1-15.
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カイが小さなくしゃみをしたのをきっかけに、二人はダイニングに向かった。「いけない、寒かったね」「ん……」誉がくれたティッシュで鼻を拭いつつ、後をついて中に入ろうとしたら、急に立ち止まったのでその大きな背中にぶつかってしまった。 「ちょっと待ってね……」「……?」 誉はそう言うと、慌てた様子でダイニングテーブルの上をガサゴソと片付け始めた。 ――あれ?カイもその異変にすぐに気がついた。こぢんまりとしたダイニングセットの配置は2年前と何も変わっていないが、問題はそのテーブルの上である。お菓子の袋が3つ、開きっぱなしの雑誌が2つ、それに山みたいに積み上げられたチラシや葉書、等々。コーヒーカップに至っては4個。でも、カップの柄はバラバラで、誰かと飲んだ感じではない。都度新しいものを出して、飲み終えたものを放置して……を繰り返した結果のように見て取れた。 誉はそれらを手際よく対面キッチンの向こうに片付けると、次にリビングへと向かった。カイも自然とその後に続く。 ――カイにとって、誉はいつだって完璧だった。仕事はもちろんのこと、家事も万全。だから、彼がこんな風に手を抜く事があるという事自体が、大きな驚きだった。 誉は、リビングでカーテンレールから下げたままになっているハンガーを取り、ソファーにかけられたワイシャツを拾う。そこには、まさに抜け殻のように真ん中が空洞状態の毛布が一つ置き去りになっていた。また、その横には雑に置かれたクッション。枕代りにしていた事は、想像に難くない。 ふと見ると、カフェテーブルとソファーの間にバスタオルが一つ落ちている。カイがそれを拾ったタイミングで、荷物を抱えたまま誉が振り返った。目が合うと罰が悪そうに頭を掻いて、視線を泳がせた。 「いや、これは、ちょっとね」そして、聞いてもいないのに顔ごと横を向いて言い訳をし始める。――何か都合が悪いことがある時の、誉の癖だ。「……」誉は続けて何か言おうとして、口を開いた。が、すぐにそれをやめてカイに向き直る。そして、「……一人でいると、全然やる気が出なくってさ。……幻滅した?」と、小さな声で尋ねた。カイは思わず吹き出して、即答する。「全然!」 むしろ、もっと好きになってしまった。また一つ、自分しか知らないであろう誉の一面がわかって、とても嬉しかった。 ベッドルームは更に酷かった。いや、散らかっていたわけではない。むしろ整いすぎていた。つまり、使った形跡が全く無かったのだ。「ずっとソファーで寝てたの?」シーツすら敷かれていないベッドに毛布を置きながら、思わずカイが問う。「……うん、まあ、そうなるね」誉は歯切れ悪くそう返して、クローゼットを開く。 カイはそんな誉を背中からぎゅっと抱く。「結婚したら、一人の身体じゃないから大切にしないといけないんだよ」すると誉はクスリと笑って、「……俺が自分を大切にするためにも、カイには一緒に居てもらわないといけないな」と返した。 誉は枕カバーを取り出して、カイに手渡す。この調子だと、これも2年間入れっぱなしかと思ったが、どうやら違うらしい。柔らかくていい匂いがする。自分のことは適当なくせにと毒づきながらも、嬉しさは拭えない。 枕カバーを付けるのはカイの役目だった。二つ分の枕にそれをつけたタイミングで、布団カバーをつけ終えた誉がシーツを持って戻ってきた。手に持つそれを見て、カイは思わず言う。「……それじゃないのがいい」「あれ?これ好きじゃなかった?」渡米前、カイがかなり気に入っていたものだったので、誉は首をかしげる。するとカイはピョコとベッドから降り、すぐに違うシーツを持ってきて誉に差し出す。そして、「それ、好きなやつだから……こっち。すぐ変えちゃうことになるかもしれな………………」と、そこまで言ってはたと口を噤んだ。 その頬が一気に紅潮していく。それから目を泳がせて、一拍置いて俯いた。シーツを掴む指に力がこもり、プルプルと震えているのを見て、誉はようやく合点がいった。「もしかして、期待……」「もう、オレが期待してるみたいになっちゃったじゃん!ちがう、ちがうの!そうじゃないから!」大きな声で否定するカイが可愛くて、思わず誉は笑ってしまった。その顔が見たくて、誉はその場に跪いたが、ふいっと逸らされてしまう。頬に触れると、熱をもって温かい。すりすりと両方の頬を撫で、力が抜けたタイミングで自分のほうを向かせる。見上げる様に改めてその顔を覗き込み、「……違うの?期待しちゃ、だめ?」そう誉が問うと、カイは真っ赤な顔で下唇を噛んで「………………だめじゃないし……」 と、小さな声で返してくれた。 次の瞬間、誉はカイを引き寄せてそのまま唇を奪った。これまでとは違う、一段深いキスだ。カイは思わずぎゅっと目を閉じる。足が震えたタイミングで、優しくベッドに押し倒された。 誉のキスが止まらない。啄むように何度も唇を吸われたかと思うと、深く入り込んでくる。カイはそんな誉のシャツをギュッと掴みながら懸命に受け入れた。 誉は唇から頬、鼻の頭に優しく唇を落として、最後は白く細い首筋を吸った。ちゅ、ちゅ、と音を立てて少しずつ下に下がっていく。背筋がゾクゾクするのを感じながら、カイは目を閉じてその背に手を回した。次に鎖骨のあたりを吸われる――と、思ったところで誉の動きが急に止まった。 次いで聞こえる、深いため息。カイがうっすら瞳を開くと、誉が自分の薄い胸に頬ずりをしているのが見えた。「――危ね」誉はそう低く言うと、顔を上げた。ぺろりと自身の唇の右端を舐めた後、前髪をかき上げて絞り出すような声で言う。「我慢できなくなるところだった」「……しなくてよかったのに」カイが拗ねたように言うと、誉は目を丸くし、「そうやって人を煽るようなことばっかり言って」と、苦笑いしながらその鼻を軽くつつく。そのままカイの唇を撫で、優しく言った。「だめ。まだ、おあずけ。――お互いにね」次にギュッと抱きしめられた。その身体がいつもよりずっと熱いことに気がついて、カイは急に気恥ずかしくなった。"まだ"、ということは"その時"がいずれ来るというわけで――。ごくん、と生唾を飲み込んだ所で、誉はカイを離して起こしてくれた。そして、「よし。そうと決まればさっさと全部終わらせよう!あ、シーツは適当でいいよね。すぐ代えることになるかもしれないし!」なんていきなり情緒のないことを言い始めるので、カイは思わず笑ってしまった。誉もまた、そんなカイを見て微笑んだ。 ――ワイシャツに、エプロン。捲った袖から覗く筋肉質な腕。フライパンを振るうと、その筋が一瞬浮き上がる。 ――かっこいいなあ……。ダイニングに腰を下ろしながら、パンケーキを焼く誉の姿をカイはうっとりと見つめていた。すぐに香る甘く香ばしい、いい匂い。先程まで何となく無機質だったキッチンに火が灯ると、何だか生き返った感じがする。 誉は慣れた手つきでパンケーキをフライパンから皿に移して、カウンターに載せた。それをテーブルに運ぶのは、カイの役割だ。 「カイくーん、テーブルはこっちですよ」「今日はあっち」「今日も、でしょ」ダイニングをスルーしてリビングの方に食事を運ぶカイに苦笑いをしつつも、それ以上は何も言わない誉だ。 手を拭いてカイの後を追うと、ソファーと壁の間に畳んでおいた小さな簡易テーブルをカフェテーブルの横に開いて置いた。パンケーキとオムレツは、大きな皿にひとまとめで載せられている。カフェテーブルは小さすぎて、1人ずつ盛ると載せきれないのだ。つまり、カイがこちらで食べたがるのは誉の想定内だったというわけだ。 予備のテーブルにカトラリーとスープを置いておくと、カイがそれをせっせとカフェテーブルに並べる。 その時ふと、カイはテーブルの上に置いてあった小ぶりのウサギのぬいぐるみに気がついた。続けてダイニングテーブルを見て、誉を見て、ふっと笑む。そして一度下がって、ソファーに座った。さっきの抜け殻毛布と、枕代わりのクッションがあった場所だ。そこから、バッチリそのウサギが視界に入ったので、カイはまたフフっと笑った。 それは、誉が渡米した時に、兄のマンションに来るように命じられたときのこと。最後にここを出る直前、カイがダイニングテーブルに置いてきたものだった。 誉の家から自分のものが一つも無くなってしまうのがどうしてもつらくて、悲しくて、こっそり置いて行ったのだ。 ――誉のおうち、守ってね。そう言い残して、扉を閉めたあの切ない気持ちを、カイは昨日のことのように覚えている。「ちゃんとおうちを、……誉を、守っててくれたんだね」カイはそう言うとウサギを抱き上げて、お耳にキスをした。それから、ソファーに座らせているいつものウサギの横に並べてやった。心なしか、2匹とも喜んでいるように見えた。 一方、誉はカイが大好きなイチゴと取り皿を取りに、キッチンに戻っていた。先日たまたまスーパーで見かけて、カイに食べさせられる予定も無いのに、ついつい買ってしまったものだった。もう一度リビングに赴くと、目ざとくイチゴを見つけたカイが、目を輝かせながら手を伸ばしてくる「イチゴだ!」「だーめ、デザート」誉がそれを避けながら制する。しかしカイは、引き下がらない。大きな瞳で誉を見上げながら、 「一個だけ、一個だけ、ね。だめ?」と、可愛くおねだり攻撃をしてくる。「……」誉は眉を寄せて目を閉じた――が、結局、「はあ……。俺がその顔に弱いの知っててやってるよね?……わかったよ。一つだけだよ」 と、あっさり折れてイチゴの皿を差し出した。「真ん中のが甘いと思うな」指を彷徨わせるカイにそう言って一つ取らせると、サブテーブルにそれらを置いて、ソファーの前に足を滑り込ませた。 カイは笑顔でイチゴを頬張りながら、お尻半分だけ前に出る。その隙間に誉が収まると、今度は背中を寄せてきて、ベストポジションを探し当て、全体重を預けてきた。誉はカイの後ろから器用にカイ用のコップにお茶を汲み、自分には缶ビールを開けた。 イチゴを食べ終えたカイが、「あ、ずるい」と言いながら頬を膨らませる。誉はそれを撫でながら、「今日は飲んでも許されるでしょ」と返して、一気に煽った。「ひとくち」「……って、君、ビール嫌いでしょ」そして、そう言いながらカイの手前に缶を置いて、慣れた手つきで取り皿に食事を取り分ける。目の前にそれを置いてもらうと、カイはフォークを手に取ってすぐにパンケーキにパクンと食いついた。そしてほっぺたを押さえながら、「おいしい!」そう言って、食べ進めていく。普段、カイは偏食な上に食が細く、食べさせるのに苦労することが多い。 「誉のごはんが、一番すき」「おや。最高の褒め言葉を頂いてしまったな。……嬉しいよ、ありがとう」だからこんな風に食べてくれることが、そう言ってくれることが、誉は何よりも嬉しかった。 自分が食べるついでに口元にオムレツを運んでやると、何の警戒もなくパクンと食べる。それを横目で見ながら、嚥下するタイミングで膨らむそのお腹をただ撫でてやっていた。 これ以上ないくらい、幸せだった。