3-2.
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――入院前。その言葉に、櫂の胸の音が早まった。 一方で、これまでの兄らしからぬ行動のすべてに合点がいってしまった。 音が大きな車、普段は聞かないラジオ。そして、車椅子。やけに冷たく厳しい、その態度。自分を取り囲む大勢の中に何人か知ってる顔がある。きっと理事会のメンバーだ。――わざとだ、全部。 自分を揺さぶるための。自分を――病人として合理的に入院させるための。 櫂は小さく息を吸い、吐いた。それでも呼吸は整わない。胸の音もまだ、かなり速かった。 落ち着け、どうか、落ち着いてくれ。 そう願って瞳を閉じた瞬間、腕の内にある柔らかさに気がついて、すぐに抱きしめる。――誉のシャツの、かすかな匂い。 櫂はそれを確かめるように、震える指先で撫でる。すると、思考が一段、浮上したのを自覚した。 そうして、櫂は顔を上げる。奮起する。 ――ここで、折れるものか。 兄が豹変した理由は分からないが、絶対に屈するわけにはいかない。ここで入院が決まれば、完全に誉との接点が絶たれてしまう。 せめて仕事の間だけでも、そばにいたい。たとえ触れられなくても、いい。その隣にいられれば、――誉の役に立てれば。 するとその時、扉が開く音が響いた。規則正しい控えめな足音は、すぐにそばまでやってくる。――満兄さん。櫂はゴクリと喉を動かして、その姿を確認した。 満は、スッとした切れ長の目が、線の細い銀縁眼鏡の奥で光っている。しわ一つない白衣に身を包み、その胸ポケットから、真新しいIDを下げていた。 満が後ろに立つと、航はすぐに一歩下がって耳打ちをする。すると満は、すぐさまクリップボードにペンを走らせた。 一方で、櫂は悟ってしまった。 ――兄さんは、本気なんだ。 一度医師の道から離れた満を、呼び戻している。満は、兄が最も信頼する人間の一人。兄は、本気で自分を入院に追い込むつもりなのだ。 まだ、兄だけなら情に訴えれば何とかなったかもしれない。しかし、満にそれは通用しない。――どうしよう。 目の奥がつんと痛んで、涙が滲みそうになった。しかしそれを他に見られるのが悔しくて、櫂は黙ったまま俯く。 ――どうしよう、ほまれ。 そうして、視線を落とした先にあったのは、ウサちゃんだった。誉のシャツを着て、こちらを見守るように柔らかく微笑んでいる。 櫂の脳裏に、昨夜の誉の言葉が蘇った。『泣いたっていい。暴れてもいい。でも、思い出してね。誉はいつも、カイを思ってるよ。――ずっと、一緒だよ』 そうだ、泣いている場合ではない。 櫂は、勇気を振り絞る。グイと袖で涙を拭うと、その顔を上げた。眼鏡を外し、横に投げ捨てる。 兄と満を、直接その赤い瞳で捉えた。 兄は何も言わず、一瞬だけ目を細めた。対し、横の満が淡々とした声で始まりを告げる。「まずは、バイタルから」「……坊ちゃま、触れますよ」その言葉で動いたのは、瀬戸だった。カイの横に跪き、そう一言断る。そして、カイが頷くのを確認してから、「失礼します」と、手早く血圧計を腕に巻いた。その独特な締め付けられる感触に、カイは眉を寄せる。すると、落ち着かせるように優しく背を撫でてくれた。 それを享受しながら、カイは冷静に分析をする。 ――爺は、爺のまま。これなら、使える。 次に、瀬戸により数値が読み上げられ、満がカルテに記入し始めた。 兄がそれを横から覗き込み、顎に手を当て呟く。「血圧、やや高め。……脈拍も相当早いな」 「待って」 櫂が、即座に口をはさんだ。自分でも驚くほど、はっきりと言葉が出た。 「それ、一次的なものでしょ。あれだけ故意に揺すられたら、普通そうなる。時間をおいて、再検査すべきだ」 兄は一瞬驚いた表情をしたものの、すぐにスッと落とす。それからカイを見下ろして、「不要だ。普通はな、あの程度でここまで乱れないんだよ」と、ばっさり切り捨てた。 カイは喉の奥をぐっと詰まらせながら、畳み掛けて問い返す。「"普通"って何?閾値は?エビデンスは?兄さんは、何を根拠にオレを普通ではないと結論づけた?」 一瞬、場の空気が止まった。理事会メンバーたちが、俄に顔を見合わせざわつき始めた。自然と航に視線が集まる。 航は、直ぐ様ふっと鼻で笑い口角を押し上げた。そして、冷たい声で言い放つ。 「問題行動。吉高、記録しろ」満は、ペン先を止め、淡々と続けた。「……悪質な陽動発言を確認。記録します」その言葉に、櫂の胸が大きくに跳ねた。 ――しまった。胸の奥が、俄にざわつく。カイはそれ以上何も言えず、ただ兄を睨むように見つめることしかできない。 兄はそんな櫂を一瞥すると、「次、聴診。胸の音を確認する」と、聴診器を手に取って近づいてきた。 同時に、理事会メンバーもまた、じりじりとベッドの周りに集まってくる。 櫂は思わず後ずさるが、瀬戸によって止められてしまう。更にその手によって、上着の前を留めていた紐が解かれてしまった。「待って」カイは、思わずそう言って瀬戸の手を掴む。何とか止めようと、押し戻そうと必死にもがいた。 誉に昨日つけてもらった跡を見られるのは嫌だったし、そもそもこんな沢山の人の目前で、素肌を晒すこと自体、我慢できない。 兄がベッドサイドに腰を下ろす。 カイは、本格的に焦った。「やだ」そして焦れば焦るほど、視界がぼやけて頭の中が真っ白になり、うまく言葉が出てこない。「いやだ」 震えながら、伸ばされる兄の手をピシャリと払った。すぐに兄が「問題行動、他害」と声を上げる。満のペンが動く。 行動を起こすたび、問題だと判定される。しかもその判断基準は曖昧で、よくわからない。その事実が、更にカイを窮地に追い込んでいく。「兄さん、いやだ。いらない」 「必要だ」「やだ、カイ、やらない」「いいや、やる。聞き分けないなら、また問題にするぞ」「なんで!にいに。いじわる、やだぁ」 瀬戸が、そんなカイの肩に、そっと手を添える。 「……坊ちゃま。すぐ済みますから、ね」 カイはウサギを抱き込んで、首を大きく横に振るが、抵抗虚しく、上着が捲られて肩が露出した、――その時。「……これは、邪魔だろう」 兄ではない誰かがそう言って、ウサギの耳をつまみ上げた。 その瞬間、櫂の中で、何かがぶつりと音を立てて切れた。「いや!!」 カイは悲鳴にも近い声でそう叫ぶ。思考よりもずっと先に、身体が動いていた。 ウサギを奪おうとする手を振り払い、守るように抱え込んで蹲る。 「やだ!ウサちゃん、取らないで!」 カイは、体を揺らし足をバタつかせ抵抗する。「ウサちゃん、カイのだよ!」 だが次の瞬間、再び誰かの手が伸び、無情にもウサギが引き剥がされた。"にぃにからもらった、たいせつなおともだち。だれにも、あげない!" カイは反射的に、その手に噛みついた。「――っ!」短い呻き声。航を含め、場が一気に凍りつく。 そんな中、驚くほど冷静な満の声が響いた。「問題行動ですね」「――いや」 そして、それを止めたのは、意外にも航だった。 航は負傷した理事に謝罪をし、瀬戸に手当てをするよう命じる。 一方で、ベッドの上に投げ出されたウサギを手に取ると、カイに抱かせてやった。カイはすぐに落ち着きを取り戻し、ウサギを抱いたまま大人しくあたりの様子を伺い始める。 続いて航が、満に声だけで命じた。「症状だ。退行症状として記録しろ」満のペンが、ぴたりと止まる。だが、一拍を置いて「……承りました」と返すと、再びペンを紙の上で滑らせた。 刹那、カイがその赤い瞳を大きく開く。ウサギを抱く腕に、自然と力がこもった。 ――なるほど。 退行症状は、問題行動には当てはまらない。症状である限りは、管理対象から外れる。ある程度の問題行動も、容認される。 そう理解した瞬間、櫂は胸の奥すっと冷えたのを自覚した。 さて、どこまで落とそうか。どこで止めようか。今、兄の心を一番揺さぶるポイントは、どこだ。 櫂は、ここまでの自分と、応する兄の心の機微を思い出し、冷静に分析する。 泣き叫ぶ、抵抗する――問題行動。 反論――却下。 落ちた状態で、そんな芸当はできない。 では、今この瞬間、ふさわしいのは?答えには、比較的すぐにたどり着けた。――兄の罪悪感を刺激し、庇護欲を掻き立てる 櫂はウサギを抱いたまま、息をすうと吸って吐いた。そして、肩の力を抜き瞳を閉じる。 ――落ちろ。 念じる。 ――もっと、もっと落ちろ。 やがてカイは、ゆっくりと瞳を開いた。すぐに身を固くし、呼吸の深さを調整する。 そのタイミングで、兄が聴診器を構えて再び迫ってきたので、カイは身を捩った拒絶をした。 しかし完全には逃げずに、揺れる瞳で兄を見上げる。兄が一瞬動きを止め、小さく息を呑んだのをカイは見逃さない。 ――よし、ハマった。 兄の指先が、入院着の胸元に伸びたその時を見計らい、カイは声を震わせながら訴える。「……にいに、やめて」 またすぐに、航が眉を寄せた。カイは、胸元に触れる兄の指先をギュッと握る。振り払うでもなく、ただそれをにぎにぎとして遊んだ後、小さな声で言う。「……おようふく、とるの、だめ……」 頭上より、ふうっと息を吐く音が聞こえた。 兄はお尻もう一つ分カイに寄り、向き合う。そして黙ったまま、肩まで落ちてしまっていたカイの入院着を、元に戻してくれた。 それから周りから見えぬよう気遣って、慎重な手付きで胸元に聴診器を挿し込む。ひやりとしたその感覚に、カイがひゅんと肩を上げた。すると、聴診器がわずかに肌から離れる。そして、その肩の力が抜けると再びそれが当てるように、兄の行動が変わった。「……吸って」カイは、素直に従い吸う。「――吐く」 次も同じように、従う。 その一挙一動を無事に終えるたび、兄は人知れず息をつく。それに気づいたカイは、仕掛けの一つを解放することにした。「にーに、もうおしまい」カイは敢えて焦れたようにそう言い、足をばたつかせる。「おしまい……っ」それから少しだけ声を荒げ、兄の腕に掴みかかった。 ――さて、兄はこれを問題行動とするのか。それとも、症状とするのか? そんな思いを胸に、カイは兄を観察する。すると兄は、カイの胸元からスッと手を抜いて離れた。――何も言わない。 そして次の瞬間、兄は唐突にカイを抱き寄せた。カイは驚いて目を白黒させる。 兄は、次にシャツの裾からそっと手を入れ、軽く背中に聴診器を挿し入れた。必然的に、ウサギごと兄に抱かれる格好になる。カイは、羞恥心から真っ先に俯いた。するとその時、耳元にふっと小さな息がかかった。そして。「……すまない」 それは、耳を疑ってしまうほど、小さな声だった。兄は服の中で聴診器から手を離し、ゆっくりとその背を撫で始める。その指先は、いつものように温かくて、優しい。それから兄は、理事会メンバーに悟られぬようにするためなのだろう、声を落としたまま続けた。「――耐えてくれ」 その瞬間、兄にそっと抱きしめられた。カイはそれに身体を預けながら、ふふっと笑う。 「にいに、くすぐったい」 敢えて、わざとらしいほど無邪気な声を出した。 それを合図に、兄は背中の後ろで頼りなく揺れていた聴診器を手に取り素肌に当てる。それを何度か繰り返し、思いの他早く兄は離れていった。そして立ち上がり、満のすぐ前まで下がると、「軽度の喘鳴音を認める」とだけ、事務的に告げた。 カイはそんな兄をしばらく見やった後、改めてウサギを抱き込みながら俯く。そしてそれを隠れ蓑にして口角を引き上げると、心の中で静かに呟いた。"――なんだ、簡単じゃん"