LNCrawler

2-4.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

2-4.

当主の私邸と母屋を唯一繋ぐ、渡り廊下。その手前に設えられた前室へ、兄弟は静かに足を踏み入れる。 ――使用人はちらりと航のみを確認し、無言で扉に手をかけた。その間に、櫂は黙って眼鏡を外し、胸ポケットに収める。その仕草に気づいた航が、短く問いかけた。 「いいのか?」櫂は一瞬だけ指を止めてから、声を潜めて答える。「……壊れたら、困るから」航は目を伏せて、「……そうか」とだけ返した。 そして櫂の首元を守る淡い銀色のスカーフを整えてやった後、自身のネクタイを締め直し、「……行こう」と、静かに言うと、前を向いて扉を見据えた。 渡り廊下への扉が、音もなく開かれる。それは手入れの行き届いた日本庭園を貫くように、長く、まっすぐに伸びていた。 風に乗って、桜の淡い花弁が音もなく舞う。それらは整えられた石畳の脇、苔むした飛び石の上へと、静かに散り落ちていった。 ――渡り廊下を航が先に行き、櫂がその後に続く。最初は半歩、そして一歩、二歩と進む度に歩みが遅れていく気配を察し、兄は幾度となく歩を止めて弟を待つ。 出口が、静かに待ち構えているように見える。まるで、断頭台のようだ。そこに至る直前で、櫂が完全に足を止めてしまった。航は半歩下がり、櫂と足並みを揃えてからその背をポンと軽く撫でてやる。 その瞬間、扉がゆっくりと開き始めた。――航は何も言わずにまた櫂の前に出ると、最初に扉の中へと踏み入った。 兄弟が前室に立つと、すぐに渡り廊下への扉が閉じられる。すぐに使用人が、「お待ちください」とだけ機械的に告げ静かに下がった。二人は会話を交わすこともなく、ただ立ってその時を待つしかない。気まずい沈黙が続く。やがて別の使用人が現れ、航に向かって深く一礼をする。「こちらへ」そしてその言葉に促されるまま、兄弟は応接室に入室した。 そこは、如月家の歴史を感じさせる重厚な調度でまとめられていた。  ――深い色の木製フレームに革張りの椅子、低い無垢材のテーブル。壁の書画や、室内灯――どれも使い込まれているが、手入れだけは完璧に行き届いている。 更にその一番奥、最も重厚な椅子の背後には、家紋が掲げられていた。当主が席に着けば、自然と視界に入るように、巧みに配置が調節されている。 航はすぐさま、迷いなく応接セットへと進んだ。そして椅子の半歩手前で足を止め、背筋を伸ばして立つ。一方、櫂は背を丸めて俯いたまま、隠れるように兄の半歩後ろに立った。 兄弟はより重苦しい空気の中、ただ待たされる。古びた時計の秒針の音が、やけに響いて聞こえた。張り詰めた緊張の中、櫂が息苦しさから胸元を抑えたその時、ようやく奥の扉がゆっくりと響いた。付き添いの使用人に支えられ、ついに当主が姿を現す。年老いてもなお背筋は伸び、白手袋に包まれた手が黒檀の杖に添えられている。 当主はまず始めに、航を一瞥した。そして、その視線を櫂に移すや否や、眉を寄せる。 「……なんだ、その姿は」低く、冷酷さの滲む声だった。櫂の肩がわずかに上がる。 航が口を開くよりも先に、当主が続けた。その鋭い視線は、櫂に向けられたままだ。「航、お前の判断か」「はい」航は一歩も引かずに、答える。「私の判断です。体調を優先させています」当主はわずかに目を細め、一瞬だけ航に視線を戻した。しかしすぐに、櫂の方を向き、「如月の人間として、格を落とす装いは認めん。……自覚を持て」と告げ、ゆっくりと歩を進めた。当主が主座へと腰を下ろす一方で、兄弟はなおも同じ位置に立ったままだ。使用人が下がると、室内の空気がより一段重くなっような気がした。  そんな中、真っ先に口火を切ったのは当主だった。櫂の方を向き、先ほどと変わらぬ冷たい声で言う。「これに、使用人との不適切な関係が報告された。 ――事実か」櫂が顔を上げて唇を動かした瞬間、航がそれを遮るように左手を軽く上げる。そのせいで俯いてしまった櫂に代わり、発言をする。「現在、事実確認を進めています」「事実確認だと?お前は、これの全てを把握していないのか。――随分と好き勝手をさせているな」「監督不行届でした」「お前がついていながら、この体たらくか」「はい、私の責任です」「如月の名を背負う人間が、軽率な行動で騒ぎを撒く。それが招く結果――分からぬお前ではあるまい」「はい、承知しています」 その瞬間、櫂が再び顔を上げて口を挟んだ。「ちがう……、兄さんは、悪くない。オレが――」「お前には、聞いていない」 当主から冷たくそう言い捨てられて、櫂はひくりと喉を鳴らした。息が詰まって、その後の言葉を続けることができない。そのかわりに右腕を強い力で握り込む。それを尻目に、当主は続けた。 「……その口の利き方は何だ。自覚を持てと言っただろう。だから、お前は――」当主の言葉が、そこで切れた。その隙に、航が割って入り繋げる。 「対応として、既に状況の洗い出しは進めています。並行して、臨時理事会を以て関係者への説明と、情報統制を行います。全て、計画通りです」 当主は、ほんの一瞬だけ航を見て、返す。「冗長だな」「必要な手順です。例外を認めれば、後の説明が立ちません」当主は鼻で笑いながら、冷たく命じた。 「使用人との関係を断て。切り捨てろ」「業務上、それは現実的ではありません」 しかし、航は一歩も引かない。 「櫂と当該職員の連携による成果・実績は、ともに可視化されています。事実として、二人を指名し来院する患者も多く存在します」「ならば尚更だ。さっさと切って次を補充しろ」「当該職員の離脱は、現場の指揮と実績を落とします。一方で、櫂を業務から引かせることは、成果を落とします。それは、病院の評価、ひいては如月の格を落とす結果を招きます」「言い訳だな」「合理的な判断です」胸を張り言いきった航に対し、当主は静かに目を伏せる。――秤にかけているのだ。己と、航のやり方を。 そしてしばしの沈黙の後、短く言った。 「手段は問わん、結果を出せ」その言葉に、航がわずかに息を吐く。「……承知しました」 次に、当主は視線を櫂に移した。「櫂」その低く冷酷な声に、櫂の肩が、跳ねる。当主は櫂の様子など全く気にせず、一つずつ、釘を刺すように櫂に言い聞かせた。「お前は、如月の人間だ。その行動には、常に責任が伴う。私情に流され、家の名を軽んじるような行動を取ることは、一切許されない。――お前の役割は何だ、理解をしているか?」 突然振られた質問に、櫂の目線が泳いだ。唇をかすかに動かしたが、言葉にならない。当主はその様子を見下ろし、失望したように深く息を吐いた。「如月に――"在ること"だ」  その言葉に真っ先に眉を寄せたのは、櫂ではなく航だった。しかし、当主は全く意に介さず続ける。「お前は何も考えなくていい。それは航の役割だ。責任。……そんなものは、すべてこの航に取らせる。何も欲しがらなくていい。必要なものは私が与える。与えられるもの以外は、お前には必要のないものだ。手を伸ばすな。興味を持つな。万が一、お前に何かあれば、如月が揺らぐ。……お前は、他とは違う。自覚しろ」 そこで当主は言葉を切った。二人を一瞥し、一拍を置いて最後の言葉を括る。「……次はない」 櫂は何も言わず俯いた。一方、航すらも何も言えぬまま、呆然と当主の次の動きを目で追っている。その瞬間、先ほどの使用人が再び静かに入室してきた。介助を経て、当主は立ち上がる。――刹那、我に返った航が頭を下げ、倣うように櫂が形だけの礼をした。 扉が閉まるや否や、航は顔を上げる。そしてまだ礼をしたまま固まっている櫂の背中を撫で、優しく言った。「……戻ろう」 兄の言葉に促されるように、顔を上げた櫂の表情は、絶望というよりは困惑の色が強い。  ――航も全く同じ気持ちだった。先程の当主の言葉を反芻するが、その意図が図りきれない。 二人は特に何も言葉を交わせぬまま、応接室を後にする。薄暗い前室を抜け、再び渡り廊下へ向かった。 先ほどと同じはずなのに、散りゆく桜がやけに物悲しく、苔むした飛び石に積み上がったくすんだ花びらたちが、やけに残酷に見えた。「……悪かったな」母屋側の前室に遅れて入った櫂に、航がぽつりと言った。櫂は兄の背中を一瞬見た後、またすぐに俯いて、「……兄さんのせいじゃない」とだけ、返した。航は前を向いたまま、淡々と続ける。「酷いものの言い方をした。……辛かっただろう」「……慣れてる。平気」「……」 前室の扉が開く。一歩外へ出ると、いつもと変わらぬ母屋の空気。決して心地よいものではなかったが、あの応接室よりは幾分もマシに思えた。 靴音だけを響かせながら暫く歩くと、エントランスホールが見えてくる。その直前で、航がネクタイを緩めながら息をついた。するとその時、ふと櫂が足を止めポツリと零す。「……オレが誉のこと大好きなの……間違いなのかな」航は一瞬ネクタイに引っ掛けた指先を止めた。 しかしすぐに、淡々とした口調で返す。「この家ではな」その言葉に、櫂は唇を噛みしめた。同時に右腕を強く握りしめると、兄の背に向かって尋ねる。「……兄さんは、当主になりたいの?」「なりたい、なりたくない、そんな簡単な話じゃない。……なるしかない」対し、航は前を向いたまま、そう切り捨てるように返した。櫂はそんな兄の背から視線を反らし、絞り出すような声で問いかける。「……兄さんは、じいさんみたいにならないよね?」「保証はできないな」   ――少しの沈黙の後、航が続けて話し始めた。「当主として家を立てることが使命だと思い生きてきた。その重さも、理解しているつもりだった。でも、現実は、想像をはるかに超えて重い。あまりにも、重い。俺は何も分かっちゃいなかった」その言葉には、兄が初めて見せた重圧への恐れが滲んでいた。「……あの人は一見冷酷で無慈悲だが、誰よりも家を守ることに命を賭けている。当主としてあるべき姿だ。尊敬している。……祖父としては、好きにはなれないがな」 そして航は一度目を伏せて、深く息を吐いた。 「だからこそ、あの父が後を継げると到底思えない。代が変われば、間違いなくこの家は傾く。俺は、必ずそれを食い止めなければならない。……この家を守るために」一拍を置いて、櫂が返した。「……だから、我慢して院長になったの?」「我慢なんかしていない。必要なことだった」「……じゃぁ、兄さんの気持ちは?」「なりたかったよ。ずっと。もっと、早く。まずは父の横に並ばないと、スタートラインにすら立てないからな」櫂は驚いたように大きく目を開き、赤い目を瞬かせた。そして思わず口にする。「まさか、兄さんは父さんより先に……」しかし、そこまで言いかけたところで航が振り返り、唇に人差し指を押し当ててみせた。 櫂は、咄嗟に口を閉じると、すぐに視線を落とし、小さく息を吐いた。そしてまだ腑に落ちないといった声色で、賢明に続ける。「……でも……そんなの。また兄さんだけが、重たいじゃないか。家の責任全部を、一人で背負おうなんて……」 航はすぐには何も言わず、少しだけ天井を仰いだ。そして何かを悟ったかのように頷くと、どこか自嘲するような口調で返す。「ああ……、確かに。些か重すぎるな」 それから、いつもの軽い調子に戻して、櫂に向き合い、へらりと笑う。「だから、下ろせる荷物はさっさと下ろしてしまいたい。……例えば、面倒な弟の世話とか。筆頭候補だ」 「……はは。ひどいや」そう言ってまた俯いてしまった弟の肩を、航は優しく撫でた。そして、「……本心だ」と、短く、低く言い切ってから続ける。 「お前の世話を焼きたいという変わり者に、さっさと渡してやる。……大丈夫だ、必ず俺が何とかする」 そこまでの覚悟を見せられて、櫂に言えることなど何もなかった。だから、黙って俯く。けれども、いつものようにすぐには頷けない。――その手が右腕に伸びかけた、その時。「あらぁ!櫂ちゃん!ママの可愛い櫂ちゃんじゃない!」 ――甲高い声がエントランスホールに響いた。反射的に航が櫂を背に守った。櫂は半歩後退り、怯えた顔で俯いた。中央階段の途中、女は手すりにもたれながら立っている。彼女は櫂を見下ろすと、にんまりと不敵に微笑んだ。