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3-6.

うさぎさんは、おおかみさんと檻のなか — fujossy.jp · All chapters

3-6.

入院 二日目。想定通り、状態は依然として不安定。 日中は比較的落ち着いている時間帯もあるが、薬効の波がはっきり出ている印象だった。 薬が効いている間は、やや退行傾向。瀬戸に甘える場面が増え、声色も幼くなる。 思ったより多弁だが、発言内容は断片的で、夢と現実の区別が曖昧な場面が見られる。 その中で、誉と既に同居している前提で話すことが二度あった。 一つは、他愛もない日常の話。夕食の献立と、今日の帰宅時間のことを楽しそうに話していた。  もう一つは仕事の話。「今回の症例は、誉じゃなきゃ無理」と口にし、サポートをしたがりタブレットを要求。 こちらから訂正の後、治療のため入院している事実を告げると、数秒の沈黙。その後、急に口数が減る。 ――理解をしようとしている。が、現実は受け入れきれていない。 薬が切れ始めると、逆に理性的になる。 しきりに医局の状況を気にして、「人手が足りていないのに」「迷惑をかけてないだろうか」と何度も確認してきた。 食事量は依然として少ない。瀬戸の介助で半量ほどは摂れているが、嗜好の偏りと拒否傾向が強く、経過観察を継続。 嫌悪というよりは、食事をとることに対する恐怖と見れる反応が出始めている。瀬戸が食事量確保のため嗜好品なども使い、かなり調整している状況。……本当に頭が下がる。 夕方、服薬時に軽度のパニック発作を認めた。強い拒否感を示すであろうことは想定していたが、過呼吸を起こす程の混乱と拒絶は想定外。が、ここでも瀬戸の辛抱強い介助により、最終的には何とか自力で内服できた。 薬効でようやく落ち着いたと安心したのも束の間、深夜に途中覚醒あり。 強い不安発作の様な状態となり、軽度の癇癪。「寝ないと治らない」「退院できない」と暴れて泣きわめいた。 寝られない自分への苛立ちが主要因か。宥め、説得をするも反応が乏しかったため、主治医 吉高の判断で睡眠導入剤を筋注。 「――処置後は速やかに入眠、と」航はそこまでを報告書に打ち込むと、一つ息を吐いた。 視線を上げると、ちょうどコートを着始めた満が目にはいる。「……遅くまで、すまなかったな」「いえ」「湊くんは、大丈夫か」「ええ、まあ……問題ないです。留守番には、慣れてますから……」 満はそう言いながら、カバンに幾つか資料を入れ蓋を閉じた。 帰り支度を整えた満は、一度航の執務机までやってくる。そしてモニターに目をやり、「よく寝ていますね」と、その様子を伺いながら言った。航も同じ様に映像を見ながら、頷く。「服薬導入期としてはまあ、想定内の症状の出方と言えるでしょう。心配ありません」「……とは言え、ここまで乱れられると、な」航はこめかみを抑えながら、深いため息をつく。「成り行きの入院とは言え……。やはり、元から限界だったのかもしれないな」 その言葉に、満はその眉間に皺を寄せた。「……何を言ってるんですか?」そして、冷たい声で言い放つ。「あなたがとどめを刺したんでしょう」「……は?」 航は全く心当たりのないといった顔だった。ギロリと航を見下ろしながら、満は珍しく苛立ちを隠す様子もなく低い声で返す。 「確かに崖っぷちではありましたが、櫂はちゃんと立っていました。それをあなたが突き落としたんですよ。あなたのやり方の合理性を証明する、ただそれだけのために」言葉を失った航に、満はなおも続ける。「確かに、ご当主候補としては満点の判断です。角も立たない。体裁も守れる。さすがです。――でも、兄としては落第ですね」 そして冷たく、ゆっくりと言い放つ。「さて、ここからどう巻き返しますか? ……"兄さん"」 ――航は、何も返さない。いや、返せなかった。 入院三日目。前日よりも、症状は安定傾向。ただし、薬効の波に伴う精神状態の変動は依然はっきりしている。 朝のバイタルは問題なし。夜間に筋注した睡眠導入剤の影響か、起床はやや遅めだったが、覚醒後の意識レベルは良好。見当識もしっかりしている。  午前中の櫂は、比較的落ち着いていた。また、懸念だった食事量も昨日よりかなり増えた。通常の倍ほど時間はかかったが、三分の二程度まで口に出来た。ただし、瀬戸の根気強い介助は必須。 昨夜のパニック症状を鑑みて、部屋に点滴セットを設置した。櫂のベッドのすぐ横に置いてあるが、ことあるごとに視線をやる。明らかに気にしている。緊急時の迅速な対応を目的にしてのことだったが、――片付けさせたほうが良いのだろうか。 昼過ぎ。薬効が最も出る時間帯だ。それもあってか、モニター越しに見るカイは、珍しく穏やかだった。瀬戸の肩に頭を預け、ウサギのぬいぐるみを撫でながら、ずっと何かを話している。その声は小さく音声は拾えないが、口の動きで大体の察しはつく――誉の話だ。 時折笑う。 そして、安心したように目を閉じる。 ああ、これが本来のこの子なのだ、と。その様子を見ていると、胸の奥が妙にざわついた。 櫂にとって、もっと他のうまいやり方があったのではないか?――そんな考えが、俄に頭を擡げ始める。 夕方になると、血中濃度が下がるタイミングに入る。櫂の表情が、明らかに変わった。 急に口数が減り、何かを考え込む時間が増える。ウサギはベッドテーブルの端っこに置き、瀬戸に絵本を突き返す。 そして天井を見たまま、しばらく動かなくなった。――理性が、戻りつつある。 航はそのままキーボードを叩き、メールを数本打った。昨夜の満の言葉が、頭から離れない。だからこそ、櫂と直接話をしなければいけないと思った。跡取りとして、医者として、……いや、違う。――兄として。 先のスケジュールを1時間分無理矢理空けて、航は立ち上がった。 ――詰んだな、これ。 ベッドの上で天井を見つめながら、カイはぼんやりそう思った。理事会の議事録は読んだ。大体の状況は把握できた。けれど、その先がまるで見えない。  誉の立場。兄の思惑。当主の判断。どれも断片的で、決定的な情報がない。情報が無さすぎて、何もできない。動けない。  ――いや、動いちゃダメなんだろうけどさ。櫂は、小さく息を吐く。 そもそも今は入院中だし、薬だって飲まされている。そのせいか、身体も頭も完全に自分のものじゃない感じがずっとある。 まるで、自分の思考を誰かに間引かれてるみたいだ。物を考えようとすると、必ずどこかで思考が霧散する。 昨日なんて、本当に酷かった。本当に何の疑いもなく、誉と普通に暮らしている時のつもりで話してたし。兄に訂正された瞬間、頭が真っ白になった。  あれ、結構こたえるんだよな。オレ、完全に頭おかしいじゃん、てなる。まあ、実際その通りだから、ここにいるんだろうけど。 一方、今は薬が抜け始め、思考は比較的クリアだ。だからこそ考えれば考えるほど、情報不足で詰む。『推論の後は、検証しなくちゃ、でしょ』誉の言葉が脳裏をよぎる。 ――検証。あまり気乗りしないが……でも、それしかない。つまり、兄に聞くしかない。「……教えてくれる、かな」カイはテーブルからウサギを引き寄せた。そしてそれを抱きしめ、ぽつりと零す。 治療計画。再教育ってやつの具体的な中身。それから、医局……誉の様子だって気になる。 兄に聞いたところで全部答えてくれる保証なんてない。というか、教えてくれない可能性の方が高い。 監視カメラがある。恐らくそれは祖父をはじめ、理事会も監視している。仮にそうじゃなかったとしても、兄は一人で抱え込む人だ。きっと自分には、そもそも話すつもりがない。事実、今回の件についても「任せておけ」だけだ。 ――兄さんは、オレにはいつも"果報は寝て待て"。でも、それじゃあきっと、もう駄目なんだよな。オレは大人だし、今度こそ如月家を出て誉と一緒になるんだから。いつまでも、兄さんを頼っていてはいけないんだ。 「……ちゃんと、兄さんと、話そう」――弟として。  そう呟いた、ちょうどそのとき。内扉の向こうから気配がした。 姿を現したのは、兄だった手には湯気が立つカップを2つ持っている。 カイは思わず身構えた。「……カウンセリング?」「いや?雑談でもしようぜ。たまにはいいだろ。……兄弟なんだからさ」 航はあっけらかんとそう言って、ベッドテーブルにカップを置いた。紅茶のいい香りが漂う。「……気を遣わなくていいよ。兄さん、忙しいでしょ」「……嫌われたもんだな。まあ……仕方ないか」カイが小さく眉を寄せる。「別に、そんなこと――」「いや、いいんだ。俺は、それだけのことをお前にしてきたからな」 航は目を伏せた。カップの中で揺らめく紅茶に、暫くの間視線を落とす。一方、言葉を失ったカイは、そんな兄をただじっと見る。 少しの間をおいて、航が再び口を開いた。「昨日の俺は、昔みたいだったろう。怖かったよな」兄の"雑談"の意図が掴みきれず、カイは反応の仕方を悩んだ。しかし、兄がちらりと視線だけで監視カメラを確認したのを見て、「何か言いたいことがあるのだろう」と悟った。だから、神妙な顔つきのまま、頷いてみる。すると兄は紅茶を一口啜り、続ける。「覚えてるか。……お前が小学校に上がった頃だ」唐突に切り替わった話題に、カイは瞬いた。「急に、俺がお前に冷たくなった時期があっただろ。……いや、“冷たい”なんてもんじゃないな。相当辛辣な態度で……本当に、酷いことをした」カップの縁を指でなぞりながら、航は淡々と続ける。「理由は、まあ……俺の問題だ。ともかくお前は何も悪くなかった。俺の事情でな。勝手に突き放して、距離を置いた。それで十年近く、まともに話もできなかった」 そして、小さく息を吐いた。「昨日のお前を見ててな。……ああ、昔の俺はこんなふうにお前を追い詰めてたのかと、改めて思った。後悔もした」そこまで言い切って、航がまた黙った。目を伏せる。航にしては珍しく、言葉を探している沈黙だった。紅茶の香りだけが、やけに強く感じられた。 やがて航は、再び口を開いた。「だから、お前が俺を許してくれたあの日に、絶対お前を守ろうと思ったんだ。だから、面倒ごとは、全部俺が引き取ればいい、それが贖罪で……責任だと思ってた」そして、少しだけ視線を上げる。「でもな……違ったらしい」 航はもう一度、ほんの一瞬だけカメラに目をやった。それから頭を掻き、バツが悪そうに言う。「満にも、昨日こっぴどく怒られた。当主候補としては満点。でも兄としては落第だってさ。――でも、そうだ。その通りなんだよ」 そして航はカイに向き直り、こう言った。「結局は、俺の独りよがりだったんだろうな。お前のことを決めるのに、ちゃんとお前に話したこともないし、聞いたこともない。そしてお前は「聞かれなかったから、言わなかった」、に、なる。……俺たちの問題は、そこなんだよ。俺たちは、本当に何も話をしてこなかった。」 カイはすぐには答えなかった。手の中のカップを見つめ、紅茶の表面に揺れる自分の顔をぼんやり追う。 ――話してこなかった。たしかに、その通りだと思った。話すことを怖いと思っていたし、兄が聞いてくれるはずもないと勝手に決めつけて、ならば兄に従えばいいと甘え、逃げていた。 カイは、顔を上げると、意を決したように言う。「……じゃあさ……。今度は、オレの話、しても……いい?」その言葉に、航は一瞬だけ目を見開く。「兄さんに、聞いてほしいんだ」そして航は、どこか安堵したように笑った。「ああ。勿論だ」そして紅茶のカップを置くと、改めてカイに身体ごと向き合い穏って、やかに返す。「聞かせてくれ、お前の気持ちを」カイは、しっかりと頷いた。 ――逃げずに、話そう。自分の言葉で、ちゃんと思いを兄に伝えるんだ。