LNCrawler

2-1.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

2-1.

誉がスムージーミキサーを片手にダイニングに戻ってきた。「……洗面所で回すの、久しぶりだな」小さく笑みを浮かべながらそう呟いて、テーブルの上にミキサーをそっと置く。蓋を開けると、イチゴとヨーグルトの甘酸っぱい香りが広がった。 それをカイお気に入りのグラスカップに半分ほど注ぐと、長めの平皿に残りのイチゴとバナナ、それからチョコチップクッキーを並べた。ちなみにクッキーは、焼きたてだ。ナッツとチョコレートがたっぷり入った誉お手製のクッキーは、昔からカイの大好物だった。 こんな風に朝食の用意をしたのはフェロー前以来だ。我ながら、昨日まで朝夜共にコンビニで買った菓子をつまんで終わらせていた人間とは思えない。誉は自嘲しながらコーヒーカップに手を伸ばした。 次に寝室がまだ静かなことを確認し、瀬戸が用意したお泊りセットに含まれていたポーチを開く。中には、几帳面に仕分けされたピルケースが3つ入っていた。曜日ごと、時間帯ごと、更に常用薬と定期薬に分けられている。 昨夜はスピード重視で常用薬しか見ていなかったため、誉はそれらを改めて指先で一つずつ確認する。喘息絡みの常用薬と睡眠導入剤は馴染み深いものだが、2つだけ気になる薬が入っていた。――抗不安薬と、抗うつ薬である。 少なくとも2年前、誉と住んでいる時は飲んでいなかったものだ。瀬戸の手紙を確認すると、定期薬として処方されている旨記載があった。 誉は、"気がついたら病院にいた"と語った昨夜のカイを思い出し、複雑な表情をしたまま小さく息を吐く。 ふと時計を見ると、そろそろカイを起こす時間だ。誉は朝服用させる薬だけを取り出して胸ポケットに入れ、他はキッチンの目につかないところに置いた。そして、その足で寝室へと向かう。 寝室は、まだ静けさに包まれていた。時折、カイの静かな寝息が響く。それを微笑ましく思いながら、誉はベッドを通り抜け、遮光カーテンを数センチだけ開く。すると、細い朝の光が筋のようにフローリングに落ちた。 ベッドの中で丸くなりながら眠るカイは、わずかに眉を寄せたものの、まだ起きる気配はない。誉はベッドの端に腰を下ろして、そっと布団を捲る。起き抜けに、自分のかわりに置いておいたウサギのぬいぐるみをしっかり抱き込んでいる。とても可愛らしく、自然と笑みが溢れた。いつまでも見ていたい気持ちを抑えつつ、穏やかに声をかける。「……カイ、朝だよ」  ――返事はなかったものの、またカイの眉が少しだけ寄り、小さなお口がむにゃむにゃと動いた。背を撫でてやりたいが、誉は敢えて堪えて様子を見守る。するとカイの指先がピクッと動いて、手を伸ばした。 何かを探すように彷徨うその白い手のひらを人差し指でツンとつつく。「……ん」すると、やっとかすれた声が返ってきた。それから手探りで誉の指を探し出すと、きゅっと握って引き寄せる。そこで初めて誉はカイに確認した。「――ナデナデしても、大丈夫?」カイは目を閉じたまま頷いて、布団から手を出し広げてみせた。カイ的には、「さぁ、好きなだけ触るがよい。何なら抱きしめてくれても可」という合図だった。 誉は微笑みを絶やさぬまま、カイの頬にそっと触れた。するとカイはスリスリと頬を擦り付けてくる。まるで子ウサギの様だ。――真っ白で、小ちゃくて、とびきり可愛い。 誉は撫でる手を頬から顎へ、顎から首筋へと降ろしていった。首の付け根を撫でるふりをしながら、そっと脈を取る。――異常はなさそうだ。  次に前かがみになって、カイの額に自分のそれを押し当てた。するとカイが顎を上げて、キスを強請ってくる。誉はそれに応じながら、先ほどと同じように「熱なし」と心の中で呟いた。 カイの小さな舌が誘うようにチロチロと誉の唇をなぞる。「……カイくん?」カイは目も開けず何も言わず、ただ誉の頬に手を伸ばして離れるのを阻止するように引き寄せる。誉は苦笑いをしながらも、ご要望にお応えすることにした。「ん……」カイが、吐息の合間をぬって気持ちよさそうにそう小さな声を漏らす。誉の舌を、ちゅっちゅと吸うのがずいぶん気に入ったようだ。まるで授乳だなと思いながら、誉はそんなカイの頭を優しく撫でた。 ようやく気が済んだのか、はたまた苦しくなったのか。カイはようやく誉を離すと、赤い瞳をゆっくり開いた。ふあ、と大きなあくびを一つして、誉を見上げる。 誉が体を起こして膝に乗るように促すと、這って寄ってきた。膝に半分乗った所で誉が引き上げると、むにゃむにゃしながらその胸にぴたっと頬をくっつけて、また眠たげに瞳を閉じた。 誉は落とさないように抱き直しながら、サイドテーブルに用意しておいた吸引薬を手に取る。カイの口元にマスクを当てて、背中をトントンと撫でて合図をした。カイは一瞬だけ半分ほど目を開き、薬を見て眉を寄せたが、大人しく口を開けた。 誉はいつも通り、呼吸のタイミングを見てシュッと薬剤を噴射する。カイはそれをきちんと吸い込んで――また眉を寄せた。やはり、薬独特の味がお気に召さなかったようだ。「カイくん、起きて、起きて、朝だよ〜」またそのままスヤスヤし始めそうなカイにわざと高い声で誉はそう言うと、ベッドに転がっているウサギのぬいぐるみをその鼻先にくっつけて揺らす。するとカイが吹き出して、「……ウサちゃん、そんな変な声じゃねーし」と悪態をつきながらそれを受け取った。「そう?結構いい感じだと思うけど」誉も笑いながらそう返す。 ようやくベッドから起き上がったカイが、パジャマを脱ぎながら誉に言う。「着替え、爺が持たせてくれた」「うん、でも……たくさんあるから……」「?」2年前、一度自分の荷物はこの家から運び出したはずだ。不思議に思って首を傾げるカイに対し、誉は罰が悪そうに頭をかきながらクローゼットに向かう。 そしてそれを開くと、その3分の2ほどが小さめの服で埋まっている。ちなみに、残りは大きいので誉のものだろう。聞いてもいないのに誉は事情を話し始める。「ほら、仕事の出先とか……休みの日の散歩とか。街を歩いてるじゃない。見かけるじゃない。カイに似合うな〜とか思うじゃない……」「……」「気がついたら、こんな感じ」「それにしたって、量が」「や、実は……」誉は一瞬だけ目をそらし、続ける。「……サービスルームにアメリカから持ち帰ったのもあるよ。……3箱くらい」「……オレ、もしかしてこのまま、ここに住めちゃう?」「うん、問題無く住めちゃう。 ……住む?」カイはふふっと笑って、横を向いてしまった誉に寄ると、その袖裾をギュッとつまんで、「うん」と、少しだけ照れた様子で答えた。 誉はそれだけで胸がいっぱいになった。そして、他の誰のためでもなく、カイのためにこの結婚話を必ずまとめなければと決意を新たにする。 どうせカイはリビングで食べたがるだろうと、カフェテーブルに朝食を並べ終えた所で、カイが洗面所から戻ってきた。先にソファーの前に腰を下ろしていた誉の膝に、何のためらいもなく乗る。「ほまれのクッキーだ!」そして好物を見つけると嬉しそうに手を伸ばしながら「いただきます」とご挨拶。言い終るや否やかぶりつく。「おいしー。スムージーだ!オレ、これすき」「……おかわりもあるよ」「うん、もっと」カイはすぐに平らげて、コップを誉に渡した。すぐにまたコップ半分程ついでやると、カイは嬉しそうにそれをまた口にする。甘酸っぱくていい香りだ。 クッキーとスムージーの合間に、誉が隙を見て小さく切ったバナナを餌付けのように差し出すと、それも流れるようにパクリと食べた。そんなカイを後ろから抱いて見ながら、誉はふと思う。 ――跡、見えるな………。昨夜の情事の際、つけてしまったキスマークが首筋に2つ。鎖骨のあたりに1つ。角度によって結構しっかり見えてしまう。 2年前よりも少し肌が弱くなったのか、それとも誉が加減を間違えたのか。いや、自分に限ってそんなことはない。航のケアが甘いせいだと勝手に責任転換して、誉は横を向く。首筋は髪型を工夫すれば、ギリギリ大丈夫だろう。問題は、鎖骨。スクラブは間違いなくアウト。 さてどうしたものかとカイの髪の毛をいじりながら誉が考えていると、「ごちそうさま!」と、元気な声が聞こえた。昨夜に引き続きよく食べてくれて、誉は大満足だ。「お粗末様でした。クッキーは包んでカバンに入れたからね。午後、おやつに食べてね」「ほんと?やったぁ」そんな風に嬉しそうにしているカイの横で、誉は薬を取り出し小皿に乗せる。その瞬間、カイの顔が曇った。 誉は敢えて会の前にそれを置き、服薬用のゼリーを入れてやる。するとカイはそれを覗き込んで、それから誉を見上げて不安げに尋ねた。「……喘息のお薬だけ?」「うん、そうだよ」そう返してやると、幾分ホッとしたように息をついた。「いつもは他のも飲むの?」誉が問うと、カイは声を小さくして答える。「……オレンジのやつ。大体爺にいつも飲まさせられる。小さいカプセルのは最近言われないけど、前は毎日飲まさせられてた」 恐らく抗不安薬と抗うつ薬を指すのだろう。ピルケースにも確かに入っていた。抗不安剤の方はかなりの頻度で飲まされているのか、そう思うと誉は胸が痛んだ。「そっか。 ――ま、今日は飲まなくていいと思うよ」誉はこの心中を悟られぬように敢えてあっさりそう答えた。そしてゼリーに包まれた薬をスプーンに乗せてカイに差し出す。下唇にちょんちょんと触れてやると、カイは素直に口を開いた。 その喉が動いたのを確認して、水を飲ませる。するとカイは、もう一度水を飲み込んで誉に口を開けてみせた。――幼少の頃より、生きるために服薬を余儀なくされてきた彼の悲しい癖だ。きっときちんと飲んだことを、そうやって毎回厳しくチェックされてきたのだろう。その答えを、いつも誉はその頭を撫でるに留める。自分は彼の管理者ではないのだから、頷くのはきっと違う。 ――するとその時、誉のスマホの通知が鳴った。確認すると、航からのメッセージだ。カイも一緒に画面を覗き込んで、すぐに呆れたように声をあげる。「……今朝はネブライザーしたかぁ?兄さん、ネブライザー好きすぎるよね」「そうだねえ。航は、口を開けば'ネブライザー"だね」何の挨拶もなく、本当にそのひと言だけのメッセージがおかしくて、小さく吹き出した。 恐らく、カイの様子が心配で仕方ないのだろう。けれども、それを素直に聞いてこないのが凄く航らしい。「……最近は毎日してるんだね」「うん、体調悪くしたって言ったでしょ。 その頃から、発作も結構出やすくなってて……」「そっか」 カイのストレスから引き起こされる感覚過敏と喘息の発作。共連れで起きる強い不安感それがまたストレスとなり……まさに悪循環だ。 冷たい言い方をすれば、カイの持病は、治るものではない。だから治療の強要よりも、病と上手く付き合うケアに力を入れるべきだと誉は思うのだが……。 ――まあ、正解はないからな。  誉はそう独りごちて、「今日は必要ないと思うよ」とだけメッセージを返した。それを見たカイが嬉しそうに誉の胸にくっついた。 ふと、スマホの時計を見る。もう少しで出る時間だ。「そろそろ、行かないとだね」「えー」そう言われたカイは頬を膨らませる。誉がその頬を軽く続きながら、 「……またいつでもここに帰れるんだから」 と言うと、名残惜しそうに頷いた。 そして、2人は支度を整えて玄関に立つ。カイは誉が"ついつい"買ったボタンレスのチェスターコートと、最低限の荷物を入れたミニショルダーを身につけて靴を履く。誉は2年前の一回り大きなカバンでその後に続いた。2人で手を繋いで、玄関ドアを開く。そして、「いってきます」と、揃って言い、顔を見合わせて微笑み合い、静かにドアを閉じた。