2-5.
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「もう、櫂ちゃん。帰るなら帰るって、先に連絡しなさいよ」 女の片手にはグラス、もう片方には煙草。ほのかに酒と、甘ったるい香水のにおいが混じっている。「……ごめんなさい」櫂は兄の背に身を潜め、萎縮しながら答えた。「いつもそう」女はため息をついて目を伏せて、わざとらしく首を振る。「連絡一つよこさないで……。ママはこんなに櫂ちゃんのことを愛してるのに。冷たくされて、ちっとも報われないわ。――ああ、ママ悲しい。ママってすごく可哀想……」 そして、改めて櫂を見るとにたりと笑む。「ねえ、櫂ちゃん。そう思うでしょ?」 櫂の返事は変わらない。「……ごめんなさい」航がわずかに眉を寄せた。 女は、一段ずつやけにゆっくりと階段を降りてくると、途中でグラスを持った右手を前に差し出した。 ――反射的に櫂は兄の背中を越えて駆け寄ると、差し出されたグラスを受け取る。そして空いている方の手を迷いなく差し出した。女は迷いなくその手を取ると、まるで貴婦人のようにゆったりと階段を降りきった。そして従者のような息子に視線をやり、満足そうに息を吐き出すと、煙草の火を燻らせた。「母さん、櫂の前だ。煙草は控えて」「あらやだ。航ちゃん、いたの?」すると女は、本当に今気がついたような顔で航を見た。そして、「ママに会うなり、早速お小言。――相変わらず、可愛くない子ね」と、わざと見せつけるように煙草の煙を櫂に吹きかけて、 「神経質ね。櫂ちゃんなら平気よ。ママのこと大好きだもの」と、声色をスッと一段下げて言い放った。 それからただ睨みつけてくる航を一瞥し、櫂にもう一度煙を吹きかけようとした。 ――その瞬間、航が動いた。何も言わずに櫂の腕を引き、半歩前に歩み出ると、二人の間に割って入る。そして低い声で、「……やめろ」とだけ敵意を込めて返した。「まあ」母はそんな航にクスリと笑いかけて、怯えた様子の櫂を見やる。そして口元に手を当て眉を下げて、「……こんなに怯えさせて。櫂ちゃん、お兄ちゃん怖いわねえ」と、大げさな口調で言う。「ほら、こっちにいらっしゃい。ママが守ってあげる」 櫂はひゅっと喉を鳴らした後、静かに航の手を振り払った。そして、消え入りそうな声で「ごめんなさい」とだけ告げて母の元に戻る。母は櫂を抱きしめると、勝ち誇ったように航を見た。 「……そう、ママのそばが一番安心なのね、いい子」母はそういうと、櫂の美しい髪を手で梳く。――が、すぐにまた次の矛先に目をつけた。「――あら、櫂ちゃん……また痩せちゃった?」母は抱き寄せたままの櫂の頬に手を添え、確認するように親指でそっとなぞる。「可愛らしいほっぺたが、こんなに……。お兄ちゃんが意地悪してご飯くれないのね。可哀想……」さすがに侮辱が過ぎる。 航が口調を強めて反論した――が。「そんなわけあるか。きちんと症状に合わせた管理と、医療的な所見に基づいて――」「あら、出たわ。お得意のやつ」母は途中でそれを遮り、にやつきながらわざとらしく肩を竦めた。 「管理、合理的判断、必要な措置……。いつもそればかり、うんざりだわ」そして櫂の背中を撫でながら、優しい声で言い聞かせるように言う。「可哀想な櫂ちゃん。お兄ちゃんは、あなたのことを研究用の検体か何かだ思ってるのね……」するとここまでされるがままだった櫂が、思わず口を開く。「違う、兄さんは」だが、母はその反論を許さない。「あら……貴方はちゃんとお兄ちゃんを庇うのね」即座に櫂の言葉を切ると、嬉しそうに微笑んだ。「本当に優しい子。さすがママの子だわ〜」そして航に向かって言う。「同じママの子でも、お義母さまが育てた子はダメね」 ――その目は、一転して冷たい。航は下唇を噛み締めて耐える。――何を言っても無駄だと自身に言い聞かせた。「そうだ!いいことを思いついたわ」母はすぐにへらりと笑い、腕の中の櫂を見た。そして再び優しく包容しながら、「今日はママとご飯を食べましょう。櫂ちゃんの好物を用意させるわ」 その瞬間、櫂の顔から血の気が引いた。航が止めようと口を開いたが、母はもう止められない。「さ、そうと決まればお支度をしましょう!櫂ちゃんもそんなお洋服は脱いで。ママ、素敵なのを用意しておいたのよ〜」今度は鼻歌交じりで櫂の手を引き、階段を登り始めた。そしてその途中で、一度振り返ると、「……航ちゃんもよかったら、どうぞ」と低い声で吐き捨てて、その手の煙草をポイと投げ捨てた。 ――慌てた様子で駆けつける使用人を手で制し、航はハンカチで包むようにそれを拾って握りしめる。そして何も言わぬまま、ただ母に付き従う弟の背を見つめていた。 食事の支度が整ったと、わざわざ瀬戸が自室にまで告げに来た。航は仕事の手を止めてため息をつく。 ――どうか、同席を。それは瀬戸の声にならぬ願いに他ならない。航は何も言わずに立ち上がった。ダイニングルームは、異様な雰囲気に包まれていた。 やけに上機嫌な母に、その横で沈み込むように座っている櫂。着衣が変えられている。母好みのプレッピースタイル。童顔な櫂は"着れてしまう"が、その年齢を思えば、どう見ても不相応だ。 母は航の姿を見つけると、冷めた声で、「あら、来たの」とだけ声をかけた。櫂に至っては顔を上げる気力すら残されていないのか、俯いたままだ。 航は黙ったまま櫂の対面の席に腰を下ろす。すると使用人が慌てた様子でやって来て、テーブルを整えた。 まず、運ばれてきたのはアミューズ。 柑橘と白身魚の冷製マリネだった。――オイルとビネガー。空腹時の胃粘膜への刺激が強すぎる。そもそも櫂は、魚をほとんど受け付けない。 案の定、櫂はフォークで慎重に魚を避け、オレンジだけを拾って、何とか口に運んでいる。 「櫂ちゃんは、フルーツが好きねえ。でも、お魚も食べなきゃダメよ。頑張って」……なんて、母の能天気な声が、航の神経を逆撫でした。 航は目線で指示をして、瀬戸に水を注がせる。櫂はためらった末に白身魚を一枚だけ口に放り込み、水で胃に流し込んだ。 次は前菜、温野菜のハーブソテー。――バターの脂質。致命的に合わない。胃が受け付けない。ローズマリー特有の香りも、櫂には強すぎる。 航の見立て通り、櫂はナイフを持ったまま動けない。その横には、先ほどのアミューズがほとんど手つかずのまま残っていた。 この時点で、航は悟っていた。これは櫂のために誂えた食事ではない。母のための食卓だ。それを指摘したところで、「私が好きなものは櫂ちゃんも好きだわ」などという、謎の理屈が返ってくるのは目に見えている。 下手に刺激をすれば、食べることの強要が始まる。――だから航は、ただ黙って耐えることを選んだ。 そして、スープとパン。せめてコンソメ系なら良かったが、よりによってポタージュ。それでもスープはまだ他に比べればマシで、櫂は何とか半分程口に運ぶことが出来た。バゲットには、手が伸びない。――硬いパンは、噛み切れない。 以降のメイン料理は、まさに怒涛だった。 濃厚なクリームソースがたっぷり絡めたサーモンのムニエル。――乳脂肪と魚脂が織り成す特大級の爆弾。皿が目の前に置かれた瞬間、櫂の喉がぎゅっと締まった。「櫂ちゃん、お魚さんもちゃんと食べましょうね」母の指示を受けて櫂はフォークを取るが、明らかに動きが鈍かった。これは、食事ではない。拷問だ。 航は見ていられなくて、目を伏せる。介入すべきか……いや、しかし。 櫂の目の前には、ここまですべての皿が殆ど手つかずで残されているというのに、牛フィレの赤ワインソースが運ばれてきてしまう。黒胡椒がたっぷりかかった、母好みのミディアムレア。弱りきった櫂の胃には、重たすぎる。そもそも、櫂の顎の力で、この赤身を噛み切れるかすら怪しい。 櫂は何か恐ろしいものを見るような視線を肉に向けながら、ナイフを入れる。その瞬間、指先が震えた。――切れない。もう櫂には、この肉を切る力すら残されていないのだ。何度やっても、切れない。櫂が焦る。そして焦れば焦るほど、うまくいかない悪循環が始まる。櫂の呼吸が、どんどん浅くなっていく。 「あら?櫂ちゃん、どうしたの?」すると母がその異変に気づいてしまった。そして、「あらあら。幾つになっても手がかかる子ねえ。ほら、ママがやってあげるわね」と、どこか嬉しげにそう言うと、櫂の方へ身を乗り出してナイフを取った。そして肉を切り分けてフォークに刺し、にこやかに櫂へと差し出す。「はい、あーん」それを見た櫂は、赤い瞳を大きく見開いたまま硬直してしまう。 ――まずい、来た。咄嗟に航は、テーブルに拳を付き、椅子から半分立ち上がった。口を挟もうとしたその瞬間、櫂が観念したように小さな口を開いてしまう。もはや逃げ場はなく、断ればどんなに恐ろしいことになるか、櫂は嫌というほど身にしみている。 肉が、口に入った。噛む――噛み切れない。 口内に広がる肉の脂、味、胡椒の刺激。身体が勝手に喉をぎゅっと締めて嚥下を拒否した。反射的に閉じられた櫂の瞳に、生理的な涙が浮かぶ。 「ほら、食べられたじゃない。好き嫌いしちゃダメよ、櫂ちゃん」 途端、母はご機嫌になって、自ら櫂のグラスに赤ワインを注ぎ始めた。そして、「このワイン、お肉にとっても合うのよ」と、櫂の唇にグラスを寄せる。「待て、アルコールは本当に無――」 航が完全に立ち上がり、そう声を荒げた時には、もう遅かった。櫂は肉ごと赤ワインを嚥下してしまう。 その喉が動いた瞬間、櫂の顔色が、サッと一気に引いた。同時に、口元を押さえて立ち上がる。 航は低く、怒気をはらんだ声で言った。「瀬戸」それを合図に、部屋の隅に控えていた瀬戸が、櫂に駆け寄る。その口元に白いナプキンを押し当ててやりながら、耳元で何かを告げた。すると櫂が、わずかに首を横に振る。 瀬戸はそんな櫂を支え、「――坊ちゃまは、ご加減が」と、航に向かい言う。航は母親を睨みつけたまま低く返した。「休ませてやれ」「……かしこまりました」殆ど瀬戸に抱えられながら退出する櫂の背中に、母の声が容赦なく浴びせられる。「何よ、白けちゃったわ。私が悪いみたいじゃない」 それは櫂の姿が見えなくなってからも続いた。「あの子ってば、いつもそうなの。大げさよね、航ちゃん、貴方もあの子の面倒を見てるんだもの、ママの気持ちわかるでしょ?」 その瞬間、航はドン、と両方の拳でテーブルを強く叩いた。母がビクッと肩を揺らす。 航はそのまま歯を食いしばり、爪が食い込むほどその拳を握りしめた。そして、しばらくして息を吐き出して、何事もなかったかのように椅子に座り直す。 安堵したような顔で、母がまた話し始める。その内容は、いかに櫂に自分が苦労させられてきたかという、掌返しもいいところなどうでもいい話だった。 航は目の前の食事を口に運びながらそれを受け取り、曖昧な相槌でそれを受け流した。――まるで、砂を噛んでいるような食事だった。