1-1.
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桜の花びらはすっかり舞い散り、新緑が芽吹き始めている。日中は汗ばむ日もあるほどの陽気になり、医局でも薄手の白衣を着る者が増えてきた。開け放たれた医局の窓から、爽やかな朝の風がそっと吹き込んでいる。 やわらかな空気の中、この春入職した研修医たちが窓辺で談笑をしている。彼らの若く初々しい笑い声は、医局の空気をより和ませていた。 しかしそんな束の間の穏やかな時間は、コツ、コツと廊下から響く乾いた足音により突如終わりを告げることになる。 察した研修医たちは、一様に肩を引き上げて顔をこわばらせた。それにつられたかのように、まわりも皆一様に口を噤む。 医局の一番奥に席を構える副部長、卯月 誉が、突然張り詰めた空気に違和感を覚えふと顔を上げた、その瞬間。 ガラリと引き戸が開き、ひんやりとした気配が医局に滑り込んだ。 一拍おいて、青年が姿を現す。銀糸のような白髪と、透けるような白い肌。華奢なその体躯は儚げで、どこか現実味を欠いていた。 彼はまず医局内を一瞥し、すっと目を細めた。赤いセルフレー厶の奥で、ルビーの様に赤い瞳が凛と光る。また、同じタイミングで、右の上腕をぐっと強く握った。その様子に、研修医たちが、ピンと背を張る。他の職員も皆強張った表情で彼の挙動に視線を注ぎ始めた。 医局の空気が限界まで張り詰めたその瞬間、誉は穏やかに白き麗人に声を掛けた。「おはよう、櫂先生」 櫂は、一瞬、目線だけを誉へと向けたものの、すぐに逸らしてしまう。わずかに唇が動いたが、発言には至らない。代わりに上腕をさらに強く握りしめて軽く会釈を返し、静かに医局へ踏み入った。誉は苦笑いをしながら、まっすぐ自席へと向かう櫂を目で追う。 その間、一人のナースが櫂の席側の窓を閉め、ブラインドを落とした。更に別の職員が、右から左に人差し指を振ってみせる。それを見た彼女は、慌てて遮光カーテンも閉じた。 同じタイミングで櫂が着席する。抱えていた症例ファイルと小ぶりなタブレットの端を正確に揃えてからトンと机に置き、顔を上げた。すると、誉と櫂の目が合った。櫂はそれに三秒だけ付き合ってから、視線を落とした。 白い左手が右腕に伸びかけた、その瞬間。「如月先生」彼は、研修医からかけられた声をきっかけに、症例ファイルからレポートを三枚抜き出す。そして椅子を九十度だけ回して、研修医たちにそれらを突き出した。彼らは顔すら向けてくれない指導者の態度に困惑したまま、おずおずと手を伸ばして紙面を受け取る。受け渡しが終わるや否や、櫂は椅子の向きを元の方へと戻した。 研修医たちが返却されたレポートを覗き込む。そこには、三者一様にぎっしりと付箋が貼られていた。一方で、個性的な赤文字で記された言葉たちは、可愛らしいうさぎ柄の付箋とは裏腹に辛辣だった。 研修医が一通り目を通したタイミングで、ようやく櫂が口を開く。「まず一番左の方。画像所見は正確ですが、考察からこの結論に至る過程が見えません。症例との対応も薄く、文献から記述をそのまま当てはめただけに見えます。この結論には、何の意味もありません。次、患者さまの生活歴を詳しく書いていますが、それらを根拠にした判断が一つもありません。集められた情報の大半は症例に無関係です。判断に寄与しない情報の記載は不要です。 最後、"可能性"と言う言葉が多すぎます。七回。異常です。問診への回答が曖昧で、症状との関連付けが困難だった点は認めますが、貴方なりの初見を示す癖をつけてください」櫂は平坦な声ですべてを一気に話し終えると、押し黙る。俄に医局が気まずい沈黙に包まれた。 すると突然、櫂がふっと息を吐いた。ため息にも聞こえたが、不自然に深い。しかも彼は、一呼吸ごと前かがみになっていく。最後には、右の上腕を握る指先にかなりの力が籠もり始めたので、一連を見守っていた誉が思わず腰を浮かせる。 次の瞬間、櫂は唐突に立ち上がった。そして取るものも取らず歩き出す。まるでその背に向けられる視線の刃を振り切るかのように、そのままカンファレンスルームへと滑り込む。直後、バタンと大きな音を立ててドアが閉まった。 その音を合図に、医局に張り詰めていた緊張の糸が、一気に解ける。「やば……」どこからともなく、そんな声がした。それを契機に、職員たちがヒソヒソと話し出す。「今日の櫂先生、機嫌悪すぎ」「そう?いつもあんなもんじゃない?」「研修医くんたちかわいそ。見てよ、あの子。もう泣きそうじゃん」「マジ正論パワハラ」「あの人がそれやっちゃダメよね」「誰か、新人ちゃんたち、慰めてあげたほうが良くない?」「えー、でも如月先生にバレて目ぇつけられたら怖いしゃん。だってほら、先生ってさ……」 その時、誉が大げさな音を立てて椅子を引いて立ち上がった。それに気づいた職員の視線が、一気に誉に集まる。 しかし彼は何も言わず、腕時計をチェックする素振りをした。それから万年筆を白衣の胸ポケットに挿すと、使い込んだ黒革の手帳を小脇に抱えて、ごくごく自然に歩き出す。最初の行き先は、突然指導者を失い酷く動揺し、困惑した様子の新人たちの元だ。 「大丈夫だよ」 誉はまず、穏やかに声をかけた。研修医たちの肩からストンと力が抜ける。それを尻目に、その視線はカイのデスクへと移っていた。置き去りにされたタブレットに気が付くと、カバーに描かれたウサギのキャラクターを指でなぞる。そしてふっと息を漏らし、口元だけをわずかに緩めた。 誉は櫂の小さなタブレットを手に取りながら、再び研修医たちに向き直った。そして何も言わずに、掌を差し出す。察した皆が次々にレポートをその手に乗せた。約十秒で三枚すべてを確認した誉は、穏やかな口調を崩さぬまま続けた。「うん。かなり緻密且つ、網羅的なフィードバックだね。読めさえすればあの子の意図は理解できるつくりだけど……。言葉選びが専門的過ぎて、君たちにはまだ難しいところがあるかもしれない。もし困るようなら、僕に尋ねてくれて構わないよ、遠慮はいらないからね」そうして誉は、研修医たちに紙面を1枚ずつ手渡す。途中、ふと触れた付箋の1枚を改めてまじまじと見つめ直した後、人差し指の腹でタブレットカバーと同じうさぎを撫でながら、「かわいいね」と言って、微笑んだ。 副部長である誉の優しいフォローに、研修医達の表情が一気に緩んだ。誉はそれを見て頷くと、カンファレンスルームへと歩を進めるそして、ヒラヒラと櫂のタブレットを振りながら、「時間になったら、おいで」と言い残し、ドアの向こうへと消えていった。「はあ……誉センセ、神がかった優しさ、お見事」また誰かがそう呟く。職員たちのヒソヒソ話が、再び花を咲かせ始めた。「如月先生との差よ。器の違いってやつ」「そりゃそうよ。あのお年で海外フェロー終えて副部長よ?」「帰任後、即昇進だもんね〜。普通、1年は置くよね。初めて聞いた」「出世コース爆進中かぁ。でもあの人間力なら納得」「あれは完全に如月先生もフォローしに行ったね」「だね、先生ちょっと様子がおかしかったもんね」「まーた調子が悪いんじゃないの。この前1週間も欠勤したばっかなのに」「持病があって、かなり調子悪いって噂だよ。彼、全体的に医局向きじゃないよね」「そう言えば、知ってる?あの二人って、記念病院時代、界隈で若手ツートップって言われてたらしいよ」「え、マジ?」「マジマジ。この前、向こうとの飲み会で聞いた。ねえ、加藤先生」「ん?ああ、確かに2年くらい前までは共著の論文が多かった印象だね。……あれ、そういえば佐々木先生は櫂先生と同期だったよね」「ええ、そうですよ」「思い出した。研修医で来た時、真っ先に"白ウサギと黒ワンコ"ってあだ名つけられてたよな。懐かしい」「加藤先生、やめてくださいよ。……まったく。黒歴史です」「如月先生の研修医時代……想像がつかない」「昔から、あんなだったんですか?」「うーん、どうだったかな。あ、でも副部長はよく様子見に来てたなあ」「様子見?わざわざ?」「そうそう。大学の後輩なんだってさ。俺たちもおこぼれに預かって、誉先生が一緒にレポート見てくれてさ。あれはありがたかったなあ。配属後も、櫂先生はいつも誉先生の後ろをちょこまか歩いててさ」「ちょこまか……?」「ツートップなんて大それた感じじゃなくて。……そうだな、むしろ兄弟?親子?……ま、とにかく櫂先生は可愛かったよ」「可愛い?!あの人が?!ありえない!!」「その割には如月先生、誉先生にも冷たくない?今日もまともに挨拶返してなかったし。なんかあったのかなあ」「誉先生が海外フェローで箔つけて、先に偉くなったのが気に入らないんじゃないの?」佐々木は小さく首を振る。「あいつは、そういうやつじゃないよ」「そうよ。そもそも如月先生は他人の昇進なんて興味ないでしょ。だって彼は……」 そこまで話が進んだところで、「ほら、みんな、話は終わり。時間だ」加藤と呼ばれた医師が声をかけ立ち上がる。「あー、あの人のせいで空気最悪。めんどくさ」「誉先生が何とかしてるでしょ、行こ」 午前9時。カンファレンス会議の開始時刻だ。一同は緊張した面持ちでカンファレンスルームへと向かい始める。