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第十章27 『西から昇らぬ太陽』

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第十章27 『西から昇らぬ太陽』

「――城からの脱走って、どうやったら上手くいくかしら?」

ぽつりと、蚊の鳴くような声色で言われたなら、ハインケルもそれを、やり込められ続けるのに疲れたフィルオーレの弱音だと受け止めただろう。

常に全身全霊、そんな彼女にも弱る心はあるのだとホッとしたかもしれない。

だが――、

「悪い。もう一回言ってみてくれ」

「だから! 城からの脱走って、どうやったら上手くいくかしら?」

「――。聞き間違いじゃなかったか……」

その赤い双眸は力を失わず、声にも張りのあるフィルオーレの全身からは、苦境に折れた人間の弱々しさなど全くなかった。

一応、人に聞かれてはならない話をしている自覚はあるのか、声を潜めてはいるが、その目と声にみなぎる反骨心をまるで隠せていない。

直前までの、ティーガたち相手に見せていたしおらしさはどこへ消えたのか。

「それはもちろん、二人を油断させるためよ。こんな話をしたら、ティーガもサクラもまともに聞く耳を持ってくれるはずがないもの」

「それなら条件は俺も同じだろ。なんで俺なら話を聞くと……」

「だって、ハインケル様はわたくしの騎士でしょう? 『神龍教会』ではなく、わたくしの味方ですもの! ……そうよね?」

「言ってて不安になるような相手に打ち明ける話じゃないぞ」

言いながら首を傾げ始めたフィルオーレに、ハインケルはガシガシと頭を掻く。

まともに取り合うのも馬鹿馬鹿しい話だが、フィルオーレなりに考えた上での発言なのはわかった。ならば、それを吐き出させ切らずに話をぶった切れば、いったいどんな無鉄砲を一人で始めるかわからない。

話に付き合い、毒抜きをさせるのが肝要だろう。

「まず第一に、今の脱走って話だが……要するに、逃がしたい相手ってのはフェルト嬢とエミリア様のことだよな?」

「え? ええ、そう! なんだ。てっきりハインケル様に裏切られるのかと思って心臓がバクバクしていたわ。でも、ハインケル様も乗り気なら怖いモノなしよ!」

「――。で、どういう策を考えてる」

そんな馬鹿な話に乗り気なはずもないが、口を挟まずに先を促す。

まだ短期間だが、フィルオーレとの付き合いで学んだことは、いちいち彼女の発言の引っかかる部分に触れていては、一日の時間がまるで足りないということだ。

そんな騎士の内心などまるで知らず、フィルオーレは「ふふふ、よくぞ聞いてくれました」と笑い、こっそりと自分の服の内から折り畳んだ紙を出した。

「もちろん、思いつきで言っているわけではありません。このところ、わたくしなりにコツコツと城のことを調べていたのよ」

言いながら、フィルオーレは机の上の返書の山をどかし、そこに紙を広げる。

それはフィルオーレが礼拝や陳情で立ち入った区画を、自分の足と目で書き留めた王城の見取り図だ。訪問者や癒者が出入りできる区画、城の関係者しか立ち入れない扉と、一応は近衛騎士団の副団長であるハインケルから見ても、なかなか詳細な内容だ。

さらに、手書きの地図には色の違う筆を使い、登城のたびに見かけた騎士の人数、見張りの交代時間など、警戒網に対する注釈まで入っていて。――それはハインケルの想像以上に綿密に組まれた、言い訳しようのない諜報活動の成果だった。

「おまっ、これ……っ」

「どう? わたくしの本気は伝わった? ちなみに、お手紙を届けてくださる文官の方たちやお城の関係者の方たちの話に聞き耳を立てて、エミリアとフェルトがお城の東棟の方に閉じ込められていることもわかっているわ。すごいでしょう!」

「何考えてやがるんだ、お前は!」

事の重大さのわかっていないフィルオーレに怒鳴り、ハインケルはその手書きの地図を取り上げ、ぐしゃぐしゃと手の中で握り潰す。「ああっ!」とフィルオーレが悲鳴を上げるが、関係ない。こんなものが見つかれば、大事件だ。

王選候補者であり、『神龍教会』の『聖女』でもあるフィルオーレが、王城への叛意を秘めていたという証拠――それも、本当なのだから性質が悪い。

「いいか、こんなもんのことは忘れろ。その計画自体もだ。第一、うまくいきっこねえ。うまくいったところで、その先に何がある」

子どもの癇癪じみた計画で、実現性なんて論じる価値もない。

確かに今、フェルトとエミリアは苦しい立場に置かれて自由もない。フィルオーレの訴えはことごとく王城と教会に妨害され、これも不自由極まりないだろう。

だが、それだけだ。この状況だって永遠には続けられない。王選には明確な期限があり、王都の混乱が長引くことは『賢人会』や王城の権威の失墜をも意味する。

「だから今は、頭を低くして耐える時期なんだよ。そうすれば……」

「――そうすればどうだというの? ただ、座して時が過ぎるのを待っていれば、わたくしたちの頭上にかかる雲が消え、明日からの摂理が変わるというの?」

それは、手の中で地図を小さく小さく握り潰し、絞り出すように呟いていたハインケルを貫く、静かなフィルオーレの声だった。

文字通り、自分の成果を握り潰された彼女は、しかしそれに胸を痛める顔を見せず、じっとハインケルを見据え、

「ハインケル様、わたくしたちが大人しくしていても、西から太陽が昇ることはないわ。行動しなくてはならないの。祈りは神聖で尊い行いだけど、最初で最後の手段にそれを選んでは、『龍』の翼も重みで折れることでしょう」

「――――」

「このひと月半、わたくしはできることをしていたつもり。でも、ここで諦めてしまったら、その期間、わたくしは自分が言い訳作りをしていたように感じてしまうの。自分やエミリアたちを慰めて、ダメだったけど頑張ってくれてありがとうって……そう言われるためにやっていた気分に。――そんなつもりではないわ!」

最後、そのひと声を大きくして、フィルオーレが部屋の壁を手で叩く。そこに、王城の各所に彫刻されたものと同じ、王国の奉じる『神龍』の壮麗な意匠がある。

『神龍教会』もまた、親竜王国と同じものを崇め、称え、信じている証だ。

フィルオーレは王選候補者で、教会の『聖女』――すなわち、王国からも『神龍教会』からも認められた存在とすら言える。

しかし、今の彼女の意志は、そのどちらにも背くものに相違ない。

「覚えている? ハインケル様。わたくしは、救いを求める方たちの誰にも手を差し伸べられる世を作りたい。王様になったなら、それがわたくしの目標なの。誰でも、誰でもよ。ここがすごく大事なところだわ」

「――――」

「そう言い張っているわたくしが、今大変な立場にあるエミリアとフェルトに手を差し伸べなかったら、誰がわたくしを信じられるというの? そんなわたくし、わたくしだって信じられないわ。行動が伴っていないもの」

「……わかってるのか、それが何を意味するのか」

堂々と、恥じ入ることのない自分の望みを口にするのは気分がいいだろう。

いっそ英雄的とすら言えるかもしれない。その結果、手放すものの意味と価値をちゃんと理解していたのなら、だ。

「城にも教会にも背けば、いったいお前は何者になるんだ。王選候補者で、『聖女』で、だからみんなお前の言葉に耳を傾ける」

どれほど惨めで見下げ果てた相手であろうと、『剣聖』の家系で、近衛騎士団の副団長で、歴代最強の『剣聖』の実父であるから、誰も無視できないように。

それを手放せば、いったい誰が、そんな何者でもない奴の言葉に――、

「――ハインケル様がいるわ」

――フィルオーレは、まるで自分が万軍の助勢を得ているみたいにそう言った。

壁の『龍』の意匠に触れたまま、ずっと自分の信心を捧げてきたはずのそれに背くかもしれない決断を、それを奉じる教会の制服に袖を通したハインケルに告げる。

それがどれほど馬鹿げた決断であることか、彼女はわかっていないのだ。

わかっていないのに――、

「……やっぱり、お前の騎士になんかなるんじゃなかった」

立場のあるなしとか、利用価値の有無だとか、そういうことと無関係に、ハインケルはフィルオーレの手を取ったことを後悔した。

そのせいで自分は、こんな愚にも付かない相談を聞かされる羽目になった。

聞かされた挙句に、自分以外に頼るもののいない娘を手伝う羽目になった。

『――おめでとうございます』

そう、王城の廊下で告げられた、ラインハルトからの祝辞が耳に蘇る。

ラインハルトは、ハインケルがフィルオーレの騎士に選ばれたことを言祝いだ。あれが嘘だとも世辞だとも思わない。ラインハルトはそんな腹芸をしないだろう。

だが、本当にそうか? これがめでたいことか?

誰かの騎士に選ばれ、剣を預けると決めたことが喜ばしく、素晴らしいことなら、どうしてこんなに胃も胸も痛み、心も魂も呻き声を上げなくてはならないのか。

「ハインケル様? それで、その、今の話なのだけど……」

顔を掌で覆い、黙りこくったハインケルを前に、フィルオーレがそう言葉を紡ぐ。

おずおずとこちらを窺う彼女は、言うべきことは言ったのだろう。そこから先の、この話の行き先の答えを求めている。

手紙を百通書いて、延々と保留を突き付けられ続けた娘だ。もう、待つのには飽き飽きしている。早急に答えが欲しいと、そう心が急いているのだろう。

そんなフィルオーレには酷だが、ハインケルの答えは――、

「――半月だ」

「え?」

「城に忍び込むってのは、もっと本気で、真面目にやるもんだ」

言いながら、手の中でぐしゃぐしゃに丸めた手書きの地図を机に広げる。掌で皺を伸ばし、当人は大真面目に作り上げただろう、穴だらけな計画書を睨んだ。

このままじゃ、到底使い物にはならない。

「準備と、計画を練るのに最低でも半月はいる。城の見張りと巡回の経路も、定期的に見直しが図られるはずだ。フィルオーレ嬢の集めた情報はこのままじゃ使えない。古い情報を鵜呑みにして捕まる馬鹿にはなりたくねえだろ」

「――! それって……!」

「やめろ、その顔。俺はフィルオーレ嬢を馬鹿だと思ってる」

「いいじゃない。そのお馬鹿さんに付き合ってくれるんだから、ハインケル様もかなりのお馬鹿でしょう? 二人で大馬鹿主従だわ!」

「馬鹿に王様はできない。地位も名誉も捨てることになるぞ」

ハインケルの返答に、みるみるうちに表情を明るくしたフィルオーレ。今にも歓喜の歌を歌い出しそうな彼女に、ハインケルは改めて現実を突き付ける。

まだ何もしていない。今ならどうとでも引き返すことができるのだから。

「この計画の一番馬鹿なところは、成功しても失敗しても、関わった全員の立場が悪くなるってことだ。当然、フィルオーレ嬢も王選候補者の地位を失うし、『神龍教会』が王国への反逆を企てたなんて疑われて、教会全部に調べが入る。ティーガとサクラも、知ってることを吐けと責め立てられることになるだろうな」

無論、『神龍教会』にも『神龍教会』で不透明な部分がある。フィルオーレの行動一つでその闇が全て暴かれるとは思わないが、ここで必要なのは説得力だ。

「今ここで動けば、これから救えたはずの連中に手を伸ばしづらくなる。プリステラの被害者に秘蹟を使う許可だって二度と下りない。それこそ、『聖女』認定の取り消しも本当になるだろう。それはフィルオーレ嬢のこれまでの行いの全否定だ。それでも――」

「――やるわ」

「――――」

「わたくしは、それでもやる。わたくしの抱いた願いは、王選候補者だから、『聖女』だからで閃いたことではないもの。それに、待っていても……」

「太陽は西から昇らない、か」

「そう!」

ビシッとこちらの顔を指差したフィルオーレに、その指を手で下ろさせながら、「声がでかい」と注意する。彼女は慌てて両手で口を塞ぐが、その姿にため息が漏れた。

何故、こんなことになったのか。自分で自分がわからない。ただ、フィルオーレの意気込む姿に、一度掴んだ手を放し難い心境でハインケルは思う。

――まだ、騎士ぶりたいのか、俺は。

前にも思ったその問いに、今度もまた、ハインケルは己で答えられなかった。

△▼△▼△▼△

――それからの半月、ハインケルはほとんどお飾りだった近衛騎士団の副団長としての記憶を、古い酒樽の底をさらうように掘り返した。

騎士団に保管された、非常時の避難経路を写した古い城内図をこっそり持ち出し、フィルオーレの手書きの見取り図と重ね、実現性のある逃走経路を思案した。

フィルオーレの百十、百二十通目の直接の訴えに同行し、騎士たちの配置と、鐘の音に合わせた交代時間を記録し、見張りの層が薄い時間帯を把握、騎士個人の力量や気概を自分の記憶と照らし合わせ、適した決行日を選ぶ。

「ゼオルは家柄ばかりを鼻にかける嫌な野郎だが、ここしばらくは重要な東棟を任されてやがる。……誰かにうまく取り入ったか?」

剣の腕や職業意識よりも、騎士という地位と家柄を武器にするのに特化した男だ。

つまるところ、ハインケルの下位互換と言えるだろう。もっとも、騎士団の仕事の放棄と怠慢ぶりでは、ハインケルとゼオルとでは比較にならない。少なくとも、ゼオルは騎士団の仕事を、有能とは言えずともちゃんとしていた。

ハインケルが騎士団から除名されなかったのは、ひとえに家名の力だけだ。

「とはいえ、誰かが居眠りする前提で当番表は組まねえ」

重要度が高いはずのフェルトとエミリア、その二人が拘禁された東棟の見張りをゼオルや彼の取り巻きたちがしているのは、それで十分とみなされているから。

すなわち、囚われのフェルトたちはよほどお行儀よくしているのだろう。あるいは、行儀よくせざるを得ない理由を課されているか、だ。

そしてそれはフェルトたちだけでなく、そっくりそのまま、王城の言いなりになり、主の傍を離れているラインハルトにも当てはまる。

「……最悪の場合、フィルオーレ嬢がのこのこ訪ねていっても、向こうの方がその手を払ってくる可能性があるってこったな」

秘された事情があってフェルトたちが拘禁に従っているなら、万端に準備した脱走を持ちかけても、あちらが首を縦に振らないかもしれない。

その場合、梯子は外されるどころか、足下から燃やされるも同然だ。座して火だるまになるか、転落死覚悟で飛び降りることになる。死か骨折は免れない。

しかし、本人たちとの直接の対面も禁じられた状況では、仮にあるかもしれない秘された事情というものを掘り起こすことすら困難だった。

「こんな肝心なことを穴にしたまま、闇雲に賭けなんてしたくないが……」

半月は、ハインケルの方から提示した期限――もちろん、冒す危険が大きくなりすぎるなら、期間を延長することはやって然るべきだろう。

だが、たとえ無期限の猶予が許されたとしても、一分の隙もない策は生まれない。

――ハインケルが準備に費やす半月、フィルオーレの奮闘は大したものだった。

言うまでもなく、フィルオーレは嘘をつくのが下手な娘だ。

何か企みがあれば、態度と言動に大きく現れ、すぐにでも胸の内を疑られる。付き合いの長いティーガやサクラには、到底隠し通せないのではと不安もあった。

しかし、そんな不安を、フィルオーレは事情を知るハインケルすら欺かれるほど、そうと知られないように、堂々と変わらぬ自分を演じ切ってみせた。

毎日の日課をこなし、拘禁された二人の審問の申し立てと、プリステラの人々への秘蹟の使用の許可を求める嘆願、手紙を書くことも、直接訴えることもやめず、それを保留と返答されるたび、本気で泣いて怒って、己を貫いた。

そうした振る舞いの貫徹も、ハインケルが期限を提示し、自分の考えに賛同してくれているからと、自分を強く戒めていることは明白だった。

その信用を、裏切れない。

ハインケル自身の見立て通り、半月をかけて必要な用意は整った。

城へ入る理由、見張りの層の薄い時刻、人目を別の場所に引き付ける工作と、囚われのフェルトたちへ辿り着く経路、彼女らを連れて逃げる経路――それと、王都に残しておくことで、自分たちの弱味になるとわかっている存在の退避。

机上の無謀は半月をかけて、運命を委ねる船賃に、勇気だけを必要とする程度にはマシなものになった。――図らずも、それはハインケルとフィルオーレが主従の誓いを結んでから、ちょうど二ヶ月が過ぎた当日だった。

――白み始めたばかりの王都の空に、朝の礼拝を告げる鐘が鳴っていた。

今朝も日課の礼拝を済ませ、『聖女』の務めを果たしたフィルオーレは、通算で百五十通目となる嘆願書を手に、王城の正門前に立っていた。

「……半月で五十通追加はやりすぎだろ」

「なんの、キリがいいのは何となく縁起がよさそうでしょう? ハインケル様が練りに練った計画だもの。わたくしもうまくいかせるための努力は厭わないわ!」

「何の努力だ、何の」

相変わらず、努力の方向性が迷子ではあるが、気力は充実しているらしい。

実際、この日が近付くごとに気が重くなっていくハインケルと裏腹に、フィルオーレの方はどんどん顔色がよくなっていったのだから、役者の違いを感じる。

ともあれ――、

「緊張してるか」

「ええ! 今にも心臓が口から飛び出しそう!」

「出たら呑み込んでくれ。絶対に城の中で落とすなよ」

「もちろん、誰かに拾われたら困るし、拾った方が気の毒だもの」

交わされた軽口はいつもの調子で、彼女の胆力には舌を巻く。

ならば足を引く真似はできまいと、ハインケルは重たい覚悟を引きずり、顔を上げて城を見た。

近衛騎士団の副団長としての職務で、フィルオーレの騎士としての付き添いで、王城に足を運ぶ機会はずいぶんあった。――だが、何かを企んで城に上がり込むのは、これがハインケルの人生で、十五年ぶり、二度目のことだった。

「ティーガとサクラの二人には、ちゃんとお使いを任せたわ。今日まで治療院の順路の確保にはかかり切りだったもの。疑われていないはずよ」

「そっちの話も、ちょうど半月でまとまったのは運がよかった。――ここまでなら、まだ引き返せるぞ?」

「そう何度もわたくしの覚悟を試さなくても結構よ。教典にもこうあるわ。『賢者は難解なるを解き、聖者は平易なるを尊ぶ。しかして龍の法は簡潔なり。愛し、護り、信ずること。これ以上に深き知恵、並ぶものあらず』と!」

「これからその教会に背く奴の発言じゃないな」

自分の信条の一部を紛れもなく『神龍教会』の教えに託しているくせに、いけしゃあしゃあと言ってのけるフィルオーレにハインケルは肩をすくめた。

もう、引き返す道はない。その証とばかりに――、

「――お待たせしました。どうぞ、お通りください」

登城に際し、こちらの訪問理由と身分を確認した門衛が一礼し、重い門の向こうへ道が開かれる。フィルオーレが進み出て、その半歩前にハインケルが出た。

断られることを前提とした嘆願を隠れ蓑に、主と騎士は堂々と正面から、王城破りのために城に足を踏み入れたのだ。

△▼△▼△▼△

――計画はとんとん拍子、気味が悪いくらい順調に進んだ。

「それもこれも、日頃のわたくしやエミリアたちの行いの結果ね。ハインケル様が普段から自分を卑下している行いの悪さを帳消しにしているに違いないわ」

とは、事前の打ち合わせ通りの状況を歓迎するフィルオーレの反応だ。

散々な言われようだが、実際にうまく運んでいるのだから反論するのも躊躇われる。そもそも、計画通りに事が進むのを厭う方がおかしいのだ。

この日も、フィルオーレは審問会の嘆願を理由に『賢人会』や上級貴族たちへの訴えに足を運び、当然のように中身のない返答で以て杜撰に追い払われた。

それを演技ではなく、本気で悔しがれるフィルオーレを宥めつつ、憤慨する彼女を落ち着かせる名目で人目を忍び――予定の経路へ侵入する。

「――? ハインケル?」

巡回する見張りの目を避けて辿り着いた東棟の奥、目的の部屋の前には二人の見張りが立っていて、その片方は長髪の騎士ゼオル・ザンドリック――以前から、ハインケルを目の敵にしてくれていた、こちらも嫌いな男だった。

ゼオルともう一人、取り巻きの騎士が早足に通路を歩いてくるハインケルと、その後ろのフィルオーレを見つけ、驚きに目を見張る。

「何故、貴様がここに……」

「お前の日だからだよ」

戸惑い、棒立ちになるゼオル、その一瞬で十分だった。

膝を抜いて相手の視界から消え、目を剥くその手首を掴んで引き寄せると、がら空きの首に喉輪をぶち込んで声を奪う。

「か」と苦鳴をこぼしたゼオルの足を払って転ばせ、残りの一人がとっさに剣を抜くよりも早く、こちらの剣の柄で相手の鳩尾を突き、返す一撃で床に沈めた。

それから改めて、喉を押さえて膝をつくゼオルに向き直り、

「気でも、違った、か……」

「前々から言おうと思ってたが、騎士なら髪は切るかまとめろ」

喉を叩かれ、息も絶え絶えのゼオルに言い捨て、ハインケルはその後頭部を打ち、相手の意識を奪って二人の見張りを転がした。

そうしてから、長く息を吐く。――いよいよこれで、後戻りはできない。

「ゼオルだっただけ、マシだったことにしとくが……」

さすがに、職務に忠実な騎士を殴り倒すのは胸が痛む。

せめて嫌う理由のある相手だったことを妥協点に、ハインケルは転がした二人を通路の端にどけながら、「フィルオーレ嬢」と声をかけ、

「しばらく誰もこないはずだが、ここからが肝心だ。どれだけ早く、フェルト嬢とエミリア様を説得できるか……どうした?」

「い、いえ、そう言えば、ハインケル様が戦うところを初めて見たものだから、こう、驚きに打ち震えていたの。わたくしの騎士、強いのね!」

「――。相手の油断した隙を突いただけだ。強い騎士ならそもそも油断しないしな」

それが肩書きだけの偽物と、本物との違いであるとハインケルは思う。

たまさか奇襲が上手くいっただけで、それをハインケルの実力と勘違いしては、かえってフィルオーレの身が危うくなろうというものだ。

そうして、フィルオーレに言い聞かせてから――、

「――――」

ゆっくりと扉を開け、そっと中の様子を窺う。

実質拘禁とはいえ、保護が建前の状況だ。室内にまで見張りがいる心配はないと考えつつ、フィルオーレを背後に、ハインケルは警戒を解かない。

そのハインケルの顔を見て、部屋にいた相手がまじまじと目を見張った。

「……まさかのツラだな。言っとくが、テメーの息子のツラもしばらく見てねーぞ」

「――。言われなくても知ってる。こっちは、まあまあすれ違ってるんでな」

開口一番にラインハルトの話をされ、ハインケルは苦々しい顔で答える。

もっとも、予想された話だ。ハインケルと彼女――フェルトとの間の共通の話題といえば、当たり前のように息子が挙がることくらい。

と、そのやり取りを交わすハインケルの脇から、我慢できないとばかりに、フィルオーレがひょこっと顔を覗かせて、

「――ハインケル様、大丈夫? もう平気かしら? 誰もいない?」

警戒心があるのかないのか、文字通り、部屋に首を突っ込んだフィルオーレ。そのフィルオーレと目が合い、フェルトが露骨に嫌そうな顔をした。

「閉じ込められてなくてもめんどくせーのに、閉じ込められてるときにくるかよ……」

「お前、不敬にも程があるぞ。フィルオーレ『様』がわざわざ会いにきてるってのに」

正直、フェルトの反応は予想されたもので、同感でもあったが、ハインケルはわかりやすい立場の表明と、騎士としての役割からそう苦言を呈する。

が、そこにフィルオーレが「まあまあまあ」と割って入り、

「いいのよ、ハインケル様! その件でフェルトと言い合ってもお互い不毛だとわかっているもの。それよりも、実のある話をすべきだわ!」

「声がでけーな。実のある話?」

フィルオーレの声量を咎め、フェルトは探るような目でこちらを見比べた。

どうやら、呼び方に込めた意図は察したらしい。相変わらず、育ちの悪い態度のわりには物分かりがいい。やはり、ルグニカ王族の血なのだろうか。――否、ルグニカ王族の血だとしたら、フィルオーレの無防備さの方がらしいと思える。

と、そんな今考える必要のない思索に意識を割かれるハインケルを余所に、フィルオーレがフェルトの言葉に大きく頷き、

「もちろん、実のある話だわ! 豊作よ! 実は、そろそろフェルトが痺れを切らす頃じゃないかと思ったの。わたくしもそうだから! どう、当たり?」

「……ま、否定はしねーよ。けど、アンタも痺れ切らしたってーのは」

「――脱獄、しましょう。わたくしと、フェルトとエミリアと、全員で」

真っ直ぐに、回り道抜きで、まさに単刀直入というやつだった。

その大胆すぎる提案に無言で天井を仰ぎ、フェルトがしばらく押し黙る。

「エミリア姉ちゃんといい、フィルオーレといい……王選候補者ってどーなってんだ?」

「え、どういう意味!?」

「んや、アタシの頭の中のエミリア姉ちゃんも、いそいそと牢破りの準備を始めてたもんだからよ。どーいう考えの被り方だよって」

「それは……わたくしとエミリアが大親友だからってこと? そんな……フェルトったら、わたくしたちをそんな風に」

「オイ、オッサン、まさかこのお花畑に計画全部任せてねーだろーな?」

赤らめた頬に手を当てているフィルオーレに呆れ、フェルトがこちらに水を向ける。

関係性的にはハインケルと口も利きたくないだろうに、必要な場面でなら、汚れた道具を握ることも厭わないのには感心した。

「安心しろとまでは言わねえが、それなりに準備には時間を使った。見張りの数と巡回の経路は押さえてある。逃げ道は城にある王族用の古い退路だ。ここから抜け出したあとの隠れ家と、王都から出る手筈はしてある」

「へえ、思ったよりやるじゃねーか」

「そうでしょう、ハインケル様はやるのよ。でもでも、最初に脱走のことを思いついたのはわたくしだから、それはどうか忘れないでちょうだい!」

「そこは自慢するとこじゃなく、反省するとこだ」

「あれえ!?」

何故それで褒められると思ったのか、当てが外れてフィルオーレは不満顔だ。

その傍ら、細い腕を組んだフェルトはしばし考え、自分の腕を指でトントンと叩いていたが、十秒ほどで「よし」と頷き、

「いいぜ、乗ってやるよ。元々、アタシもそろそろ動くつもりだったんだ。つっても、飯持ってきたヤツを締め上げて、鍵と剣を奪って逃げる。途中でエミリア姉ちゃんが見つかればよし、ぐれーの出たとこ勝負だったけどな」

「出たとこ勝負は作戦とは言わねえ……」

「道具も情報もねーんだぜ、仕方ねーだろ。で、わざわざその道具と情報に足が生えてアタシのとこまできたんだ。見逃す手はねーな」

「ほらほら、フェルトはノリノリで乗ってくれると思ったわ! 言ったでしょう、ハインケル様。わたくし、彼女のこういうところが好きなのよ」

「アタシもアンタのそういうとこ、嫌いじゃなくなってきたぜ」

調子のいいフィルオーレに合わせ、フェルトが八重歯の見える笑みを浮かべる。

前情報だけなら、いがみ合って当然の複雑な関係の二人のはずだが、大事のためなら手段を選ばないところで意気投合したらしい。

「後々頭が痛くなりそうだが、今はいい。なら、ついてきてくれ。エミリア様がいるのはもっと上の階だ。魔法を封じるために、相応の用意をされて――」

「――ラインハルトはどーすんだ?」

「――――」

同意が取れたなら話は早いと、状況を進展させようとしたところで、わかっていた問いが飛び出し、ハインケルは言葉に詰まった。

「あのヤローもこの話は知ってんのか? それとも、外で待ってやがるのか?」

何気ない問いを装っているが、フェルトの声はわずかに低いものだった。

二ヶ月余り、フェルトとラインハルトが顔を合わせていないことは、以前の邂逅のときにハインケルたちも聞いている。

当然だが、この拘禁はフェルトの望んだことではない。その不本意な立場に主を置きっ放しにしていた騎士を、フェルトはどう受け止めているのか。

「知らねえよ。あいつは、この件は何も知らねえ」

「――――」

「あいつはこの計画に巻き込んでねえ。それに、もしあいつの耳にこの話が入ってたら、俺もフィルオーレ嬢もここにはこられなかっただろうよ」

それは皮肉や嫌味ではなく、紛れもないハインケルの本音だった。

「……そーかよ」

ハインケルの答え、それが意味するところがわからないではないだろうに、フェルトは短くそれだけ応じ、落胆も失望も顔には出さなかった。

代わりに、一度閉じられた瞼が開いたとき、その赤い瞳に宿っていたのは炎――それはそれは眩いほどの、怒りの炎だった。

その激情を炎にくべながら、しかし、彼女は勇ましく笑い、

「なら、なおさらこんなとこにはいられねーな。ヤローのすまし顔を崩してやりてーし、とっとと抜け出すとしよーぜ」

「――――」

「なんだよ、文句あんのか?」

「――。ねえよ」

この瞬間、胸の中に湧いた感情を見透かされないよう、ハインケルは吐き捨てた。

正直、わからない。いったい誰が、ラインハルトとこの少女を結び付けたのか。そこに何の意図があって、どんな流れが望まれたものなのか、何も。

ただ、ラインハルトが何かを選ぶなら、それはこの少女しかありえなかったのかもしれないと、今、思わされた。――あるいは、逆なのだろうか。

選ばれたのは、ラインハルトの方なのか。

だとしたら――、

「その意気よ! この調子で、エミリアをサクッと連れ出して、そのあとのこともハインケル様の神算鬼謀が何とかしてくれるわ!」

「――――」

その胸中に過っていた感慨を、フィルオーレの底抜けに明るい声が無遠慮に叩き切っていった。

他力本願の極みみたいな発言に呆気に取られたあと、肩の力が抜ける。

考えても仕方ないことを、考えても仕方ない場面で思い悩むのは、ハインケルの生来の悪癖だ。そんなの無駄だと、背中を蹴られた気分だった。

「ずいぶん信頼されてるじゃねーか。本当にアタシの知ってるのと同じオッサンか?」

「おんなじだよ。いざとなったら、お前の首に剣を当てて、人質にしながら強行突破してやる」

「ハッ、確かに知ってるオッサンみてーだ」

「なんでそんな物騒なお話でわかり合えてるの?」

不思議そうに首を傾げるフィルオーレを余所に、ハインケルは廊下の様子を窺い、まだ何も発覚していないのを確かめて、二人についてくるよう顎をしゃくった。

幸い、悲観的な予想を裏切る形でフェルトの説得が上手くいった。見張りの交代までは、かなり時間の余裕がある。――いける、と手応えがあった。

「――――」

ちらと背後を窺い、ついてくるフィルオーレとフェルトを見る。

金色の髪に赤い瞳と、同じ特徴を持った二人の少女は、王選候補者という同じ肩書きをも持っている。そうした立場に選ばれ、推されるためには理由がいる。――運命に味方されるという理由が。それが、彼女たちにはあるのかもしれない。

「足音に気を付けてついてこい」

フェルトには言うまでもなく、フィルオーレには言っておかないと不安な指示を出しながら、ハインケルたちは上階のエミリアが拘禁された部屋を目指す。

説明を中断されたが、エミリアがいる部屋には魔法の使用を禁じるための術式が用意され、フェルトよりも厚い警備が敷かれているはずだ。それは彼女の戦闘力がフェルトより高いことよりも、なおも消えないその出自への恐れを原因としたものだ。

それでも、光明はある。――ラインハルトはこないという光明が。

「王選候補者を、同じ棟にまとめて閉じ込めたのが敗因だ」

今や、王城にとって最も厳重な警備を敷くべき東棟だが、王国は最強の手札であるラインハルトを、この棟にだけは配置することができない。

それは取りも直さず、ラインハルトに対するフェルトの影響力を恐れた結果だ。

フェルトを間に挟むことで、王国はラインハルトを意のままに動かせる理由に一抹の不安を抱かざるを得ない。――それが、ラインハルトを東棟から遠ざけていた。

混乱を鎮静化し切れていない王都、その治安維持の名目もあり、今日もラインハルトは王城ではなく、王都外郭の守備に回されている。

準備に費やした半月、その半分以上を、この確信を得るのに費やしたと言っても過言ではないほどだ。――故に、ラインハルトはこない。

「止まれ」

目的の階層に到着し、階段の端から廊下を覗き込んで、後ろの二人の足を止める。

予定より早い到着だが、今の時間帯は見張りの交代直後――まだ集中力が十分に続いている頃だ。迂闊な行動は慎まなくては露見する。

そう、息を潜めたのだが――、

「ハインケル様? 誰もいないようなのだけど……」

「――――」

後ろからハインケルの肩を叩いて、同じく通路を覗いたフィルオーレが眉を寄せる。

彼女の言う通り、見張りが立っているはずの通路、そこにいるはずの人影がなく、廊下はガランとした状態だ。この廊下を突っ切って、突き当たりを折れればエミリアが囚われた目的の部屋まで、障害なく辿り着けてしまう。

「もしかして、わたくしたちの日頃の行いがここまで……?」

「妙だな」「こんなはずねーな」

おののくフィルオーレの前で、ハインケルとフェルトの意見が一致する。

後ろでフィルオーレが「わたくしの騎士なのに……」と呟く傍ら、ハインケルは舌打ちを堪えた。

おかしな話だが、予想通りに見張りがいてくれた方が、心情的には楽だった。

いるはずのものがいない。あるはずのものがない。――想定の食い違いは、それがこちらに働く幸運であっても、ハインケルの胃を万力のように締める。

賭場で偶然が続くとき、運がいいと喜ぶのは素人だ。

勝たされていると疑う。――それが、負け慣れた人間の心得であって。

「――ここにいろ」

その場に残るよう二人に指示し、ハインケルは階段を上がり切る。

そのままゆっくりと廊下を踏みしめ、本来なら見張りが立つはずの場所へ、一歩、二歩と距離を詰めていく。キンと静けさが鼓膜を打ち、心の臓の鼓動が熱く、痛い。

それが臆病のもたらした幻痛か、確かめる機会をさらに歩幅で求め――刹那、首筋の粟立つ気配に、ハインケルの右手が反射的に剣の柄へ走った。

抜き打ち、その生存本能に根差した瞬時の動きが止まった。――否、止められた。剣が鞘から一寸浮いたところで。

「――ッ」

柄頭を、上から落ちてきた掌が押さえ込んでいる。

腕に力を込めても、剣は鞘から微動だにしない。抜くも戻すもできなくなった。それはまるで、城そのものに剣を押さえつけられたような重圧。

「――ここで何をしている、副団長」

いつ、そこに立ったのか。

その図体と重装備で、どうやって気配も足音も悟らせないことができるのか。

理解できない現実と、またも湧き上がる場違いな思考の暴走に、ハインケルの体が心胆の奥の奥から震え上がる。

ラインハルトはこない。その推測は正しかった。

だが、勘違いしてはいけない。たとえ、ラインハルトが不在だったとしても、ルグニカ王城が盤石だと謳われるのには理由がある。

その理由こそが――、

「自分が何をしているのか、わかっているのか? ――ハインケル」

――そう、重く厳めしい剣気を纏った近衛騎士団長、マーコス・ギルダークの存在であるのだから。