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第十章26 『祝辞』

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第十章26 『祝辞』

――フィルオーレの騎士に任命された当初から、彼女の猪突猛進的な性格には危機感を覚えていたハインケルだったが、その認識は正しくなかった。

フィルオーレの危なっかしさは、ハインケルの想像以上だったのだ。

「――つまり、薬は倉庫にあるのに、届けられないでいるのね?」

「はい。王都を出入りする竜車の混雑がすごくて、教会の荷車も立ち往生してしまっている状態なんです。このままでは……」

「薬も悪くなるし、治療院には毎日薬を飲まないと危ないお年寄りの方も多い……こうなったら、わたくしたちの手で頑張って運び出すというのはどう?」

「え!? じ、自分たちの手でですか!?」

「そう! 竜車を動かせないなら、積み荷だけでも人力で運び出す……これならいけそうじゃないかしら!?」

『神龍教会』の教会、その入口で薬品の目録を抱えた若者が、そう拳を固めて前のめりになるフィルオーレの勢いに大きくのけ反る。

その若者の反応を肯定されたと思ったのか、すぐにでも商業街に飛び出していきかねないフィルオーレを、「待て待て」とハインケルは慌てて引き止めた。

「フィルオーレ嬢、そのやり方じゃ日が暮れて、明日の日が昇っても問題の解決にはならないぞ。まさか本気で一人で荷運びしようってんじゃないだろうな」

「何を仰るの、当然じゃない! ハインケル様はわたくしの騎士なのだから、一蓮托生よ、一蓮托生! 一人じゃなく、二人でいきます!」

「いくわけあるか! 百歩譲って力業に頼るにしたって、立場のあるフィルオーレ嬢をいかせるわけがない。いくんなら俺が一人でいく」

「そんな水臭いこと言わないでちょうだい。わたくしだって、案外力持ちなのよ。修道院では、腰の悪い婆やたちの代わりによく部屋の模様替えだってしていたわ!」

「そういう! 話を! してるんじゃねえ!」

勢い任せ全開のフィルオーレが、そのハインケルの怒声に赤い目を丸くした。

キラキラと宝石みたいな目をぱちくりさせる少女に、ハインケルは自分の赤毛を掻き毟りながら、「おい」と不機嫌な声を運送屋の若者に向ける。

「必要なのは東区にある治療院への薬の運搬手段だったな? 治療院なら西と南にもあるはずだが、そっちはどうだ」

「西と南の? そちらはまだ通れる道があるので、薬が滞る恐れは……」

「なら話は早い。薬じゃなく、患者の方を移動させりゃいいんだ」

言いながら、ハインケルは若者の手にした薬の目録をひったくる。

そこに書かれた薬の品目はどれも知ったもので、それを必要とする患者の容体もおおよそ想像がつく。――妻が眠って以来、あらゆる病の治療法を片っ端から調べた。王都在住で恵まれた家格、それらを利用したハインケルは、そこらの癒者より薬識がある。

「ただし、直接患者を見たわけじゃねえんだ。最終的には癒者の判断だが、竜車を丸々通す策を練るより現実的で、その対症療法の間に東区までの道を確保すれば、次からはすんなりいけるはずだ。――で、ひとまずどうだ、フィルオーレ嬢」

「え? ええ! そうね! あ、でも、それだと治療院から動かせない方は……」

「治療院が丸々重病者ってわけでもないはずだ。なら、緊急性の高い薬だけ詰めた木箱が一個あれば当面はもつ」

「なるほど! その木箱をわたくしが――」

「おい」

「――じゃなくて、あなたにお願い! 荷運びがお仕事なんですものね!」

ハインケルに睨まれ、意気を挫かれたフィルオーレが若者に笑顔を向ける。ハインケルから目録を突っ返された彼は、そのフィルオーレの言葉に頷き、

「わかりました、そのように。治療院には……」

「安心してちょうだい。治療院と『神龍教会』はズブズブの関係だもの! すぐに使いを出して、行き違いがないように対応するわ。あなたはあなたのお役目を」

「――はい! お二人とも、ありがとうございました!」

安堵の表情ののち、使命感と共に頭を下げた若者が教会を飛び出していく。その背を見送ったあとで、ハインケルは疲労感に肩を落とした。

最初から最後まで、息切れせずに相談に乗り続けるフィルオーレ、彼女が感謝されるのはいいが、その横にいるだけのハインケルまで感謝されるとバツが悪い。

所詮、本当ならここに立っている資格なんて持たない男なのだ。

「お疲れ様、ハインケル様! わたくしたちの息の合った連携がバシバシに光った相談だったわね。使いも出したから、彼も安心してお役目に臨めるはずよ」

と、そんなハインケルの内心など露知らず、教会の信徒に使いを任せたフィルオーレが戻ってきて、こちらに軽く手を上げている。下ろさない。しばらくじっと見ていると、彼女はなおも下ろさず、ハインケルの前で手を右へ左へ。

「……なんだ」

「なんだじゃなく、お互いの健闘を称えるための儀式よ。わたくしがこうして手を掲げたら、ハインケル様もここに手を合わせる。そうすることで、お互いにいいお導きができたわねという気持ちを分かち合う、『神龍教会』のお約束だわ!」

「俺が通ってた頃の教会じゃ、そんなの見たことなかったぞ」

「最近のお約束かもしれないわ! あと、少しわたくしの色が入っているかも!」

四百年、変わらずに『神龍』を崇めている教会の体質を考えれば、儀式に流行り廃りがあることよりも、フィルオーレの影響が大きい方がよほど説得力があった。

生憎と、その儀式を果たさないとフィルオーレが納得しそうにもなかったので、ハインケルはまたもため息をついてから、その手に自分の掌をパチンと合わせた。

「フィルオーレ嬢、さっきの話だが」

「あ、素晴らしい機転だったわ! 安心して。ちゃんと使いの方にも、治療院の方たちにはハインケル様の考えよって伝えるよう言っておいたから」

「――。自重しろ。二つの意味で」

「自重!? わたくしの嫌いな言葉……!」

ニコニコ笑顔が裏切られたような顔になり、青ざめたフィルオーレが礼拝堂の長椅子によたよたと寄りかかる。その様子を眺めながら、鼻から深く息を吐いた。

短時間で、言いたいことを二つに増やさないでもらいたい。

「そもそも、自分から頭突っ込んで、暖炉の灰の中を探るような真似をやめろ。灰の中に何があるかわかったもんじゃないし、大抵の場合は火傷する。灰の中を探らなきゃならないときは人を使え。まずは俺だ」

「それは……ハインケル様が、炎に負けない不死身の騎士だから?」

「違う。傷付くんなら傷付いても構わない奴が傷付くべきだからだ」

あえてはっきりと、厳しい言葉でフィルオーレの考えを正しにかかる。

フィルオーレのやり方は危うい。だが、人目を惹き付ける天性の見てくれは、為政者には欠かせない資質の一つである。出遅れて王選に参加した以上、比喩抜きに、火傷を負いかねないような事態は避け、使える手札は有効に切るべきなのだ。

だから――、

「いちいち俺の名前を出そうとするんじゃない。はっきり言うが、それは冗談抜きにフィルオーレ嬢の王選運動の邪魔になるだけだ」

「そんなこと……」

「だが、俺の発案だと聞いたせいで、さっきの治療院の話も通りにくくなるかもしれない。それがあってもおかしくないのが俺の現在地だ。悪いが、自覚はある」

「――っ」

その答えにフィルオーレは悔しげだが、彼女にそんな顔をさせているのが他ならぬ自分であるので、ハインケルは慰めや励ましの言葉を持たない。

正直なことを言えば、いまだに自分の選択を悔やんでいる。――やはり、気の迷いとしか思えないフィルオーレの要請を、ハインケルは受けるべきではなかった。

まだまだ拙くとも、真剣に王選に臨もうとしている主となった少女の姿勢を見ていると、その志の邪魔者でしかない自分がますます呪わしくなる。

そのこれまで積もりに積もった悪評が、望んで稼いだものならなおさらだ。

「結局、何をやってもうまくいきやがらねえ……」

その時々の最善、それを目指して動いているつもりなのに、あとになって過去の自分の行動にじわじわと首を絞められる。それはたびたび、ハインケルの人生に周回遅れでやってくる、自分が残した避けられない罠のようなものだ。過去の自分が掘った穴に躓いて、これまで何度転んだことかわからない。

だからこそ、何かしら手柄らしいものが立てられるとき、そこにハインケルという不純物を混ぜないのが、フィルオーレにとって一番いい結果になる――、

「――ええい、わたくしらしくない!」

と、双眸を細め、考え事をしていたハインケルの前で、いきなりフィルオーレがそう叫んだかと思うと、彼女は自分の白い手の甲を指で強く抓っていた。そのまま、「いたたたた!」と悲鳴を上げる彼女に、ハインケルは目を丸くする。

「な、何をやってるんだ?」

「自分の不甲斐なさへの戒めだわ! 本当なら頬の一つでもパチンとやりたいのだけど、それをすると真っ赤な顔で人とお会いすることになるでしょう? だから、自分を戒めたいときには昔からこうするの。手が赤くなっているだけなら、怒りに任せてテーブルを叩いたと言い訳できるものね!」

「言い訳になってるか? 怒りに任せた部分が剥き出しだが……」

「いいのよ! 怒りに任せたのは本当のことだもの! そしてわたくし、なんと言われてもこれだけは譲らないわ。この先も、ハインケル様の功績は隠しません!」

ビシッと顔に指を突き付けられ、ハインケルは思わずのけ反った。そののけ反った分の距離を詰め、フィルオーレが前進する。ハインケルが下がる。前進する。下がる。前進する。壁に追い詰められ、眉間に突き付けられた。

そして、フィルオーレはハインケルを壁に押し付けたまま、

「ハインケル様があれこれ悪いことを言われるのは、これまでの素行に原因があったということで呑み込みましょう。それすらぐぬぬと思うけれど、呑み込みます。でも! 過去の行いが、今日や明日のあなたの行いの価値をくすませるのを良しとはしません」

「フィルオーレ嬢……」

「あなたの言葉で救われる命があったなら、それはあなたの言葉がなくては救われなかった命かもしれない。わたくしが王になれて、あなたがそのわたくしの一の騎士なら、そういう場面に立ち会う機会は多くなる。だから、いずれ来たるそのときに備えて、今からハインケル様の名誉は回復しておくべきなのよ!」

「――――」

「というわけで、ハインケル様のご忠告はできるだけ聞くけれど、ハインケル様を軽んじろとか、箱に隠しておきなさいとか、あんな酒浸り騎士なんてポイしちゃいましょうよぉなんて意見には従えないわ。そう宣言しておきます」

ゆっくりと指を下ろしたフィルオーレが、その指でハインケルの纏った制服――『神龍教会』の『聖女』、その騎士ならばと着せられた正式な教会騎士の制服に触れる。

青を基調としたそれは神聖で荘厳、おおよそ近衛騎士団の制服と同等か、それ以上に袖を通すのを恐れ多く感じ、様にならないとわかり切った装いだ。

しかし――、

「でもいずれ、この服を見れば誰もがハインケル様を思い出すようになる。そのときは教会の権威も利用して、それはそれは偉ぶっていただいていいのよ」

片目をつむり、下手くそな愛嬌を示すフィルオーレ。

彼女のその言葉に、ハインケルは吐息をこぼす。彼女の全力前のめりな姿勢は相手を選ばない。それはもちろん、ハインケルに対しても同じことで。

「……フィルオーレ嬢が王になったら、か。なら、教会での人助けは打算か?」

「とんでもないこと言わないでくださる!? あのね、これはものすごくお得な話なの。教会にきてくれた方の相談に乗ると、相談者の方も助かるし、わたくしもいいことしたって評判になるし、わたくしたちもいいことができて気分がいい……ね?」

「そこに当たり前みたいに俺を含めるなよ。俺は……」

「でも、人から感謝されるのって、嬉しいことじゃない? わたくしはそう。だから、『聖女』なんて肩書きは重たいけれど、教会のことは好きなのよ」

頷いて胸を張ったフィルオーレに、ハインケルは答えを返せない。

フィルオーレも言いたいことを言ったからか、それともハインケルを慮ったからか、言えないハインケルの答えを急かさなかった。

そして、その答えを口にする機会は、再び教会の扉が開く音で先送りになる。

「――よろしいですか? 教会のすぐ近くで、住民同士の衝突が」

「まあ、大変! すぐに駆け付けるわ! ハインケル様、わたくしたちも!」

「――。走るなよ。転んで、足りない医薬品の世話になる奴は増やせない」

「じゃあ、早歩きで!」

言いながら、呼びにきた相手のところまで大股で三歩、そこから早歩きの理由を忘れたみたいに駆け足になるフィルオーレに、ハインケルはまた頭を掻いた。

それから舌打ちして、危なっかしい主の背中を慌てて追いかけた。

△▼△▼△▼△

「――思っていたより、まともに仕事をするんだな、あんた」

大きな高窓から橙色の夕日が差し込む時間帯、教会の一室で書類と睨み合いをしていたハインケルの背中に、そんな声がかけられる。

振り向けば、部屋の入口からこちらを眺めていたのは細身の優男――『神龍教会』の牧師であり、フィルオーレの護衛役を務めるティーガ・ラウレオンだった。

王選参加以前から、フィルオーレのお付きとして同行しているらしい彼とは、彼女の騎士に任命された直後に引き合わされ、その後もたびたび顔を合わせている。

当然だが、ティーガのハインケルへの第一印象は最悪――否、それはティーガに限った話ではなく、フィルオーレの周囲にいる全員がそうだったと言える。実際、ハインケルの騎士任命を歓迎していたのは、フィルオーレだけだ。

「まぁ、そりゃそうだ。誰でもそうだし、俺だってそうする」

客観的に見て、今のハインケルの立場は分不相応もいいところだ。

ただでさえ危なっかしく、周りの気苦労が絶えないフィルオーレ、そんな彼女のすぐ近くに、悪評に事欠かないハインケルが立つなどと、まともな判断力のあるものであれば到底受け入れられたものではない。

フィルオーレ本人の『龍のひと声』があったとはいえ、納得していないものより、納得したものを探す方が難しいだろう。

「――? いきなり遠い目をしてどうしたんだ。嫌味が聞こえなかったかな」

「いや、ちゃんと聞こえたし、お前らには同情するよ。フィルオーレ嬢の世話役だけで大変だろうに、俺みたいなのまで連れてこられたとあっちゃな」

「それがわかってるんなら、そもそも大人しく辞退してほしかったところだよ」

「返す言葉もねえよ。それが、正しい大人の答えってもんだったんだろうが……」

そこで言葉を切り、ハインケルは続きを言うか言うまいか迷った。だが、言いかけた言葉の先をティーガの視線に促され、仕方なく口を開く。

フィルオーレの差し伸べる手を断れなかった理由、それは明白だ。

「とにかく潔くない、大人の判断から程遠い執着ってヤツだ」

物事にきちんと区切りと見切りを付け、諦められる人間を大人と言うならば、ハインケルは全く大人になり切れない、ひどくみっともない生き物だった。

ただ一方で、ハインケルがこの世で最も憧れた大人は、最後の最後まで剣を手放すことなく、不可能さえ斬り倒し、愛したものを諦めなかった人間でもあった。

自分では決して届かない、指をかけることさえできないそれに憧れたこと。

それがハインケルの呪いの始まりなのかもしれない。――こんな話をしても、ティーガには何の関心もないことだろうが。

「――。あんたの事情は調べさせてもらった。悪く思わないでくれ。フィルオーレの傍に危険人物を置きたくない。それに、元々一部じゃ有名な話だった」

しかし、続いたティーガの言葉に込められた色に、ハインケルは眉を上げた。

長く人の顔色を窺って生きてきたから、侮蔑や嘲弄、同情や憐憫、そこに込められた負の感情の機微には敏感な性質だ。だからこそ、首を傾げたくなる。

ティーガの声には紛れもなく、ハインケルを労わる色があったからだ。

「さっきから渋い顔で睨んでるのは、フィルオーレの予定表か。あの子に予定を守らせるのは相当難しいんじゃないか?」

こちらの疑問を余所に、後ろから手元を覗き込んできたティーガが、さすがにフィルオーレへの解像度の高い指摘をする。

実際、明日の予定――王選候補者としての挨拶回りや、教会の『聖女』としてこなさなければならない役回りなど、フィルオーレの日々は目の回る多忙さだ。予定表に書かれていない範囲でも、朝は日の出と共に礼拝に出席し、祈りを終えたあとは自主的に、教会を訪れた人々の相談にも耳を傾けている。

「挙句、見つけた問題事は絶対見過ごせない性質だ。道端で迷子やら荷運びに難儀する年寄りやらと出くわしたら、その後の予定は終わりだよ」

「ああ、わかる。前にも一度、フィルオーレが行方をくらましたことがあって、そのときはお年寄りの荷物運びに付き合って、三つも先の大きな街まで一緒にいって、その家でお茶をご馳走になって帰ってきたこともあった」

「……肩書きが『聖女』のうちは、それでもいい。いや、『聖女』って肩書きの時点で、それをやるのは十分危なっかしいんだが」

王選候補者となったからには、これまで通りを貫くことはできない。

代わりの利かない役回りには、代わりの利かない仕事が舞い込むものだ。フィルオーレにもそれが期待されており、どちらの重要度が上かは言うまでもない。

ないのだが――、

「フィルオーレ嬢は、これまでの教会の一員としての務めも疎かにしたくないし、その上で王選候補者もやり切るって考えだ。……無理が過ぎる話だろ」

その張り切りように付き合わされ、ハインケルは奔走し続けている。

何でも首を突っ込むフィルオーレに代わり、浮上した問題を誰に渡せば解決するか考え、遅れた予定を組み直し、面会相手には詫びを入れ、次に必要になるだろう書類や提案を先回りして用意するなど、一の騎士らしさの微塵もない仕事に忙殺されている。

実際、フィルオーレの騎士になってから、剣を抜く機会はゼロだった。

「それでも、フィルオーレの毎朝の礼拝の間、稽古は欠かしていないみたいじゃないか。てっきり、勝手に朝は苦手な方だと思ってたよ」

「……早起きが苦手なんて奴に騎士が務まるかよ」

「なるほど、ますます俺には不向きそうだ。騎士なんて大役が回ってこなくてよかったよ。どのみち、実力不足は否めなかっただろうしさ」

被った帽子の位置を直しながら、飄々と自己分析するティーガを横目で窺う。

「実力不足、ね」

正直、今のティーガの言い分にハインケルは頷きかねた。

元々、フィルオーレの護衛役を任じられただけあって、曲刀を帯剣するティーガの実力は、ハインケルの目から見てもかなりのものだ。しなやかに鍛えられた体格と、実戦経験も豊富だろう佇まい、何よりも物事に動じない胆力が優れている。

剣士や騎士ではないが、戦士ではある。――そう、ハインケルは評していた。

とはいえ――、

「お前、傷の調子は?」

「うーん、まだ本調子とは言えないな。これでもだいぶ楽にはなったんだが、元々が結構な深手だったから。……さすが、『戦乙女』の異名は伊達じゃない」

「マクマホン卿を殺して逃げた、カルステン公爵か……」

服の上から自分の脇腹を撫でたティーガの答えに、ハインケルは眉を寄せる。

口にした名は、まさにティーガの脇腹に深手を負わせた張本人にして、現在の王都を渦巻く混乱の口火を切ったと目される人物のものだ。

――当初、王選の大本命とされ、『戦乙女』の異名で知られたクルシュ・カルステン。今彼女は、『賢人会』の中心人物であったマイクロトフ・マクマホンを暗殺した実行犯として指名手配され、王国中でその行方を追われている。

事件自体も相当な衝撃だが、不可解さに首を傾げざるを得ないのは、そのクルシュの共犯として、エミリアの騎士のはずのナツキ・スバルも手配されていることだ。

さらに彼には共犯の疑いだけでなく、彼自身、『怠惰』の大罪司教なのではないかという、あまりに突飛な嫌疑までかけられている。

それに伴い、王城への叛意の疑いありとみなされたエミリアと、身分詐称の疑惑を払拭できないフェルトが城に身柄を拘禁され、両陣営の関係者は王都から逃亡――その際、大型の魔獣が街に放たれ、『剣聖』が事態収拾に動かされたという話だ。

それが、ハインケルが王都に連れ戻された時点で起きていたことであり、今もなお、悪夢めいた混乱を王都のみならず、王国中に広げている要因でもある。

「今や、王都の殺伐さは王国史に残る有様だろうな。往来じゃ、騎士やら衛士やらが物々しい雰囲気で、街の連中も明るい話題がなくて下を向いてばっかりだ」

「選択肢のある人間は、王都を離れるってこともできる。でも、そうでない人の方が圧倒的に多い。正直、教会もここ数年で一番の慌ただしさだよ」

「その分、フィルオーレ嬢の支持は固くなる、か?」

「そういう考え方は好きじゃないな。俺はもちろん、フィルオーレだって」

ちらと皮肉ったハインケルに、ティーガの視線が鋭さを帯びる。

冗談めかしたものでなく、本気で不快に思われたらしく、ハインケルは降参の意を示すように両手を上げた。

だが、ティーガの心情はどうあれ、実際にそうした向きはある。

王国の混乱が広がれば広がるほどに、人心は王城への信頼を損ね、代わりに確かな実績で国を守護し続けてきた『神龍』を奉じる教会に心を寄せ始めるものだ。

その効果は間違いなく、出遅れたフィルオーレの追い風になっている。

そしてそれは、フィルオーレの騎士であるハインケルにとっても、感激すべきことには違いないのだが――、

「親父殿……」

呟くハインケルの脳裏を、行方不明の実父、ヴィルヘルムの存在が過る。

マイクロトフの暗殺犯として指名手配されたクルシュ、彼女に仕えていたヴィルヘルムもまた、王都から行方をくらました関係者の一人だ。おそらくは主と合流し、その逃亡を手助けしていると見られるが、圧倒的劣勢は言うまでもない。

無論、かの『剣鬼』であれば、どんな苦境もその剣で切り開くことができるかもしれないなんて、そんな夢想めいた期待がないではないが。

「あんたも辛い立場だな、ハインケルさん」

ハインケルの呟きと表情、そこから心中を察したようにティーガが肩をすくめる。

辛い立場、その指摘は正しいだろう。だが、それを言い出すなら、ハインケルがプリシラの陣営にいたときから、アストレア家は全員がバラバラだ。

「……俺の辛さなんてもんは大したことじゃねえだろう。これもフィルオーレ嬢に迷惑をかけそうなとこだけが問題だ。親父殿や倅は……どいつもこいつもいい大人なんだ。自分の尻は自分で拭くのが当然ってもんだろ」

「――。少なくとも、俺がカルステン公爵と剣を交えた場に親父さんはいなかった。親父さんは、ただの濡れ衣だといいな」

そう言って、励ますようにこちらの肩を叩いたティーガに、ハインケルはなんと返事をするか迷った末に、「ああ」と雑味しかない生返事をした。

その場にヴィルヘルムがいなかった、という注釈は、わざわざ言われなくてもそれはそうだろうという話だ。そこにヴィルヘルムがいて、ティーガが剣を交える状況になっていたなら、今頃、ティーガはこの世にいない。

それに、返事が曖昧なものになった理由はもう一個ある。そしてそれは、この場にいるティーガには絶対に明かせないものだ。

――何故ならそれは、ハインケルの中に芽生えている、『神龍教会』への拭えない不信感だったのだから。

△▼△▼△▼△

――現在のルグニカ王国において、『神龍教会』の果たしている役割は大きい。

元来、ルグニカ王国は『神龍』ボルカニカの庇護の下、その安寧と国家の守護を約束され、今日までの繁栄を続けてきたのだ。

それだけに、王国民の多くは『神龍』への畏敬の念を自然と持ち合わせており、それは必然、『神龍教会』への無条件の信頼にも繋がっていた。

それはハインケルも例外ではなく、だからこそ、妻が覚めない眠りに落ちたとき、祈る場所と奇跡を信じ、教会に通い詰めたことがあったのだ。

残念ながら、ハインケルの祈りに効果はなく、さらに自分は『神龍』にもその信徒にも顔向けのできない大きな過ちを犯した。以来、教会から足は遠のいていて、改めて今の自分の不相応な立場を自嘲せざるを得ない。

そうした自分の愚かしさを嘆く時間が終われば、ハインケルは向き合わなければならない。己の内に芽生えた『神龍教会』への不信感――フィルオーレの存在について。より正確に言うなら、フィルオーレを王選へ参加させた教会の思惑について、だ。

騎士に任命され、すぐ間近でフィルオーレを見ていて散々思い知らされるのは、彼女の持った恐ろしいまでに裏表のない善性だ。

万事が万事、誰の前でもあの通りの全力投球を続けるフィルオーレは、ハインケルを騎士に指名した危うい判断力はともかく、選択を迫られた際におろおろするのではなく、自分の責任で決断し、その選択を実現しようと動く実行力を持っている。

そのためによく話し、よく笑い、よく泣き、よく動く。――自分の望みを口にすることで周囲を動かす人徳というべき才能、それはまさにルグニカ王族の血統だ。

フィルオーレ本人は、自分が十五年前に行方をくらました王女であるかどうか、その真偽についての答えを持たず、求めてもいないと言ってはいるが――、

「――王女が二人いるはずがない」

それはハインケルが、王弟であるフォルド・ルグニカ――消えた王女の父親であり、前王ランドハル・ルグニカの実弟だった人物をよく知ることから間違いない。

フォルドの息女は双子や三つ子ではなく、間違いなく一人だった。

そしてそのたった一人は、十五年前のあの夜を境に、王城から姿を消した。

姿を消した王女――それは王選候補者として共に舞台に上がったフィルオーレとフェルト、そのどちらかでしかありえない。

故に、誰かが画策しているのだ。――フィルオーレとフェルトと、二人の少女のいずれかを王族の生き残りに祭り上げ、意のままに利用するために。

そう考えれば、フィルオーレが王選へ参加した経緯も含めて、『神龍教会』への不信感は強く持たざるを得ない。

しかし――、

「……俺は、どうしたいんだ」

ここまで考えて、ハインケルの思考は恐怖したように止まってしまう。

それは日没の迫る中、見通しの悪い濃霧に周りを取り囲まれているとわかっていながら、何ら手を打たないのと同じ、非常に愚かな行いだ。

だが、その濃霧の中には、ハインケルが長年欲してやまない光がある。そして誤った方向に進めば、光は永遠に失われる。

だから、動けない。動くことができない。決定的な、過ちを恐れて。

△▼△▼△▼△

――結局、答えの出せないまま、時間だけが過ぎてゆく。

ハインケルとフィルオーレの主従関係が結ばれ、数日が数週に、やがてひと月もの時間が経過しようとしていた。

その間、フィルオーレ陣営は王都の騒動で滞った物資の流れを整え、各地の教会や治療院から寄せられる相談に応じ、王選候補者としての支持を着実に増やしていく。ハインケルはといえば、依然、教会への不信感を拭えないまま、さりとてフィルオーレの妨害をするわけにもいかず、目の前の問題を片付けるのに躍起になることで、迫る不安から逃れる日々を続けている始末だった。

ただそうした王選活動の一方で、フィルオーレ本人が何より強く希望している二つの事柄は、何一つ進展しようとしていなかった。

「……また戻ってきやがったのか」

教会の一室で、机の上に築かれた書類の山を見下ろし、そこに見慣れた封書があるのを確かめたハインケルが、うんざりと眉を寄せる。

その書類の山を挟んだ机の向こうでは、欠伸を噛み殺しながら作業する女――サクラ・エレメントが、やる気のない態度と裏腹に、テキパキと差出元ごとに書類を分類し、書状を整理・確認しやすいように、分散していく。

彼女は眠たげな目と、気怠そうな雰囲気のまま、ちらとハインケルを見やり、

「ええ、どうやらそうみたいですねぇ。相変わらず、お返事が早いのは助かりますけどぉ、内容に関しては……あぁ、今回も保留ってことみたいですよぉ」

「保留、か。これでもう何度目だ?」

「ええとぉ、王城に出したものが大小合わせて四十七通。教会に出したものが三十二通で、追加資料や添付した証言書なんかもありますし、フィルオーレちゃんが筆まめですから、百通はとっくに超えちゃってるみたいですねぇ」

片手で手紙の分類をしつつ、もう片方の手で机の端の記録簿を器用に確かめるサクラ、彼女の答えにげんなりし、ハインケルはため息をつく。

百通を超える執念、フィルオーレが王城や教会を相手に毎日のように送り付けている書状――その内容はズバリ、城に拘禁されるエミリアとフェルトの審問会と面会の申請。そして、水門都市プリステラに残された魔女教の被害者に、フィルオーレの有する秘蹟による治療を施す許可の申請だ。

どちらも粘り強く、フィルオーレは正式な手続きを踏もうと奮闘中だが――、

「なんでこうも連中は首を縦に振らない? エミリア様たちとの面会はともかく、プリステラの方を試す価値はあるはずだ。それとも、書類に不備でもあるのか?」

「あららぁ、私の手落ちを疑われてますぅ? だとしたら、百通もフィルオーレちゃんに無駄手間させちゃって、私ったらとんだ厄介者ですねぇ」

「言ってみただけだ。疑ってねえよ。お前がそんな無能なら、聖女付きの執務官なんて偉そうな肩書きが付いてくるはずねえしな」

「そうですかぁ? 親の七光りってことも十分あると思いますよぉ。そう思いません? 近衛騎士団副団長のハインケルちゃん」

「――。オッサンをちゃん付けするな、サクラちゃん」

「ご要望は保留にしておきますねぇ、ハインケルちゃん」

聞き届けるつもりのない返事をしたサクラが、王城から返された書状をハインケルに手渡してくる。ぺらっとめくった中身は、目を閉じていても書けそうなものだ。

現在、要望については『賢人会』を中心に慎重な審議中であり、結論まで今しばらく待ってほしい。――拘禁された二人の扱いについても、プリステラへの秘蹟の使用についても、言葉を多少入れ替えただけで、答えは変わらない。

「拒否はしない。だが許可もしない。いつまでこの調子でいるつもりだ?」

「さぁ? 王城のお偉い方々がお決めになることですからぁ。状況が状況ですし、皆さん慎重になられてるんじゃないですかぁ?」

「慎重に慎重を重ねすぎだろ。フィルオーレ嬢も我慢の限界で、最近はしょっちゅう、心がガリガリだって言い張ってる」

「フィルオーレちゃんらしい言い回しですよねぇ」

クスクスと、口元に手を当てて笑うサクラだが、生憎と、ハインケルはそれに賛同して一緒に笑う気にはなれない。むしろ、日に日に空元気ぶりが増し、明らかに痛々しくなっていくフィルオーレを見ていると、こちらも気が滅入る思いだ。

「城がダメなら教会の方はどうなんだ。フィルオーレ嬢は『聖女』だろ。自分の秘蹟を誰に使うかも、自分じゃ決められないのか?」

「決められませんよぉ。そんなに安いものじゃありませんからぁ」

はっきりそう断言され、ハインケルは軽く鼻白んだ。

サクラは机の上、三つに分けた書状を「いいですかぁ?」と指で順番に叩き、

「そもそも、『聖女』は教会における正式な階級じゃないんですよぉ。『神龍』の恩寵を特に強く受けた信徒に贈られる、特別な称号です。皆さんからありがたがられて、式典では偉い方より前に座れたりしますけどぉ、教会のお偉方が集う聖議会に議席があるとか、そこで強い発言力が……ってわけじゃないんですぅ」

「そのわりには、表向き教会の顔みたいに扱われてるぞ」

「人々の信仰を目に見える形で支える象徴であることも、『聖女』の大事なお仕事ですからぁ。とは言っても、フィルオーレちゃんに大人しく象徴のお役目だけ割り振ろうとしても、『龍』の尻尾にお座りを教えるより難しそうですけどねぇ」

それには同意しかなかったが、結論の前の説明部分が気に食わない。

現状、王選候補者としての役割を担わされているフィルオーレは、そうでなくても『聖女』という形で『神龍教会』の象徴――言い方は悪いが、お飾りの立場を全うしなければならないと、そう言外に示しているとしか思えなかったからだ。

「案外、フィルオーレちゃんってば王様向きだとも思ってますよぉ。ハインケルちゃんのその態度も、フィルオーレちゃんの王器に魅せられちゃった結果でしょうしねぇ」

沈黙するこちらの内心を見透かして笑うサクラが、ハインケルは苦手だ。

その見た目と態度にそぐわない有能さは、言動の端々からも感じ取れる。ティーガも教会の護衛官としては上澄みだと思うが、サクラの場合、教会の派遣する文官としては上澄みどころか、本当のひと握りの人材なのではと思わされるほどだ。

実際、百通にも及ぶ書状をしたためたのはフィルオーレの筆まめさだが、それらに必要な書類等々を揃え、手続きを踏んだのは全てサクラであり、おおよそ『神龍教会』の関係者としてのほぼ全部門に手を伸ばせている。

「お前が一人いれば、教会は大体うまく回りそうだな」

「そんなそんな、買い被りですよぉ。それこそ、フィルオーレちゃんみたいな、たくさんの方たちの希望っぽい顔なんて私にはとてもできませんしぃ。それに、一人が間違えただけで全体が間違うような組織なんて、危なっかしくて動かせませんからぁ」

「……なるほど、奥ゆかしいこったな」

ひらひらと手を振ったサクラの答えは、ある種、王政に対する挑発的なものだ。

ルグニカ王国では、それを補うために『賢人会』があるわけだが、その『賢人会』の動きすら鈍く思われる現状では、王国騎士の端くれとしても返せる言葉がない。

「マクマホン卿が亡くなって、バタついてるって話はあるんだろうが……」

そう近くで『賢人会』の話し合いを見てきたわけではないが、確かに彼らの中心人物であり、まとめ役を務めていたのはマイクロトフだった。だが、会の他の人材に発言力や決断力がないかと言えばそんなことはなく、目立って激論を飛ばすボルドー・ツェルゲフ卿などを筆頭に、盛んな意見が飛び交っていたはずだ。

実際問題、王都や王城の抱える問題は一つや二つではなく、それらへの対応はこれまで通り、マイクロトフの不在があっても迅速に進められている。

つまるところ、生殺しにされているのはフィルオーレが積極的に関与したがっている二件――それが何を意味するのか、ハインケルにもわからずにいるが。

「教会がフィルオーレ嬢に秘蹟の使用を許可しないのは……カルステン公爵が手配されてる件が関係してる、か?」

「否定はできないですねぇ。実際問題、フィルオーレちゃんが聖議会を通さずに秘蹟を使ったことは問題視されて、『聖女』の認定の取り消しも議論されたそうですからぁ」

「『聖女』の取り消しなんてことあるのか!?」

「規則としては。適用されたことはないはずですよぉ。今回も免れましたけどぉ、一度議論されたなら安泰とはいかないでしょうねぇ」

こともなげにサクラは言うが、ハインケルは改めて驚く他にない。

王城を大層震撼させたフィルオーレの独断行動は、どうやら『神龍教会』にとっても相当な出来事だっただけでなく、フィルオーレ自身の立場すら危うくしていたらしい。

そして、そうまでして秘蹟の治療を受けたクルシュが、マイクロトフ暗殺の実行犯として手配されている状況は、フィルオーレにとっても逆風でしかなく。

「やることが裏目に出るってのは、応える話だからな……」

「ずいぶん熱心じゃないですかぁ。あぁ、でも当然ですよねぇ。ハインケルちゃん的にも、フィルオーレちゃんの秘蹟の使用許可は死活問題ですもんねぇ」

「――――」

「それとも、フィルオーレちゃんの騎士が板についてきた結果だったり?」

揶揄するような視線と声に、ハインケルは盛大に鼻を鳴らした。

生憎と、サクラの嗜虐的な皮肉に答えてやる義理はない。もちろん、フィルオーレの秘蹟の力で、妻――ルアンナを救えるか、一秒でも早く確かめたいのは事実だ。

だが――、

「プリステラで待ってる奴らは、効果があるかないかがわからないもんじゃなく、効果は見込まれた話なんだ。それが許可のあるなしだけで救えるか救えないかが変わるなら、とっとと通ってほしいと思うのが当然だろ」

「自分よりも他人優先? ハインケルちゃんって、そんないい人でした?」

「そんな話はしてねえよ。待つのは救いでも、待たされるのはそうじゃねえって話だ」

「――そうですねぇ」

売り言葉に買い言葉、吐き捨てるように言ったハインケルの本音に、しかし、そう応じたサクラの声からは揶揄する響きが消えていた。

それを怪訝に思って彼女を見ても、ハインケルにそう思わせた表情や目の色、そうした変化は感じ取れず、ただの思い過ごしだったらしい。

なんにせよ――、

「――粛々と、私たちの役目を果たそうじゃありませんかぁ。そうしていたら、きっといいことの一個くらいはあってくれますよぉ」

なんて、それは『神龍教会』の一員にしてはあまりにもささやかで、それと同時にひどく切実な呟きだったように、ハインケルには感じられたのだった。

△▼△▼△▼△

「――決めたわ! 手紙を百通書いてもダメだったんなら、百一通目を手渡ししにいくの! ちゃんと顔を見て頼み込んだら、相手もきっと断りづらいわ!」

と、まるで『龍』からの天啓を受けたような顔だったフィルオーレの言葉に、彼女の騎士と護衛官、そして執務官はそれぞれ王城への同行を余儀なくされた。

今度こそ、と息巻くフィルオーレの姿勢、それは尊ばれるべきものだが――、

「――納得できないわ!!」

応接室を出て、白亜の廊下を歩き出した途端、フィルオーレが我慢の限界とばかりに声を上げた。

王城の廊下に響き渡るその憤声に、行き交う文官や使用人たちが驚いてこちらを見る。それらを意識しながら、ティーガが自分の口元に人差し指を立て、

「フィルオーレ、こんなところで大声を出したら目立ちすぎる。お偉方の耳に今のが届いたら、次から応接室じゃなく、玄関ホールで追い払われることになるぞ」

「だって、こんな仕打ちがある!? 何が足りないのか教えてくれたら、それをこっちで用意すると言っているのに、やれ考え中、それ保留中、どれ五里霧中……! いったい、わたくしたちは何をどうすればいいの!」

「足すものも直すところも、特にないんでしょうねぇ」

「だったら、通してくださればいいでしょう!」

「――最初から、耳を傾ける気がないんだろうよ」

怒りのままに訴えるフィルオーレが、そのハインケルの言葉に振り向く。彼女の赤い瞳が涙で潤んでいるが、ハインケルにはそれを拭ってやるハンカチがない。

そのハンカチ代わりに、言葉を選ばずに彼女の欲しい答えを告げる。

「止められる理由は書類の不備でも、条件の不足でもない。連中が欲しいのはフィルオーレ嬢、あんたが諦めて、この話を持ってこなくなることさ」

「そんなの、そんなのおかしいわ! 誰がそんなことを考えているの」

「ああ、そいつが問題だとは俺も思ってる」

まるで駄々をこねているように見えるフィルオーレだが、駄々をこねる以前にできることは一通りした上で、彼女には駄々をこねる以上のことが許されない。

実際問題、今のフィルオーレが抱えている疑問は、ハインケルにも答えの出ないものであり、ここひと月半の不可解さは募る一方だった。

「……都合よすぎるくらい、都合よくお膳立てされてるかと思いきや」

正直、フィルオーレの登場は、王選において出遅れたことを除けば、それ以外の全てに『神龍教会』の徹底的なお膳立てがあったようにすら感じられていた。

しかし、蓋を開けてみれば、確かにフィルオーレ自身の行動力と善性により、混乱した王都で着実に彼女の支持は高まりつつあるものの、その地盤を決定的にするはずの水門都市への訪問――これに、他ならぬ教会上層部である聖議会の許可が下りない。

フィルオーレを王にしたいなら、これは間違いなく打たれるべき一手なのだ。

にも拘らず、『神龍教会』はこの道を後押しするどころか、塞ぐような態度を一貫しており、『賢人会』の動きもまた、フィルオーレの味方をしてはいない。

こうなると、ハインケルが抱いていた教会への不信感は、当初のそれとは違った形の募り方を始めていた。

ただ、教会への不信感の募り方が変わろうと、変わらないこともある。――フィルオーレが、大人が味方しなければならない未熟な子どもだという点だ。

「フィルオーレ、気持ちはわかるけど、ひとまず戻ろう」

ティーガの穏やかな声に促され、悔しがるフィルオーレが手を引かれて歩き出す。

城の入口に向かう道中、行き交う王城の関係者たちは、フィルオーレの姿を見ると足を止め、丁寧に一礼した。

王選候補者として、そして『聖女』として、彼女に向けられる尊敬の念に嘘はない。

それでも、彼女の願いは何一つ通らないのだから皮肉な話だった。

そうして、重苦しい沈黙を引きずったまま廊下の角を曲がり――、

「――――」

思わず、正面から歩いてくる相手の姿を捉え、ハインケルは息を呑んだ。

「――ラインハルト」

考えるより先に、呑み込んだ息がその名を音にして吐き出されていた。

白い騎士服に身を包み、腰に『龍剣』を下げた赤毛の青年――ラインハルト・ヴァン・アストレアもまた、自分の名を呼んだ相手を真っ直ぐ見据える。

自然と、血の繋がりを示す互いの青い双眸、その視線が交錯した。

「お久しぶりです、父上」

「……おう」

情けない返事だと、我ながら呪わしい。

完全に不意打ちだった。考え事に気を取られ、予想外の遭遇だったものだから、本来なら用意しておくべき悪罵や悪態がとっさに引き出せない。

結局、その間抜けな応答以外の言葉が見つからず、父と子の間に沈黙が落ちた。

「――――」

ラインハルトの後ろには、騎士団の白い制服を纏った二人が同行している。一見すれば、『剣聖』の任務に同行している部下と言える。

だが、二人の視線は周囲ではなく、絶えずラインハルトの挙動に注がれていた。

何より、その騎士たちの顔にハインケルは見覚えがない。――少なくとも、ハインケルの知らない、出所不明の騎士たちだ。

何故、この騎士たちはラインハルトと同行しているのか――、

「――! ラインハルト! ちょうどよかったわ! あなたとも話したかったの!」

息子と父親の間にある、濁り切った空気を真っ向から踏み荒らし、フィルオーレがラインハルトへ駆け寄っていく。後ろにいた騎士たちが反射的に身構えるが、ラインハルトが片手を上げ、それを制した。

「フィルオーレ様。王城にいらしていたんですね」

「ええ。エミリアとフェルトのこと、それからプリステラのことでお話をしていたの。でも、今はわたくしのことより、あなたよ」

「僕、ですか」

「ええ、そう。フェルトはどう? ちょくちょく会ってるんでしょう?」

「――――」

手加減なしに距離を詰められ、ラインハルトが静かに息を詰める。

やがて、ラインハルトはゆっくり「いいえ」と首を横に振った。

「ええと? それは……今日はまだ会っていないということ?」

「そうではありません。フェルト様が王城に入られてから、です」

「フェルトがお城にって……一度も!? もうひと月以上も経ってるのに!?」

フィルオーレの声が跳ね、後ろの騎士たちが揃って肩を強張らせる。しかし、ラインハルトはそのフィルオーレの反応に静かに頷いた。

だが、フィルオーレが驚くのも無理はない。これは、フィルオーレがエミリアたちとの面会の許可が下りなかったのとは次元が違う。

「あなたはフェルトの騎士でしょう? そのあなたがフェルトに会えないだなんて、そんなのかなりおかしいわよ。そう思わないの?」

「面会は禁じられていますので、仕方のないことです」

「で、でも、会いたいでしょう? 話がしたいはずよ」

「僕は王国の剣です。王城から命令が下った以上、それに従う義務がある」

「あなたは王国の剣だけじゃなく、フェルトの剣でもあるでしょうに!」

信じられないことを聞かされたと、目を剥くフィルオーレの言葉はあまりに真っ直ぐで、それがラインハルトの胸に突き立つのが目に見えるようだった。

だが、そのフィルオーレの無意識の弾劾に、ラインハルトがなんと答えるか、それをハインケルはよく知っている。

それは――、

「――僕は王国の剣です、フィルオーレ様」

話が一周し、最初の答えに戻ってきてしまう。

フィルオーレの言葉が足りないのではない。ラインハルトに、彼女の言っていることが通じていないわけでもない。

何を言われても、何を感じても、ラインハルトはその答えを変えないのだ。

変えられないと、そう言った方が正しいのかもしれない。

「あなたは、フェルトが王国を騙したと思っているの?」

「いいえ」

それもまた、迷いのない即答だった。

ならば何故と、瞳を揺らしたフィルオーレが問い返す前に、ラインハルトが続ける。

「僕がフェルト様を信じていることと、その潔白を証明できることは別です。僕が命令に背けば、それはフェルト様への疑いを深め、彼女の立場をさらに悪くする」

「だから、言うことを聞くしかないの?」

「――――」

その問いに、ラインハルトは肯定も否定も選ばなかった。

しかし、そのどちらも選ばなかったことが、すなわち彼の立ち位置を表明している。

「――――」

ハインケルは、ラインハルトの後ろに立つ二人の騎士を見る。

彼らが、ラインハルトの味方でないことは明らかだ。となれば、その役目はラインハルトの監視役だろうが、なんと無意味な措置だろうか。

ラインハルトがその気になれば、彼らなど一瞬のうちに叩き伏せ、あるいは気付かれるより早く姿を消し、王城の誰にも止められることなく、フェルトの下へ辿り着ける。

だが、ラインハルトはそれをしない。できない。

彼が『剣聖』である限り、それは――。

「それなら、せめてフェルトに伝えて」

押し黙るラインハルトに、フィルオーレが拳を握りしめ、告げる。

「わたくしは、フェルトを信じているわ。エミリアのことも信じている。二人が王国を裏切ったなんて思っていない人間が、王城の外にいるって伝えてちょうだい」

「……ありがとうございます」

「手紙でもいいわ。わたくしが書くから」

「ですが、お約束はできません。僕からフェルト様へ、言葉や物を届けることも禁じられています」

「そんな……!」

「申し訳ありません。次の任務がありますので」

どこまでも悲痛な答えに、フィルオーレの端整な顔が歪む。

しかし、ラインハルトはそのフィルオーレの反応に折れることなく、一礼を残し、こちらの横を抜けていこうとする。

その肩がハインケルとすれ違う直前、ふと足が止まった。

「父上、フィルオーレ様の騎士になられたとお聞きしました」

「……ああ、そうらしい。文句でも」

「――おめでとうございます」

悪態をつく前にそう言われ、ハインケルは言葉に詰まった。

肩が触れ合いそうなくらいの距離で、こちらを向いたラインハルトの視線が、真っ直ぐにハインケルを見る。――いつの間にか、すっかり背丈に追いつかれた息子の顔を前に、ハインケルは耐え切れず目を逸らした。

「……めでたいかどうかなんて、わかるもんかよ」

「それでも、父上が選ばれたことを、僕は嬉しく思います」

「――――」

その言葉に、ハインケルは何も言い返せなかった。

嫌味でも、皮肉でもない。ラインハルトは本心から、落ちぶれた父親が誰かに騎士として選ばれたことを祝福している。

プリステラで、いったい、どんな悪罵を投げつけられたか覚えていないのか。

同じ都市で、ハインケルが自分の主人に剣を向けたことは、忘れてしまったのか。

それとも、それらすら、ラインハルトの心に一筋の傷も残さない些事なのか。

小さく一礼し、二人の騎士を伴って、ラインハルトは白亜の廊下を行く。

その背中を、フィルオーレは悔しそうに見続けていた。ハインケルは、フィルオーレのように、遠ざかる息子の背中を睨みつけることさえできなかった。

△▼△▼△▼△

「――フィルオーレ、さすがにあのラインハルトへの発言は不用意だった」

『神龍教会』の教会に戻るなり、ティーガは応接室の扉を閉め、厳しい顔でフィルオーレにそう向き直った。

王城からの帰路、竜車の中でも沈黙を続けていたが、内心ではどんな叱咤をすべきか、考えに考えてのことだったのだろう。

「言葉を選んだつもりかもしれないが、あの場には城の騎士も、他の関係者もいた。話が『賢人会』まで届くことがあったら、フィルオーレまで王城に反抗的だと思われる」

「思わせておけばいいわ。本当に反抗的だもの」

「そういうことを言ってるんじゃない。君まで面会や登城を禁じられたら、本当に何もできなくなるってことを言ってるんだ」

「わかっているわ」

「わかっていないから、あんなことを――」

「わかっているの!」

フィルオーレが、ティーガの言葉を強く遮る。

その剣幕にティーガが息を呑み、サクラも目を伏せた。そんな二人の反応に、フィルオーレは「ごめんなさい」と掠れた声でこぼし、

「わかっているわ……ごめんなさい。でも、わかっているから、余計に腹が立つの。王城の方々が決めたことに従わないと、王選候補者として扱ってもらえなくなる。王選候補者として扱ってもらえなくなったら、エミリアたちを助けられない。だから、言われた通りに待たなくてはいけない」

「フィルオーレ……」

「ごめんなさい。二人がわたくしのために言ってくれていることは、ちゃんとわかっているの」

「――ああ」

「少しだけ、ハインケル様と二人で話をさせて」

その頼みに、ティーガは迷いながらも頷いた。

サクラが先に部屋を出て、ティーガもそのあとに続く。扉が閉まり、部屋に残されたのはフィルオーレとハインケルだけになった。

「――――」

机の上には、王城から届いたひと月分の返書が並んでいる。

フィルオーレはその一通一通に目を向け、やがて、静かに息を吐いた。

「ハインケル様」

「なんだ」

さすがのフィルオーレも、相当応えているのだろう。

必死の訴えは届かず、ラインハルトにも声が届いたとは言えない。何事にも前のめりに挑みかかる彼女であっても、この手応えのなさにはくたびれて当然だ。

ハインケルも、思いがけないラインハルトとの遭遇と、予想もしていなかった祝辞にごっそりと精神的な消耗があった。

それでも、せめてもの気概で、フィルオーレの言葉を受け止めようと身構える。

そして、フィルオーレは閉じた扉に背を預け、去ったティーガとサクラの二人には聞かせられない、聞かせたくない話をハインケルに告げる。

それは――、

「――城からの脱走って、どうやったら上手くいくかしら?」