2-10.
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如月記念病院 理事会専用会議室は、臨時理事会開始を五分後に控え、張り詰めた緊張感に包まれていた。 今回の臨時理事会招聘者の系列新病院 如月 航院長をはじめ、出席者は既に全員が着席していた。 尚、理事会メンバーは、本家筋、分家筋の差はあるものの、全て如月家の親族が占めている。 重厚な木のテーブルを囲む理事たちは、誰ひとり私語を交わさず、ただ正面の扉を意識している。壁の時計が、静かに秒を刻んだ。 そして、定刻ちょうどに扉が開いた。理事長である如月家 当主がその姿を現した瞬間、室内の空気が一段引き締まる。椅子の軋む音が止み、わずかな物音すら消えた。 当主は会議室内を一瞥した後、入室する。昨日とは異なり介助人はおらず、杖もない。背筋は相変わらずまっすぐに伸びていた。ゆっくりではあったが、その足取りはしっかりしている。 会議室の中ほどで、当主は一度歩を止めた。そして、空いた航の隣席を見やると、「……あれは、どうした」と、口を開く。航が即座に答えた。「櫂は、体調を優先させて欠席と致しております」「体調?昨日は、ずいぶん元気そうにしておったではないか。よもや……逃がしたのではあるまいな」「いいえ。体調を崩したのは、その後です。母との会食に無理をして付き合った結果、倒れました。正直に申し上げると、今、ここに出せる状態ではありません」「……」 ほんの一瞬、空気が揺れた。その言葉に、数名の理事が視線を伏せる。誰かが小さく息を吐いた。眉を寄せる者、冷笑する者もあったが、皆一様に黙したままだった。 当主もまた、それ以上は何も言わず、フンとだけ鼻で笑うとそのまま席へと向かう。そして着席と共に、視線だけを航に向けた。航はそれを受けて静かに立ち上がると、声を張った。 「本日は、急な招聘にもかかわらずご参集下さり、ありがとうございます。ただいまより、臨時理事会を開始致します尚、本日、記念病院院長は不在により欠席。副院長に代理出席頂いていております。そして先ほど申し上げた通り、弊院内科医、如月 櫂医師も体調不良により、欠席とさせて頂きます」 そして航は一度、出席者たちを見渡した。「まず、本題に入る前に、一言申し上げます」それからそう言うと、丁寧に頭を下げる。「今回、当家次男、櫂の軽率な行動により、理事の皆様および、付随する現場の皆さまへの多大な混乱とご心配をおかけしたこと、院長として、また兄として、深くお詫び致します」 当主の次点である航が、先んじて自ら一族の理事たちに頭を下げ、謝罪をする。それは、如月本家の人間としては、異例の行動だった。当主はわずかに眉を寄せ、理事たちは動揺を以って若き本家跡取りに注目する。「本騒動は、私の管理が甘く行き届かなかったことが一番の要因です。 その責任は、すべて私にあります」 航はそこで一度言葉を切った。当主の様子を一瞬伺った後、理事たちの様子を改めて見渡しながら続ける。「その上で、本日は事実関係と今後の対応について、包み隠さずご報告とご提案を致します。ご意見、ご指摘はすべて承る所存です。気になる点があれば、何なりとお申し付けください」 理事たちが小さく頷くのを確認し、航は一度視線を手元の資料に落とした。しかしそれを開くことなく、再び前を向く。 すると当主が、「御託はよい。さっさと説明を始めろ」と、冷たく言いつけた。航は頷き、その通り続ける。変わらずその視線は、落ちない。 「それでは、本件に関する事実関係の確認結果をご報告致します。 まず、当該職員卯月 誉医師と如月 櫂との間に、不適切な関係があったという事実はございません」 当主がわずかに眉を寄せる。 他の理事が、「しかし、双方による婚姻届への署名があったと聞いている」と、言葉を挟む。これに対しても、航はすぐに受け止め頷いた。「はい。おっしゃられる通り、それは事実です。私も現場におりましたから、実際にこの目で確認をしております」「ならば、なぜ」「ご存知の通り、櫂は先天性白皮症です。この病がもたらす諸症状のうち、櫂においては特に視覚への過敏症状が強く出る傾向があります。そして、それが激しい痛みとなり突出することで、強い不安感やストレスへと結びつき、全身の過敏症状として表出します。実際、先日の緊急手術直後より、櫂には酷い感覚過敏症状が出ておりました。――二年ぶり且つ、長時間に渡る現場での指南。しかも難症例の急変に伴う緊急手術です。事前にできる準備も限られ、強い緊張とプレッシャーがあったことは想像に難くありません。更に、手術灯や計器のランプのちらつき、機器の電子音――全て櫂にとっては刃を向けられているに等しく、これらによる複合的なストレスがその主要因だと考えます」 それを受け、質問主が声を荒げた。「説明になっていない。それと婚姻届がどう繋がるのかね?」「弟の場合、感覚過敏症状が長く続いた場合、双極性障害に似た症状を引き起こす傾向があります。現に、緊急手術以降直後はパニック症状、そして夜間にかけ鬱症状、そして翌日、婚姻届を出した時点においては、軽躁状態であったと主治医の所見が出ております」 そこで当主が初めて口を挟んだ。「……主治医とは、例の吉高の」 「はい。曽祖伯母の孫で、精神科専門医の吉高 満です」「……」当主は黙ったまま、机を指先で一度だけ打った。「そして今も尚、突然泣き始めたかと思えば、激しく自己否定を始めたりと、その情緒は全く安定する兆しが見えません」航の言葉に続き、当主が低い声で繋げる。「つまり、"いつもの発作"だということか」「はい、そうご理解頂いて構いません」 会議室内が俄にざわめいた。そんな中、また先程指摘をした同じ理事が口を開く。 「火のないところに煙は立たぬと言うだろう。元より不適切な関係にあったのではないかね?それが発作により暴走し、件の騒動を引き起こした。そう考えるのが自然だと思うが?」 ――意地が悪い質問だ。航はわずかに目を細め、それからトンと軽く音を立て机に手をついた。そして声を落とすことなく続ける。「いいえ、その事実はありません。……櫂は幼少より病床に長くあり、非常に閉じられた環境の中で育ちました。故に、積極的に他人とのコミュニケーションを取ることが著しく不得手です。一方で、一度心を許した相手に対しては、かなり強く執着する傾向があります。尚、現時点、その対象は二名おります。まずは、瀬戸。ご存知の通り、我が家の執事です。幼少から現在に至るまで、櫂の専属として日常的なケアを担ってきました。そして、もう一人が……」「卯月医師だ、と」「はい」航は即座にそう答えると、深く頷く。 「卯月医師は、櫂が15歳の時より家庭教師を務めておりました。社会人になってからは、メンターとして必要に応じ日常的なケアも担っています。彼の強い指導力と尽力無くして、今の内科医 如月櫂は有りえません。彼も同様に考えており、それ故に、卯月医師に向けられるその執着は、瀬戸よりも更に強く出る傾向があります。そもそも、今回の事件の発端は、卯月医師の二年間の海外フェロー出向でした。その直後より、櫂は著しく心を乱し、強い自傷・他害行動を伴う退行や離脱など、複数に跨る諸症状が確認されたため、保護入院措置を取っております。初回の治療期間は半年に及びましたが、その後も症状は安定せず、期間や形態に差はありますが、医療管理下に置く措置を複数回取っています。そして今もなお、不安定さは残っており、寛解には程遠い状況です」 それを聞いていた当主が、冷たく言い捨てる。「つまり、依存だな」航は即座にそう訂正すると拳を握り、視線を落とした。そして声色を一段下げ、続ける。「いいえ。執着、です。卯月医師との初めての別離は、櫂に大きな喪失感をもたらしました。そして彼の帰任と共に、"もう二度と失いたくない"という思いだけが膨らみ、今回の奇行と呼ばれかねない行動に繋がったと結論づけています」 ――奇行。その強い言葉に、一瞬、会議室が静まり返った。一方、航は目を閉じて短く息を吐きしばし黙する。 それは、「彼もまた、弟の不安定さに振り回されながらも、真摯に向き合い続けているのだ」と、理事会に印象付けるには、十分な素振りだった。少しの間を置き、航が静かに続けた。「櫂は特に、症状増悪時に特異的な固着を示す傾向があることが分かっています。例に漏れず、今回の騒動も、術後ストレスによる過敏症状の悪化がその引き金でした。婚姻届については、一見、我々には突飛な行動にも見えますが、櫂本人にはその認識はありません。騒動の現場でも、櫂自身が"婚姻は、相手を法的に縛ることができる非常に合理的な契約"だと位置づけています。そこに恋愛感情があるとは到底、思えません。事実、卯月医師に対する感情表現も"大好きである"という非常に未成熟なものです」「だが、卯月医師も婚姻届に署名を返したと……」また別の理事が食い下がったが、航は一歩も引くことなく即応する。「卯月医師は櫂の執着に理解があり、また、その症状を熟知しています。それらを踏まえ、状況を加味した上での、やむを得ない対応であったという理解です」 もう一度、同理事が口を開きかけたその時。トントンと机を指先で叩く音が響いた。当主である。 彼は即座にその方を向き、口を噤む。引きずられるように室内が、ぴたりと静まり返った。一同が合わせて息を飲み、当主に着目する。当主は理事の面々を見渡し、最後に航を見据えるとその重い口をゆっくりと開いた。