痛みの受取人
痛みの受取人
オデットと連絡が取れない。スネージナヤでの生活にも慣れてきた折、俺の部屋まで訪ねてきて開口一番にそう言ったのは、今や顔なじみとなったサンドローネだった。
「昨日の昼からファデュイの任務なの。それほど危険な任務ではなかったはずだけど、まだ帰ってきていないのよ」
「任務…って言うと、また魔獣の討伐? 最近は気性が荒くて被害が大きいって聞いたけど」
「その通りよ。オデットなら何度もこなしているからって、いつも通り一人で行かせたらしいわ」
なのに、帰ってきていないらしい。そう言葉を結んだ彼女の細い眉が、そっと寄せられる。言葉尻は鋭いことが多いけれど面倒見がいい彼女のことだ。以前オデットのスケジュール調整を手伝った時も気にかけてくれていたことだし、思っていたよりも気に入っているのかもしれない。
「それで、俺に?」
「ええ。ファデュイの人員はそう簡単に動かせるほど余裕があるわけではないから。特に今の時期は七神との会議も控えているし」
「俺、ファデュイとは結構敵対してきた自覚があるけど。その、行っても大丈夫?」
「それはそれよ。だいたい、今のアナタは女皇陛下の宮廷顧問でもあるんだから、ファデュイへの建前はどうにでもなるわ」
そう言われると弱い。これまでの旅でファデュイには正直なところいい印象はなかったけれど、組織が一枚岩ではないことくらいは分かっているつもりだ。目の前の彼女も、タルタリヤも、ピエロも、それこそオデットだって友好的に接してきてくれている。そもそも助けに行くことに躊躇いがあるわけではない。
ただ、少しだけ。ほんの少し、オデットについては後ろめたいところがあって――
「で、どうかしら。ファデュイの面倒な手続きよりアナタに頼んだ方が手早く済むの。頼まれて頂戴」
「本音が出てるよ、『傀儡』様」
「……行くの? 行かないの?」
「はい、行かせていただきます」
慣れると柔らかくも感じる物言いと華奢な容姿にたまに忘れそうになるけれど、彼女もまたファデュイの執行官だ。こうしてにっこり笑っていても言葉の圧が強いと、無条件に背筋が伸びてしまう。
「一応、言っておくけれど」
「うん?」
「ファデュイの任務で予定と変わることは、そこまで不自然ではないわ。予定していた計画より三日くらいは帰還が遅れてもおかしくないの」
「それはそれで計画の立て方が悪い気が…」
「煩いわね、雪国の天候は変わりやすいの。全部が全部想定できると思わないで」
「あ、はい」
「だけど、オデットは計画から数時間でもズレることはなかった。だから妙なのよ」
言われてみれば、確かに不自然だ。オデットの実力は以前から知っている。何度か共闘したこともあるし、そこらの魔獣に後れは取らないだろう。となると帰還できていないのは環境要因だろうか。急な吹雪とか、不意な雪崩に巻き込まれた、とか。あるいは――
「闇域、とか?」
「ワタシもそれを疑ってる。アナタに頼むのはそれも理由よ」
「なるほど」
ようやく理解した。ファデュイはどこまで行っても組織だ。計画とのズレが珍しくもない組織で、ほんの半日帰還が遅れている隊員一人のためにただでさえ忙しくてカツカツの人員を割くのは難しい。あくまでサンドローネの心配も個人的なものだから、公私混同はもちろんできない。ファデュイを動かすことが難しい、というのはそういうことか。
そこで闇域の突破経験があって、フリーで動ける俺が選ばれた、ということだろう。なるほど、なんというかこれは。
「そういうこと。杞憂ならそれでいいわ。帰ってきたらお詫びにお茶でも――なによ、薄く笑って」
「いや? サンドローネが友達として俺のことを頼ってくれるなんて嬉しいなって」
「は、はあ!? アナタがたまたま条件に合っただけよ! 友達だから、なんて理由じゃないから!」
「そういうことにしておきます、『傀儡』様」
「っ、さ――」
「さ?」
「いいから、さっさと――行きなさい!」
朝からセラーガーデン・レストラン中に『傀儡』様の声が木霊したという噂は、しばらく消えそうになかった。
レストランから帰ってきたパイモンを連れて、サンドローネに教えてもらった雪山に乗り込むことにした。天気はそこまで酷くないものの、曇り空が頭上に広がりつつあって、すぐにでも日光は隠れてしまうような気がする。先ほどまで靴音を鳴らしていた舗道はいつの間にか雪を踏む音だけ鳴らす獣道になっていた。
「なるほどなあ。オデットが」
「そう。サンドローネも口では大丈夫だろうって言ってたけど。かなり心配してたし、そこまでいくと俺も心配だから」
「確かに心配だな。昨日大きな雪崩があったとか聞いてないけど…」
「となると闇域? でもそれも聞いてないとなると」
うーん、と二人して首を傾げた。
あのオデットが遭難というのは何度聞いても想像がつかないし、闇域は俺が目ぼしいものを踏破したからか、最近は新たに発生していないという話を聞いたのは記憶に新しい。
「案外腹ペコで動けないとか、そんな感じかもな! 普段から野菜ばっか食べてるからだぞ」
「パイモンじゃないんだから……」
「う……そ、そうか? じゃあ、怪我しちゃったとか! 魔物との戦闘だろ? 数が多かったら怪我してもおかしくないんじゃないか」
「パイモン、オデットは次期『淑女』候補だよ。山を下れない程の怪我なんて、戦闘中に初期段階に気付くはず」
「た、確かにそうだな」
「危なそうだと思った時点で撤退できる。怪我に気が付かないなんて、そんなことあるわけが……」
いや。
「空?」
足が止まる。少し先でパイモンが振り返ってきているのを確認しても、思考は止まらない。
待て。待て。待て。
間違ったことは言っていない。次期『淑女』候補でもある実力者が、自分の体の怪我に気が付かない訳がない。雪山を下ることができないなんて、その程度の大怪我なら尚更初期段階で気がついて撤退できるはずだ。
いや、違う。思い出せ。知り合ってすぐの頃、彼女はなんと言っていたか。ロザリンの話をして、極寒の中で訓練させられた過去を教えてもらって、それで──
──私、痛みには鈍いんですの。気が付いた頃にはかさぶたになっているので助かりますわ。
「まさか」
首筋を汗が伝う。冷たい風が吹きつけてきて妙に冷える。どこかで楽観視して浮ついてた気持ちがすっかり落ち着いて、視界がクリアになった。
「どうしたんだよ、空? お腹空いちゃったのか?」
「パイモン、今包帯ってどのくらいあったっけ?」
「突然だな、ちょっと待ってくれよ……ほら」
ごそごそと小さなカバンを漁って、ほらよ、と手渡してくる。包帯とガーゼ、消毒液のセット。簡易的な応急処置道具そのものだ。手渡されたそれをバッグにしまって、肩掛け紐を固く結んだ。
「パイモン」
「うん? どうしたんだよ」
「たぶん、これだけじゃ足りないと思う。冒険者協会でいくつか追加で貰ってきて」
「えっ? なんでだよ、一人で雪山なんて危ないだろ!」
「お願い、パイモン」
「うーん、でもなあ……」
「レストランでなんでも奢るから」
「いや、でもやっぱり危ないぞ! オイラ不安で……」
「パイモン」
彼女はうんうんと唸って、視線をあちこちに彷徨わせる。何度か躊躇った様子を見せて、結局続く言葉を決めたようだった。
「分かったぞ。空の言うことだしな。オイラ信じてるぜ」
「それでこそ。オデットは俺が探しておくから」
「へへ、オイラなら空のこと見つけられるもんな!」
「そういうこと」
じゃあ任せたぞ〜、なんて間延びした声に手を振って、山頂付近にもう一度目を向ける。心なしかさっきよりも雲が集まってきていて、視界の彩度が一段階落ちた実感がある。
「吹雪になるかもな」
強い悪寒は落ち着かない。稲妻の極寒を思い出しそうになって、そんな記憶から逃げるように走り出した。
この場にサンドローネがいれば、呆れただろうか。逃げたかったのは、その記憶だけではないだろう、と。
そんなことは、自分でも分かっている。目を背けたままではいられないことだ、とも。
頭の中で、彼女が踊る姿を幻視する。いつから、あの姿から目が離せなくなっていたのだろう。いつから、あの声を聞きたいと思っていたのだろう。
そして、仮にオデットを見つけたとして。
彼女は、俺に助けられることを是とするだろうか。
天気が悪くなってきた。風が吹きつけてきて耳の付け根が痛い。冷え切った手指では外套を摘むのにも苦労する。大人しく炎元素を指先に灯しつつ、歩みを進める。
「この辺りのはずだけど……」
元素視覚を使ってみれば、意外にもすぐに彼女の氷元素の痕跡を見つけた。というか魔獣との戦いが大規模だったのか、いろんな地点に散らばっていたと言う方が正しい。最終的にたどり着いた此処も、ぱっと見ただけでは雪がかった岩肌に囲まれた谷で、何かがあるようには見えない。
「もう少し探してみるか……って」
人影のない谷奥を再度ぐるりと見回すと、雪がほんのり薄い岩盤が目に止まった。ちょうど人がひとり通れそうな岩場を少し押してみれば、思っていたより簡単に岩壁が崩れて──
「どなたですか──あら、あなたは」
洞窟の奥に、見知った顔があった。
淡い水色が基調の髪の毛に、少し白がかった紫眼。よく見るプリンシパルの衣装は、ファデュイ支給らしい薄手のコートを羽織っている点を除けばいつも通りの彼女の格好。
取り敢えず、気を失っていないようで安堵する。いつも通りというには、目元に力が入っていないように見えるけれど。
「よかった、オデット。サンドローネに言われて探しにきたんだけど……」
「『傀儡』様が……そうですか。申し訳ないですわ、心労をかけただけではなく、あなたの手まで」
「いや、全然気にしなくていいよ。ただその足は……」
「ええ、少し油断してしまいまして」
座り込んでいる彼女に近づいて、目配せをする。頷かれたので良しとして、靴を脱いでいる左足に触れた。応急処置の薄い包帯を外せば、あちこちに薄い切り傷。出血はそこそこ。切り傷は大きな怪我ではなくて、たぶん捻挫か……もしかすると骨が折れているかもしれない。
「あなたは、触診も?」
「うん、一応。冒険者って一人で怪我することとかもあるし教えてもらえるから」
「流石ですわね」
魔獣との戦いの最中に足を踏み外した、というところの怪我だろうか。踝の付け根あたりが少し痛々しく腫れてしまっていて、破いたタイツで控えめな固定を試みたらしい。なんとか歩くことはできても、この天気の雪山は下れない。
とりあえず消毒液とガーゼを取り出して、切り傷の膿を除くことにする。
「それで、どうしたの?」
「……報告よりも、魔獣の数が多かったのです。長引いているうちに天気も悪くなって、崖から」
「怪我には、いつ?」
「崖から落ちた後ですわ。歩こうと足を踏み出したところで、そのまま転んでしまいまして」
「それで、とりあえず洞窟に?」
「ええ。落ち着くまでのつもりでしたがその後小さな雪崩で出入り口が塞がってしまって」
「間に合ってよかった」
そのままだと考えると肝が冷える。サンドローネにお礼を言っておかないと。あとファデュイの計画の立て方にも一クレームくらいは許される。薄く青白くなった箇所に白朮からもらった塗り薬を薄く塗って、ガーゼを貼る。ちっとも痛む様子を見せないあたり、これほどの怪我でもちくりともしないらしい。思っていたより痛覚は感じていないんだな。ここまでひどい怪我なのに。
「たぶんちょっとキツめの捻挫だと思う。後遺症とかは平気なんじゃないかな。あと数日は歩くのも難しそうだけど」
「ありがとうございます。……そんな顔をなさらずとも、医者には行きますわ」
「良かった。オデットのことだから、治ってなくても練習しそうで」
「あなたは、私をなんだと思ってらっしゃるの」
「テイワット一のプリンシパル」
添え木と一緒に包帯を巻こうとしたタイミングで、足がぴくりと動く。痛かったのかと顔を上げれば、彼女は無言のまま顔を背けていた。一瞬耳の端が火照って見えたのは勘違いか。
「オデット、大丈夫? 痛かった?」
「……いえ、問題ありませんわ」
「そう? ならいいんだけど」
包帯を巻き切って、とりあえず一段落。今度の公演はしばらく先だと聞いていたから、特に問題はないはず。サンドローネには帰ってから報告するとして、パイモンとはどうやって合流すべきだろうか。洞窟の入り口の先はさっきよりもずっと強い吹雪で下山できそうにない。
「で、オデット」
「……はい?」
「他に怪我はある? 魔獣、多かったんでしょ」
「ああ……申し訳ありません、痛みを感じにくいため分かりませんわ。足については、歩けなくなっていたから」
「あ……ごめん」
「いえ、気になさらないでください」
洞窟を見つけた際は特に外傷は見当たらなかった、と続けたのでひとまず信じることにする。流石に図々しく触診する気もない。
「ここで過ごして半日くらい?」
「ええ、そうですわ」
「寒くない?」
「……痛みに鈍いので。寒さも、そこまでは」
「にしては身体冷えてたから……ちょっと待って」
カバンから乾いた木片を取り出して、炎元素で火をつけた。ぱちくりと瞬きをして、オデットが上体を動かす。
「空さん、こちら」
「あれ? 木くず拾ってたんだ」
「幾ばくか過ごす予定でしたので」
「さすが」
火を起こして、オデットの隣に座る。一人分だけ空けた隙間に風が通った。近すぎやしないかと迷わない程度の距離を空けて、薄手の上着を手渡しておく。
「結構ですわ」
「俺なら大丈夫。走り回って暑いくらいだから」
「ですが……」
「むしろ脱いでた方がちょうどいいくらい」
「……そこまでおっしゃるのなら」
「しばらく待たないとね」
「……そうですわね」
火元がパチパチと音を鳴らす。外の吹雪が岩盤を打ち付ける音。壁伝いに感じる、遠くでちょっとした崩落が起きたような振動。
考えてみれば、オデットと二人きりになることは少なかった。公演の後は毎回と言っていいほどお互いに食事には誘っていた気がするけれど、ヴォジャニーツァやらアリョーシャ、そして必ずパイモンが付いてくるので、騒がしいままだ。
「……空さん」
「ん?」
「……ありがとうございます。助かりましたわ」
「どういたしまして。でもそんな畏まらないで。俺はオデットのこと、その……友達だと思ってるから」
言って、胸がちくりと痛んだ。
友達。オデットの友人。その資格が自分にあるのか──そんな自問自答を、いったいどれだけ繰り返しただろう。彼女は彼女で割り切っているとは知っているけれど。それが傷ではないと、どんな顔で言えるのか。その数を見ないふりをして、バレエが好きだとどうしたら言えるだろう。
「……痛みを感じなくなってからしばらく経ちますが、こんなことになったのは初めてですわ」
「それは、その」
「ええ。ファデュイに入ってからの訓練の日々で、いつの間にか」
「……」
「幸運だと思いました。自分の体を気にせずに訓練ができるようになりましたから」
それはたしかに、現在の彼女から考えても想像に難くない。以前はより苛烈だったというのは、それこそサンドローネからもアルレッキーノからも聞いている。自分の身体を削るように、バレリーナとしてもファデュイとしても技術を磨いていたと。
痛みが無いということは、感覚と共に理解が欠乏するということよ──スメールで、ナヒーダが語った言葉を思い出す。
例えば目の前の火に手を触れて手を引くのは、手が燃えてしまうからではなく手が熱い……つまり、痛いからだ。そうでなければ人間は、手が燃え尽きるまで火の危険性が分からない。だから痛みは必要で、傷が痛むのは正しい。アルハイゼンは、そんな例えを口にしていたっけ。
「普通ではないことは、理解しているつもりです。けれど幼い私はそれを喜んで、母に褒めてもらおうと、一生懸命になって」
「……うん」
「ファデュイの任務がこなせるようになっても、バレエの公演が大成功しても、母が痛ましそうに謝って。それが不思議でした」
「悲しかったんだよね、たぶん」
「ええ、きっと……母は」
「お母さんだけじゃなくて、オデット自身も」
「私……?」
「うん」
褒めてもらいたかった。すごいね、と頭を撫でてほしかった。一緒にまた踊ってほしかった。
そうなんじゃないかな、と無責任に言いかけて、やめた。過去の彼女を知った風に語るのは失礼だし、何より頭の上で疑問符を浮かべる彼女に押し付ける気にもなれない。
彼女はしばらく逡巡した様子を見せてから、結局火に視線を落ち着かせることにしたらしかった。
「悲しい……今となっては、あの頃の私がそう感じたのか自信がありません」
「そう? オデットは喜怒哀楽が意外とはっきりしてると思ったけど」
「……そう、でしょうか」
「だってほら、公演観に行ったら結構俺に笑いかけてくれるよね。世間的にはもっとクールってイメージなのに」
「…………お気づきでしたの」
「あとはほら、覚えてる? この前の公演の後のご飯。ヴォジャニーツァがアリョーシャを茶化して」
「ああ……なんでしたか、私のバレエと彼女の歌どちらが良かったか点数を付けなさい、と」
「そうそう。アリョーシャが無理やりヴォジャニーツァの歌って答えさせられて、俺たち二人で呆れてたけど。オデットはちょっと悲しそうな顔してた」
「……あなたは、私のバレエと言ってくださいましたね」
「ヴォジャニーツァには追いかけまわされたけどね」
あの時は酷かった。俺とアリョーシャはずっとヴォジャニーツァに振り回されるし、オデットは我関せずみたいにサラダを食べるだけで助けてくれないし。結局店員さんにきつめに怒られることになって事なきを得たのだったか。あの歌姫にはそういうところがある。
「だから、何の話だっけ……そう。オデットは結構感情豊かだから、ちゃんと悲しくなったりしたんじゃないかな」
「……そうだったのかもしれません」
「ごめん。分かったような口きいた」
「いえ。そのようには思っていませんわ」
痛覚が鈍くなったのは自分を追い詰めた結果だと、以前の彼女は言っていた。傷に耐えて、痛みを踏み越えた結果そのものと。
「噂通りですわね」
「何が?」
「あなたは、人の柔いところに踏み込むのを得意としている、と」
「待ってそれ誰から?」
「『公子』様が」
「タルタリヤ……」
「それと、『傀儡』様からも」
「サンドローネまで……」
妙な噂がファデュイの中で流される前に一言言っておかないと。ただ、まあ。彼女の柔い視線が見られたなら、それでも良いか。
「オデットは嫌じゃない?」
「何がでしょうか」
「いやその、結構踏み込んじゃってるから」
「むしろ好ましいですわ。ヴォジャニーツァや『傀儡』様と比べて距離があった印象でしたので」
「それは、ごめん」
なんだか気まずくなって、ほんの少し彼女の方に寄る。彼女も同じ結論に至ったのか、同じ動作をして──その拍子に、床についた小指同士がぶつかった。「……ごめん」「……いえ、私こそ」お互いに顔を背ける。洞窟でよかった。あのプリマドンナに見られていたら朝まで揶揄われたに違いない。
それきりなんだか照れくさくなって、会話が途切れてしまう。不意にパイモンはどうしているだろうと考えて、食事のことを思い出した。「……オデット、携帯食でも食べる? 稲妻のやつ」「……いただきますわ。昨日の昼食から水しか摂っていませんの」「ええ……」稲妻の名産である羊羹は山登りに良いらしい、という話を聞いておいてよかった。はむ、と一口食べたオデットの目元が少しだけ柔らかくなったのを見て、そんなことを思った。
「……先ほどの話ですが」
5分か、10分ほど。薪を調整したり外の様子を見に行ったりを何度か繰り返した俺に、羊羹を食べきった彼女は控えめに口を開いた。かと思えば、巻き戻るように口が閉じる。見開いた目は、自分自身への驚きだろうか。
「オデット?」
「……何でもありませんわ」
目を伏せる。自然と漏れ出てしまった言葉なのか、俺に聞かせるつもりはなかったのか。少なくとも、積極的に話したいわけではなさそうだった。
「さっきの話?」
「……少し、考えたことがありまして」
「聞かせてよ。何かの参考になるかもしれないし」
「あなたの参考にはならないと思いますが」
「まあまあ」
薪を調整する素振りをしてみれば、姿勢を正すように少し身じろぎをする気配があった。「……では、一つだけ」「うん」視線が火種に吸い寄せられている。何となく倣って、俺もぱちりと爆ぜる音源を見つめた。ちょうど、初めて彼女の持つ燃珀を見た時の格好。
「痛みに鈍いのも、過度な訓練も、誰かを喪うことにも慣れています」
ですから、これはあくまで推測ですが、と前置きして。
「幼い頃、母に褒めてもらえなかった私は悲しかったのかもしれません」
「うん」
「……ですが。数年前は、どうだったのか。分からないのです」
喉の奥からひゅっと息が漏れる。
その言葉に、糾弾の意図はなかったように思う。自分の心の裡を分からないながら出力しているだけの、純粋な言葉。それでも、詰まった息に任せて目を背けることだけはできなかった。
「ロザリン様は」
「…………」
「苛烈で、厳格でした。恨んでいない、といえば噓になりますが。訃報を聞いて、私は泣くことすらしなかった」
我ながら薄情ですわね、と自嘲気味に笑う。呼吸が苦しくなりそうな声色が痛ましくて、喉が言葉を思いつかない。
「あなたを責めているわけではありませんの。稲妻でのあなたの行いは正しいものだった。善い行いでした。あの地ではロザリン様が排されるべきだった」
「……俺も、後悔はしていない」
「ええ、知っています。あなたはそういう方です」
だからこそ、かしら。彼女は視線を落として。
「あの人の訃報を聞いた自分の感情を、思い出せませんの。何も感じなかったのか、悲しかったのか、後悔したのか、あるいは怒っていたのか」
迷ったような声。普段の彼女からは考えられないほど細い、今にも切れてしまいそうな些細な糸。
「私は、痛かったのでしょうか」
声を潜める。洞窟。火種が爆ぜる音。岩肌を擦る服。外に喧騒が沈んで往く。二人一緒に、知らない世界に迷い込んでしまったように錯覚する。
「……オデット」
「……はい」
「俺が言うなって話なんだけど」
気がつけば、口が動いていた。オデットに感じていた後ろめたさも、やるせなさも、なくなったわけじゃない。むしろ痛いくらいに俺の心臓を鳴らしていて苦しいくらい。
だけど、それでも。そんなこと知ったことか、と心の裡で叫ぶ自分がいる。
「傷はたぶん、耐えるものじゃなくて」
キザすぎやしないだろうか。でも、伝えたい。常に自分が思う完璧を目指す彼女に、俺の隣くらいでは──そうでなくても良いのだと。
「痛みはきっと、訴えるものなんだ」
いつだったか、蛍が怪我をして、痛いと泣きついてきたことがあった。そうしてもらうまで、俺は妹の痛みに気が付かなかった。
きっと、同じことだ。それは誰かに自分の心を伝えるということ。幼い頃から変わらない、あらゆる人の原体験。
痛いから泣いて、痛いから愛されたい。傷が痛むのは感覚でもあって、痛む心を誰かに知ってもらいたい、なんていう……そんな、願いだと信じている。
泪が流れるのは傷が痛いからじゃなくて。痛くて悲しくて、とても淋しくて──そんな自分がここにいると、訴えたいからじゃないか。
「だから、痛いって言っていいと思う。『淑女』をオデットがどう思ってたかを知ったかぶりするつもりもないけど。悲しいかどうかは分からなくても。どんな感情だったか分からなくても、もしも今淋しいなら、それだけで――心が痛いんだ、きっと」
分かりやすい言葉じゃない。こうして聞かせたってピンと来ないかもしれない。それでも……自分の痛みと向き合おうとしている彼女には、伝えたくなった。自分の責任がどうとか、後ろめたさがどうとか、そんな理由ではなく。ただ、焦がれて止まないテイワット一のプリンシパルが、前を向く助けになれますように。ほんの少し。彼女の気高さとバレエが好きな観客の返礼として足るものかは自信はないけれど、なにかを返したかった。
──彼女は、目を見開いてこちらを見つめていた。
何度も瞬きをして息を止めていた。目が細まって、まなじりはわずかに丸まっていた。小指の距離が縮まって、触れて、きゅっと握られた。
長い、長い、長い一分間。やがて彼女は、ぽつりと零した。
「……母にも」
「うん」
「幼い頃の私は、母にも褒めてもらいたかったのでしょうか」
「そうだったのかもね」
「燃珀が砕けて。私はロザリン様の真意を知りました。……悔しかったですわ。一言申し上げたいくらい」
そこまで言って、彼女は言葉を切った。ぱちり、と焼き焦げた木材が割れて、炎がほんの少し小さくなる。薪を新たに焚べる様子も見せずに、結局。
「ああ──痛いとは、そんなことなのですね」
泣いてしまいそうな幼い呼吸音に、無責任な言葉を掛ける気にはなれなかった。ただどうか心寒くないようにと、ほんのりと冷たい小指を握り返して。
彼女の息が落ち着くまで、じっと、そのままでいた。
「空さん」
「ん?」
「今日のことは、どうか内密に」
「……ああ、もちろん。あのテイワット一のプリンシパルが──」
「空さん?」
「はい、すいません」
「まったく……」
はあ、とため息。呆れられてしまったらしい。気が付けば吹雪は収まってきている。出入り口から覗く天気は快晴そのものだ。とりあえず外の様子を見に行こうと立ち上がりかけて──隣からぐいっと腕を引っ張られる。
「オデット?」
「以前言ったことを覚えていますか?」
「え、どれ?」
「あなたは私のファンだとおっしゃっていましたね」
「もちろん」
「そして私は、ファンに見せられない顔を今日あなたに見せました」
「……まあ、確かに」
クールで冷静、それでいて芯の強いまっすぐな表情。それが世間のオデット・スパーシヴァだ。あんなにも消えてしまいそうな表情は確かにお目にかかれない。ヴォジャニーツァでさえ見たことはないんじゃないだろうか。
「つまり、あなたには責任を取っていただく必要がありますわ」
「なんか論理が飛躍している気が」
「何か?」
「なんでもないです」
眉を軽く吊り上げる。……なんだか、以前よりもずっと表情が柔らかくなったような。クールな小動物みたいだ、なんて。そんなことを考えて視線を逸らしていたのが気に食わなかったのか、すっかり元の調子を取り戻した彼女は声のトーンを少し落として。
「まだ、ロザリン様のことを気にしていますか」
「……後悔はしてないよ」
切れ長のまなじりがこちらを睨む。なんとなくお互いに気遣って、触れ合わない程度の距離感。俺たちがそれまで設けていた空白にそっと踏み込んでくるような。涼やかな視線に手を引かれて、飲み込んでいた言葉が喉を伝う。
「……でも」
「はい」
「オデットに後ろめたさはある、かも」
「そうでしょうね。今日も少し距離を感じました」
「……ごめん」
「ですので」
ぐい、ともう一段階腕を引かれる。水色の髪先が頬をくすぐって、紫色の瞳に間抜けな自分の顔が映る。鼻と鼻が触れ合ってしまいそうな距離で一瞬、鼓動が跳ねた。
「ちょっと、オデット!?」
「再度申し上げますわ。私はあなたを恨んでいません」
「──っ。だって、許されるなんて思えないよ、俺は。そんなことは」
そう、そんなことは間違っても言えない。どれだけ正しい行いだったとしても、それだけは認めてはならない。『淑女』を下したことは正しかったけれど、目の前の彼女が伝えたかった言葉がもう届かないことも事実だ。
いつか交わされるかもしれなかった会話を、正しかったという理由で無かったことにはできない。とうの昔に、それを背負って生きると決めた。
だから、そう。オデットの友人でいられれば俺はそれだけで幸福なはずで──
「ええ、許されないと思うなら勝手になさってください」
「え?」
「あなたがそのつもりなら、私もあなたを許すつもりはありませんので」
「それは、どういう──」
息が止まる。目の前に瞼を閉じた彼女の顔がある。唇に淡い体温。触れられた、と認識したのは彼女が頬を紅潮させてこちらを見つめてきてからだった。
「傷は耐えるものではなくて。痛みは訴えるものだと。あなたは、そう言いましたわね」
柔い糸を張り詰めたような心許ない声。諦めたように口元を隠して、眉根をそっと寄せる。今にも泣きだしそうな表情に、きゅっと心臓が煩くなる。
「……あなたの隣でなら。私は、痛いと言えますわ」
その言葉の真意を知らないふりができるほど、朴念仁ではない。
ふっと力を抜いた彼女の細い腕をすぐさまつかんで、座り込んだ背中ごと彼女を抱える。
離れるなんてない。友達をずっと続ける。君のバレエをいつまでも見ている。大切な友達の一人として……ああ、ダメだ。
嘘を吐きたくない。
これ以上の言い回しが思いつかない。曖昧なまま、彼女の心に気づかないふりをしたくない。
「俺だって痛かった」
「──なにを」
「オデットと連絡がつかないのが不安だった。ひどい怪我だったらどうしようって。雪山をずっと走り回って」
ずっと、彼女のバレエが好きだった。
前を向き続ける意志の強さが好きだった。
「でも俺はたぶん、やっぱり自分のことを許せない。オデットにはどこかで罪悪感がついて回ると思う」
「……構いません。あなたがそう思うなら、私だって背負うだけの話です」
「そんなことさせたいわけじゃ──」
「……ヴォジャニーツァの言う通りですわね」
「なにが」
「いえ、ひどく鈍いと思いまして」
仕方がない人、と呆れたように言葉が漏れ出る。
ヴォジャニーツァを二人で嗜めるときの声のトーンが好きだった。
「あなたもまた、痛いと言えばいいのです」
「俺も?」
「あなたがおっしゃったのでしょう」
軽く諌めるような口調。眉尻を下げて、困ったようにこちらを見る。
こちらにはにかんでくる双眸の眩しさが好きだった。
「言ってもいいのかな」
「……ええ。私に」
頬に手が添えられる。さっきよりも暖かい、しなやかな指先に髪を梳かれる感覚。
そっと触れ合うときの仄かな熱が好きだった。
「────」
「────」
潜めるような会話。静かすぎる洞窟で、二人きりの囁きのよう。額をこつんと合わせて、一呼吸。長いアイラインがわずかに弧を描いて、口元がしずかに柔らかくなる。ヴォジャニーツァに無理に笑わせられた時より、ずっと良い。無防備な目元を指先でなぞると、ゆっくりと目を細めた。
離れようとすると、控えめに袖を掴まれた。まだここにいて、なんて言われた気がして無条件に口角が上がる。耳元で名前を告げて、今度はこちらから口を塞ぐ。動かない足の膝裏を抱えて、無理のない体勢に。導かれるようにこちらの背中に腕を回される感覚に、ひとつ、思う。
願わくば、どうか──彼女が駆け抜けるその隣で。痛いときに痛いと、そう言える宛先であれますように。