2-13.
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「カイ、触るよ」「うん」 カイをダイニングチェアに座らせたまま、少し癖があるふわふわの白髪を、指先で梳くようにしながら確認していく。まだ良かったのは、切った場所が根本ではなく三つ編みの中ほどだったことだ。ただ、斜めに一気にいかれているので、一番短い箇所に合わせざるを得ない。だが、根元がしっかり残っているから、まだ何とかなりそうだ。顔の方に近づくにつれて、髪の長さが合わなくなってくるのが厳しい。 ――さて、これはどうしたものか。と、悩みながら何度か指を滑らせていると、カイが肩を上げながらクスクスと笑い出した。「ほまれ、くすぐったい」「おや、じゃぁ、これはどう?」「ふふ、くすぐったいよ」 誉の指が触れるたび、そう言って笑う。本当に嫌な時は泣き出すので、単純に楽しんでいるのだろう。「それじゃあ、後ろ、切るからね」「うん」 その声掛けに、カイはウサギをギュッとする。誉は極力音を立てぬよう、毛束をごく少量とってから、はさみを入れた。 誉はほんの少しだけ、ちょき、ちょきと乾いた小さな音を立てながら、カイの髪を整えていく。 航には整えすぎるなと言われたが、当然、その通りにするつもりはない。 こんなことをカイの入院の理由に使われてたまるか。そんな反骨心を胸に、誉は丁寧にカイの髪を整えていった。「お首、チクチクしない?」「うん」「今度はお耳のところ、切るよ。音が嫌だったら、ウサちゃんのお手々を上げて教えてね」「うん」カイは言われた通りウサギの左腕を持ち上げ、手を振るようにピコピコと動かして見せた。誉はそれを見て、思わず口元を緩める。そして、特に不揃いになってしまっている難所に取り掛かった。 少し切っては指で梳いて、落とし。また少し切っては、の繰り返し。 何回も優しく頭を撫でられているようで、カイはその心地よさに目を閉じる。誉もまた、その様子を見ながら微笑んだ。 この子が安心して、リラックスしている。それだけで、誉の心は多幸感に満たされていった。 そうやって少しずつ切りそろえ、後ろとサイドがようやく整った。カイが思うがままに切ったサイド側も、梳き鋏で調整すると、大分見れるようになった。 多少の乱れはあるが、これならセット次第で何とかなるレベルだろう。誉は細かい毛を落としてやりながら、ほっと息をついた。自分がいなければ、瀬戸が生活のケアをする。彼ならば、きっと良くしてくれることだろう。 最後は、一番気を使う前髪だ。顔に近く刃が目視できてしまうので、長引けばカイのイヤイヤが始まってしまう。だから、出来るだけ気をそらしながら、迅速に済ませなければならない。誉はカイに断ってから、コームで丁寧に前髪を梳かす。ここだけは今回の被害を逃れて無傷なので、その点はやりやすい。 以前、航がフェロー前から一切散髪が出来ていないと零していたが、確かにその通りであることが見て取れる。誉は指先でその感触を確かめながら、呟くように言う。「……結構、伸びてるね」ウサギの耳を弄りながらカイが浅く頷いて返した。 この様子なら、もう少し踏み込んでも大丈夫そうだ。誉が続けて尋ねてみる。「伸ばしてたの?」カイは手を止め、小さく首を横に振る。「伸びちゃった」 そして今度は、ウサギのお腹を撫でながら言う。「ほまれが、いなかったから」「……俺がいなかったから?」「うん」カイが顔を上げる。二人の視線が交わった。 するとカイは、「兄さんがつれてくるやつら、ひどかったんだ」と、少し怒ったように口を尖らせ続ける。「いきなり変なの首に巻こうとするし、頭触るし。勝手に髪の毛も引っ張るし、声でかいし。ハサミもおっきくて……それで……」 その勢いも長くはなく、語尾はどんどん弱くなり、やがて、ふっと途切れた。 部屋に、はさみの音だけが残る。 カイは、そのまま俯いてウサギの手をピコピコと動かした後に、やっとポツリと零す。 「……あばれちゃったんだって、オレ」 誉はわずかに眉を寄せた。同時にカイが、誉に手を伸ばした。そして、俯いたままお腹のあたりの布をギュッと掴んで、縋るように言った。「……ほまれがいい」 誉は、すぐには答えなかった。はさみを置き、カイの前に膝をつく。切り終えた前髪を、指でそっと払う。 その奥で、赤い瞳が揺れていた。 聞くに徹する誉に、カイが言葉を続ける。 「ほまれはさ、はなし……してくれるでしょ。オレのこと、勝手に、しないでしょ」次にカイは、誉の肩を掴み直して続ける。「でも、ほかのは、ちがう。たぶん、オレのことをお人形さんだと思ってるんだ」 誉は肩に置かれたカイの手を取って、その甲にちゅっと口づけた。それから、カイの頬をゆっくり撫でる。 「こわかったね」一呼吸置いて、誉は微笑んだ。「でも、もう大丈夫。だって、誉が一緒だからね」 その言葉に、カイは大きく頷く。それから甘えるように誉の掌に頬を擦り付け、ふにゃりと笑った。「さあ、おしまい」 最後に細かい調整を終えて、カイの髪がとうとう仕上がった。誉は、すぐにカイに手鏡を渡す。それを見たカイは、すぐに顔をパッと明るくした。 耳まわりと襟足だけをすっきり整えた、少し短めの髪。完全には切り揃えられていないが、カイの髪質も相まってそこが逆に遊びに見えて、フォーマル過ぎず丁度良いバランスに仕上がっている。「これなら……大丈夫そう」 手鏡を持ったまま、カイがぽつりと呟く。「そうだね。もう、お料理で汚れたりしないね」 誉がそう返すと、カイは一度小さく頷きかけ――それから、少し考えるように首を傾げた。 「……あと、じーさんも平気かな」その言葉に、はさみを片付けていた誉の手が止まる。「……どういうこと?」 カイは、鏡越しに誉を見てから答えた。 「昨日、じーさんにね、如月家らしい装いにしろって怒られたんだ」 その視線が、再び鏡に落ちる。そして、いろんな角度で自身の姿を映し、嬉しそうに切りたての髪に触れながら、無邪気に続ける。 「で、さっきね。悪いのは髪の毛かなあって思ったんだよ」「……さっき?」「うん、洗面所で」 ――なるほど。これは、決して偶然起きた事故ではない。 そこから、もうすでに始まっていたんだ。 誉は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、恐る恐る確認する。 「……洗面所の話って、俺が呼びに行った時だよね。その時に、もう切ろうと決めてたの?」「ん、あの時はそこまでは思ってなかったけど……。汚れちゃったし。なら、ついでに丁度いいかなって。兄さんからも、ずっと切れって言われてたしね」 予想通り。やはり今回も彼特有の思考の飛躍が主要因だった。彼の世界の中で筋が通っている以上、追及しても追い詰めるだけだ。誉は息を小さく吐くと、もう一つ気になったポイントに話題を移すことにした。「カイは、どう?おじいさんのことがなければ、このまま髪は伸ばしておきたかった?それとも、やっぱり切りたかった?」 「うーん……」 その問いに、カイは悩んだ。誉は見守る。少し後、カイは鏡をまた見つめながら答えてくれた。「伸ばしといても良かったかな。誉が、髪の毛とかしたり、結んだりするの楽しそうにしてたからさ」「……」 やはり、自分を主体に置けていない。この子は、他人に人形のように扱われることに憤る一方で、他人に頼った決断しかできない。今回の事故に、カイの生きにくさの全てが詰まっている。そう思うと、誉は切なくてたまらなかった。「カイが気に入ってるなら、俺はどっちの髪型でも好きだよ。……じゃあ、新しい髪、どう思う?」「きっと、じーさんと兄さんも納得してくれると思う!」「――そっか。なら、よかった」 誉はそれでもう、この話題に触れることをやめた。理由は先ほどと同じ。これ以上は蛇足だ。 そうしてキッチン周りも含め、一通りの片付けを終えた誉は、ダイニングで待たせていたカイに明るく声をかけた。 「さて、おやつの続きをしようか」待っている間にと渡した学会誌を読みふけっていたカイだったが、その声にぴょこと頭を上げる。 過集中でもおやつの方が勝つんだと、誉は少し可笑しく思いながら、カイに新しい卵を三つ見せる。「お手伝い、お願いできるかな?」「うん、やる!」 軽やかな足取りでキッチンにやってきたカイに、誉は自分のエプロンをつけてやった。少し大きいが、後ろで結んで調整してやれば何とか大丈夫そうだ。 先ほどのことがある。汚れに対して、また過敏に反応してしまうかもしれない。 今度こそ、楽しく最後までやりきらせてやりたい。それは、誉の小さな優しさだった。「今度、カイのを買いに行こうね」「誉と同じのがいい」「うん、探しに行こう」 そう言って笑う誉を見て、カイも安心したように笑う。 ――今度。この人との未来がある。それはカイにとっては、大きな希望だ。 少し遅くなってしまったけれど、楽しいおやつ作りが再開された。 先ほど苦戦した卵液も、今度はトラブル無くちゃんとできた。それをバットに注ぎ込むのは誉、パンを浸すのはカイの役割だった。 柔らかめのパンが、液を吸い取っていくのを見つめながら、待ちきれないといった様子でカイが尋ねる。「……もう焼く?」「もうちょっと浸したほうが、フワフワになるよ」「……まだかなあ」「もうちょっと」 元々童顔だが、髪を短くしたことで余計に子供っぽく見える。可愛くてたまらなく、誉が思わず頭を撫でると、カイがその顔を上げた。その拍子に、誉はほんのり赤いその唇へキスを落とした。最初、カイは驚いたように身を固くした。 しかし、誉が何度も唇を重ねるにつれて、少しずつ力が抜けていった。触れるだけのキスは、そのうち深いキスに変わった。自然と体が近づき、抱きしめ合う。 カイの意識がとろとろに蕩け始めた頃、誉は急にスッと唇を離した。「……ふぁ?」突然途切れた刺激。物足りなくて、カイがおねだりをしようと背伸びをしたら、「あ、そろそろちょうどいいんじゃないかな」と、誉はカイの肩を押し戻し、その視線はバットの方。「ほら、カイ。焼こうか! ……って、なんで怒ってるの?」「……別に」 本当に変なところだけ情緒のない男だ。カイが膨れている横で、誉はフライパンにオリーブオイルを入れる。バターは風味付け程度に、本当に少しだけ入れるだけだ。胃の弱いカイへの配慮だった。「カイ、パン入れて」そんな誉の行動を見ていると、そこに悪気がないことがわかってしまって、カイも怒りきれない。「もー」膨れつつも誉の横に並ぶ。すると誉は、「続きは、またおやつの後にしようね」と、にっこり笑って頭のてっぺんにもう一度キスをくれた。 カイはコクンと頷いて、渡されたトングでひたひたのパンをフライパンにそっと載せる。 途端、じゅっというパンが焼ける音と甘くていい香りが室内に広がっていく。カイは、「わぁ」と声を漏らし、その表情を緩めていった。それを横目で見ながら、誉は慣れた手つきでフレンチトーストを焼いていく。 ――やっぱりかっこいい。重たいフライパンを持ち上げて振る度に見える、肘の筋や筋肉。どれも自分にはないものだ。カイは惚れ惚れしながらそれを見つめる。 オレも、かっこよくなりたいなぁ。髪の毛切ったし、ちょっとは近づけたかな……。 対照的に、肉すらついていない細い腕をさすりながらそんな事を考えていると、誉がフライ返しを渡してきた。「今日は、"くるりん"に挑戦しようか」「へっ?」 誉はパンを指差しながら、下から上に丸を一つ宙に描く。つまり、裏返せと言うことだ。「え、む、むり。むずかしい」「簡単だよ、大丈夫。おいで」 臆病なカイをコンロの前に立たせ、その後ろにピッタリとくっつく。左利きのカイに合わせ、誉は右手でフライパンの柄を持って、左手でカイの肩をなでた。柄を軽くゆすりながら、誉が言う。「いい?"さん"でクルってするよ」「ええ……」「いくよ。いち、に……さんっ」「……えいっ」タイミングを合わせ、カイがフライ返しでパンを捲る。誉もまた、うまく調整しながらフライパンを振った。 パンは宙でくるんと回って、再びフライパンの上へ。「できたね!上手だよ」 誉がそう明るく声をかけてやると、カイは本当に嬉しそうに破顔した。 カイは臆病だが、一度成功すると逆に積極的になる。その後も三回成功させて、フレンチトーストが完成した。 後はお手製のジャムと、真っ赤なイチゴを一緒にお皿に盛り付けて、いつものリビングに運び込む。 カイは誉のお膝の上で、フワフワのフレンチトーストを頬張ると、「おいしい」と、頬を抑えた。 誉はカイのお腹をいつも通り撫でて、そのふわふわの頭に顎を置くと、気持ちよさそうに目を閉じた。カイはモグモグと口を動かしながらそんな誉に背中を預けて、コクンと飲み込むと、振り返る。そして、にっこり笑って言うのだ。「二人で作ると、美味しいね」誉はそれだけでもう胸がいっぱいになる。「うん。また次も、絶対に一緒に作ろうね」そして誉は、カイを抱きしめる。大切に、大切に。まるで世界から隠すように、守るように、その大きな身体で包み込んだのだった。