3-4.
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さて、カイにこのまま心理評価テストを続けるのか、止めるのか。一同の視線が自然と航に集まる。 一方で、カイは瀬戸に体重を預けたまま、ウサギの耳をいじり始めた。完全に、集中力が切れた子供そのものだ。 ――これ以上はもう、無理だろう。その様子から、否応なしにそんな空気が場に流れ始める。 するとその時、それを打ち消すように瀬戸がカイへと穏やかに言い聞かせ始めた。「坊ちゃま、あと少しだけ頑張ってみましょうか」「えー……」瀬戸が背を撫でて促しても、カイの顔は露骨にむくれたままだ。「終わったら、おやつに致しましょう」その提案に、ウサギのシャツを撫でるカイの指が止まる。「ご本も読みましょうか。何がいいですか?」――カイが顔を上げた。「――うまいな」年嵩の理事が、感心したように息を漏らした。長年、気難しいとされる次男の面倒を一手に担ってきただけのことはある。 一方、機嫌を直したカイは、「ううん」と少しだけ考えた後、「オレンジの」と、瀬戸を見上げながら言う。「いつも召し上がるゼリーですね。用意させましょう」「あとね、ウサちゃんの」「かしこまりました。ご本も手配しますね」「えへへ、じい、だいすき」笑顔になったカイに、瀬戸は穏やかに返す。「……勿体ないお言葉。ありがとうございます」そして、励ますようにカイの腕を撫でながら、「では、お待ちの間に済ませてしまいましょう」と、もう一度言い聞かせた。カイはくふふと笑って頷き、素直に机へ向き直った。「……突っ込まなくていいんですか」それを見ていた満が、ボソリと呟く。「……? 何がだ」しかし航は、首を傾げる。「甘やかしは許さないと」「あぁ、許さないが」「今のは」「ん?どこか甘やかしたポイント、あったか?」「……」満はこめかみを押さえながら、深いため息をついた。それ以上は敢えて踏み込まず、評価を再開する。 カイは時折頬を膨らませたり、ぬいぐるみに話しかけてみたりと集中力を欠く行動を見せた。 しかしその度に瀬戸がうまく促し、何とか最後までやりきらせる。本当に見事だと、満も含め熟練の対応に舌を巻く。「……本日は、ここまでにしましょう」満の言葉に、室内の空気がわずかに緩んだ。瀬戸が「よく頑張りました」と囁きながらカイの背を撫でる。するとカイは、満足げに目を細め呟いた。「おやつ」「ええ、ご用意致しましょうね」「まって。じい、いっちゃうの?」「少しだけ、でございます」「えー……」そんなやり取りを横目に、再び理事たちが小声で言葉を交わし始めた。「少なくとも、入院は必要だな」「ええ。ただ、思ったよりはマトモでしたね」「これなら、長期にはならんでしょう。再教育にも早めに移れそうだ」「当主の一ヶ月後の進捗確認、あれは妥当だな」「まさにご彗眼だ」 カイは瀬戸の胸に頬を寄せたまま、素知らぬ顔でその会話を聞く。 なるほど、最短一ヶ月。 入院は避けられないが、評価結果は軽度の範疇内で収まったはずだ。落ち着いたと言わせるだけなら、一ヶ月もあれば可能だ。 問題は、幾度となく繰り返される「再教育」の方だ。その進捗確認とやらで及第点を取らなければ、退院が延びてしまう可能性が高い。 そもそも、再教育とは、何だ。兄の報告にあった通り臨時理事会が開かれ、祖父から指示があったのだろうか。 ――まずは、議事録だ。それさえ押さえられれば、次の手がきっと見える。「じぃ、いっちゃ、やだぁ」 頭の中で思考をフル回転させる傍ら、カイは甘えるように瀬戸にすがりつく。 「すぐ戻りますから」瀬戸はそう言うと、カイから離れていった。しかし、そうはさせまいと、カイは必死にその腕にしがみつく。その様子は、理事たちに改めてその執着の強さを思わせた。 「おいてかないでよお」 「準備をして、すぐに戻りますよ」「……私が見ておこう」すると二人のやり取りを見守っていた航が、ベッドサイドに寄ってきた。 予想外の兄の行動に、思わずカイは、瀬戸に隠れるようにくっつく。ここまでの厳しい兄の姿が、脳裏に蘇る。正直に言うと――怖い。航は白衣の腰ポケットからタブレットを取り出しながら言う。「吉高、結果をまとめてくれ」「……かしこまりました」それから理事たちの方を向いて、頭を下げた。「皆さん、朝早くから、弟のためにありがとうございました。三十分ほど休憩を挟み、結果の共有と治療方針の論議へと移りましょう」そして最後に、カイと瀬戸を見ると頷いた。 瀬戸はカイの背中を撫で、「では、準備をしてまいりますね」と優しく言う。 カイが首を横に振っても聞かず、うまく振りほどいてスッと立ち上がる。 そしてカイが後を追うよりも早く、同じ場所に兄が腰を下ろしてしまう。カイはウサギを強く抱きしめながら、ベッドの反対側ギリギリまで後退し、距離を取った。満が内扉から院長室へと消えていくのに合わせ、他の理事も大半が退出していった。それでも数名がまだ残っていたので、航が視線だけを向けると、「当主さまより、二人にせぬよう指示があったんだ」と、聞いてもいないのに言い訳がましく教えてくれた。 航は何も返さずに、ベッドテーブルにタブレットを置く。「カルテを入れてしまうから、少し待ってな」その声や様子が、いつもの兄と変わらなかったので、カイは恐る恐る這って近づく。 すると航は、目線はタブレットに向けたままだったが、空いた手で小さく手招きした。 カイは少しだけ悩んだが、従うことにした。 ――兄のタブレットの画面を盗み見れれば、何か新しい情報が得られるかもしれない。 兄の膝にちょんと触れてみる。すると、背中をゆっくり撫でてくれた。少しだけ上半身を持ち上げると、引き寄せて肩を抱いてくれる。 白衣から、少しだけ薬品のにおいがする。けれども、その奥にあるにおいは昔から変わらない。 今日の兄さん、少しだけ、じいさんみたいだった。 カイは目を伏せる。理事会で、じいさんに何か言われたのかなぁ。兄さんは、じいさんには逆らわないし……。 そう思うと悲しくて、胸が張り裂けそうになる。カイは兄のことも、もちろん大好きだ。尊敬だってしてる――でも。 多分兄さんはオレのこと、別に好きってわけじゃないんだろうな。 面倒を見てくれるのは、跡取りとしての責任があるから。今も昔も変わらず、きっとそうなんだろう。 けれど、背を撫でるこの手つきは、昔と少しも変わらない。力の入れ方も、間の取り方も、安心させようとする癖も――ずるい。 だからずるいんだよ、兄さんは。 ――期待してしまう。 もしかして、オレの勘違いかなって。 そう思いながら、カイは視線を上げた。ちょうど、兄のタブレットの画面が視界に入る。カイは何気ないふりをして、ほんの少しだけ身を寄せた。 兄はそれを拒まなかった。画面を隠すつもりもなさそうだ。 カイの視線を気にすることなく、電子カルテに所見をインプットしていく。 感覚過敏。疲労状態、情緒不安定――。そして、保護的環境下での安静。 昔から、何度も目にしてきた言葉が並ぶ。また一つ増えてしまった烙印に、カイの心が沈む。 覚悟はしていたけれど、それを目の前で、しかも兄に書かれるのは、思ったよりもきつい。「――よく頑張ったな。偉かった」ウサギを抱きしめて俯いたところで、兄がエンターキーをタンと押しながら言った。そして、わしゃわしゃと、やや乱暴に頭を撫でられる。「――欲しいものがあれば瀬戸に言え。怖かったら、声を出せ。泣いたっていい。必ず、俺が抱きしめに来る。だから、まずは安心して休もうな。よくなったら――必ず帰してやるから」 単なる言葉尻かもしれないけれど、カイはそれに少しの違和感を感じた。 帰ろう……じゃなくて、帰す。どこへ? ――もしかして。 カイは思わず赤い瞳を大きく開き、兄の顔を見た。兄もまた、視線だけをこちらに向けている。 そして、カイと目が合うや否や、何も言わずにタブレットに視線を戻した。それにつられてカイも画面の方を向く。カルテに、新たな文字が打ち込まれていくのが見えた。 この部屋は監視が入っている。 天井のコーナー。入り口ドア、内扉の上。 カイは思わず視線だけ、その通りに動かした。天井の隅、黒い半球。扉の上にも、確かに一つずつ。 その表情が固まったのを横目で見ながら、航は小さく息を吐いた。そして、再び静かにキーボードを叩く。 お前の体調が万全でないことは、事実だ。 今は療養に専念しなさい。 よく頑張ったな。ありがとう。 あとは俺が何とかする。 航はそこまで打ち込むや否や、スッと文字列を削除した。そして、「……よし」と呟いて、タブレットを腰ポケットにしまう。 そのタイミングで、扉を開く音が響いた。瀬戸が、戻ってきたのだ。 その手には、紙袋に沢山の絵本と、盆に載せたオレンジのゼリー。その姿があまりにも"瀬戸"過ぎて頼もしく、航は思わず口元を緩めた。 ――瀬戸。誉。……それに、満。 もし自分が家側に立ち、敵対せざるを得なくなったとしても、彼らになら、弟を託せる。 航はもう一度カイの頭を撫で、立ち上がった。ちょうどその時、内扉が静かに開き、満が姿を現した。「若さま、皆さん。そろそろお時間です。……こちらへ」 満の言葉を受け、航はわずかに息を整える。――よし、あと、ひと勝負。そして、カイを振り返ることなく一歩を踏み出した。★「ええ〜っ!」 脳神経科、午後のカンファ冒頭。間の抜けた声を上げたのは、山川だった。「如月先生、入院しちゃったんスか〜?」「こ、こまったねえ」 俄にオロオロし始める内科の二人に、腕を組んだまま難しい顔をしている外科、佐々木。さすがの部長も、深いため息をついている。 誉だけはいつもの調子を守り、穏やかに告げた。「今朝方、急に決まったと人事からは連絡がありました」「誉せんせ〜、どういうことッスか〜」「僕もそれしか知らされていないんだよ」「……本当に、体調不良なんですか?」天を仰ぎ嘆く山川に続き、佐々木が重い口を開く。誉は何となく、彼が言わんとしていることを察した。だから、敢えて明快に答える。「本当だよ。昨日の昼間に、調子を崩したんだ。一度は……持ち直したんだけどね。院長に連絡をしたら、念のためとうちまで迎えに来てくれてね。それで、そのまま……」 佐々木は納得がいかないのか、変わらず疑いのまなざしを向けてくる。が、誉も嘘は言ってない。「もともと、体調を崩しやすい子なんだ。先日の緊急手術以降、また不安定になってるなとは思ってたんだけどね……」「確かに!あの時の先生、めちゃヤバでしたもんね!」 狙い通りうまく山川が乗ってくれた。誉は神妙な顔で頷く。それでようやく佐々木も納得したのか、一つ深く息を吐いた。「それにしたって、櫂先生の不在は痛いですね。午前の外来で緊急入院した患者さん。あれ、間違いなく難症例スよ」「うん、僕も見たよ。ちょっと痺れるよね。とは言えやらないわけにはいかないし、この系に詳しい記念病院内科の北見先生にヘルプを要請したから。加藤先生、彼にデータを送ってもらえますか。夕方に時間を抑えましたから、打ち合わせをしましょう」「ええ、もちろん。助かります」 そして誉は皆を順に見てから、トンと一度強く机を叩き言う。「厳しい状況ですが……櫂先生は必ず戻ります。快復まで、皆で支え合い、持ちこたえましょう」 ――その言葉に、全員が深く頷いた。 時を同じくして、航は改めて治療方針会議の議事録を読み返していた。 所見。心理評価の結果としては、感覚過敏に起因する情緒不安定、軽度の退行傾向、特定対象への依存傾向の増大が示唆された。ただし判断力そのものの破綻は認めず、適切な保護環境下での回復は見込める。 結論。当面は保護的環境下での入院継続。刺激制限と薬物調整を行い、経過観察は一ヶ月。状態安定が確認でき次第、再教育フェーズへ移行。当主による経過及び、再教育の進捗確認は一ヶ月後に予定通り実施とする。 航は息をつき、タブレットを閉じた。そのまま内扉を抜け、今はカイの病室となっている執務室に入った。 すぐに、瀬戸がベッドの横に付き添っているのが目に入った。サイドテーブルには半分ほど残ったゼリーと、服薬の跡。それに、読みかけの絵本が数冊。 瀬戸は航の姿を確認すると、すぐに立ち上がり一礼した。それから半歩下がり、航をカイの横に導く。 瀬戸が座っていた椅子に腰を下ろして、航はベッド内の様子を伺った。カイはウサギを抱き込み、胎児のように丸まっている。「お薬が効いて、よく眠ってらっしゃいます」 「……そうか」 航はその白い頬を指の腹でゆっくり撫でた後、「瀬戸、今日は助かったよ。ありがとう」「……勿体ないお言葉です」「入院中は、また力を借りることになる。いつまでも世話をかけて、すまないな」「とんでもございません。坊ちゃまのお役に立てるのは、幸福の至りです」航はフッと笑う。そして、「とは言え、疲れはあるだろう。暫く俺が見ているから、お前も休め。また起きたら、きっと荒れる。覚悟しておいてくれ」「……かしこまりました」 瀬戸が退出すると、室内には規則正しい呼吸の音だけが残った。航は、カイの手を握りながら小さな声で呟く。「……全部わかってたのに。俺は、お前を」そしてすぐに、項垂れる。 喉が詰まって、その先の言葉がうまく出てこない。ベッドに両肘をつき、まるで祈るようにカイの手を両手で包んだ。 そして長い沈黙の後、航はやっと掠れた声で言う。「ごめんな」「……いいよ」 刹那、戻ってきたその声に航がハッと顔を上げた。赤い瞳が、航をしっかりと捉えている。目が合うと、カイは小さく笑った。 「助けてくれようと、したんでしょ」「櫂、あのな。俺は」その時カイが、ふうっと息を吐く。そして少しだけ眉を寄せた後、再びゆっくりと瞳を閉じた。 ――すぐに、規則正しい寝息が響き始めた。航はカイの手をウサギに戻して、椅子に座り直す。 そうして暫くの間、航は弟の手を握りながら、ただ静かに見守っていた。