第1章 図書館にて -②.「乗りかかった船」
第1章 図書館にて -②.「乗りかかった船」
窓辺に行き、奴らが庭を歩いて図書館の敷地から出るのを確認した。いつの間にか雨が降り出している。この時間にしては薄暗い。胸の奥から息を吐き出す。それまでも呼吸は当然していたのに、していなかったような胸の重さ。鞄から携帯電話を取り出し(俺はまだ流行には乗り切れず、スマホではなくシェルタイプの携帯)、エヴァには電話をかけるのではなく、メールを送る。その方が話を長引かせなくて済む気がしたから。「話はついた。心配はいらない」、それだけ。返信が必要になったとして、遅くなっても腹を立てるようなひとではない。いま、俺には他にやることがある。休憩室のドア。鍵を閉めろとは言ったものの、試しに引っ張ってみたら開いた。となると、部屋の隅で小さくなって震えているような男でもないと思ったが、なるほど、ソファで眠りこけていた。座っているうちに眠気に負けたらしく、腕を組んで反り返っている。なかなか肝が据わっているようだ。「おい。起きられるか」傍まで行って声をかける。彼の上下の瞼は離れたりくっついたりを幾度か繰り返してから、ある瞬間にぱちりと開いた。ここがどこなのか思い出したのだろう。「こちらこそ申し訳ない。彼らは……」「帰った。ガラはよくないが、物わかりがいい奴がひとりいて」キリル・クエンティンという男。なぜこんなにも引っ掛かるのかはわからない。自分と似ているからか、妙に好意的だったからか。ただ、そういう人間こそ信頼ならないのはわかっているのに、それでいてもなお引っ掛かるのだから、いまはまだわからないなにかがあるのか。「……そいつ、一番タチが悪いんだけどね」青年は顔を顰めてそう言った。「まあ、たぶん。まったく隙がなかった」そう答えておく。「他人のことは言えないだろ」と言いたくもなったけれど。「あんなのはどうでもいいとして……司書さん、お願いがある」青年が突然改まって言った。「俺は司書じゃないってさっき……ああ、聞こえなかったか、ここにいたら」じっと俺を見つめる青い眼。いい体格をしている。黙って殴られるような雰囲気でもない。エヴァが訴えた違和感の正体はわからないが、「なにか普通ではないものを持っている男」であるのはわかる。ただ、俺にはそれとは別に妙な引っかかりがあった。やはりどこかで会っているのだろうか。会う、とまではいかなくとも、見たことがあるとか。「なに。言うだけ言ってみればいい」「ここに一晩泊まらせてほしいんだ」「ここ……図書館だけど」「わかってる。でも、いまの俺にとってはここがいちばん安全なんだ。俺と関わりのない場所。とにかくしっかり回復して、考えたい。弱ったら奴らの思い通りになってしまう」「…………」「このソファでいい。外に出たらあいつらが待ち伏せている可能性もあるし」「あれは借金取りだよな? 借金、かなりあるのか?」「……あることになっているね」「あることになっている? おまえ個人の? 家族の?」「まあ、それはあなたに関係ないから」青年はふいと横を向いた。太るからもうダメだ、と最後のドーナツを取り上げられた子供みたいな拗ね方。正確な年齢は知らないが、この男の纏う雰囲気に似合った仕草じゃない。他人にモノを頼んでおいてこの態度だ。こちらとしては苛ついてもいいところだが、そうならなかった。どうにも興味が湧いた。こいつ、変わった奴だ。とはいえ。「ここは無理。セキュリティシステムが稼働したら、警備員だって入れない。貴重な本や資料が多いから。国や州から預かってるものとか、いろいろ」小ぢんまりした古い図書館だが、歴史ある大学が管理するだけあって、価値のあるものは多い。俺の一存で軽はずみなことはできない。「でも、ここから一歩も出なければいいんだろ?」と、青年が尋ねる。「なにかあったときの責任は俺が取ることになる。関係ない俺にそこまでの義理はないよ。トイレだって廊下まで出る必要がある。二時間後、おまえがいきなり腹をくださないとも限らないだろ」「……まあ、そうか。そうだね。いまのところその可能性はなさそうだけど、ゼロじゃない」匿ってくれただけでも感謝しなくちゃいけなかった。青年はそう言うと、「いろいろ申し訳ない。それに、巻き込んでおいて『関係ない』はなかった」と謝った。素直だ。「おまえ、ここに来たことがあるのか」一応、聞いてみる。「いや? ないよ。実は図書館ともわかっていないまま飛び込んだんだ。ただ……、」「ただ?」「なんでもない。さて、どうしようかな」深い事情がありそうだが、妙な軽さがある。見つかってもなんとかなると思っているのか、どうなのか。もう少し質問してみることにした。「痛めつけられたようだけど、それ以上のダメージがあるフリをしたよな。なんでだ?」「……わかるんだ?」「まあ」本当に傷めつけられた人間というのを、わりとよく見ているから。「意識的にやったわけじゃないよ」と、青年。「ついそうしてしまう。あなたの同情を引きたかったのかもしれないし、もっとあとになって利用価値が出てくることかもしれないし」「他人事みたいに言うね。俺はおまえの話をしているんだけど」「……そうだね。自分の人生を自分のものだと確信できたことって、ないから」そのセリフで、決めた。俺はこいつを放り出せない。「──よし」俺が言うと、青年は不思議そうに俺を見上げた。この男が座っていると、二人掛けのソファがコンパクトに見える。「よしって、なにが?」「俺のアパートに来ていいよ」「え」青年が意外そうな反応を見せる。「……なんだよ」「危ないと思わないのか」「じゃあ念のため訊いておくけど……おまえは、俺を殺したり、……犯したりするのか。言っておくけど、カネならないからね。ここの給料なんてたかが知れてる」そうなのだ。俺には価値という価値がない。「そんなことするわけない。恩人なのに」「ん。だから別にいいよ。おいで」「ありがたい……」「奴ら、車は?」「持ってはいるが、たぶんこの近くには置いていない。だから走って追いかけてきたんだと思う。またこっちに来るとしたら車かもしれない。動くならその前に動くべきか」「急ごう。裏門を出てワンブロック走る。ストリートカー(※路面電車のこと。ニューオーリンズでは最もよく利用される交通機関)を使う」「……いいのか? さっき、責任とか言っていたのに」──あんまり親切すぎてはだめだよ? リヒトのそういうところ、ちょっと危険頭のなかでエヴァの声がする。ボクサーを辞めてから、初めてできた友人。いま最も親しい人間と言える相手。ここにいる他の同僚とも問題なくやれていると思うが、エヴァは特別だ。「危険?」そのとき、エヴァがそんな言葉を使ったから、つい勢いよく訊いてしまった。「あ、ごめん。私、また余計なこと言おうとしてる」「いや、エヴァの言葉なら聞く」「んー、じゃあ、遠慮なく言わせてもらう。相手のためにならないとか、あとあと自分のためにならないとか、そういうことじゃなくてね……リヒト、他人に踏み込みすぎて、自分がどこにいるのかわからなくなる瞬間ってない?」「どうかな? もともと深く関わる人間がいないから。リングの上じゃ相手の内側に入りすぎる癖があるのを注意されたけどね。動きが読めるから、つい。罠ってこともあるからよくないんだ。……すごいね、エヴァはボクシングのコーチもできそうだ」「ボクシングはわからないけど。もしリヒトがコーチにそういう注意を受けたことがあるのなら、それは戦い方というより、リヒト自身の生き方の癖、なのかな」悪いことじゃないと思う。リヒトのいいところでもある。だけど、大きなリスクがあるかもしれないって、少しでも思うようにしてくれると嬉しいな。彼女はそう言って、その言葉の強さとは真逆にあるような弱々しい笑顔を見せた。……あのやりとりはよく覚えている。エヴァの忠告はいつも的確だ。俺は彼女の言葉に従うべきなのだろう。つまり、これはおせっかいだ。俺自身のためにならない、彼女がいうところのリスクを孕む行為。理解できる。けれど、それだけ大切な友人の言葉を押し退けようとするなにかがある。この男と会ったその瞬間から。でなければそもそも匿うこともない。裏口に逃げろと指示して、あとで事情を聞こうなどとは考えなかったはずだ。「構わない。『乗りかかった船』だね」いいのかと問う青年に、俺はそう答えた。「 船 ( ship ) ?」「『 引き返すには遅すぎる ( It's too late to turn back now ) 』っていう意味。陸を離れようとしたボートに片足を掛けたような瞬間のこと。日本語の比喩だよ。なんとなくわかるだろ?」「ああ、なるほどね。『引き返すには遅すぎる』よりも、強い意思を感じる。あなたがそれでいいなら。俺は、ただただ助かる」「じゃあ、決まり」最低限の片付けをし、図書室の窓を閉めて、ブラインドを下げる。青年も手伝ってくれた。本来は管理者である俺の眼ですべての窓を確認しなければならないところだが、今日は見逃してもらう。図書室は広いから、ひとりではなかなかに時間がかかるのだ。忘れ物や目立つゴミ、放置された本などがないかどうかもチェックしながら、室内の全体を回る。確認が終わったところから電灯のスイッチを切っていく。ぱち、ぱち、という音が、あっちとこっちで響いた。受付カウンタ以外が暗くなると、青年が暗闇のなかから戻ってきた。「……これでOKだと思う。ねえ、俺の気のせいかな? 暗いと本の匂いが強くなる気がする」「あたりまえだ、これから人間抜きの世界で遊べるんだから。彼らも張り切る」「なるほど。興奮で体温が上がって匂い立つわけだ。フェロモンみたいなものかな?」「おそらく」奴の緊張を和らげようと冗談を言ったつもりだったが、特に心配はいらないようだ。