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カンファレンスルームでは、キーボードの打鍵音が微かに響いていた。 櫂は先程とは打って変わり、とても落ち着いた様子だった。対する誉はというと、体ごと櫂の方を向いて、その作業風景を微笑ましく見守っていた。が、外からの足音を察して会議机に向き直る。ほぼ同時に、ドアが開いて職員たちが入室し始めた。 メンバーがあらかた定位置に着いたタイミングで、誉が研修医に扉を閉める様、目線で促す。「すまない、前が伸びた」 ドアが閉じられる寸前で、部長が滑り込んできた。まだ朝だと言うのに袖をまくっている。更にハンカチでこめかみを拭いながら、そそくさと一番奥の席に着いた。誉はそれを見届けるとすぐに、朗らかに声を張った。「皆さん揃いましたね。では、始めましょう。本日の議題は、明朝10:00に控える手術についてです。尚、執刀は僕、助手は佐々木先生。内科的フォローは加藤先生にお願いしています。それでは、山川先生。症例の説明をお願いします」 誉とは反対側に着席していた山川が立ち上がり、スクリーンの前へと進む。そしてスライドの表示に合わせ説明を始めた。「山崎正恵さん、女性。御年六十八歳。前頭葉に病変を認め、高悪性度脳腫瘍が疑われています」 スライドが切り替わる。「画像上は限局しているように見えますが、境界がやや曖昧です。ご高齢且つ、既往歴もあるため、全身状態は万全ではありません」メモを取る誉の筆が、一瞬止まる。刹那、櫂は誉の袖裾をついと引いた。 誉がその身を僅かに左に傾けると、櫂がタブレットを右に半分傾けて画面を指さす。誉は頷いてまたメモを取りながら体勢を戻した。「進行が少し早いな」説明を聞き終えた誉が顎に触れながらポツリと呟き、櫂を見る。櫂は視線を落としたまま、「はい」とだけ返事をして、キーボードを叩く手を止めた。それから、タブレットの画面に触れる。スクリーンのスライドが切り替わったと同時に、櫂はようやく誉の目を見た。「本件においては、画像所見だけでは不確かです。事実として、症状の進行速度との整合が取れていません。患者さまの経過と全身反応を考慮すると、局所だけの問題ではないと考えます。ですから、術中に想定外の変化が起きる可能性は否定できません」誉は小さく息を吐きながら、櫂が出したスライドを改めて確認した。「……なるほど」 二人の様子を伺っていた佐々木が、一拍を置いて口を開いた。「それでも、現状では従来法が無難でしょう。うちでも何度もやってますし、時間も侵襲も読みやすい」 誉が顎に手をやったまま頷きかけた、その時。櫂が、控えめに挙手をした。「少し、よろしいですか」誉は櫂の方を向き、短く返す。「どうぞ」「ありがとうございます、副部長」 櫂はスライドを切り替えてから立ち上がり、誉を正面に見据える。「コンサルタントとしてご提案致します。こちらは、昨年学会誌に掲載された新手法です」 まず最初に、櫂は新手法そのものの要件と、提案の根拠を述べる。それを聞き流しながら、誉は口元に手を添えた。思わず口の端が上がりそうになるのを何とか押さえつけた。「侵襲を抑えつつ、術野を確保できる点がこれの大きなメリットです。先ほど申し上げた通り、患者さまの全身状態を考慮しても、術中の変化リスクをかなり抑えられると考えます」 そこで初めて部長が口を挟んだ。背もたれに体を完全に預けて腕を組み、眉をしかめている。「しかし、執刀者の手腕に頼るポイントが多過ぎるな。今ひとつ安定性に欠ける。実績も殆ど無い。評価も限定的だろう」「ええ、ですから」櫂は、手前の誉の方を向く。「執刀者は、卯月副部長を指定します」 ざわ、と室内の空気が揺れた。一方で、誉は口元の手を外すと櫂に向けて零れるような笑顔を見せた。そして、朗らかに返す。「読んでくれたんだね。ありがとう」 その後すぐにスッと表情を戻し前を向き直すと、万年筆でスライドを指しながら続けた。「この手法は、僕がフェロー中に提案したものだ。今回の症例でも、理論的には有効だろうね」そこまで言い終えた誉は、再び人差し指と親指で顎に触れた。「櫂先生の見立ては、至極真っ当だと思うよ。ただ、当時と比べて条件がかなり違う。……患者背景、合併症リスク、そして設備要件。残念だけど、ここでは成功率が6割程度まで下がる。だから僕も、今回は従来法を選択したい」 櫂はすぐに頷くと、スライドを消した。「かしこまりました」 誉は小さく息を吐き、続ける。「僕個人の感情としては、魅力的な提案ではあるんだけどね……」 櫂は誉の私情には取り合わず、その先の決裁者である部長の方を向き、言う。「部長、ご判断を」 そして部長が静かに頷くのを確認すると、腰を下ろしタブレットに結論を打ち込んだ。部長の判断を以って、誉はカンファレンスを締め括る。「では、予定通り明朝10:00より、従来法にて山崎さんの手術を実施します。以上」誉が手帳を閉じるのと同時に、櫂はタイトルに"議事録"と書かれたメールを送信した。「櫂先生」部長に続いて立ち上がった櫂を、誉が呼び止めた。櫂はタブレットを胸に抱きながら、目線だけを誉に向ける。「さっきの君の提案内容、もっと詳細を教えてくれないかな」誉の思わぬ要求に、櫂の目が一瞬だけ泳いだ。そして、すぐに右腕を軽く触りながら、「もう、終わったことですから」とぽそりと言い、踵を返す。刹那、誉はふわりと揺れた櫂のスクラブをぐっと掴んで引き、離す。そうしてようやく櫂は歩を止めて、誉に向き直った。 誉は続ける。「さっきの説明は、病床へのアクセス法が俺の結論と違ったね」「……」「今回の症例に合わせて、カイが調整してくれたんだよね」間を置かず、カイはコクンと頷いた。 誉はふっと笑みを零す。そしてカイが座っていた椅子を引くと、座面をポンポンと撫でた。「俺の論文に対するカイの解釈。それから今回の結論に至れたその思考を辿りたい。教えて。どうしても知りたいんだ」「……」カイは赤い瞳をほんの少し細めた後、またコクンと頷いた。そして再び、誉の横に腰を下ろす。 誉が椅子ごとカイに寄った。カイも誉に身を寄せながら、二人の間にタブレットをトンと置いて開く。 コホン、と軽い咳払いが聞こえた。佐々木だった。彼はまだ立ち上がったばかりの若手の背を押しながら、声をかける。「ほら、さっさと戻れ。外来が始まるぞ」その言葉に周りが続き、カンファレンスルームには誉とカイだけがそっと残された。★ 午前の業務が一段落し、カイは執務室へと戻っていた。物静かで、淡い間接照明に包まれたそこは、彼のために誂えられた特別室だ。また、院内で唯一カイが安心できる場所だった。 「あれっ、あれ?」そんな中、カイはスプリングコートのボタンと格闘している。何度やっても掛け違えてしまうのだ。苛つきが増すほどに焦燥感から指がもつれ、余計にうまくいかない。「もうムリ、ヤダ」 とうとう我慢の限界に達したカイは、そう低く呟いてベッドに身を投げ出した。執務室としては珍しい設備だが、体調を崩しやすい彼には必要だという判断から用意されたものだった。 カイは息を吐きながら、天井を見上げる。裸眼且つ、室内が薄暗いせいで今ひとつピントが合わなくて気持ちが悪い。だからぎゅっと瞳を閉じて、今度はすうっと息を吸った。 刹那、胸からひゅっという音が鳴る。 「……かえろ」カイは誰ともなしにそう呟いて起き上がり、枕の側に転がっていたウサギのぬいぐるみ掴む。同時にベッドに放り投げておいたカバンを引き寄せた。蓋が開いていたので幾つか物が落ちたが、気にしない。 次に彼は、ぎゅうっとウサギをそこに押し込んだ。しかしその半分ほどが、どうしても入らない。だから仕方なくウサギを小脇に抱え直し、カバンの中に手を突っ込む。そして、その中身をぎゅうぎゅうと押し始めた。 すると今度は、押し込むことに集中し過ぎて、ウサギへの注意が散漫になる。やがてウサギはポロリと落ちて、ベッドの下へ。しかしカイは必死にカバンの中を押し続けている。「何をやっているんだ、お前は」 突然掛けられた声に驚いて、カイは動きを止めた。が、すぐにそれが兄のものだと察し、行動を再開する。兄はため息をつきつつ、弟の方へと歩み寄った。その見慣れたスーツ姿が視界の真横に入ったところで、ようやくカイが返事をした。 「うさちゃん、しまってんの」「……なるほど。 で、その肝心なうさちゃんは、どこだ?」「え?」 兄からそう言われ、カイは、はたと気がついた。抱えていたはずの大切なうさちゃんが、いない。カイの顔からサッと血の気が引いていく。 「いない」 すぐに右腕を強く握り、ガクガクと震え始めた。 「ない」 その様子を見た兄は、もう一度ため息をつく。そして無言まま、足元に転がるウサギを拾って弟に持たせてやった。 カイはすぐにそれをギュッと胸で抱きしめて、表情を緩める。それから顔を上げ、「ありがと、兄さん」と、甘えた子供のような声でそう言って、ふにゃりと笑った。