2-12.
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洗面台の水を止めた拍子に、カイは、ふと鏡の中の自分と目が合った。 やっぱ、変だ。昨日祖父が言った言葉が、まだ耳に残っている。 ――しかし、そう言われても。 カイは、わずかに眉を寄せた。全体的な色の白さと目の色は、どうにもならない。生まれつき、こうなのだ。そして、首を傾げる。そもそも、祖父が言う「如月家の格を守る装い」ってなんだろう。――まず思い当たるのは、服装だ。しかし昨日身につけていたのは、誉が選んでくれたもの。出かけに、やれ可愛いだとか、似合うだとかたくさん褒めてくれていたから、大丈夫なはず。「あ、眼鏡かなあ」カイは、少し前のめりになって鏡を覗き込む。――確かに昨日は、眼鏡を外して行った。 以前、祖父に手を上げられ、その拍子に眼鏡が壊れたことがある。あの時は、本当に困った。だから今回は外して行ったのだが……それが気に入らなかったのだろうか?カイはもう一度、鏡の中の自分を見た。そして、ため息をつく。祖父の要求とその意図が、やっぱり分からない。――誉に婚姻届を出したら、思ったより大変なことになってしまった。勿論、流石のカイも、多少文句を言われることは想定していたが、まさかここまでとは思わなかった。 だって、自分は如月家の何の役にも立たない。兄と違って出来損ないである自分は、"要らない子"。そう思ってずっと生きてきたし、実際に家の人間が自分に向ける態度もそうだった。だから当然、大きな問題にはならないはずだった。それなのに。 役立たずが自ら出ていきたいと言っているのに、こんなにも強く反対されるなんて、本当に意味が分からない。 ――完全に、想定外だ。「なにがそんなに、気に入らないのかなあ」カイがそう呟いて肩を落とした、その時。「あぁ、こんなところにいたの」洗面所のドアが開いて、誉が入ってきた。「ほらほら、身体冷えちゃうよ。こっちにおいで」 そしてカイの後ろに立ち、その肩を優しく撫でる。カイはそんな誉の姿を、鏡越しで改めて見た。身長はどうにもならないが、背筋がピンと伸びているのは、もしかしたら真似が出来るかもしれない。そういえば、兄も祖父も、猫背気味な自分とは異なり、背筋が無駄にまっすぐだ。だから、カイも背中を伸ばして立ってみた。――多少、マシな気はする。が、そこまで効果があるとは思えない。そして、きつすぎて、体勢を長時間保持できない。「カイ、おやつにしようと思うんだけどさ。手伝ってくれる?」「……うん」カイがそう曖昧に返事をすると、鏡の中の誉が屈んで、視線を合わせてきた。 その瞬間、カイがわずかに目を開く。 その手が自然と肩から前に流している緩めの三つ編みにそっと触れた。 一方、誉はそんなカイの肩をトントンと撫でた後、明るい声で言う。 「よし、そうと決まったら、行こう」それから、カイの背中を押してリビングの方に向かうよう促してくる。 カイはそれに従い踵を返す。そのほんの寸前、もう一度鏡の中の誉と自分を確認し直し、小さく頷いた。――わかったぞ。きっと、髪型だ。★ 今日のおやつは、ふわふわで甘いフレンチトースト。柔らかくて食べやすく、カイの数少ない好物の一つだ。カイは誉に渡された卵を、ボウルの中に割り入れる。「うん、卵割るの上手になったね」すると誉が作業の手を休め、そう褒めてくれた。「まあね」カイは少しだけ得意げにそう答えると、二つ目の卵をコンコンとキッチン台の端っこで軽く叩いた。 そして、割られた卵の中身が再びボウルに滑り落ちた、その時。カウンターに置いてあった誉のスマホがブルブルと音を立てて震える。 カイは反射的に首を伸ばす。同時に誉がそれを持ち上げてしまったが、部長という文字がその画面に映っているのを、かろうじて読み取ることができた。 一方で、誉もまた、それを見ながら渋い顔をする。スマホはまだ、しつこく震え続けている。「出たら?」カイは三個目の卵を手に取りながら、何て事のないように言った。 例え勤務時間外であっても、誉に職場から電話がかかってくることは、そんなに珍しいことではない。 誉は少し悩んだ後、「ちょっと待っててね」とだけ言って電話を取った。そして切りかけのパンもそのままに、リビングを抜けて寝室に入っていく。それもまた、いつも通りだった。 一人キッチンに残されたカイは、無事卵を全て割り終えて次の工程に入る。フレンチトーストについては、何度も誉の手伝いをしているからやり方を覚えている。 まるで、料理番組のように用意されていた牛乳と砂糖を、ボウルに入れる。それから泡だて器を使って、それらを丁寧に混ぜ合わせ始めた。 これはいつも最初が難儀で、なかなか卵と牛乳が混ざらない。カイは次第に前のめりになって、ボールを抱え込み、躍起になって卵液を撹拌し始める。 すると、それに夢中になりすぎて、まず卵液以外の視界がぼやけ、世界が遠ざかる。合わせて、その姿勢もどんどん悪くなっていく。 背中を丸め、肩をすぼめ、ボウルに顔が近づく。まるでボウルにかじりつくようになったその時、何かが泡だて器に引っかかった。それをきっかけに、急速にカイの視界と世界が"戻って"くる。「あ、やべ」 カイは手を止めてそう呟くと、ボウルから三つ編みを引き上げた。三分の一程が卵液に浸り、ベトベトに汚れてしまっている。カイは、すぐに眉を寄せた。 汚れた髪があまりにも気持ち悪くて、拭うものを探す。手拭きのタオルを見つけてやってみたが、うまく取れない。更に悪いことに、取ろうと悪戦苦闘しているうちに、三つ編みはグチャグチャにほどけ、付着した卵液が乾き始めてカピカピに硬くなってきていた。 それがまたより気持ち悪くて、カイは半ば焦りながら次の解決方法を探す。そこでまず目に入ったのが、誉が置いていったパン切り包丁だ。「……そっか。切っちゃえばいいじゃん」 嫌なものは、排除してしまえばいい。それに、そうしたら髪型も誉みたいに短く、かっこよく整うだろう。祖父が言う「如月家の格」ってやつも、多分出る。そういえば、兄からもいつも「髪を切れ、邪魔くさくてみっともない」って怒られてたし、一石二鳥じゃないか。 そんな短絡的な考えに一つも疑いを持たず、パン切り包丁を手に取るが、刃が長過ぎて顔に近づけるのは些か抵抗がある。――というか、シンプルに怖い。 さて困ったぞと改めてあたりを見渡すと、壁掛けに引っかかっているキッチンばさみに目が留まった。 ――これだ。 カイは少し背伸びをしてそれを手に取り、問題の箇所の少し上を、はさみの刃で挟む。そしてなんの躊躇もなくその指に力を込めた。「――お待たせ……」スマホを尻ポケットにしまいながらダイニングに戻ってきた誉は、そのショッキングな光景に思わず足を止めた。 カイが、その白く美しい髪に刃を入れている。誉は俄かには信じられず、ただ息を飲む。――何故、そうなった。状況が全く理解できない。 しかし、誉が混乱しているその間も、ザク、ザクと乾いた音が無情にも響き続ける。 誉は、細かいことはさておき、ともかく止めなければと慌ててキッチンに飛び込んだ。そして床に落ちた髪の束を見た瞬間、誉は全てを理解した。 ――汚れた三つ編み。散った毛。 止まらない、鋏。 カイはその真ん中で、中途半端に切られ垂れた髪が顔にかかるたび、躍起になってそれを切っている。 チクチクとした細い毛先が薄い顔の皮膚に当たる不快感。そのストレスから、過敏反応が出始めているのだ。 誉は、喉の奥がぎゅっと締まるのを抑えながら、そんなカイにゆっくりと声をかける。「はさみ、お顔に近いよ。……危ないよ」 その声に反応して、カイの手がぴたりと止まる。顔を上げて、誉の方を見た。――カイは、刃物を持っている。 だから誉は、ともかく刺激をしないことを優先に、少しずつ慎重に距離を詰めた。そしてその三歩手前で立ち止まると、屈んで目線を合わせてから、そっと手を差し出した。「髪、汚れちゃったの?……気持ち悪かったね」カイは、差し出された誉の手を注視したまま、浅く頷く。誉は一瞬顔を伏せて、ふっと一度息を吐き出した。それからもう一度顔を上げて、「――前の方は上手にできたね」と、優しく声をかけるとほんの少しだけ笑ってみせる。するとカイの肩から、力がストンと抜けた。 「後ろの方は……ちょっとだけ、難しいね。俺がやっても、いいかな」 「……うん」 ――幸いなことに、カイは素直に従ってくれた。誉の手へと、キッチンばさみが無事に渡る。「ありがとう」 受け取ってすぐ、誉はそれをさりげなく背中に隠した。また、同時にカイの気持ちが逸れているうちに、その真横のパン切り包丁もこっそり取り上げて、同じようにその視線から隠す。「ちょっと……あっちに座ろうか。その方がやりやすいから、ね」「うん」 カイは素直に頷いて、誉の方に左手を伸ばしてきた。だから誉はそれを取ってぎゅっと強く繋ぎ、カイをダイニングチェアに誘導する。 そして座らせるなり、誉は膝にウサちゃんを押し付けて指示をした。「抱っこして。待ってて」「うん」 そのまま誉は、洗面所へと急ぐ。そしてそこに入るや否や、まず洗濯機に刃物を放り込んでチャイルドロックを掛けた。その瞬間、体から力が抜け、ふううっと深く息を吐きながらその場に膝から崩れ落ちる。 ――しかし、ゆっくりはしていられない。すぐに尻ポケットからスマホを取り出して、満の番号を呼び出し通話ボタンを押す。 そのままそれを肩に挟み、今度は洗面台から散髪用のツールセットを取り出した。同じタイミングで、満が電話に出る。「航、いる?」挨拶もなくそう伝えると、満がすぐに電話を取り次いでくれた。 『……何かあったのか?』――さすが、察しのいい男である。 誉はまず最初に詫びを入れ、事の顛末を航に説明した。航は特に声を荒げるでもなく、誉を責めるでもなく、穏やかにこう言った。『――そうか。お前がついていてくれて良かったよ。ありがとう』 しかし、それがより一層、誉の罪悪感を助長する。 「ううん。俺がついていながら、本当に申し訳ない。……迂闊だった」『いや、怪我がないならいい。髪も、切れてよかった』 誉は小さな違和感とともに、眉を寄せた。「いや、そんな軽い話じゃ……」 『ああ、分かってるよ。その突飛な行動自体は、普通じゃないな。良くなったように見えてはいたが、やはり――』 そこで、初めて航の言葉が詰まった。その隙に、誉が代わって口を開いた。 航の物言いに気になるポイントはあるものの、今は一旦飲み込むことにする。不安定になっているカイを一人で持たせているのだ、悠長に話をしている時間はない。「髪型のことだけど……。ちょっと……いや、あまりにもぐちゃぐちゃになってしまったから、一旦俺が整えてしまおうと思う。いいかな」 航はすぐ返してくれた。『あぁ、かまわない。手間をかけさせてすまない。ただ――あまり、整えすぎないでくれ』その言葉の意図が掴めず、誉は更に眉を寄せる。 「……どういうこと?」電話の向こうから、小さな咳払いが聞こえた。それから航は、声のトーンを一段落として返してくる。『今日の理事会で、明日より、櫂を保護入院させることが決まった』「……え?」『だから、発作的に切ってしまったことにする。むしろ……都合がいい。不幸中の幸いだ』「ちょっと待って、航。君は、何を言ってるの?」 するとその時、後ろから満の声が聞こえた。来客対応を促す声だ。航は更に声を潜め、『――このことは、櫂には内密に。すまない、後でまた連絡する』とだけ言って、一方的に通話を切ってしまった。 「ちょっ、航、航!」 その態度に、誉の中で何かがぷつりと切れた。勢いのまま壁を殴りかけた――その時。 「ほまれ……まだぁ?」 と、カイの声がリビングから聞こえた。誉は寸前で、何とか踏み留まる。 そして、こめかみを抑えながら頭を左右に振り、短く深呼吸をした。 「……今行くよ」 そしていつもの調子でそう返し、カイが待つリビングへと、急いで戻る。 椅子の上のカイは、誉の姿を見つけるなり、パッと顔を明るくして笑った。 誉もまた、それに応えるように、優しく微笑んで返す。