に、放たれたアラキアの蹴りが猛然とぶち込まれた。

「死んで」

『精霊喰らい』であるアラキアは、その内に取り込んだ精霊の力をE・M・Tによって封じられている。が、それを抜きにしても、彼女の身体能力は世界有数のものだ。

渾身の蹴りの威力は砲弾じみたもので、実際、衝突音と広がった衝撃波は、鍛えた戦士の首をも一撃でへし折る火力を秘めていた。

ただし――、

「生憎と、我輩が貴君の要請に応じる理由はなく、故に応じん」

相対する『狂皇子』もまた、アラキアと同等かそれ以上の怪物だ。

『狂皇子』は柄部分だけの魔剣を握った手で、アラキアの蹴りを軽々受け止めている。男と女、手と足、攻と防、様々な対比の条件を、力ずくで押しのける。

だがしかし、『狂皇子』の相手をするのは、アラキアだけではない。

「こちらもいますですかしら!」

そう声高に叫びながら、『狂皇子』を後ろから椅子で殴りつけたのはルーメラだ。

早々に魔法の使用を断念した大精霊は、アラキアが気を引く隙に『狂皇子』の背後に回り込むと、その長身からの容赦ない振り下ろしを叩き込んだ。

破砕音を立てて木製の椅子が砕け、後頭部を無防備に殴られた『狂皇子』の姿勢が前のめりに揺らぐ。効いた、とわずかな期待が首をもたげ――、

「マナの構成に干渉したか。大したもので、大したものだ。だが――」

瞬間、踏みとどまった『狂皇子』の体内から次々と飛び出した光刃が、アラキアの両腕を左足を、ルーメラの胴体を、それぞれ薙ぎ払い、斬り飛ばしていた。

「な……」

「――『適応の加護』」

存在を構成するマナを漏出し、吹き飛ばされるアラキアたちを目の当たりにして、息を呑んだスバルに『狂皇子』の目が向く。

即座に、スバルたちを危険とみなした『狂皇子』は、全てを無効化されるはずのフィールド内で『呪剣』を起動、その光刃が袈裟斬りに放たれ、

「――E・M・M!」

刹那、ベアトリスによる魔法の切り替えが、寸前でスバルの命を死から遠ざけた。

「――――」

動けなくなる代わりに、半歩ズレた世界のスバルたちに攻撃は届かなくなる。だが、攻撃する手段がないわけではない。

「ぃんぷろぉ!」

不可視の黒い魔手がスバルの胸のうちから現れ、それが『狂皇子』の鼻面に迫る。その顔面を殴り抜いて、不意を打ったところにベアトリスの陰魔法を叩き込む。

最悪、スバルがマナ不足で昏倒したとしても構わない。『狂皇子』を、アル・シャマクの別次元に飛ばすくらいのことを。

「露骨な視線誘導だ。罠か? 罠でないなら、未熟だ」

その不可視の拳撃を、首を傾けるだけで『狂皇子』は容易く躱した。

E・M・Tは対応され、E・M・Mの防御も長くはもたない。何より、E・M・Mで守れるのはスバルたちだけで、周りの仲間は無防備なままだ。

アラキアもルーメラも、すぐにでも手当てがいる。当然、ニコラも――、

「――――」

ニコラの、反応がない。

戦闘要員ではない彼は、スバルやアラキアたちの邪魔にならないよう下がったはずで。

「正直、あんまり突然だったもので、この備えが使える確信はありませんでしたが」

そうスバルが意識した直後、壁際に下がっていたニコラが右手を掲げる。そして、その指が強く弾かれ、高い音が奏でられた。

それはニコラと同じ特徴を持った先祖が、抜け目なく何かを仕込んでいたとき、それを発動する切っ掛けとして好んでいた仕草だ。

そしてその癖と抜け目のなさは、子孫にもしっかり受け継がれていたらしく――、

「――って、何にも起きやしないのよ!?」

スバルと同じ期待を抱いたはずのベアトリスが、その変化のなさに目を剥く。

あわや不発か、とスバルの背中を焦燥感が駆け上がるが、しかし、指を鳴らしたニコラの表情に悲愴さはない。あるのは、イチかバチかの賭けに出た勝負師の眼光。

それを正面に、『呪剣』を手にした『狂皇子』は目を細め――、

「――おかしいな。わたし、氷河に手出ししないでって言ってあったはずだよね?」

声がした。――刹那、四方八方から押し寄せた無数の白光が、ニコラの用意したセーフハウスを外側から刺し貫き、凶悪な光の乱舞が室内を蹂躙する。

「――――」

何が、起きたのかわからずに、スバルは凝然と、目の前の光景に目を見張る。

一瞬のうちに、ニコラに与えられたスバルたちの仮宿が崩壊、光によって消し飛ばされた跡地は、濛々と白い粉塵が立ち込める惨状と化していた。

目前に迫った『狂皇子』の姿はなく、光の爆発が吹き飛ばしたと頭の片隅が思う。とっさにスバルの胸に飛びついていたベアトリスも、その大きな瞳を丸くしながら、突然の事態に驚いた顔でこちらを見やり、「ぁ」と息を呑む。

「す、スバル、足が……」

「あ、し?」

震えるベアトリスの声に、スバルは苦労しながら自分の体を見下ろす。その言葉の嫌な予感から、足の一本でも吹き飛んでいる悪寒があったが、発動し続けていたE・M・Mの効果がある限り、どんな厄災もスバルたちを傷付けられない。――代わりに、存在のズレたスバルたちの実像を、光が、貫通していた。

「これ、って……」

瞬きをするスバルの眼下、残像を貫くような形で突き立った光――ほつれるように帯びた煌めきの剥がれるそれは、一本の長い針だった。

スバルの肘から指先まで程の長さの針、マナで形作られたそれは目的を果たした途端に散り散りにほどけ、消えてなくなる。――それに、見覚えがあった。

たぶん、これと同じ光に、幾度も命を奪われたことがある。

でも、それはもう、望んでも起こらないはずの――、

「――貴君か」

呆気に取られるスバルの鼓膜を、感情を押し殺した低い声が揺すぶった。

ハッと目を向けたスバルとベアトリス、濛々とした噴煙の向こう、じわりと視界を浸蝕したのは、恐るべき男の顔面に入った淡く光るタトゥーだ。

あの光爆の中心にいながら、『狂皇子』には一筋の掠り傷すら見当たらなかった。

しかし、これまで百に迫る『死に戻り』を繰り返した中で、一度もその表情を崩さなかった『狂皇子』の横顔に、スバルは初めて、警戒の色が宿るのを見た。

そして、『狂皇子』の警戒の矛先が向いていたのは――、

「また弱いものイジメしてるの? 飽きないね、『狂皇子』さん」

いくつもの色を織り込んだドレス姿の、美しい『魔女』がそこにいた。

「――――」

『魔女』。そう、『魔女』だ。

一目で、それ以外の何者でもないと、ナツキ・スバルは――否、生きとし生ける全てのものが、本能の警鐘によってそれを理解させられる。

山のように大きな怪物を見れば、血に飢えたケダモノの生臭い息を嗅げば、獲物を定めた龍の咆哮を聞けば、それが命を脅かす脅威だと誰もが本能的に察する。

それと同じ機能が、言っている。――あれは『魔女』だと。

「心外で、心外だな。我輩の行いを、そうも矮小化されては心外だ」

時計で十二時の方向に『狂皇子』、三時の方向に『魔女』――両者を視界の端と端にそれぞれ収めながら、スバルは込み上げてくる震えを堪えられない。

あるいはこれは、今の世における最も恐ろしいものたちの邂逅なのだろう。

だが、しかし、それ以上の、意味が、スバルには、ある。

「……スバル」

違う。今、スバルを呼んだベアトリスにも。――スバルたちには、ある。

何故なら、そこに現れた美しい『魔女』は――、

「――六秒だっけ? 『狂皇子』さんの拘りって」

「――――」

「じゃあね――」

軽く小首を傾げ、暗く湿度の高い眼差しをした『魔女』の唇が美しい声音を紡ぐ。それが言い切られる前に、『狂皇子』が動いた。

『魔女』との間にあった距離が消滅し、『狂皇子』の刃がその細い首を左右から薙ぎ払わんと――刹那、『狂皇子』を双剣が、降り注ぐ光の雨に止められる。

光の雨が生んだ衝撃波と爆音が、戦闘モードだった『狂皇子』を容赦なく捉える。それを『狂皇子』は双剣で打ち払い、身を守る、守る、守る。

しかし、そこに生じた時間は、『魔女』を相手に痛恨の刹那だった。

「百万倍にしてあげる。――『コンプレス・アゴニー』」

そう言って、『魔女』がパチンと指を鳴らした。――次の瞬間、双剣を操る『狂皇子』の動きが精彩を欠いた。正確無比の剣舞、そこに生じた乱れを縫い、降り注ぐ光の嵐が防御を掻い潜って、男の体に次々と突き刺さる。

しかも、そこで終わらない。光は深々と『狂皇子』の体を抉り、その傷の最も深いところで爆裂、世界最強の一角を、内側からバラバラに吹き飛ばした。

「――――」

その、圧倒的な力の衝突と、一瞬の結末に、唖然とさせられる。

光爆による視界の圧迫が晴れたとき、そこには『狂皇子』の姿は破片もなかった。あの恐るべき実力者を、『魔女』は一人で瞬く間に屠った。――否、一人ではない。

「おつかれ、紅蠍ちゃん」

アンニュイな吐息をこぼした『魔女』、その傍らにゆっくりと進み出てくるのは、地竜かそれ以上に大きな、赤々とした甲殻を纏った巨大なサソリ――魔獣だ。

『魔女』が引き連れた魔獣、それがあの圧倒的な光の制圧力を発揮した正体。

そして、その組み合わせの背景には――、

「……ねえ、まだやる?」

「――いいや、口惜しく、口惜しいが、認めよう。口惜しいことに、我輩の負けだ」

「――っ」

ゾッと、駆け上がる怖気に背筋をなぞられ、スバルは声の方に意識を向けた。光の雨が降り注いだ爆心地、そこから十メートルほど離れた地点、そこで靄が揺らめいて――否、違う、揺らめいているのは靄ではない、霞のように薄い、人の像。

極限までその存在の薄らいだ、『狂皇子』が靄のようになってそこにいた。

「肉体と、マナ体を切り替えて……そんなの、不可能かしら……」

「可能か不可能を論じるなら、我輩のこの姿が論より証拠だ。腹立たしくも腹立たしいが、言うべきは不可能ではなく、不可解だろうな。腹立たしいことに」

思わず、そう呟いたベアトリスに、『狂皇子』は自分の体のことなのに、まるで他人事のような無関心さ――あるいは、虚無感さえ交えてそう答えた。

それきりベアトリスが口を閉ざすと、存在の希薄な『狂皇子』は『魔女』を見やり、

「貴君がこの場にいるなら、絶氷河は手薄か」

「かもね。でも無理だよ。わたしが何にも対策しないで離れるわけないでしょ? みんな、わたしよりバカなんだから」

「――――」

「企んでもダーメ。わたしとあなたたちとじゃ、悩める時間が違うもん。それとも――今度は六千万秒にする?」

「そのお遊びに、貴君は何を支払う気だ?」

「さあ? それ、あなたに関係ある?」

じりじりと、『狂皇子』と『魔女』との間で静かな一触即発の気配が高まる。どちらも感情を抑制して見えるが、互いを邪魔だと感じているのは明白だ。

その戦意の昂りを感じ取り、紅蠍と呼ばれた魔獣が両手の鋏を擦り合わせる。今しばらくの間、その睨み合いは続いたが――、

「――不自然な汚穢は、我輩の手で全て消し去る。覚えて、忘れるな」

「ならまず自分から消したら?」

「それはまだ早く、早い。――まだな」

その宣告は『魔女』か、あるいは彼が言うところの汚穢と寄り添い合ったスバルに言ったものか、『狂皇子』の存在が薄れ、その場から掻き消える。

消えたふり、ではなく消えた。脅威は去った。ただし、別の脅威を残して。

「あんな人だけ残って、もうやんなっちゃう」

消えた『狂皇子』の存在に小さく吐息し、『魔女』が剥き出しになった白く細い肩をすくめる。それから彼女は傍らの魔獣の甲殻を撫でると、くるっと振り向いた。

その動きに合わせ、長く伸びた赤みがかった明るい茶髪と、それをまとめた大きなリボンが風に揺れる。そのまま、『魔女』はスタスタと歩き出し、スバルとベアトリスの方へやってくると――その横を素通りし、後ろに向かった。

慌ててその後ろ姿を目で追い、気付く。スバルたちの後ろに、ボロボロになったアラキアとルーメラ、そして二人に庇われるニコラの姿があったことに。

あの、家を吹き飛ばした光爆にあって、三人とも生きていた。直前でE・M・Tが切れたことで、魔法を使えるようになったアラキアたちがうまくやったのだ。

ただし、無傷ではなかった。とりわけ重傷なのは――、

「うちに何かしたのって、あなた?」

「――ッ。さあ、何のことでしょう……」

「はぁ、意味のない駆け引きって疲れちゃう。あのね、魔紋は人それぞれ固有だから、注意深く調べたら誰が何を仕掛けたかちゃんとわかるの。わたしには調べる時間がいくらでもある。だからやったのはあなた。それは、その報い」

そう言った『魔女』の白い指が、地べたに足を投げ出したニコラ――その、膝から下をなくした左足を示していた。

「――――」

「痛い? じゃあ、もうやめてよね。都合よく使われるの、不愉快だから」

だくだくと血を流し、脂汗を浮かべたニコラにそう告げると、『魔女』は自分を睨んでいるアラキアたちを尻目に、その髪を撫で付けて背を向ける。

そのままニコラたちに、スバルたちにも声をかけず、立ち去ろうとする『魔女』――それを思わず、スバルは呼び止めていた。

そのために、呼びかける言葉は――、

「――■■■」

と、そう呼んだはずの言葉が、何故かうまく言葉にならない。

「あ?」

「――――」

発したはずの声が声にならなくて、スバルは自分の喉を疑った。だが、そこに異常は感じられない。強いて言うなら、ずっと不自由の続くもどかしい喉のまま。

発音を、した。『魔女』を、呼んだ。――知っているはずの、『魔女』の名前を。

「■■■……■■■! なんで……■■■!」

「……あなた」

振り向く『魔女』が、初めて正面からスバルを見据えた。

その薄い青緑の瞳が、ぼんやりとスバルを映して像を結ぶ。そこに、ポジティブな感情が芽生えることを期待して、スバルは続く言葉を待った。

もどかしく、喉の奥でうまく形にならない、それを転がしながら――、

「――どうしてそんなに必死な顔? 変なの」

しかし、『魔女』は期待した反応を見せることなく、世界を退屈そうに眺める眼はそのままに、それだけ言い残して歩みを再開しようとする。

その、遠ざかろうとする背中を、そのままいかせたくなくて。

「ま、まて、■■■……がっ」

「スバル!」

伸ばそうとした手は伸びず、動こうとした足は動かず、どちらも不十分になったスバルの体は、みっともなく無様にその場に倒れ込んだ。そのスバルの哀れな姿に、ベアトリスが悲鳴のような声を上げ、すぐ傍にしゃがみ込む。

「■■■……おれ、は」

そのベアトリスの支えに、今は全く意識を割けない。

今だけは、目の前の、この遠ざかろうとする『魔女』が優先だった。だって、ここで彼女をいかせてしまったら、もう会えなかったとしたら、それは。

だから、たったの一秒でもいいから、目の前の『魔女』を、■■■を――。

「ねえ、そんなに一秒が大事?」

ふと、そのスバルの必死さが興味を引いたのか、すぐ目の前に■■■がしゃがんで、こちらの顔を覗き込んでいた。畳んだ膝の上に肘を立て、そこに小さな顔を乗せた『魔女』は、「だったら」とわずかに首を傾げる。

それを見たベアトリスが血相を変え、

「や、やめるかしら! ■■■……!」

「百万倍にしてあげる。――『コンプレス・アゴニー』」

そう、『魔女』が歌うように口ずさんだ直後、スバルの意識が闇に包まれる。

だが、最初はなんだかわからなかったそれを、スバルはゆっくり、時間をかけて紐解いていくことになった。

なにせ――、

「――ぁ」

――百万秒の空白が、■■■の手でスバルにもたらされたのだから。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、何かの成功を喜ばないと誓います。

△▼△▼△▼△

――『憂鬱の魔女』■■■・■■■。

それが、突如として現れた『狂皇子』ヴェイグ・アドガルドを退けるための、ニコラが利用した切り札であり、全員が生き延びるために縋った蜘蛛の糸だった。

「足の一本で済んだのは僥倖でしたよ。幸い、今はナツキさんたちの時代よりも、魔具の方も進歩していますから……義足も、そこまで不便じゃありません」

と、左足の膝下を代償に失い、スバルたちを救ったニコラがそう気丈に笑う。

無論、まだ若い彼の足の欠損を、言葉通りに大丈夫などとは笑えない。ニコラはその周到さと機転、そして健常という未来と引き換えに、全員を救ったのだ。

それに深く感謝すると同時に、スバルは確かめずにはおれない。

「あの、キョウオウジとやりあってたのが……」

「ええ、『憂鬱の魔女』です。あの通り、全方位に危険をばら撒く災いそのものなんですが、一個だけ、客観的事実から信用できることがあります」

「それは……」

「あの『魔女』は人殺しはしない。だから、報復も僕の足一本。色んな理由で、『憂鬱の魔女』の縄張りに手出しした人間がいますが、直接彼女の手にかかったって人の話は聞いたことがない。その後の対処をマズって死んだ人はいますが、そこまでいくと自己責任の範疇になってきますね」

それは、『魔女』の人柄や性格を当てにしたものではなく、あくまで客観的なデータから導き出した推測と、それを根拠にするところがニコラらしい。

実際、そのニコラの予測は的中し、『憂鬱の魔女』は誰の命も奪わなかった。

奪われたのはニコラの足と、『憂鬱』の権能を浴びたスバルの二週間――昏倒したまま意識の戻らなかった、それだけの日数くらいのものだった。

「聞かせるかしら、ニコラ。どうやって、お前は■■■……『憂鬱の魔女』を、あの場に呼び出したのよ」

「前にもお話しましたが、『憂鬱の魔女』はアグザッド絶氷河を縄張りにしています。彼女は基本的に外の出来事に干渉してきませんが、縄張りに手出しされたときに限り、これを絶対に許しません。相手を特定して、必ず報復する」

「……つまり、あえて縄張りに手出しして、『魔女』を誘き出したのかしら?」

「まぁ、そういうことです。遠隔起動する術式を用意して、それで縄張りにちょっかいかける仕組みでした。……これ、緊急時の対処法として情報売れませんかね?」

「その商魂のたくましさには感心するけど、『魔女』にきてもらってまで何とかしなくちゃいけない状況なんて、そうそうないと思うかしら」

「ですよね。あれも、『狂皇子』対策ってのが本音でしたし」

転んでもただでは起きない、という格言を実証したがったニコラだが、さすがに分が悪いと思ったのか、すごすごとその企画書を引っ込める。

と、最後に付け加えた一言が、スバルの意識を強く引いた。

「わかってた、のか? あのヤロウが、くるの」

「――。いずれ、あるかなと思っていました。こんなに早く嗅ぎつけられると思っていなかったので、お伝えしていなかったのは僕の手落ちです」

「ておち……」

「おわかりだと思いますが、『狂皇子』……ヴェイグ・アドガルドは、極度の精霊嫌いです。精霊を憎悪していると言っていい。彼はグステコ聖王国の慈母とさえ言われた『霊獣』オドグラスの抹殺を皮切りに、世界中の精霊を殺し尽くしている」

「オドグラス……にーちゃと同じ、四大なのよ。それを殺すなんて……」

「『霊獣』に限りませんよ。カララギの『通り魔』も殺され、『石塊』を内包するアラキアさんも狙われ続けています。大精霊である、ルーメラさんの姉妹も――」

「え?」

その『狂皇子』の凶行が並べ立てられる中、不意にニコラが口走った内容に、スバルとベアトリスの目が大きく見開かれる。その反応に、ニコラが自分の口に手を当て、失言に気付いた顔で瞑目した。

そのまま、彼は「すみません」と言葉を継ぐと、

「今の、聞かなかったことにしてくれませんか。ナツキさんたちには話さないって、ルーメラさんと約束していまして」

「……そんなの、むりだ」

「その言い方だと、ベティーたちには聞く義務があるかしら。ルーメラの姉妹……ルーメラ以外の五人は、まさか」

「――。『狂皇子』の手にかかり、すでに亡くなりました。全員、それを覚悟の上で、ナツキさんたちの救出に臨んだんです」

「――――」

言わずにおこうと、それもスバルたちには聞かせまいと、そう口裏を合わせていた秘密だ。当然、それがスバルとベアトリスに関連したものである可能性は高かった。

だが、具体的に彼女らの命がどう使われたのか、それは想像の外側で。

「モゴレード大噴口……あの裏側を漂泊するベティーたちを見つけるのは、簡単なことじゃないのよ。あれは莫大なマナ溜まりのようなもので、その中から小さな小さな黒球だけを拾い上げるには、時間も労力も、機会もいるかしら。そして……」

「――――」

「そして、大精霊がそんな真似をしていようものなら、アンテナを張っている奴ならすぐに目敏く気付くのよ。邪魔されないためには、目眩ましを置くしかないかしら」

「そ、そのやくめを、まさか」

「――わたくしたちにとって、それは当然の決断でしたかしら」

組み立てられるベアトリスの推論、それが他ならぬ当事者によって裏付けられた。

スバルたちとニコラとが話す部屋に乱入してきたルーメラ、彼女は秘密を明かしたニコラの方を、その赤い瞳でしょうがなさげに見て、

「ニコラ様ときたら、なんてお口の軽いことでございますですかしら。わたくしの姉妹たちの、最後の頼みも聞き届けてくださらないのでございますですことよ」

「……言い訳のしようもありません」

「まぁ、赤ん坊の頃から知っているニコラ様ですかしら。わたくしの姉妹たちの活躍を、どうしても話したいというのもやむなしでございますですのよ」

落ち込んで俯いたニコラの頭を、ルーメラの手が優しく撫でる。その様子からは、二人の関係が見た目通り、年上の女性と少年とのそれに見える。

実際、スバルたちの知らないところで、ニコラやルーメラの人生は交わり、今日という日を迎えるまでの紆余曲折があったのだ。――そこに、スバルたちを助けるため、ルーメラの姉妹たちが命を懸けるという、約束事も。

「どうして……」

どうしてそこまでと、そう問い詰めずにはいられない。

助けられた立場で、スバルがこんなことを思うのは悪いとわかっている。でも、こんなのはおかしい。間違っている。スバルとベアトリスを助けるために、費やされたものの大きさが、あまりに吊り合っていない。

ニコラ以前のオットーの子孫たちや、ルーメラたちが預かっていたユークリウス領、古くはアルを殺させないために自分ごと彼を氷漬けにしたエミリアもそう。

スバルたちのために、犠牲になったものが多すぎる。ルーメラの姉妹だけでも、そのために五人が犠牲になった。精霊ならいい、なんて都合よく考えられない。

それに、そんなに苦労して、時間と人生を捧げて、そうまでしてスバルとベアトリスを救い出せたとしても、もうそこには――、

「みんな、いないのに」

そんな世界に放り出されて、取り残されて、喜ぶなんて器用なことはできない。

義務感や使命感、目をつむると押し寄せてくる無力感に抗いたくて、スバルは意味を見つけ出そうと、必死にリハビリに励んだ。――でも、心のどこかで思っていた。

「いみなんて、ない」

動けるようになって、歩けるようになって、掴めるようになって、なんだ。

動く? 何のために。

歩く? いったいどこを。

掴む? 空っぽのこの未来で。

もう、スバルの大事な人たちの多くと、会うことも話すこともできない、世界で。

「あいたい」

みんなに、会いたかった。

今すぐに、みんなに会いたかった。大事なみんなと、言葉を交わしたかった。

それができないなら、助かった意味なんてなかった。

「スバル……」

流れるに任せ、涙が頬を伝った。

それを目の当たりにし、弱々しい呟きを聞いたベアトリスが、悲痛な表情で、しかしすぐにそれを覆い隠した慈しみの顔で、その涙を拭う。

拭われても、拭われても、涙は流れた。

まるで、スバルたちが助かったことと同じように、拭うことが無意味とばかりに。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かの夢を否定しないと誓います。

△▼△▼△▼△

――あれ以来、リハビリはやめてしまった。

心と体の配線、それを繋ぎ直し、不自由を脱却して、自らの足で大地を踏む。

この四百年後の世界を、辿り着いてしまった明日の明日を、今日として生きる。

そんなおためごかしの希望など、全てから見放された絶望の前には無力だった。

「スバル、ご飯かしら。ベティーが食べさせてあげるのよ」

自発的に動く、という気力をなくしてしまったスバルの身の回りを、ベアトリスがちょこまかと甲斐甲斐しく世話をする。

前々から、スバルのために尽くそうとしてくれる彼女だったが、生来の不器用さも相まってなかなかうまくいかないことが多かった。

だが、使命感がそうさせるのか、甘え、頼る相手がいないことの不自由さが理由か、皮肉なことに、リハビリの成果の上がらなかったスバルと違い、ベアトリスの介護能力は日に日に向上し、テキパキとスバルを扱えるようになっていった。

朝晩の食事に、お湯で体を拭く清拭。動かせない手足の筋肉を曲げ伸ばしさせるストレッチなど、ベアトリスの体躯では重労働のはずだが、文句の一つも言わない。

それどころか、彼女はそうした一個一個の日課をきっちりこなすと、

「よく頑張ったかしら。偉いのよ、スバル」

そう、何もしないだけの役立たずに、そう微笑みかけるのだ。

これが、穀潰しに対する皮肉や嫌味であったなら、スバルの心もまだ救われる。そして当たり前だが、そこにベアトリスの悪意が含有されていることなどない。

ただ、スバルを案じるベアトリスの想い、それがますます心を腐らせるのだ。

「――――」

夜――否、夜に限らず、瞼を閉じて思い描くのは、何もかも変わり果ててしまった今の世界ではなく、置き去りにしてきてしまった過去の光景だ。

そこには、スバルの大切なモノの全てがある。

大切な仲間たちが、共に過ごした屋敷が、笑い合った思い出が、悩み尽くした問題が、乗り越えようと誓った未来が、全てがそこに残されてしまった。

笑顔が、見える。笑い声が、聞こえる。温もりが、思い出せる。――それなのに、もう誰も、何もない。触れられない。話せない。笑えない。

――スバル、と自分を呼ぶ声がする。

色んな声が、たくさんの呼び方が、様々な感情が、ナツキ・スバルを呼んでいる。その一個一個を痛切に思い、ナツキ・スバルは沈んでいく。

それでいいだろうと、思う。――立ち上がる理由が、今湧いてこない。

「あいたいよ」

きっと、確かめるために立ち上がるべきなのだろう。

もう誰も、何も残っていないと投げ出そうとしても、その姿かたちが手に届く位置になかったとしても、彼女だけは、今もこの世界に残っている。

エミリアを、彼女との再会だけを希望に、立ち上がる努力をすべきなのだろう。

スバルたちを救うために、自らを永久凍土に閉じ込めたエミリアと、その再会だけを求めて、懸命に足掻くべきなのだろう。なのだ。なのだとも。なのはわかっている。

でも――、

「もし」

エミリアさえも、氷の奥底に、本当にいるのだろうか。

「もし」

そこに、エミリアがいなかったら。

全て何もかも、スバルとベアトリスを生かすために、犠牲になっていたら。

「もし」

生きる理由を与えるために、ニコラたちが共謀してついた嘘だったら。

本当はエミリアも含めて、もう誰も、この世界に残ってなんていなかったら。

「もし」

その理由まで失ったら、ないことを確かめてしまったら、スバルはどうなる。

みんなが、ありとあらゆる犠牲を払ってまで、誰もいなくなってしまったこの大地に、取り戻してくれたスバルは、どうする。

誰も、いない。

エミリアも、レムも、ラムも、オットーも、ガーフィールも、■■■も、フレデリカも、スピカも、リューズも、メィリィも、ロズワールも、アンネローゼも、クリンドも、ラインハルトも、フェルトも、ロム爺も、アナスタシアも、ユリウスも、クルシュも、フェリスも、ヴィルヘルムも、プリシラも、アルも、シュルトも、アベルも、ミディアムも、フロップも、タンザも、セシルスも、ヨルナも、プレアデス戦団も、『シュドラクの民』も、誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰も誰もいないのに――。

「だれも」

いない。いない? いない。いない。いない?

じゃあ――、

「――■■■は?」

発音のできない、名前がこぼれる。

思い出せない、記憶を蘇らせようとする。

ポロポロ、ポロポロ、ポロポロと、掴みかけた端から、ポロポロと崩れ、自分の中に生じた違和感を疑いたくなる。違和感を抱いたことを、疑いたくなる。

違和感を抱く理由なんて、あったっけ。■■■なんて、何が。

「■■■……」

どうして、音にならないのか。それがあまりにもどかしい。

必要だ、音が。記憶に留めておくために、誰かにそれを伝えるために。■■■、■■■、■■■だ。■■■! ■■■! ■■■――!!

「■■■……っ!」

思い出せ。頭に留めろ。どこにも散り散りにさせるな。

まるで、見ていた夢を寝起きに忘れるみたいに、脳が■■■を忘れようとする。脳が役に立たないなら、体に刻んでやろうかと思っても、爪に力を込める前に、■■■が輪郭を失い、何を描こうとしたのかを思い出せなくなる。

不自然で、理不尽で、不条理で、不可解で、無慈悲で、不合理で。

どうして、■■■を、スバルは覚えておけないのか。

「――ッ」

歯噛みし、■■■を忘れようとする不自然に抗おうとする。

■と■と■と、■■■の名前を分割して記憶に留めようとしても、それが■■■の名前のパーツだと認識した時点で、ばらそうと散りばめようと同じとみなされる。

■■■を、正しく呼べないのは、世界に定められた逆らえないルールだ。そして、■■■のような、正しく名前を認識できないものは、世界から忘れられる。

■■■を目にするまで、■■■を正しく認識できていないことを、■■■を知って、覚えているはずのスバルも気付けなかったように。

きっと■■■を忘れても、素知らぬ顔で、また■■■を忘れた明日を生きる。

「ふざけんな……」

ここまで、どれだけ失ってきたと思っているのか。

ナツキ・スバルは、ベアトリスは、ここにくるのにどれだけ多くをなくしてきたか。こっちはもう、心がぶっ壊れかけてんだよ。ヒビだらけで、めちゃくちゃなんだ。

なのにまだ、■■■を忘れて、■■■を手放して、生きろっていうのか。

「そっちが、そのきなら……」

どこかの知らない誰かが、スバルたちがいない間にルールを定めた。その強制力が働いて当然の世界、異議を唱えたければその場にいればよかったのに、それができなかったから知らない間にルールが締結された。なるほど、わかった。大いに結構。

誰が、そんな馬鹿げたルールに従うか、バーカ。

「■■■。■■■。■■■。■■■。■■■」

一秒、ほんの一秒、■■■のことを考えることを忘れれば、その一秒を二秒に、二秒を五秒に、五秒を十秒にと拡大され、広がった空白が■■■を頭から追いやる。

そうやって忘れさせ、なかったことにするのが運命の手口だ。――だったら、これから先、ナツキ・スバルは一秒だろうと■■■のことを忘れない。

これから一生、死ぬまで頭の片隅に、■■■のことを刻み続ける。

ナツキ・スバルの心の一部を永遠に、■■■のために捧げる。

確かに、いたのだ、■■■は。

『憂鬱の魔女』などと呼ばれ、世界中のあらゆる人から災い扱いされて、世界最恐とされる『狂皇子』相手の切り札にされるくらい、とんでもない存在となっても。

ナツキ・スバルとベアトリスの前に、■■■は、確かに現れたのだ。

「また、やるよ、■■■」

何度も折れて、何度も忘れて、何度も投げ出して、何度もへこたれて。

何度も決意して、何度も刻んで、何度も顔を上げて、何度も立ち上がって。

馬鹿みたいに学びのない、不細工でみっともない歩き方でも、またやる。

「――ベアトリス」

「――――」

久しぶりに唇を動かした。乾いて張り付いた唇の皮が裂けて、血が流れる。痛みは、まだない。脳と体の配線は、今もなお繋ぎ直されていない。

でも、またやる。やると決めた。今度こそ、本当に、時間がかかったけど。

「■■■が、いきてる。きっと、えみりあも。だから」

「――――」

「だから、おれ、がんばるよ。またせてごめん」

決意と諦めを繰り返して繰り返して、我ながら説得力のない決心。

それでもしかし、言った。恥も外聞もなく、言った。

だって――、

「待つのなんて、当たり前かしら。――ベティーは、スバルのパートナーなのよ」

スバルの最高のパートナーは、そう言ってくれるとわかっていたから。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、誰かの背中を押したりしないと誓います。

△▼△▼△▼△

――百二十六億、二千二百七十八万、八百秒。

それが、四百年を秒数に換算した結果だ。

『憂鬱の魔女』と化した■■■の権能で、スバルはほんのひと時、長い長い無為な時間を過ごすことの恐ろしさを味わった。

「一秒の百万倍は、百万秒……」

ざっくりと計算して、十一日と半分、それがスバルの味わった百万秒だ。

日数に直すと、それが大した時間でなかったように思われて、驚く。あんなにも終わりの見えない、真っ暗なトンネルの中を歩くような感覚だったのに。

そして、■■■が過ごした四百年は、その百万秒のおおよそ一万二千倍だ。

「……あれを、一万二千倍」

無論、何もない日々ではなかっただろう。

それこそ、『憂鬱の魔女』の名が世界中に知れ渡り、自分でも知っている人たちが次々とこの世を去り、ついには王国や都市国家までも滅亡し、今に至った。

まさに、激動の時代を体感したと、そう言っても過言ではない。

「でも、わかるよ。そんなの、関係ないって」

たとえ、世界が書き換わるような大きな出来事が連発したとしても、それが心を動かすものでないなら、何が起きても窓の外の大風と変わらない。

我が事と思い、熱と実感を伴い、そうした感覚が味わえてようよう、あらゆる体験というものは自分の人生の一部になる。それが得られない人生なんてものは、空疎で何も存在しないも同じ。――まさに、この世の地獄だ。

その地獄を、■■■は過ごした。夢も、希望もなく、ただ惰性で。

長い長い虚無的な時間が、彼女からそうしたキラキラしたものを奪い去り、『憂鬱の魔女』としての■■■を作り上げてしまった。

そうでなくちゃ、今の彼女の在り方に説明がつかない。

そして――、

「――俺に、それを何とかしろっていうんだろ、みんな」

そう言って、スバルは自分の手で着替えた服の襟を正し、靴の紐を強く結んだ。

口を利いて、自分の思う通りに手を動かし、立って歩けるようになるまで心と体の配線を繋ぎ直すのに、途方もない時間をかけてしまった。

腐っていた時間の長さと、リハビリにかけた時間。

それでも、強い目的と成し遂げなければならない目標があったスバルの過ごした時間は、■■■が過ごしただろう四百年より、はるかに救いのあるものだった。

その、スバルが与えられた救いを、■■■にも届けたい。

「――ナツキさん、準備はできましたか?」

用意万端、ずいぶんと長く過ごした部屋を感慨深く眺めるスバルの背に、すっかり耳に馴染んだニコラの声がかけられる。

振り向けば、そこには出会ったときと同じ、柔和でどこか頼りない、しかし大きな仕事を成し遂げる男が、とっくに使いこなしている義足で堂々と立っている。

スバルが腐っている間も、着々と自分の人生を前に進めていた彼が。

「できたよ。本当に、お前には何から何まで世話になりっ放しだ。この借りは……」

「それなら、だいぶ前にも結構ですと言ったでしょう。ナツキさんとベアトリスちゃんを拾い上げられた時点で、僕は十分救われたんです。ですから、貸し借りなんて……」

「いや、返すよ。お前が断っても、お前の爺さんの爺さんの爺さん……とにかく、俺のダチは借りを返さないなんて許さねぇ。っていうか、わかったんだよ」

「わかった、というと?」

「あいつが、なんで子々孫々にまでわたって、俺とベア子を引き上げろなんて無茶な言い伝えを残したのか、だ」

その、具体的な理由を明文化しなかったのは、彼の手落ちか、それとも別の理由か。

案外、抜けているところもあったから前者の可能性もなくはないが、ただ、その目的を取り巻く事象を考えれば、文字に起こすことさえできなかったのかもしれない。

それでも、行動が言葉よりも明瞭に意思を伝えることは、ある。――オットー・スーウェンが、子孫たちを間に挟むことで、ナツキ・スバルに託したもの。

「――ナツキさんが、■■■ちゃんを救ってください、だ」

「――――」

「そうすると、色んな歯車がガチャガチャ噛み合うんだ。そりゃ、みんなが俺を助けようとしてくれたってエピソードも超熱いさ。だけど、自分たちがいなくなったあと、出てきた俺が魂の腑抜けた抜け殻になる可能性だって思いついたはずだ。でも……」

みんな、そうしなかった。

誰も彼もみんな、ナツキ・スバルを引き上げることを諦めなかった。何故なら、ナツキ・スバルには戻ってきて、やってもらわなければならないことがあったからだ。

自分たちでは救えなかった■■■を、スバルは救わなくてはならない。

そのために、あの時代を生きたみんなが、スバルに大きな貸しを作ったのだから。

きっと、他でもない誰より、代償を捧げた■■■のために。

「それにしたって、厄介な仕組み……呪い、システム、クソルールだよ。誰も、■■■のことを残せない。記録できない。記憶を、語れない」

「でも、ナツキさんは覚えてる。ベアトリスちゃんも」

「そりゃ当然だよ。なにせ、一人の女の子の人生捻じ曲げて、『魔女』なんてとんでもないものにまでしちまったんだ。責任取らねぇと」

それこそ、人生を捧げでもしなければ、釣り合いが取れないくらい。

そのスバルの覚悟の答えに、ニコラがその顎に蓄えた似合わない髭を撫で、笑う。

そんなやり取りを交わしていた直後だ。

「ナツキ・スバル様! こちらの準備、燃え滾るほどに万端ですかしら! ベアトリス様もわたくしも、灼熱の如く絶! 好! 調! ですかしらー!!」

「ええい、騒ぎすぎかしら! 大体、ベティーの調子をどうしてお前が勝手に説明するのよ! あと、いい加減に温度調整を覚えるかしら! 熱いのよ!」

わあわあと、騒がしく飛び込んでくる大小二つの影に、スバルはニコラと顔を見合わせ、それから堪え切れずに笑みをこぼした。

と、その室内の二人を目に留め、「あらまあ」とルーメラが口に手を当てて、

「ニコラ様! 今日は調子がよろしかったのでございますですの? 近頃は、あまり外に出られていないとお聞きしていたでございますですかしら」

「それには違いありませんけどね、今日、見送りにこないのは嘘でしょう。『勝機を見出せないものに商機は掴めない』、ホーシン語録です。今やすっかり廃れましたけどね」

「いい言葉はいい、ですかしら。わたくしの燃え盛るほど素晴らしい主様も、お仕えしていた方のそうした言葉を大事にしていたものでございますですもの」

ホーシン語録が廃れ、しかし廃れたそれを大事にする二人のやり取りに、自然とかつての光景と、そこにいた人たちのことが脳裏に蘇る。

だが、そのノスタルジックでセンチメンタルな気持ちは、今は封印だ。

「けど、ルーメラ、本当に俺たちとくるのか? 間違いなく、ヤバい戦いになるぞ」

「あらあらあらま、わたくしを案じてくださっているですかしら、ナツキ・スバル様。そうだとしたら、なおさらわたくしがいるべきでございますですわよ。だって……」

「姉妹の敵討ち、か?」

「いいえ、違いますですかしら。――主様なら、ここで必ずナツキ・スバル様と共に戦ったはずでございますですもの。だから、わたくしもそうするですかしら」

「……クソ、あの野郎、直接文句も手も出せねぇところに先にいきやがって」

「ふふふ、それが『最優』というものですかしら!」

ドンと、その豊かな胸を叩いて、ここにはいない男のことを誰より誇る。そのルーメラに、姿かたちも性格も態度も何もかも違うのに、彼女が主と仰いでやまない『最優の騎士』と同じだけの頼もしさを感じるのは、不思議な心地だった。

「実際、ルーメラがいるのは追い風かしら。それに、どのみち予想される衝突が起こったら、絶対にあの男は横槍を入れてくるのよ」

「なら、総力戦にした方が全員にとっていい、か。ったく、俺たちは任された大事なお役目に集中したいってのに、俺のベア子がモテすぎるせいだな」

「心配しなくても、そのベティーを射止めたスバルのことも、あの男はちゃーんとロックオンしてるかしら。狙われるのはおそろなのよ」

「そりゃいい。揃って狙われるんなら、ベア子の浮気を疑わずに済むもん、な!」

「んきゃっ!」と、不意に担ぎ上げられ、肩車される形になったベアトリスが驚く。しかし、すぐにスバルの頭に手を置く彼女は、そうされるくらいスバルが体の調子を取り戻したことに、感慨深そうな吐息をこぼした。

「――――」

その、頭頂部に当たる吐息についてスバルは触れない。

感謝なんて、いくらしてもし足りないし、感謝の言葉はいくら尽くしても尽くし足りないくらい、ベアトリスにはたくさんの心配と迷惑をかけ続けた。

本当に長いこと待たせてしまって、ようやくここから、ここからなのだ。

「なんじゃ、湿っぽい。まるで、死地に出向くような湿度の空気よな。そなたら、妾の『九神将』を貸し出す意味がわかっておるのか? のう、どうじゃ?」

ベアトリスを肩車したまま、ニコラとルーメラを伴ってスバルが家の外に出ると、そこで待ち構えていたのはヴォラキア帝国の統一皇帝閣下だった。

王宮を離れ、わざわざ直接やってきたその姿に、スバルは「お」と目を丸くして、

「こんなとこにいていいのか? だいぶ忙しいって聞いたぞ。なんかあれだろ? こう、帝国転覆を狙ってた奴らの根城がわかったとか何とか」

「たわけ。そこまでわかった時点で、妾が差配すれば問題などあるはずないのじゃ。あまり決まったものたちばかり重用していると、かえって部下の心が離れる恐れもある。ヴィンセント・ヴォラキアはそうした点に行き届かず、よくよく皇妃にフォローされておったと、そう記録されておるほどじゃ」

「すげぇな。あいつ、後世に冷血だったことと、ミディアムさんの尻に敷かれてたことが残されてんだ。知ってたら眉間の皺が埋まらなそう」

どうあれ、尊敬される対象かはともかく、自分の子孫たちの治世に反面教師としてでも役立っていたなら、アベルも浮かばれるだろう。「ふん」と、あの仏頂面で腕を組み、しらっとした顔をしているのが目に浮かんだ。

そんな、先帝の恥を語った若き皇帝の左右には、今しがた彼女が語った、よく重用される二人――アラキアと、マデリンの姿がある。

以前から、旧知の顔を見せてやろうという気遣いなのか、スバルたちのところに同行させられることの多かった二人だが、今回はこれまでとは事情が違う。

「まさか、ダメ元で頼んでみたものの、『九神将』をレンタルさせてもらえるとは」

「当然、妾らにとっても利があってのことよ。そなたがあのアグザッド絶氷河の問題を取り除ければ、長年の煩いだったグステコ聖王国への道が開ける。『霊獣』も死に、グステコ聖教の影響力も低い今、あの国をあのまま放置はできぬのじゃ」

「そうしたら、全世界を制圧した超統一帝国ヴォラキア誕生か」

「そこで、妾は世界統一を成し遂げた超皇帝として歴史に名を遺すわけじゃな。――病などなければ、それは母君の栄誉であったろうに、運のない」

「……湿っぽい話を嫌ったわりに、お前の方からしてきたかしら」

「――ふん、口を慎め。可愛いからといって、母君のように妾は甘くないのじゃ」

なんて、結局罰しないのに言われても説得力がない。

それはスバルもベアトリスも、皇帝当人を挟んだ二人の『九神将』にもバレバレで。

「協力してもらえるのは心底ありがたいけど、俺の指示に従ってもらうぜ? ■■■……『憂鬱の魔女』を殺したりするつもりはないから」

「聞いてる。無茶で馬鹿。でも、従う」

「命令だから?」

「違う。わたしも、あの『魔女』は嫌いじゃない」

言葉少なに、最高の言葉で協力を約束してくれるアラキア。

その答えに笑みを返し、スバルはもう一人、マデリンの方を見やり、

「マデリン、頼んであったことは?」

「お前も、竜相手に無茶ばかり言ってくれるっちゃ。本気で役立つと思ったっちゃか?」

「役立つかどうかはともかく、いてくれなきゃ締まらねぇとは思ってるよ。■■■を引き戻すための同窓会なんだ。面子は多けりゃ多いほどいい」

「はぁ……苦労したけど、見つけはしたっちゃ」

「――! 本当か! すげぇ!」

腰に手を当てて、大きくため息をついたマデリンの回答に思わず飛び跳ねる。

正直、これに関しては『九神将』のレンタル以上のダメ元だった。それどころか、まず確信すらなかったことだ。■■■絡みであったのだろう。記録にもはっきりと明示されたわけではなかったそれは、ルグニカ王国のとある地――ロズワール・L・メイザースの屋敷の跡地、そこで封じられていた禁書に記された情報だった。

それは、スバルも知るとある人物の正体――四百年後の今、居場所のわからない彼の足取り、その捜索をスバルはマデリンに託していた。

同じ立場である彼女なら、見つけられるかもしれない一縷の可能性に賭けて。

「大したもんなのよ。ベティーがあとで頭を撫でてあげるかしら」

「いらないっちゃ! 竜を子ども扱いするんじゃないっちゃ! 竜もお前も、どっちも子どもでも何でもないっちゃ!」

「だな。八百歳のドリルロリと、四百歳の角ロリだ」

「それも不愉快な表現っちゃが……聞いても無駄かもしれないっちゃよ」

「え?」

「腑抜けて、使い物にならないと竜は思うっちゃ」

「――――」

腕を組んだマデリンは、その金色の瞳を細めながらそう前置いた。

言いづらいことでもはっきりと伝えるのは、竜人たる彼女の強さであり、気遣いの裏にあるのは人間社会で長く生きたことで芽生えた思いやりだ。

同時に、使い物にならないとまでマデリンに言わせた相手、それがどれほどの絶望の中にいるか、スバルには察せられるものがあった。――否、

「俺たちにしか、それはわからねぇ。だから、俺とベア子がいくよ」

「いくのよ。スバルとベティーは、いつでも一緒かしら」

「おう」

肩車されたベアトリスと、スバルがお互いの両手をグータッチ。

それを目にしたマデリンは肩をすくめると、それ以上の反対意見を言わなかった。

「――――」

それを確かめ、スバルは大きく息を吸い、吐く。

しんと冷たく澄んだ空気を肺の中に取り込んで、熱を帯びた体をわずかに冷まし、ゆっくりと、背後にいる仲間たちを振り返った。

四百年、長い長い時間、ただ揺蕩うだけだったスバルとベアトリスを助け出し、やらなければならないこと、それに全力を捧げるだけの猶予を与えてくれたみんな。

「ニコラ」

「はい」

「ルーメラ」

「ですかしら!」

「ロザリンド」

「代わりに返事してやるのじゃ」

「アラキア」

「ん」

「マデリン」

「聞いてるっちゃ」

「ベア子……ベアトリス」

「もちろん、いるのよ」

順番にみんなの顔を見て、順番にみんなの返事を聞いて、順番にみんなの頼もしさを胸に蓄えて、スバルは大きく息を吐いた。

たくさんのものを置いてきた。たくさんの人と別れてきた。

それは悔しい。悲しい。今も辛い。でも、一度空っぽになってしまった手は、そのまま空っぽでいられるほど、強くなかった。

「違うな。俺、ずっと一人になんてなってなかった」

ただスバルが腐って、一人になったような気になっていただけだ。

ベアトリスがいて、ニコラたちがいて、きっとエミリアが待ってくれていて、そして、■■■が迎えにくるのを待たせているのだから。

「――いこう。俺たちが、俺たちであるために」

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、■したことを■れないと誓います。

△▼△▼△▼△

――そして、物語は冒頭の、絶氷地帯の瞬間へと立ち返ってくる。

「お前を取り戻すぜ、■■■。――運命様、上等だ!!」

吹き付ける冷たい風、不穏なまでに毒々しく高まるマナの波動、そうした不安要素を吹き飛ばす意味も込めて、大きく大きく、スバルは叫んだ。

その強い感情を向けられ、しかし『憂鬱の魔女』の横顔は小揺るぎもしない。

そうして、初手の告白があっさり失敗するのと――、

「――六秒だ」

白く染まる大地を強く踏み、一瞬で間合いを詰めてくる『狂皇子』が両腕を振りかぶる。その腕には『呪剣』が二振り握られ、刹那ののちに放たれる剣風が、スバルたちと■■■たちとを、まとめて両断しにかかるだろう。

■■■はどうとでもできても、すでにE・M・Mを使ったスバルたちにそれを防ぐのは難しい。

故に――、

「――生憎と、もう少し手こずっていただきたく。要求」

瞬間、地上で鳴り響く雷鳴が、真正面からの雷爆となって『狂皇子』を襲った。

炸裂する光、それが八方に衝撃波を広げ、凍り付いた大地が放射状にひび割れ、砕けていくのがスバルの目にもわかる。一瞬、それが自分の足下に届く可能性を危惧するが、すぐにそんなものは不要だと判断した。

「だって、万能家令がそんな手落ちするわけねぇし」

「大変光栄な評価です、スバル様。それに重ねて感謝を。大恩」

「大恩なんて大げさだ。俺の方こそ、きてくれて感謝してます。――クリンドさん」

そう言ったスバルの視界、そこに細くしなやかな背中を見せる、秀麗な面立ちをした青い髪の男――クリンドが立っている。

四百年前のかつてを知る一人であり、この時代になお生き延びた旧知の人物。――そして今、その青髪をいただく頭から、二本の黒い角を生やした竜人。

四百年前に行方をくらまし、同じ竜人であればと希望を託したマデリンの捜索で、ようやくその居場所を見つけることのできた、最後のピース。

「私は、大きな過ちを犯しました。その覚悟と未来を切望するあまり、大きな代償を支払おうとする真意に気付けなかった。痛恨」

静かに、クリンドの唇から紡がれるのは、彼ほどの人物が四百年間、表舞台に立つこともなければ、ニコラたちのようにスバルたちの捜索に協力するでもなく、失意のままに長い時間を過ごすことになった理由。

やはり欠け落ちたものの多い記憶の中、それでも残った強い後悔に苛まれたクリンド、その断片的な証言から、スバルは彼が味わった絶望――それが、■■■が『憂鬱の魔女』となってしまった今の状況に、密接に関わっていると看破した。

あるいは彼も、死を覚悟したかもしれない。

しかし――、

「我が後悔と哀惜を、あなたに捧ぐ。――今度こそ」

決意を宿した金色の瞳、その全身に纏った迸るような紫電、この時代まで命を繋いだ竜人たる存在が、スバルたちの願いと祈りに力を貸す。

「……竜人か。竜殻や竜暈を纏った貴君ら『龍』は、広義の意味で精霊と同じマナ体の保有者だ。だが、我輩は貴君らを直接の敵とは思わず、思っていない」

紫電一閃、クリンドの放った雷光を纏った一撃を正面から喰らい、しかし、『狂皇子』は交差した『呪剣』の柄でそれを受け、大きく下がるだけに留まった。

その途方もない力量は、常外の力を有した竜人さえも凌駕する。――そうした、力の差の確信があってのことではないだろう。

そういう、わかりやすい打算や驕りで、『狂皇子』は相手を見ない。

それは、ベアトリスやルーメラたちの無事を巡り、最悪の初対面以降、何度も何度もその凶刃と衝突する機会のあったスバルには、明々白々な事実だった。

その証明とばかりに、『狂皇子』は手の中の『呪剣』の感触を確かめながら、相手が誰であろうと変わらない無表情で眉を顰め、

「それでも、戦うのかね?」

「言うに及ばず。至言」

「そうか。残念で、残念だ。消えてもらう。残念なことに」

刹那、雷爆と光爆とが地上でぶつかり合い、音さえ掻き消えた凄まじい爆圧が、戦場となった絶氷河を内から膨れ上がり、云百年そのままだった世界の形を変える。

それは数百年ぶりの、世界の趨勢を揺るがすような超越的戦いの幕開け――、

「いいの? あれ、放っておいて」

ふと、そう尋ねてきたのは、遠目にその戦いを眺める■■■だ。

彼女はその青緑の瞳をけだるげに細めながら、大した興味もなさそうな素振りで、スバルにクリンドと『狂皇子』との戦いのことを聞いてくる。

一瞬、不用意な彼女の接近に、スバルは呆気に取られかけたが、

「大丈夫だ。これも全部、作戦通りだから」

「そうなの? でも、あの竜人さんじゃ『狂皇子』さんに勝てないでしょ? やられちゃうのも時間の問題だと思うけど」

「さすが、■■■はお目が高い。――けど、大丈夫だ。すぐに」

「――援軍がくるかしら」

言うが早いか、氷上で攻防を繰り広げるクリンドと『狂皇子』、その戦いに、四方から猛然と乱入してくる影――全身を立ち上る炎で包んだ赤髪の大精霊と、その身から煌めく金剛石の光帯という矛盾した武装を伸ばした『金剛姫』、そして久々に『雲龍』の竜殻を実戦投入し、自分×自分という連携を実現する『飛竜将』。

――それら、今の世界の最強クラスが揃い踏みし、戦いが一段も二段も加熱する。

「……確かに、あれならもうちょっとだけもつかも。だけど、あそこにいるのって全員『狂皇子』さんのターゲットっぽい人たちでしょ。『狂皇子』さん、戦ってる間にどんどん強くなるタイプだから、作戦ミスじゃない?」

「――――」

「……なに? わたし、変なこと言ってる?」

「いや……お前の口から、ターゲットとかタイプとか、そういうのが聞けて、胸の奥がじんわりしたんだよ」

■■■の見立てに対し、スバルも正直な気持ちを口にする。途端、不気味なものを見るような目をされたが、仕方ない。感慨深さは本物だ。

ただ同時に、■■■の戦術評価は正しい。――そもそも、『狂皇子』は存在だけでなく、与えられた才能も埒外の化け物なのだ。

『適応の加護』で如何なる状況や環境にも適応するだけでなく、『孤独の加護』で単独戦闘の能力を恒常的に上昇し、『反復の加護』で戦いの中で同じ動作が加速度的に洗練され、本来なら死に際だけ効力を発揮する『不屈の加護』が、心臓の動かない精霊人であるというオンリーワンのバグによって常に発動し続けている。

そうした、複数の加護の所有者にして、当たり加護が相乗するシナジー爆発。――それが『狂皇子』の、圧倒的な戦闘力の正体、その一端。

「ラインハルトも相当馬鹿だったし、セッシーとハリベルさんもまあ馬鹿だったけど、あいつもやっぱりおんなじレベルの馬鹿なんだよなぁ」

「なんなの? じゃあ、勝てないってわかってるってこと? あのね、自殺なら余所でしてほしいな。わたし、ここで暮らしてて、暇じゃないの」

「自殺じゃねぇよ、勝ちにきた。確かに、このままだったらこっちは負ける。でも」

「でも?」

「■■■、お前が力を貸すなら話は別なのよ」

そう、スバルと手を繋いだベアトリスの発言に、■■■が怪訝そうに眉を顰めた。

そうして眉を顰めても、欠片もその美貌の薄れない『魔女』は、「意味わかんない」と無感情に呟いて、

「どうしてわたしがそんなことするの? わたし、『憂鬱の魔女』。知ってる? 誰もわたしを従えられないし、命令もできない。そういう存在なの。それとも――」

そこで■■■が言葉を切り、ゾッとするほど艶めかしい流し目を送ってくる。

それが、ポジティブな感情を理由にした動きでないことは、■■■の傍ら、スバルに寄り添うベアトリスの如く、その傍を離れない紅蠍を見ればわかる。

紅蠍は、誰にも侵犯できないはずの『憂鬱の魔女』を、それでもあらゆる災いから守ろうとするかのように、その複眼を炯々と光らせていて。

「お前、誰かに、■■■を守ってってお願いされたのか?」

「……それ、なに?」

「いや、想像だよ。思い出はボロボロで、でもそうだったらいいなって思って」

「さっきから……ううん、最初からちっともあなたの言ってることわかんない。一緒にいる子もそうだけど、変なお爺さん」

不満、不愉快、不可解、色々とないまぜになったのかもしれない。

相変わらずローテンションながら、それでもわずかに感情の込められた一言は、しかし今のスバルにはグサリと刺さる手厳しいものだった。

スバルは、ベアトリスと繋ぐのと反対の手で、すっかり白くなった自分の髪を撫で、

「変な爺さん扱いは凹むぜ。まだまだ気持ちは若いつもりなんだけど、ダメかな。髭もこう……憧れのヴィルヘルムさんリスペクトで整えてみたり」

「ベティー的には、どんなスバルも男前……一言で言い表すのと、万人に通用するとは言い難い魅力に満ちていると思ってるかしら」

「フォローし切れないフォローをありがとう!」

何とも素直に喜べない評され方だが、そこに嘘がないのは疑いもしない。

そうでなければ、こうしてやらなければならないことを成し遂げるまでの準備にかけた四十年――片時も離れず、支え続けることなんてできるはずがない。

愛情以外の答えが見つからないし、見つける必要もなかった。

「愛情、か。そうだな、そうだよ。頑張る理由なんて、それしかねぇもんな」

「あなた……」

「長かったよ、四十年。でもさ、それですら十二億六千二百二十七万八千八十秒。■■■が過ごした時間の、十分の一でしかない。本当に……本当に、さ」

『憂鬱の魔女』の、その権能。――ベアトリスと検討し、推測されたその『圧縮』という力で以てしても、実際に味わったものとして過ぎる時間は潰し切れない。

■■■が生きた四百年、スバルが自責と自罰に苛まれて味わった地獄の日々など、鼻で笑いたくなるような歳月、それが■■■の心をすり減らして。

「どうして、そこまで自分をすり減らして、ここまで何もかも代償に支払って、どこまでも可能性を捧げて、それでも今に辿り着いたんだ?」

「何を……」

「どうしてなんだ、■■■……■■■!」

「やめてよっ! その、聞き取れない呼び方をしないで!」

不意に『憂鬱の魔女』の表情が崩れ、彼女が大きく後ろに下がった。そのまま反射的に右手を構えた■■■、それは指を鳴らし、権能を発動する用意だ。

相手の命を奪わないで、その経過する体感時間で相手を追い払う、『憂鬱の魔女』の、決して殺さない不殺の権能――、

「やれよ、『圧縮』してみろ」

「――っ、簡単に言わないで。まさか、耐えられるとか思ってるの? そんなの無理だよ。これに耐えられるなんて、人間じゃないもん。四百年って、長いんだよ」

「知ってるのよ」

「――――」

「ベティーは知ってる。■■■が過ごしたのと、ベティーの過ごした四百年は違うものだけど、それでも、きっと同じところのある寂しさを、知ってるかしら」

ベアトリスにも、『禁書庫』で過ごした途方もない歳月があった。そして、終わりがないとすら思われた空虚な日々、それが終わり、解放される日があることを知っている。

「それを、ベティーは■■■にもわかってほしいのよ。お前には、それを受け取る権利があるかしら。……違う、受け取ってほしいのよ」

「……どうして?」

構えた指を、スバルとベアトリスのどちらに向けるか迷いながら、ずっと見せなかった感情を覗かせる『憂鬱の魔女』が、そう問いかけてくる。

何もかもかなぐり捨てる過程で、理由さえ手放すしかなかった悲しい『魔女』が。

「お前に、幸せになってほしい。俺たちみんなが、そう思ってるからだ」

「みんな……?」

「俺が、ナツキ・スバルが」

「ベティーが、ベアトリスが」

「エミリアが」「フレデリカが」「オットーが」「ガーフィールが」「レムが」「ラムが」「ロズワールが」「リューズが」「メィリィが」「スピカが」「アンネローゼが」「クリンドが」「アーラム村の人たちが」「コスツールの人たちが」「家族が」「仲間が」「俺たちが」「ベティーたちが」「「みんなが」」

「――っ」

息を詰まらせ、■■■が頬を強張らせる。

どれ一つ、きっと■■■には聞き覚えのない名前だ。理由はわかる。スバルがそうだったように、■■■自身、自分に関わる多くの人のことを、たったの一秒、思わないだけで全部忘れてしまう。その繰り返しで、全部摩耗し切ってしまう。

「正直、スバルが頭のどこかで永遠に■■■のことを考えてればいいって言い出したときは、さすがに無茶だと思ったかしら」

「そうか? 大したことじゃないだろ。頭の一ヶ所、■■■のために捧げるくらい」

「なのよ」

頷き合い、それから改めて、険しい目つきをした■■■を見つめる。

彼女の発した、「どうして」にスバルたちは答えた。

あとは――、

「お前も答えてくれ。さっきのどうしてに」

「さっきのって……」

「どうして、■■■は『魔女』になってまで、災いなんて言われてまで、大勢からこの場所を守り抜きながら、四百年の空疎を乗り越えたかしら」

「――――」

ベアトリスの噛み砕いた問いに、■■■が息を呑み、何も言えなくなる。

それを正面にしながら、スバルは一歩、前に出た。ベアトリスが繋いだ手を解いて、そうするスバルの背中を小さな手で柔らかく押す。

一歩、一歩と前に出る。一度下がった■■■との距離が詰まる。

「――――ッッ」

その、スバルと■■■との間に、紅蠍が割って入った。

それはまるで、■■■を傷付けるあらゆる全ての災厄から、自分を犠牲にしてでも■■■を守ろうと、そう決意しているかのように。

でも――、

「ずっと、俺たちができないでいたことを、ありがとな」

「――――」

そう言って、その甲殻をスバルが撫でると、持ち上げられていた両手の鋏が下ろされ、のっそりとした動きで、紅蠍はスバルに道を譲った。

その紅蠍の行動に、■■■が裏切られたみたいな顔で目を見開く。――光栄な話だ。ここで紅蠍がどいたのを裏切られたと感じるのなら、

「俺がこうすることは、お前にとってちゃんと意味があることなんだな」

「あ……」

すぐ正面、手を伸ばせば触れられる位置に立ったスバルに、■■■の瞳が揺れる。美しい、スバルの掠れ、消えかけている■■■との思い出、そこにいる彼女よりも、目の前の彼女はぐっと大人になり、可憐さよりも美貌が際立っていた。

ドレス選びと着こなし、髪のセットにしたって、誰にも見せないのにオシャレの塊みたいなセンスをしていて、実に■■■らしい。

四百年経っても、そうした部分を変えず、変わらず、彼女はいた。

それは――、

「俺たちに――俺に会いたかったからだろ」

「――ぁ」

掠れた息が、世界中から恐れられる『憂鬱の魔女』にできた、最後の抵抗だった。

「――――」

伸ばした手で、その細い体を引き寄せ、スバルは■■■を自分の胸に抱きしめる。

びくりと、怯えるように■■■の体が震えた。しかし、熱を帯びた■■■は、押せば容易く砕け散るスバルの老体を、押しのけようとはしなかった。

だが、抱き返してくることもしない。それは彼女の拒絶、ではなく――、

「それも、捧げてしまったのよ」

誰かと、抱きしめ合う権利さえ捧げて、■■■はこの未来を切望した。

何故か。何故だったのか。その答えは、ナツキ・スバルが押し付けるしかない。ナツキ・スバルに会いたくて、四百年間、■■■は空疎に耐えたのだと。

そして、その空疎は今、四百年の長い空疎は今、終わるのだと。

「わたし、わたし、は……」

「いいよ。お前が誰かを抱きしめられないなら、俺が抱きしめればいいだけだ」

「――――」

「お前が名前を呼べないなら、俺がお前の名前を呼ぶ。お前が人前で泣けないなら、こうして顔を胸に押し付けさせてやる。お前が好きなものを食べられないなら、いくらでも新しく好きなものを作ってやる。お前が誰の手も握れないなら、俺が手を重ねてやる。お前が誰にも弱味を見せられないなら、俺はお前の強さを四百年分褒める」

自分のできること、したいこと、未来、希望、可能性。

『憂鬱の魔女』になるための資格は、たくさんのものを■■■から奪い去った。■■■はその可能性を得るため、掴むため、自分でそれを望むこともできない。

でも――、

「大丈夫かしら、■■■。スバルは、勝手に人のことを思いやって、勝手に人の気持ちを想像して、勝手に人を喜ばせようとする、天才なのよ」

「それでベア子も口説き落とした。■■■、お前もその餌食になれ」

「――っ」

抱きしめた体を、スバルはそっと持ち上げ、驚く彼女の顔を間近に見た。その瞳には、込み上げる感情に反して涙は浮かんでいない。

誰かの前で涙を流す権利をも、すでに彼女の手の中にはない。残されている、彼女の可能性は、希望は、未来は、何があるだろうか。

ただ少なくとも、頬を赤くして、潤んだ瞳で、こちらを見る資格は捧げていない。

「意味わかんない。あなたたち、みんな、意味わかんない」

震え声で、ただの人間に捕まってしまった『憂鬱の魔女』がそうこぼす。

どんな災いも、痛みや辛さも、『圧縮』することで刹那のことにできる『魔女』が、この一瞬を決して、失いたくも手放したくもないと、そう祈るように、唇を震わせる。

「意味、わかんないのに……なのに」

『憂鬱の魔女』が、『魔女』が、■■■が、潤んだ瞳で微笑む。

自分の中に湧き上がる情動、手放さずにいたそれを、確かめるみたいに。

「――わたし、あなたのこと、愛してるみたい。変だよね」

「いや? ちっとも」

「かしら」

拒まれる覚悟でいたのだろうか。

口にした愛、それを一瞬の躊躇もなく受け止められて、■■■が目を丸くする。その『魔女』らしさなんて皆無の、ただの村娘みたいな顔に、笑みがこぼれた。

「さすがに村娘にしちゃ美人すぎるか」

「……それ、誰にでも言ってそう」

「言ってたとしても、村娘にしちゃ美人すぎる村娘にだけだ。あんまり該当者、多くないと思うぞ。俺の知る範囲だと一人だけだ」

「そう。……ならいいけど」

スバルの答えを聞いて、■■■が拗ねたような態度で顔を背ける。そこに可愛げを見出しながら、スバルは大きく息を吐くと、

「あのさ、下ろしてもいい? 腰がちょっとヤバくて」

「まさか、わたしが重たいっていうの?」

「違くて! 全然■■■は重くないけど、綿毛みたいだけど! でも、俺の方が六十の爺さんだから! ヨボヨボではないけど、贔屓目に見てもヨボだから!」

「むう……わかりました」

承諾を得たところで、ゆっくりとその場に■■■を下ろす。するとすかさず、駆け寄ってきたベアトリスが、ひょいとスバルの腕の中に代わりに収まった。

それを見て、またしても■■■の目が厳しくなり、

「わたしはダメで、その子はいいの?」

「■■■は見たらわかるでしょ。うちのベア子は精霊で、真の綿毛だから」

「綿毛なのよ」

「息ピッタリ……もういいよ」

そのスバルとベアトリスから顔を背け、ゆっくりと歩き出した■■■、彼女は脇にのいていた小紅蠍の背中を撫でると、「裏切り者」と小さく糾弾した。

それから、このやり取りの最中も、なおも続いている伝説級の激戦――そちらの方にちらと目をやり、

「いつの間にかとっても危なくなってるけど、わたしに手伝ってほしいんだっけ?」

「ああ。ヴェイグの奴は、ここらで長いこと大人しくさせたい。そのあとも、お前の力を借りたいことがいっぱいあって……」

「便利に都合よく使う気なんだ? 釣った魚にエサはあげないタイプ?」

「俺はできるだけ毎日、愛してるって言いたいタイプ」

「そ。……なら、期待しないでおくね」

ひらひらと手を振り、その背の赤茶色の髪と、大きなリボンを揺らしながら、■■■が紅蠍を伴い、戦場へ飛び込んでいこうとする。

その、よく見慣れているように、記憶を刺激するリボンにスバルは目を細め、

「――ペ■■!」

「――――」

「ここの氷河の奥に、俺の愛してる子がもう一人いるんだけど、その子を掘り出すのもあとで手伝ってくれる!?」

「死んじゃえ、バーカっ」

どこまで本気なのか、そう言い放った■■■が、あっかんべーして戦場へ。

その様子に自分の頭を掻いて、スバルは息を吐く。と、その胸の中から、ベアトリスがスバルの鳩尾を拳でつついて、

「リラックスさせるにしても、下手くそすぎるかしら」

「だったかも。自慢の軽口も、時代の流れに取り残され気味かぁ?」

「わからんのよ。でも……」

「――?」

「■■■と話せた。全部、ここからかしら。台無しにはできんのよ」

強く、希望という熱を持ったベアトリスの言葉に、スバルは息を詰め、頷く。

そう、そうだ。ここから、全部ここからなのだ。

ようやくスバルたちは、スタート地点に立ったに過ぎない。

四百年の時を超えて、四十年かけて、やっと、今の世界のスタート地点に。

「ベティーたちも加勢するかしら。スバル、準備はいいのよ?」

「当然! 四十年かけて円熟した、俺たちのチームワークと、編み出した十二のオリジナル魔法が火を噴くぜ!」

「噴くかしら!」

威勢のいい声を上げて、スバルとベアトリスも、猛然と戦場へ駆けていく。

轟々と紫電纏った雷鳴が鳴り響き、世界の終わりじみた火力の炎が猛り狂い、大地そのものが荒ぶるような金剛石の大嵐が暴れ、数百トンもの雲を自在に落とす『龍』の天罰が降りしきる中、地上最恐の怪物と、魔獣を引き連れた『憂鬱の魔女』がぶつかる戦域。

そこに、小さく可愛らしい精霊を抱いた、六十過ぎのジジイが駆け込む。

それはそれこそ命懸けの挑戦に違いないのに――、

「あの四百年の空疎に比べたら、命を捧げるくらい、怖いもんかよ――!!」

走り、走り、走り、走り続ける。

残してきてしまったものを、手放してしなったものを、置き去りにするためじゃない。

託された。渡された。期待され、祈られ、願われた。

そこに確かにいたみんなと一緒に、このかけがえのない今を、走る。

たとえ、いつか望んだ理想の未来ではなかったとしても――、

――ナツキ・スバルは愛する仲間たちと、この異世界を、生きる。

△▼△▼△▼△

――神様、仏様、オド・ラグナ様。生涯、愛したことを忘れないと誓います。

『ゼロカラササゲルイセカイセイカツ』Fin

というわけで、今回は九章IF! 敗北ルートからの分岐です!

具体的に何がどうしてどうなった結果、かは分岐要素が強すぎて細かな設定は出せませんが、内容としては大きく、あの場にいたものたちの選択の結果はこうなっていくのではと。

お察しの通り、九章ラストで消えることになってしまった"彼女"のための物語であり、"彼女"をそうしてしまったものたちのアフターストーリーでもあります。

時間軸的に、本編では扱うことのないだろうキャラクターたちが扱われていて、なかなか書いてて面白みもありましたね。ぼんやり頭にあったけど、膨らむとこうなるかー的な。

ともあれ、お待たせしてしまいましたが、今年もありがとうございました!

おかげさまで、リゼロのアニメの方も四期がこの春から……っていうか、一週間以内に放送開始するので、そっちの方もぜひ、応援よろしくお願いします!

そんじゃまあ、今後もよろしく! 物語を楽しんでいけ!!