2-7.
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櫂は、航が運転席に乗り込んだ瞬間に目を閉じて身構える。始動時のエンジン音と振動が、どうしても好きになれないからだ。 しかし今回は、いつまで待ってもそれが一向に来ない。おかしいと思って目を開くと、もう既に車がスーッと動いていたので驚いた。「すごい静かだよなー。」目をパチクリとさせたままの櫂に、ハンドルを切りながら航が弾んだ声で言った。 それから櫂は、ふといつもと見える景色が違うことに気が付いた。不思議そうに首を傾げていると、その横で航が、「左ハンドル久しぶりだな〜。こんなだったっけなあ」と、計器やミラーを確認しながら、楽しそうに呟く。櫂はそれで、人知れず納得した。 ――そっか。ドアを開けてくれた使用人に促されるまま乗り込んだから、全然気が付かなかった。 車は屋敷の門を出るとすぐに右折した。そしてまたすぐ横の角を曲がって、直進していく。そこは、車庫や使用人たちの寮へと続く如月家の私道だ。およそ200メートルほど、まっすぐに延びている。当然、ここを走行できる車は限られている。そして、この時間は殆ど誰も通らない――ということで。「よし」航は突き当たりでUターンをして一度完全に停車をすると、グッとハンドルを握りしめた。 「行くぞ」 そして、いきなりアクセルを踏み込む。その瞬間、ぐんとシートに背中が押し付けられて、櫂は思わず息を詰まらせた。 目の前の景色が一気に変わり、櫂が驚いたその次の瞬間、今度は身体が前に押し出される。ほとんど間を置かず、航がきつくブレーキを踏んだからだ。 「はは、すげえ」航はハンドルを軽く叩きながら笑う。「この加速はやばい!なあ、櫂」「う、うん……」三半規管が弱っている櫂は、若干のめまいを感じながら何とか頷く。 一方、航は楽しそうにまた車を走らせ始めた。今度は私道を抜けて、公道へ。穏やかな走りに櫂はホッと胸を撫で下ろす。室内は静かで、振動も少ない。慣れてしまえば、いつもよりもずっと楽なことに気がつく。流れ行く景色を見る余裕があるほどだ。「セダンってやっぱ、落ち着いてるんだなあ」ふと、高速の入口に向かいながら、航が呟く。 「セダン、てなに?いつものと違うの?」「いつものはクーペ。ドア2枚しかないだろ」「そうだっけ」「……そうだよ。ガンガン走りたいスポーツタイプのクーペ比べて、セダンはゆったり乗りたい人向け。とは言え、これはスポーツタイプのセダンだが……」「……結局どっち?」「……説明が、難しいな」だんだん自分でも何を言ってるのか分からなくなってきたのか、航が珍しく困ったように頭を掻いたので、櫂は思わず吹き出した。そして、「……オレ、この車好きかも」と、シートに背中を預けながら穏やかに続けた。すると兄は「そうか」とだけ返してまたハンドルを回した。滑らかな旋回と共に車が高速へと乗り込んでいく。車内があまりにも静かすぎて、櫂はだんだん眠たくなってきた。 思い返すと、今日は大変な一日だった。誉と一緒だった、あの穏やかな朝が、もはや夢のように遠い過去のように感じる。 そこから順番に、今日起きたことを思い出そうとしてみた。しかし、考えているうちに、どんどん眠たくなってきてしまう。そして、小さく微睡みながら、櫂は思う。 ――やっぱり、誉と一緒がいいな…… 誉といられるなら、なんにもいらないのにな…… 車の静けさも相まって、ふぁっとあくびが零れた。「今日は、疲れたなあ」すると航がまた、そんな珍しいことを言ったので櫂は驚いてしまう。「……兄さんも、疲れるの?」「お前、俺のことを何だと思ってんだよ」「……何となく、兄さんは疲れないと思ってた」「普通に疲れるに決まってんだろ。今日みたいな日は特に、な。さっきなんか、疲れて頭痛すぎて鎮痛剤飲んだし」「……兄さんも、薬飲むの?」「そんな意外そうな顔するなよ、当たり前に飲む。それこそ、血圧の薬なんか毎日飲んでるぞ」 「ええ……早くない?」「いや、俺もそう思ってな。思わず主治医に食って掛かったんだけどさ……。数値見たら、仰る通り過ぎてマジで引いた」「……大事にしてね。兄さんは大切なんだから」「お前もだろ」「オレは……兄さんと違って弱いし……。ちゃんとしてないし……」航は、ぼそぼそとそう言って俯く弟を、横目でちらりと見る。それから小さく息を吐き、言い聞かせるように言った。 「当たり前に、お前も大切だ。だから皆、薬を飲まそうと――生かそうと必死にやってきた。瀬戸を見ろ、ずっとそうだろ。普通なら心が折れるぞ。俺も誉も口うるさく言うのは、お前に生きて欲しいからだ。……それだけ皆、お前が大切だってことだ」「でも」「お前は"でも"が多い」「……おくすり、きらい」「……お前、話聞いてたか?って、おい、横向くな。こっち見ろ。――ったく、どんどん誉に似てくるな」 櫂は航の大きなため息の横で、人知れずふふっと笑った。そして穏やかな声で言う。「……疲れるのも、おくすりも……。兄さんも一緒で、良かった。安心した」「――なんだよ、それ」航は鼻で小さく笑うと、前を向いたままハンドルを切った。それ以上は何も言わない。 そのまましばらく、車内にはエアコンの低い音だけが流れた。やがて、それに小さな寝息の音が混ざり始める。 航は少しだけ笑むと、赤信号のタイミングで上着を脱ぎかけてやった。――櫂が車で寝落ちたのは初めてだ。「……買ってよかったな、ホントに」航はそう独りごちると、夜の街を進んでいく。次に櫂が目を覚ました時、車は完全に停車していた。外から音が聞こえる――兄の声。それから……。 櫂は急いでシートから背を離して起き上がった。ずるりと落ちた上着を引き上げながら窓の外を見ると、まず、兄が見えた。そして、その先に居たのは――。「ほまれ!」思わず大きな声を出し、運転席の方に乗り上げようとした。が、シートベルトに邪魔されて、そのままつんのめってしまう。 すると、そんな櫂の惨状に航が気がつく。シートベルトと格闘している櫂を、ガラス越しに呆れた顔で覗き込んで来るので、櫂は膨れっ面をして返した。 その時、カタリと音が鳴りドアが開かれる。「――櫂」すぐに誉の優しい声が聞こえる。そしてその顔見た瞬間、櫂は胸の中に熱いものがこみ上げるのを自覚した。それは、櫂の喉をギュッと締めて、鼻の奥をツンと痛くする。 ――泣きそう。そう思った瞬間には、両方の瞳からボロボロと涙が溢れていた。 誉は何も言わずにシートベルトを外してくれる。そして片膝をついて両手を広げたから、櫂はそのまま誉に抱きついた。手に力を込めると誉も同じように強く抱いてくれる。 祖父に言われたこと。兄が言ったこと、そして、これからのこと……。 誉に話さないといけないことが沢山あったのに、抱きしめて貰ったら、全部どこかへ飛んで行ってしまった。 「起きたなら、早く連れて行ってくれ」誉の背後に回った航が、ため息交じりに言った。「――そうだね」櫂は顔を上げ、誉は頷く。 そして櫂の頬を優しく撫でて、その頬を伝う涙を指で拭ってやりながら、「おうち、入ろうか。……歩ける?」と、優しく微笑みかける。 櫂は頬の袖口をキュッと握り、浅く頷いた。そのまま誉に手を引かれ、兄の上着を落とさぬよう気をつけながらゆっくり車から降りる。 助手席に上着を置いてから兄の方をみると、丁度後部座席から鞄を二つ取り出しているところだった。櫂の通勤用鞄と、もう一つは大きなボストンバッグ――お泊り用だ。航はそれを誉に差し出して、「明後日の早朝、迎えに来る」とだけ告げた。誉は頷き、鞄を受け取る。それから航は櫂の方を向いて、「……今日はよく頑張った。 ――たくさん"甘え溜め"しとけ、な」そう言うと、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてくれた。――その仕草は、誉に比べれるとだいぶ雑ではあったが、とても温かく優しかった。そしてその兄の言葉で、櫂は何となく悟ってしまった。 ――兄さんは、誉から自分を引き離すつもりなんだ。 祖父は、"使用人"との関係を断てと、兄に命じた。 兄は、"業務上は"と抵抗してくれたけど、業務外は……つまりはそういうことなのだろう。 兄の立場を考えれば、仕方がないことだと理解は出来る。それに、あの祖父の物言いからすると、自分らの関係をそのままにしておけば、誉にも何らかの害が及ぶ可能性だって否めない。――自分のせいで、誉が……。 櫂は下唇をぎゅっと噛んで、俯く。航は最後に大きく櫂の頭を一撫でして、言った。「さあ、行け。……行ってくれ」――音もなく走り去る白いセダンを、櫂は一度だけ振り返った。が、すぐに誉にぎゅっと手を握られて前を向く。「……ごはん、食べた?」 櫂は俯く。食事の記憶は、途中までしかないが、兄は「終わった」と言っていた。だから、浅く頷く。誉はそんな櫂の様子に、わずかに眉を寄せた。しかし、声色だけはいつも通り優しく、穏やかに続ける。「……そっか。じゃあ、このまますぐにお風呂入って、何か、あったかいものでも飲もうか。あ、それとも先がいい?」「……あと……」「OK」兄さんから、何か聞いた? ――と、尋ねたい気持ちはあった。けれど、聞いてしまったら何か崩れるような気がして、櫂は押し黙る。仮に話を聞いていたとして、誉はどう思っただろうか。 迷惑だ、面倒だ――もしちょっとでもそんな風に思われていたら……。カチャリ、と音がして玄関の扉が開かれた。櫂は、誉に先に入るよう促されその通りにはしたが、そのまま土間で立ち竦んで、上がろうとしない。誉は鍵を締め鞄を置いて、すぐに櫂を後ろから抱きしめた。そして、言う。「おかえり」櫂は何も言わない。ぎゅっと拳だけが握られた。そんな櫂に、誉が言う。「……大体のことは、航から聞いたよ」わずかに櫂の身体が強張る。 「でも、君の家は"ここ"だから。 だから、ね。おかえり、櫂。 ――愛してるよ」 ひくっと櫂の喉が鳴って、肩が震え始めた。誉はその手に一段力を込める。 噛み殺した様な泣き声をしばらく響かせた後、櫂は袖口で乱暴に涙を拭う。誉の腕を抱きしめる。 そして、やっと顔を上げて返した。 「オレも、オレも、ほまれのこと、だいすき。 ……ただいま!」