2-3.
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「……やばい、当主に呼び出された」 院長室に入るや否や、執務机で両手を組んで顎に当てた航が、沈みきった様子でそう言った。 誉はそんな航を横目に、勝手にコーヒーを入れて応接ソファーへと腰を下ろし、一言。「……まあ、落ち着いて。とりあえず座りなよ」「いや、それ俺の台詞な?」 航は頭をぐしゃぐしゃと掻きながらこちらに向かってくる。「櫂はお砂糖、3つでいい? 」「……はい」航に同調するように、櫂の顔色も悪い。誉の横で握った拳を膝に置き、俯いている。「要件は、俺たちのこと?」「明言はされていないが……他にないだろう」「だよねえ」 ――実のところ、誉は当主と全く面識がない。学生時代に櫂の家庭教師として如月家本邸に出入りしていた頃から今に至るまで、何かにつけて判断ごとには名前が出るし、何よりもあの航がお呼び出しだけでこんなに動揺するのだ。如月家の中で、絶対的な力を持っていることは間違いない。誉は、金持ちは金持ちなりに大変なんだなと独りごちる。「カイ、眼鏡取ろうか」そうは言いつつも返事を待たず、誉は勝手にそれを外した。だんだん身体に変な力が入り始めたカイの緊張を少しでも解くためだ。航は二人の対面に腰を下ろすものの、カイ同様膝の真ん中で手を組んだまま俯いて動かない。 一方満は興味なさげに三人を一瞥すると、航の執務机で何やら仕事を始めている。マイペースなのは昔からだが、冷静に考えればこいつも大概である。 そんな中、口火を切ったのは、やはり航だ。「午後、本邸に戻る。カイ、お前も同行するように」カイの表情が一気に曇った。返事すらできぬまま、拳をさらにぎゅっと握りしめる。 ――本邸。 それはまさに如月家の総本山だ。高級住宅街の中に広大な敷地を有し、当主夫妻とその息子夫婦、そして孫である兄弟三世代が同居する。 少なくとも航自身は、誉がフェローに出た2年前までは本宅から通勤していた。一方でカイは、航の――今思えば当主だったのだろうが、許可を得て、高校卒業と同時に誉のマンションに移り住んでいる。 航自身、今は病院そばのマンションに居を移しているが、おそらくそれはカイを保護するためだったのだろう。――本宅は、カイにとってはトラウマの巣窟だ。「……やっぱり」 そしてやっとカイが口を開いた。「……おこってんの?」顔を上げぬまま、か細い声で尋ねるカイに対し、航は腕を組んですぐに答える。「わからん。俺もあいつの秘書から"すぐに来い"と連絡があっただけだ。――まあ、でも。経験則的に、お褒めは頂けないだろうな」カイの表情がますます陰っていく。「カイも、どうしても行かないといけないの?」 あまりにもカイが萎縮し始めたので、思わず誉が口を挟む。すると航はハッキリ首を横に振った。 「……正確には、呼び出されているのは俺じゃない、カイだ。俺はあくまでも"監督者"として同席せよ、とのことだからな」 ――実の兄を捕まえて、監督者とは……。そう言ってしまう航もやはり"あの家"の人間なのだという少しの失望と、そう言われてしまうカイの気持ちを慮ると、ただただ切ない。このほんの数分の間に、カイはどれだけ傷ついただろう。「……でもさ、じーさん、誉と付き合う時も、同棲の時も、何も言わなかったじゃん。なんで急に……」カイが珍しく食い下がる。それほどまでに、祖父との対峙に抵抗があるのだ。「だから言ったろ。交際は本人たちの問題。結婚となると家が絡む、そう簡単にはいかない、と」「若さま、いい加減誤魔化すのは止めて、教えてやりなさい。櫂はもう、子供ではないんです」そこで口を挟んできたのが航の秘書、満だ。 彼は向こうからやって来ると航の隣に座り、一枚の書類をカイに差し出した。即座にカイの眉が寄る。誉もまた、それを見ると横を向いた。「おい、満。今それは……」航が遮っても、満は止まらない。「櫂、あなたには敢えて黙っていましたが……。誉は、如月家と契約関係にあります」「……どういうこと?」カイは書類を改めて手に取り、もう一度見直した。確かに誉の筆跡で署名と捺印がされている。 契約されている業務内容は、櫂の心身状態に関する医学的助言、緊急時における医療判断の補助、そして生活環境が健康に及ぼす影響の評価。一方で、生活介助や同居に関する文言は一つもなかった。「……あいつは感情的な恋愛など認めない。ましてや、外様ですらない完全に外部の人間で、同性。……いや、誉が仮に女でも、今回の件は絶対に説得なんてできない。ならば、真っ向から勝負して警戒された挙句、変にお前を囲われるよりは、誉と明確に業務契約を結んだ方が合理的だ。……もう一度言う。あいつは感情や善意では動かせない」「だからって……。じゃあ、それだけの理由で兄さんは、誉に、そんな契約させたの?じーさんは、誉をオレの付き人だと思ってる……?」「そうだ。誉の立ち位置は、客観的に見れば、そうなる」「そんな、誉……」カイは誉に申し訳なくて、いたたまれない気持ちでその顔を見上げた。しかし当の誉は、実にあっけらかんとした様子で言い放つ。「俺は、カイとさえいられれば、手段は問わないからね。まあ、最適解だったと思うよ。――でも、事情が変わっちゃったから」「……誉、本当にお前までマジでカイとの結婚を……」「うん」そして誉はソファーに座り直し、航に向き直る。「俺は、カイと結婚するよ。 勿論、手段は問わない」「……」 あまりにも挑戦的な誉の言い方に、航はまた頭を抱えた。「今、この契約も瀬戸際にある。それが何を意味するか、お前ならわかるだろう」「まあ、それならそれで仕方ないんじゃない?より結婚の方に軸足を移すだけだよ」「違う、お前は何もわかってない」「ちっとも分からないよ、君の家の事情なんて。――わかりたいとも思わないし、ね」「……まあ、誉らしいといえばそうですが。ただ今回は、いくら貴方と言えど、些か相手が悪すぎますね」「カイと関係を続ける限り、いつかこんな日が来るとは思ってたよ。今がその時ってだけでしょ」「……」 その時、ずっと俯いていたカイが顔を上げた。そして、真っ直ぐ兄を見つめて、言う。「……わかった。オレ、行く」その声には、決意が滲んでいた。「じいさんと、話する」航はわずかに目を大きく開いた後、「一人にはしない、大丈夫だ」と、ようやくいつもの航らしい朗らかな声でそう言い、頷いた。そして、「申し訳ないが、誉は外してくれ。今は、お前が出るのは逆効果だ。――まずは"家の中"だけで処理をしたい」と、すぐに誉を牽制する。 誉はもどかしさを感じでやまないが、そう言われたら従わざるを得ない。カイの力がこもった拳をその大きな手で包み込みながらも、渋々と頷いた。 航は最後に、カイと誉を順にゆっくり見て穏やかに言った。「――これからきっと、俺は家側に立たなければならない場が必ず出てくるだろう。……それでも俺は、お前たちの未来のために尽力する。……約束する」――航がそんなことを言うのは、本当に珍しい。そして、そう追い詰められるほど、彼は自分たちの結婚に対して、難しさを感じているのだろう。 「……ありがとう、航」誉もまた、航を見て穏やかに返した。しかし一方で、――今回ばかりは、航に任せきりにはしておけない。と、改めて腹を据えたのだ。「ところで」そんないい感じに和んだ場に、空気を読まぬ満の無感情な声が響く。「櫂、首と鎖骨のあたりに赤いうっ血が4点見受けられますが――怪我でもしてるんですか?」まずカイが肩を跳ねさせ、反射的に首筋を押さえて俯いた。直後、かあっと顔が赤く染め上がる。 同時に誉は満を鋭く睨みつけ、航は心底心配そうな兄の顔に切り替わり、「……どうした?見せてみろ」と、立ち上がる。「い、いい!大丈夫」近づいてくる兄を避けるように誉にひっつき、カイは首を大きく横に振る。「満……」カイを抱きとめながら、改めて誉は低い声でその名をよぶ。 すると彼はふっと口元だけを緩めてふてぶてしく言うのだ。「主治医の一人として、懸念点を申し上げたまで。櫂は追い詰められると自傷に向く傾向があるので」「……自傷?ちょっと待て。櫂、見せてみろ」「違う、ちーがーう、兄さんやだ!えっち!」「んなっ!?おま……っ。あ、ホントだ!なんだこれ!」「……おやおや、これは」ここまで来ると最早言い逃れはできない。誉は人さし指と中指で額を押さえながらため息をついた。 そして待ってましたとばかりに満が言うのだ。「あぁ……そういうことですね。航、自傷ではないですよ。良かったですね」「……良くねえだろ!誉!お前!」「そりゃ、2年ぶりに大好き同士が褥を共にしたらやることは一つでしょ。というか君、この跡の意味分かるようになったんだね。成長したね〜」「バカにすんな!知っとるわ!」そして兄の怒りに、すかさずカイが油を注ぐ。「に、にいさん、怒んないで。誉はちゃんとしてくれたよ!……なんかいいにおいのオイルで!」「誉、あなた、なかなかマニアックな趣向でらっしゃるんですね」「いや、それは保湿の話ね……」「……オイル?オイルで何するんだ?」「あ、そこまでは理解が及ばないんだね」「若さまは純真でらっしゃるので。まだまだお勉強が必要ですね」「お?おう、面目ない」「……認めて謝っちゃってるし」するとその時、誉のPHSが鳴った。「失礼」と出て、何度か短く相槌を打った後切る。「……残念、呼ばれちゃった」「副部長さまは、お忙しいんですねえ」「言い方のトゲね。ホントにもう、お前は」「……何かあった?」カイが警戒しながら尋ねると、PHSを腰元に戻しながら、返す。「いや、午後の手術のこと。事前確認だって」「……オレも行く」 誉は一瞬だけ迷ったが、黙って櫂の顔の前に手を伸ばした。そして外していた眼鏡を掛けてやる。 「足元、気をつけてね」櫂が小さく頷いて立ち上がった。一連を見守っていた航が、櫂に言う。「ちゃんと誉をサポートしてやるんだぞ。そして、やりきったら――戻ってこい」櫂は航をまっすぐ見て返す。「かしこまりました」――二人が出て行った扉をしばらく見やりながら、航が呟く。 「見たか?あいつ、昨日までとはまるで別人だ。たった一晩でこの差だ。……かなわんよなあ」「……そうですね」「あるべき姿は……もう分かってるんだけどな」「そうなるように、何とかするのが……貴方の仕事でしょう?」「……重てえなあ」 航はそう言って肩を竦めると執務机へと戻る。満は何も言わず、そんな航の背中にそっと視線だけを送った。