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2-11.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

2-11.

本理事会の前半戦である事実確認結果について、言うべきことは、全て言い切った。――さて、当主は、どう出るか。 緊張が、走る。「状況は、わかった」当主はそう低い声で返した後、短く続ける。 「では、対応は」  ――想定通り。それを受けて航は、改めて拳を机に置いた。敢えて強めの打刻音を響かせた後、一呼吸をついてから答える。「櫂は、卯月医師の帰国以降、強い執着に基づく退行と自傷傾向が見られるようになり、私の監視下において経過観察を継続して参りました。が、昨日の母との会食をきっかけに、これらの問題行動がより顕著となりました。現在、櫂は非常に不安定且つ、危険な状態にあると判断せざるを得ません。よって、明日より保護入院措置を取ります」 俄に、当主の眉間に深いしわが寄る。「明日だと?何を悠長なことを。何故、本日からにしない。危険な状態なのだろう。この期に及んで、甘やかすのか?」航は、即座に首を横に振った。「甘やかしではありません、おじいさま。ご存知の通り、櫂は環境適応能力も著しく低いのです。急激な環境の変化は、パニック症状を誘発します。結果的に、症状をより急激に悪化させてしまう。ですから、本日は瀬戸の付き添いのもと、私の別宅にて保護観察と説明を行い、本人の納得を促しています」"瀬戸"という言葉に理事数名が顔を見合わせた。うち一人が、渋い顔で言う。「彼は、使用人だろう。医療従事者でもないのに、大丈夫なのか」航は、変わらず明瞭に回答する。「瀬戸は医師免許を有しています。過去、記念病院 小児科での勤務実績もあります。実際、櫂の幼少期におけるカルテの管理は彼に一任していましたから、彼以上に櫂の症状履歴を知り、対応に長ける"医師"はおりません」 そして航は間を置かず、更に畳み掛けるように続けた。 「櫂の処遇は、本日時点では一旦保留と致します。まずは保護入院による治療の進捗を見て、改めて協議させて頂きたい」 それには理事の一人が難色を示した。 「同じように入院させても、また結果は変わらないのでは?主治医の変更は考えていないのかね?」「考えておりません。引き続き内科全般を私、精神科は吉高で継続します」 そこで当主が口を挟む。「吉高は直系ではないが前当主の血を引く人間だ。他より余程信用できる」「ですが、彼はすでに本院を退職して……」「はい。ですから、当院にて本日付で吉高を櫂の主治医とする特別雇用契約を結びました。現在、事務手続き中です。明日には間に合わせます。問題ありません」理事は反論の糸口を失って、口を閉ざすしかない。  当主もまた、何も返さない。 ただ、指先で机を打ちながら航を注視している。航は目をそらさずに、さらなる一手を打つことにした。 「卯月医師についても、本日は現状維持を提案します。ご存知の通り、当院は二年前の経営統合以降、人員の離脱が続いております。未だ人手不足は解消されておらず、特に脳神経科はそれが顕著です。核である卯月医師を、今この段階で放出する余裕はありません」  理事の一人が、資料を片手にため息交じりに言う。「……さすがにそれは甘すぎやしないかね」「櫂先生はまだしも、卯月先生は……。彼の人事の時から感じてはいたが、明らかに私情が見える。君たちは"親友"だそうだね?仲良しこよしでは、経営は立ち行かないのだよ」「……卯月医師とは学友であり、親交が深いことも認めます。しかし、あくまでもプライベートでのことです。彼が当院に移ってからの脳神経科の成果は、数字にも顕著に現れています」航は視線を向けず、言葉だけで押し通した。 そして、改めて当主をまっすぐに見る。「昨日申し上げた通り、卯月医師の配置換えは、現場の破綻を招きます。加えて、今回の騒動を目の当たりにした職員が複数名おります。即時緘口令は敷いておりますが、卯月医師の急な現場外しは不自然であり、本件による不当な処遇であると受け取られかねません」 先程の理事が、眉をひそめ食い下がる。「職員の士気なんぞよりも、家の体面が……」「だからこそ、です」航が一段低い声で、被せ気味に返した。 「士気が落ちれば、現場が崩れます。現場が崩れれば、如月の名もまた、落ちます。……それだけは、あってはならないことです」 その言葉に、当主が目を細めた。そして短く問いかける。「ならば、お前はどう考える」  航は口を開き、ほんの一瞬だけ表情を硬くした。しかしすぐに持ち直して、堂々たる様子で返す。「……時間をかけて、“うまく”やる必要があります。あくまでも自然な異動に……或いは、自主的な退職として成立させる。いずれにせよ、今は時期尚早です」 その口上が終わった瞬間、当主は口元をわずかに緩ませた。それから浅く頷き、厳かに返す。 「お前の言い分は分かった。提案も了承しよう。ただし、一つ、条件がある」自然と当主に視線が集まった。 ――さあ、これが最後だ。どう出る。航はわずかな高揚と覚悟を胸に、祖父を見据える。当主は少しの間を置き、言い放った。「あれの保護入院中は、理事会の監査を入れる。病室には、監視をつけろ」 航の眉間にしわが刻まれた。 祖父がそこまで櫂の病状に固執することは、想定外だ。思わず理性を通さず、言葉が先に出る。 「それは……罰、ですか」当主はフンと鼻で笑い、答えた。「責任だ。お前が諾すれば、あやつの処遇も、該当職員の処分についても、今は現状維持を認めよう。お前が言う通り、現場が崩れては本末転倒だ」「……しかし、責任は私がすべて取ると」「その結果が、これだ」 航は黙り込み、唇を噛み締める。しかし、頷かざるを得ない。どう考えを巡らせても、今はそれが最良だ。 「かしこりました。――ありがとうございます」だからそう返し、恭しく一礼する。……握った拳に、自然と力がこもった。 これで終いかと、皆が思った。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。  次の瞬間。当主が、トンと机を鳴らし両手をついた。刹那、再び緊張が戻る。しかし当主は、思いのほか穏やかな声で続けた。「航、お前にあやつの再教育を頼みたい」想定外の連続に、航が戸惑う。「……再教育、ですか」「あやつは、このままでは……ならん」 そして当主は視線を落として、しばらく黙する。これまでとは全く異なる、異様なまでの歯切れの悪さだ。その考えがまとまらず、感情のまま話しているようにすら受け取れた。 しばらく間を置き、彼はゆっくりと口を開く。「立場も、影響力も……。すでに子どものものではないのに、中身だけが子どものまま取り残されている。それが、あの子が抱える問題の本質だ」 すると当主は、空いたままの櫂の席へと視線を移し、遠い目で見やる。「重い病があり、脆く、少しでも扱いを誤れば、壊れる。……そう思って、これまで多くのことに目をつぶってきた」そして目を伏せ、息を吐く。「――私も、甘かったのだ。生かすことを最優先にし、教育を怠ってきてしまった」俄に、皆がざわついた。公式の場で、当主が自ら非を認めたことは、これまで一度もない。ただ驚きと動揺が広がっていく。航もまた、大きく目を開いて、祖父を見つめていた。 ――返す言葉が、全く出てこない。自分でも可笑しいと分かるほど、動揺している。 そんな一同を尻目に、当主は続けた。「だが、昨日あの子を見てはっきりした。あまりにも幼すぎる。あれは退行症状ではない。あの子の本来の姿だ。――さすがに、見過ごせん」  そして航に視線を戻し、はっきりと言い切った。「だからこそ、お前が叩き込むのだ。如月の人間としてのやり方、そして立ち振舞い。求められるもの、守るべきこと、役割……全てだ」 あまりにも突然に畳み掛けられた航は、反射的に口を開く。「しかし、櫂は今――」「ひと月、時間をやろう」 そして当主は、ゆっくりと椅子に背を預けた。彼が一息つくのを待ち、航は改めて確認をする。「ひと月後に、結果を出せ……と?」「進捗でも構わん」「……進捗、ですか」 航の目がわずかに泳いだのを、当主は見逃さない。そしてその目を細め、孫へと諭すように言う。 「心配には及ばん。あの子は誰よりも素直で、利発だ。そして、お前は誰よりも如月の真髄を理解している。お前が教えれば、あの子は必ず成し遂げる」 これは命令ではなく、課題だ。 当主としての器を、試されているのだ。 航は、即座にそう理解をした。  当主は親族に家の道を説き、導く。櫂を――弟をその練習教材として使おうとしている。 しかし、だからといって……こんな。こんなに残酷なことが、あるか。 だって櫂は、"そんなこと"を、全く望んでいないのだ。どうする、どうしたらいい。どう立ち回れば、うまくいく――弟を、救える。  考えはまとまらない。しかし、拒否することは許されない。 だから航は、答えが見つけられぬまま、「――かしこまりました」とだけ答え、深く頭を下げた。 当主はそんな航に向かい満足気に頷くと、最後の言葉を口にした。「本事案及び、櫂の対応は、全てこの航に一任する。 ――以上だ」★ 理事会を終えて自身の執務室に戻るや否や、航は荷物を投げ出し、上着とネクタイを捨て去り、靴まで脱いで応接セットにそのまま沈み込んだ。 そして、呆れ顔のままそれらを片付ける満に、「頭がめちゃくちゃ痛え」と、左手を差し出した。「またですか?」満はため息をつきながら、慣れた様子で薬を用意をする。「みつる、珈琲も〜」 途中、そんな甘えた追加要求が来たが、ピシャリとそれを拒否した。「水にしておきなさい。また胃が荒れますよ」「これはカフェイン配合だし」「屁理屈を言わない。珈琲はおあずけです」 「って、お前は飲むのかよ」 満は涼しい顔で航には白湯を、自分には淹れたての珈琲を持ち、その横に腰を下ろした。 航は半分膨れながら薬を飲み干すと、満の肩に頭を乗せ目を閉じる。そして、ポツリと言った。「嫌な、会議だった」「そうですね」「説明のためとはいえ、勝手に弟のプライバシーを売って、親友を切り捨てるようなことも言った」「そうですね」 航がそこで、一瞬黙りこんだ。対する満は何も言わずに、書類に目を通し始める。 少し後、また航が口を開く。「……誉は、ここに居てくれるかな」「さあ。彼なら行き先には困りません。こちらが義を欠けば、固執する理由はない人です」「……だよなあ」 そう呟き、ため息をつく航を横目で見ながら、満は淡々と返した。「しかし、そうさせないのが貴方の仕事でしょう」「……分かってるし」「まあ、大好きなお友達に嫌われちゃうかも〜と、泣いているようでは無理ですね」「な、泣いてねえし」 すると満が、航の目尻をそっと拭う。指先がわずかに湿ったのを見ぬふりをしてから、「よく頑張りました」と言って、その頭をゆっくり撫でてやった。航は珍しく何の抵抗も見せず、ただ浅く頷く。そして少しの間を置いた後、ふと思い出したように呟いた。 「……あいつら、仲良くやってるかな」「先程、誉から電話がありましたよ。カイは、すこぶる元気だそうです。昼食も完食したとか」「……そっか、ならよかった」「櫂が甘えん坊で、蕩けそうなほど可愛くて、明日まで心臓がもつ自信がないそうです」「……あの野郎」 弟たちの楽しげな様子を聞いて、ようやく航は気が抜けたのか、肩の力を抜いて少しだけ笑った。それから、小さな欠伸を一つする。 「……疲れた」「休んでください」「うん」「どうせ、昨夜もろくに寝ていないのでしょう」「うん」「無理ばかりしていると、本当に倒れますよ」「うん……」「……聞いてます?」「……うん」「航」「……」 そして室内に響き始める、穏やかな寝息。  満はため息をつき、航の頭をそっと自身の膝に導いた。そして自分の上着をかけ、起きている時よりも髄分幼く見えるその顔をしばし見つめる。  それから、もう一度だけその頭を優しく撫でてやった後、再び机上の書類へと視線を落とした。