第1章 図書館にて -③ 逃走。ストリートカーでアパートへ
第1章 図書館にて -③ 逃走。ストリートカーでアパートへ
ひととおり片付けが終わり、青年とふたりで裏口へ。守衛室で煙草を吸っていた男に礼を言い、バッグに入れてあった缶コーヒーを渡した。スタッフのために常温でストックされているものだ。彼はちらりと青年を見上げたが、スルーしてくれた。関わらないに限る、と思ったのが伝わってきた。まあ、きっと彼が正しい。裏門の周辺に人影がないか遠目で確認してから、木の陰に隠れた。日が落ちたあとだから、周囲は既に薄暗い。「南に向かう」と青年に伝える。「ストリートカーの出発に間に合うぎりぎりに出る。走れそうか?」「平気だ。駅まではどれくらい?」「700ヤード(※約640メートル)、くらいかな。ストリートカーが見えるまで、全速力じゃなくてほどほどに走って」「了解。周囲の人間に怪しまれるし危険だから、だね」緊張しているどころか、楽しんでいるような口調。いや、実際どうなのだろう。感じたそのままを信じるのは危ないかもしれない。この男の場合。「……どうした? 司書さん」「なんでもない。……俺は司書じゃないってば。行こう。ペースが落ちたら置いていくからな」「わかった。それでいい」もう春が近いとはいえ、まだ夕方から夜にかけては肌寒い。雲のせいで太陽の光が十分に届かず、空気が暖まり切らないからだ。俺も薄手のコートを着ている。それでも街の人々は、家のなかでおとなしくしたりはしていない。なにも考えずに直進すると、誰かにぶつかってしまうくらいの人出だ。安っぽいオーディオから流れ出る音楽、碌にメンテナンスをしていない楽器で奏でられるジャズ。しかしジャズはジャズだ。どこまでもご機嫌な笑い声、店のドアも窓も大きく開けっ放し。電灯は煌々と輝き、夜道までを照らす。そこに集う人々は、アルコールのお陰で小便の寸前以外は震えもしない。「腹減った。今日はまだなにも食べていないんだった」青年が言った。息はたいして乱れていない。「部屋に着いたらチキンを焼く。あとはサラダくらいならあるよ」「自分で焼くのか? 料理するんだ?」「わりと好きだね。買ってきて食べるよりずっとヘルシーだし」「いいな。楽しみだ」「……チキンとサラダだよ。たいしたものじゃない」すぐカナル・ストリート(※Canal Street/ニューオーリンズの主要道路。通りの両側に三車線あり、中央にはバスと路面電車のレーンが通る。運河が通るはずだったが結局建設されず広い道路が残った)に出た。道の脇や中央分離帯には、多くの椰子の木が植えられている。向こうからストリートカーがやってくるのが見えた。ほぼ計算通りのタイミングだ。鉄が擦れるキイキイという音が通り全体に響いている。一両編成。ボディは赤いが屋根は白い。窓枠はくっきりとした黄色。レゴブロックのような色の組み合わせだ。フォルムはころりと丸い。乗客は数名しか見えない。空いている。「あれに乗るのかな?」と青年。「そうだ、急げ!」「了解」屋根のある小さな駅まで走り、前方から乗り込んだ。二人分のカネを払う。小銭がないから1ドル札を三枚。支払機は札をまとめてずるりと飲み込み、沈黙した。ストリートカーの支払機は釣りのコインが出ない。「すまない。あとで返す」と青年が言う。「いらない。俺もかなり久しぶりに乗った」「そうなんだ? もしかして毎日走って図書館まで?」「……そう」「やっぱり。そんな感じがした。あの走り方。とても慣れているというか」ストリートカーが見えてから走るスピードを一気に上げたので、さすがに青年の息も切れている。それでも、こんなふうに話す余裕はあるのだ。彼も普段からなにかしらの運動をしているのかもしれない。車内の一番後ろまで歩き、座席に腰を下ろす。息を吐く。ふと気になって道路を見下ろしてみたが、奴らどころか見覚えのある人間もいなかった。乗客も俺たちのことなど気にしていない。誰かが時間ぎりぎりで駆け込んでくることなど珍しくもない。青年も同じように道路を一通りチェックすると、俺の隣に座った。「さっきより緊張した」と、青年。「奴らに追われていたときよりも」「……なんだか楽しそうに見えたけどね」「ああ。あなたのお陰でなんだか楽しかった。この線は二十四時間走ってるやつだよな。次に逃げるときはうまく使おう。小銭を持って。いまは財布さえない」彼はそう言って笑い、座席にゆったりと凭れた。車内を興味ありげに見回している。「……もしかして、初めて?」「いや、さすがにそれはないんじゃないかな。ニューオーリンズ生まれだし。子どものころはよく乗ったはずだよ。大昔のことだからあんまり覚えていない。十六で車の免許を取ってからは車ばかりで」「車、持ってるのか」「ん? ああ、まあ、いろいろ」嘘はつきたくないのだろう。でも、本当のことを言いたくもないのだろう。おまえは誰なのか。何歳で、どこに住んでいるのか。学生なのか。なぜあんな連中に追われ、なぜ逃げていたのか。問いたいことは山のようにあるが、少なくともここで質問する必要はない。あとでゆっくり聞いたほうがいい。中途半端に尋ねたところで、いまみたいに曖昧な受け答えをされるだけ。無駄だ。落ち着け、と自分に言う。いつもと変わらないニューオーリンズの街並み。同じ。同じだ。なにも変わっていない。確かに俺は、自分からなにかに巻き込まれようとしているのかもしれない。入るべきではない内側に向かっているのかもしれない。だが、ターニング・ポイントはまだ先にあるはずだ。それさえ見誤らなければいい。いまだと思った瞬間に、全力で逃げ出す。できるはずだ。気持ちを鎮めるために、友人のことを考えてみる。エヴァのパートナー(女性の上司だ。腹の子の父親は別にいるが、出産には関わらないと聞いている)には申し訳ないが、恋心ではないから許してもらう。彼女と恋に堕ちることは、絶対にない。メールを送ったことを思い出して、ポケットから携帯電話を取り出した。『よかった。危険なことはしないでね』エヴァからのメッセージはそれだけ。了解、と返信する。危険というものに対して自分がどれだけ鈍感なのか、あとで知ることになるかもしれないと思いながら。同じに見えるだけのもの、というのが、この世界には存在するのだ、とも。