2-6.
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――頭痛がする。中央階段を登りきったところで、航は立ち止まり頭を抱えた。母親の強烈な毒を浴びた後は、いつも同じ症状が出る。自分ですらそうなのだ。櫂はどれだけ疲弊したか――。 その時、バン、と大きな打刻音が響いた。続いて二度、三度。航は即座に音がした方を向く。櫂の部屋からだ。息を詰まらせながら、急ぐ。 やや乱暴に扉を開き、その部屋に足を踏み入れた瞬間、航は理解をした。――背を壁に押し付けて、イヤイヤと激しく首を横に振る櫂。そして、その前で動けずにいる瀬戸。 その横に設置された簡易的な応接セットのテーブルには、むき出しの錠剤が数点、散らばっている。無残にも倒されたコップからは水が滴り、床に1本の筋を作っていた。テーブル向こうのソファーには、吐瀉物で汚れた上着が放り出されていた。櫂は元に着ていたワイシャツを羽織るのみ。ボタン代わりのチャックが開いたまま、薄い胸元が大きく開いていた。 寒さか、或いは恐怖か、緊張か。櫂の身体は小刻みに震えている。 ――航の気配に気づいた瀬戸が、一瞬だけ振り返って右に半歩ずれた。小さく礼をしながら、再び櫂へと視線を移す。「坊ちゃま」 そして端から聞いていてもわかる程、努めて穏やかに呼びかける。櫂は即座に首を振り、「いやだ、いやだ」と繰り返した。 航は慎重に櫂へと進む。途中、床にうつぶせで転がったままになっていたぬいぐるみを拾い上げる。 櫂が、航の存在に気がついた。反射的に後ろに下がるが、壁が邪魔をする。それでも櫂は背を壁に打ち付けるようにしながら、後退し続けようとした。 航は何も言わずに屈んで、櫂にぬいぐるみを差し出す。その長い耳で、櫂の左の掌を軽くつついた。せっかく塞がった傷がまだ開いていたが、今は気にしている場合ではない。 櫂の指先が、少しだけ動いた。――しかし、すぐにまた「イヤ」と言い、手で払ってしまう。ぬいぐるみは再び床にコロリと転がった。航はぬいぐるみを拾わず、櫂に視線を合わせたまま片膝をついた。 同時に、櫂の喉がヒクリと鳴る。そして肩が震えたかと思うと、大きく開かれた赤い瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ始めた。 航が差し出した手が鼻先まで伸びる。それをまた櫂は振り払って、小さく首を横に振りそのまま兄の目前で蹲った。 その瞬間、わあっと大きな泣き声が響く。航は一瞬彷徨った手を、そのまま櫂の背に着地させた。まずは指先で軽く触れる。拒絶がないことを確認して、手のひら全体を乗せた。 ゆっくり、だがしっかりとその背を撫でた。少しずつ距離を詰めて、やがてその横に並ぶ。しばらくすると、櫂が嗚咽の合間にポソポソとしゃべり始める。 「……ごめんなさい」ひどく震えている。絞り出すような声だった。「ママ、ごめんなさい……」航の眉が寄せられる。「こぼして、ごめんなさい。きたなくして、ごめんなさい……ごはん、たべれなくて、ごめんなさい。」また、泣き声が上がった。航は思わず瀬戸を振り返る。彼もまた、沈痛な面持ちでそれを見ていたが、航と目が合うと静かに一礼した。「わがまま……して、ごめんなさい」そしてその言葉を契機に、ゴツ、と鈍い音が響く。「ママ、おこらないで」ゴツ、ゴツ、と音が響く。額を床に打ち付け始めた。航はその後ろ襟を引いたが、止まらないするとタオルが差し出された。瀬戸だった。 航は隙を見てそれを床に敷いてやる。止めることはせず、ただじっと待つ。「カイ……、もう、わるいこしない。いいこする、いいこする……から」櫂の贖罪は続く。かつて、航が幾度となく目にしてきた光景と全く変わらない。 「ママ、カイのこときらいにならないで」 ――わかっている。ここで止めるのが悪手なことを。それでも、あまりにも痛くて、辛くて……。「櫂」航はその名を呼ぶと、櫂の背を引き上げた。そのまま抱きしめる。櫂は航の胸に頬をひっつけ、その赤い目をパチクリとさせ――。「……にいに」そう、やけに平坦な声で吐き出して、兄を押し戻した。そしてその次の瞬間、また眉をギュッと寄せかと思うと、また大粒の涙をこぼし始める。「にいに……なんで」航はぎくりと肩を揺らす。櫂はまっすぐ航を見つめながら続けた。「カイ、わるいこした……?」航は、何もせず。再び様子を見守る。「にいに……」そしてそこからまた始まる謝罪の嵐だ。 「にいに、ごめんなさい。にいに、わるいこして、ごめんなさい」 その体がまた前かがみになりかける。航は咄嗟にそれを受け止めて、態勢を戻してやる。再び櫂が、わあっと泣く。――航の腕を握りしめて、泣く。航はまた目を逸らしたくなったが、寸前の所で踏みとどまった。 ――これは、罰だ。航はそう、自分に言い聞かせる。 かつて、櫂を拒絶し、見捨てた罰。だから、目を逸らしてはいけない。――受け止めなければ、ならない。「にいに、カイを、おいてかないで。いらない、しないで……」「……」 航は静かに床のウサギを拾う。そしてシクシクと泣く櫂に、もう一度差し出した。「……櫂、やるよ」 そして、できるだけ高く、穏やかな声色で言う。櫂がピタリと止まった。緩やかにその顔を上げる。「新しいお友だちだ」「……」その声が震えそうになるのを懸命に堪えながら、航は続けた。「……俺が作ったんだぜ、すごいだろ」「……」「足のとこ、お前の名前だ。わかるか?――櫂のK、それから……如月のK。あ、俺とお前、一緒なんだな、イニシャル。――ま、兄弟……だもんな。一緒がいいよな」これまで幾度となく繰り返し、今やお決まりとなってしまった"台詞"を、ただなぞっていく。 しかし、櫂の表情はみるみるうちに明るくなった。ウサギのぬいぐるみと兄を順番に見るのを何度か繰り返した後、そっと手を伸ばした。 その白い指先が、ウサギに触れる、掴む、引き寄せる。そして、それを胸にギュッと抱いて、ふにゃりと笑った。「にいに、ありがと」 櫂は航の胸の中に飛び込んで、くっついた。航が抱いてやると、甘えて胸に頬を擦りつける。「おなまえ、なんにしよー」「……なにがいいかな」「ウサギさんだからね、ウサちゃん」「……そのまんますぎるだろ」「ウサちゃん!」「……わかったよ」 航は、再び櫂を抱きしめた。今度は、先ほどの様に拒絶されることはなかった。そのかわり、一通りウサギを見つめた櫂が顔を上げて航に問う。表情がスン、と抜けた。「にいに。カイのこと、きらいじゃない?」 ――刹那、航の喉奥がギュッと締まった。わずかに口を開き、そしてまた閉じた。嫌な味のする唾液を飲み込んで、航は何とか口端を押し上げ笑顔を作る。「……あぁ」絞り出すような声だった。「もちろん……」櫂は再びウサギに視線を移しながら、航の胸に頬を擦り付けて、低い声でボソリと呟いた。「よかった」 途端、櫂の体がふっと弛緩した。航はウサギがまた床に落ちるのを横目に、その体を受け止めた。櫂はゆっくり瞳を閉じて、すうっと大きく息を吸った。そしてそれを深く吐き出すと、動かなくなる。航はただ櫂を抱きながら、その様子を見守った。 「――若さま。ベッドにお運びしましょうか?」十分程そうしていると、瀬戸が跪いて言った。「……いや」航は首を横に振り、赤くなった櫂の額を撫でる。「恐らく、そろそろ……」 すると、そのタイミングで櫂の瞳がゆっくり開いた。みるみるうちに、赤い瞳に意思が宿っていく。そして、勢いよく航から離れ、眉を寄せた。「……え、兄さん……?」第一声は、困惑に満ちたものだった。「え、あ……ごめんなさい。なんか、抱っこ……」「いや、構わない」櫂は左手で頭を押さえながら目を泳がせた後、兄の方を見上げて、おずおずと尋ねる。「……ここ、オレの部屋?ごはんは……?母さんは……?」航は一つ息を吐くと、ウサギのぬいぐるみをまた拾って櫂に渡した。その流れのまま立ち上がり、「食事は終わったよ。母さんは、ご満悦だった。……大丈夫だ」と、返す。 果たしてそうだっただろうか。 櫂は眉を寄せながら思案するが、思い当たらない。最初のオレンジを拾って食べていたあたりから、どうも記憶が怪しい――、が。 まあ、兄さんが大丈夫と言うのだから、そうなのだろう。現に、母さんは、この部屋にいないし。もしも何かあれば、部屋まで来て怒り散らしている筈だろうから。――良かった、自分はうまくやれたんだ、きっと。 櫂はそう思い直して、「ふうん」 とだけ答えて、兄に続いて立ち上がった。 瀬戸が用意した元のスラックスへと履き替えた櫂が、寝室エリアからリビングエリアへと戻ってきた。兄は応接セットに腰を下ろしスマホを見ていたが、その気配に顔を上げる。「大丈夫か?」「なんか手の傷口開いちゃってた。でも、爺に手当てしてもらったから、平気」「……そうか」 ちょうど瀬戸が遅れて寝室エリアから出てきたので航が目をやると、彼は小さく頷くに留めた。 航は特にリアクションせず、横に腰を下ろした櫂を改めて見る。すると櫂は、航を見上げてきた。――目がきちんと合う。大丈夫……、か。 航は一つ息を吐くと、スマホを胸ポケットにしまいながら言う。「大丈夫なら、ドライブでも行かないか」「……ドライブ?」櫂は怪訝そうな顔をする。兄からそんなお誘いを受けたのは初めてだった。 そもそも、櫂は車に乗るのがそんなに好きではない。音がうるさすぎるのだ――特に兄の車は。 一方で、恐らく今日はもう、ここに泊まることになるだろう。ならば、この家にいる時間を少しでも減らしたい。少なくとも、兄とのドライブまで母がついて来て、怒り始めることはなさそうだし……。 そう思い直して、櫂は頷いた。「うん、いいよ」 櫂は航の後について、エントランスホールを出る。すると前庭に設けられた車寄せに、見慣れない車が停められている。真新しい、スポーツタイプの白いセダンだった。「やっと納車されたんだ」航はそう言うと、車の周りをぐるりと一周した。かと思えば、スーツが汚れるのも気にせずに地面にへばりついて下からフロアを見て、その後にボンネットを開いた。手招きするので櫂が寄ると、予想外にも中はすっきりした収納だった。「フロントトランク広いなー。さすが電気自動車だよなー」――珍しく、完全にはしゃいでいる。ご満悦だ。一方、櫂は首を傾げてたまま、「電気……自動車?」と、問い返した。「知らないのか?」櫂は、こっくり頷く。「なるほど。じゃあ、百聞は一見にしかずってやつだな。ちょうどよかった、早速乗ろう」 航はそう言うと、ニッと笑って車に近づく。するとスッとドアハンドルが出てきたので、櫂は思わず「魔法?!」と驚いてしまった。しかし、兄に尋ねるとまた呆れられそうなので、そのまま黙っていることにした。