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――圧が、凄い。 左に院長、右に副部長……と、なぜかその膝に普通に乗っている同期。「いや、誰かツッコめ」と思ったが、肝心な時に山川は役に立たなかった。 げっそりと肩を落とす佐々木に対し、櫂の機嫌はすこぶる良い。大好きな人から婚姻届に署名をもらうという人生の最難関ミッションをやり遂げたのだから、当然だ。「……それで?櫂は"結弦くん"から何を吹き込まれたんだ?」兄の問いに対し、櫂は誉の胸に頬を引っ付けるタイプの抱っこスタイルで答える。ちなみにその口ぶりはいつも通り感情が乗らぬ淡々としたものだった。 「はい。結弦くんからご教授頂いたのは、3点です。1.長期に渡る交際は関係の惰性化を招き、不意の別離を誘発しやすくなるため、早めに"ケジメ"をつけるべきである。2.婚姻届を取得し、"男らしく"恋人に差し出して相手の署名捺印を取得、役所に提出・受理されることでケジメ=婚姻が成立する。尚、婚姻届は各自治体の戸籍課窓口で取得可能。3.婚姻が成立すれば、生涯に渡り、戸籍上同一の家族として登録され、共同生活を営む権利が社会的に保障される」「……1から2の飛躍がすごいな」「色んなものをすっ飛ばしてるね」「……え、先輩の結婚感ヤバくないスか?」「山川、てめぇ。もっとツッコむところあっただろ……」 困惑する一同を尻目に、櫂の論弁は止まらない。「交際が長期化した場合、関係が曖昧なまま終了する確率が上昇することは、統計的にも一般的な傾向です。例えば、この度、結弦くんが交際10年の恋人との関係が終了したのもこのパターンに当てはまります」「おいやめろ」「え、先輩、あの彼女さんと別れたんスか?!」「なるほど。それはお気の毒だったね」「よし、知人の教授の娘を紹介してやろう。 今すぐにでも結婚させたいと聞いている」 「院長、いきなり重たい見合い話持ってくるのやめてください。地雷臭が凄すぎる」「……私は当初より、本日、誉先生の署名をもって婚姻を成立させる計画でした。それに……その、先程のカンファで……誉先生も『私が必要だ』と明言してくださいました……。これは関係継続の意思表示と解釈できます。嬉しい誤算でした」「そこ、照れんな。ほっぺ真っ赤だぞ、腹立つな〜」「だからそれは研究と解析の話な」「その通りだよ、カイ。いつだって俺には君が必要なんだ……最早、君なしの人生なんて考えられない」「卯月くん、君は本当にさっきから何を言ってるんだ」「あ、部長、いたんスね」「続けても?」「……どうぞ」「かしこまりました。……結論、私たちの関係を本件に当てはめて考えた場合、婚姻という契約を結ぶことで関係を正式化させ、社会的に固定する選択は非常に合理性が高く、最適解です」「おい、契約って言い切ったぞ」「雲行きが怪しくなってきたな」 ここで櫂は、左胸をそっと押さえながら視線を落とした。白く長いまつげが揺れ、声のトーンが一段落ちる。「……しかし、大きな課題が一つあります。それは、同性間では、公的にこの契約が受理されないという点です」「あたかも懸念点として前から知ってたような口ぶりだな」「でも如月先生、これだけはどうにもならないっスよ!法律でそう決まっているッス!」そして櫂は、スッと顔を上げた。それからまっすぐな目で兄の方を見つめた後、確認するように問う。 「兄さん、どうにかなりませんか?」 一同が椅子から崩れ落ちる中、航は腕を組み、目を閉じた。皆が緊張した面持ちで、リーダーの発言を待つ。 そして3秒ほどの沈黙の後、航が重い口を開いた。「……改憲となると、まずは出馬。それから結党、政権交代が必要だな。我が国の与党は、ことマイノリティ政策に関しては保守的過ぎる」「あ、この人どうにかする気満々スね」「出た、弟のおねだり絶対かなえるタイプの兄」「てか、本当に先輩が入れ知恵したんスか?」「……入れ知恵というと語弊はあるが、言った事は言った。櫂、今月はじめの同期会の時の話だよな」「はい、そうです」 佐々木は怠そうに首の後ろを掻きながら、はあ、と深く息を吐いた。それから、無駄に圧をかけてくる櫂の保護者2人に向かって続ける。「結婚を考えていた彼女と別れた直後だったもので。こんなことになるなら、さっさと男らしくケジメをつけるべきだったと話をしたのは事実です。珍しく"櫂くん"がやけに食いついてくると思ったら、年上の恋人との関係に悩んでいる……なんて言うもんですから、そりゃぁ盛り上がりましてね」「……なるほど。まあ、会食の話題としてはありがちだな」「でしょう?純粋な弟君を、皆で面白半分に捲し立てたのは申し訳なかったですが……まあ、でも。皆悪気もなかったんですよ。むしろ、櫂くんにちゃんとヒト科の恋人が存在していて、しかもその人との未来を本気で考えていたことに、本当に驚いたんです。これは同期一丸となって協力・応援しなければならんとなったわけです。まさかその恋人が副部長だとは露ほども思いませんでしたが……」「まあ、普通そうッスよね……」「だよなぁ」 佐々木の弁はまさに言い得て妙。航も腕組みをしながら頷くしかない。本件について、佐々木は完全に貰い事故である。皆の同情が集まったところで、ついに誉が口を開いた。カイに言い聞かせるように、優しく告げる。 「現時点、同性で婚姻届を出すのは難しいけど……。公的な婚姻に相当する関係の証明であれば、パートナーシップ制度というものがある。法的効力は確かにないけど、今俺たちに出来ることとしては、最善だね」「そうなんですか!申請しましょう!」「いいよ、この後すぐ行こうか」「いや待て、マジで待て」 そんな甘い2人の囁き合いに航が割って入った。「善は急げと言うじゃないか。……さすがに改憲まで待てないよ」「ちげーよ。それって、同性間においては、実質婚姻届だろ。やっぱ結婚するってことだよな」「そうだよ。さっきからずっとそう言ってるじゃないか」「絶対に駄目だ、認めるわけにはいかない」航がハッキリと断言する。 ――当たり前だ。流石に今日の今日で認められるはずがない。院長の常識的な対応に、皆がホッと胸を撫で下ろす。しかしカイは兄の反応が気に入らない。誉の白衣をぎゅっと掴みながら、頬を膨らませて悪態をついた。 「……兄さんのいじわる」「俺の意地悪で済むなら、まだどれだけ良いか。交際は本人同士の問題だが、結婚となると"家"が絡む。お前はうちがどれだけ面倒な"家"か身に染みて分かっているだろう」「はい。ですから、事後承諾が最も合理的かと」「バカタレ。結婚は、お前が思っているほど簡単じゃないんだ」 航はため息をつきながら、櫂から引き取った婚姻届を丁寧に手持ちのファイルに挟んだ。そして、椅子から立ち上がりながら続ける。「今日のところは、この話は終いだ。本件は、一旦私が預かる。いいか。俺が許可するまで、お前たちは絶対に何もするな」 そして皆の方を順番に見ながら続けた。「愚弟が引き起こした騒動に巻き込んでしまい、申し訳なかった。大変心苦しいが、本件については他言無用で頼む――」「あ」その瞬間、山川が気の抜けた声を上げた。「……どうした?」佐々木が問うと、山川はパソコンから顔を上げて泣きそうな顔をして答えた。「すみません〜。今、議事録に書いて送っちゃいました〜」「……何だって!?」 佐々木が慌てて確認する。「まずは……術後カンファの内容だな。 ここは問題ない、よく書けてる」「あざーっす」「……で?あ、は?……は???」「どうした?」突然大きく動揺した佐々木の様子が気になって、航も首を伸ばしてパソコン画面を確認する。そしてすぐにサーッと青くなった。更に、後ろから加藤が議事録を読み上げる。「なお、カンファレンス終盤において、如月(櫂)医師より卯月副部長に対し、婚姻届が提示される事案が発生した」そして震える声の佐々木が続き……。「当該書類には如月医師の記名が既になされており、卯月副部長はその場で署名・捺印を行ったことが確認された、……だぁ?!馬鹿野郎、なんでここまで書いた!カンファの内容だけ書けばいいんだよ!」「え!?だって院長が今、『終わり』って……」「確かに流れ解散ぽくはあったが、術後カンファの方はとっくに終わってただろ!空気読め!」「ひえ〜、そうだったんスか〜?!すみません〜」「すみませんで済むか!おい、これ送付先どこだ?」答えたのは、本件の震源地である櫂だ。「通常であれば、カンファ出席者、各診療科管理者、医局議事録管理用共通フォルダ管理者。本日は院長決裁になりますから、加えて理事会事務局ですね」「……ッス!」「送ったのかよ!」「ウス!」「ウス、じゃねーよ!取り消せ、今すぐ取り消せ!」するとその時、カンファレンスルームのドアを叩く音が響いた。珍しいほど動揺した航が、ビクリと肩を震わせその方を向く。『すみません!皆さんいらっしゃいますか!?』『入室しても?!』同時に、ドアの向こうから、大量の足音が聞こえ始める。 「あー、手遅れだ、これ」佐々木が頭を抱えながら肩を落とす。「え、どうします?……って、院長?」 すると航がスッと顔を上げて胸を張った。更にその表情は、今まで見せたことがない程真剣なものだった。一方で、どこか感情が抜け落ちたその面持ちは、まさに櫂と瓜二つだ。 航は無言のまま誉の横を抜け、落ち着いた足取りで出口へと向かう。ドアの前まで来ると、ノブを力強く握った。 そして振り返ることなく、一段低い声で言い放つ。「誉。……腹、括るぞ」「……了解、航」 誉がはっきりとそう返して頷くと、航はわずかに口の端を引き上げた。そして再び前を向いて一度だけ深呼吸をして、そのままドアを開く。「どうした。騒がしいな」「院長、今の議事録……」「あぁ、事実だ。本件は既に私が引き取っている、以降は私に――」 バタン、とドアが閉じると同時に、足音とざわつきが遠ざかっていった。誉は、不安げに見上げてくるカイの背を撫でて、「俺たちも、行こうか」と、優しく促した。そしてもう一度、航が切り開いたドアの向こうを見据える。 誉の瞳には、強い決意が滲んでいた。しかし一方で、その表情はどこか晴れやかでもあった。